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「聖戦」

The Holy War

第六章 契約の使者

Chapter 6 Messenger of the Covenant

セス・C・リース
Seth C. Rees



「見よ、私はわが使者を遣わす。彼は私の前に道を備える。またあなたたちが求めるところの主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたたちの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。しかし、その来る日には誰が耐えられよう?その現れる時には、誰が立ちえよう?」(マラキ三・一)

これは、旧約経綸のまさに最後の使者からの、まさに最後の知らせである。その名前自体が「私の使者」を意味する。彼はその経綸に対する神の最後の知らせを告げる最後の使者だった。彼の声のこだまが遠方で消え去った時、恐るべき四百年の沈黙が始まった。マラキがこの最後の知らせを告げ終わった時から、「神は昔は預言者たちによって語られたが、御子によって語られ」る時まで、神の御口からは一言たりとも聞かれなかった。ああ、恐るべきこの四世紀の暗闇!神が沈黙される時、この世はいつでも悲惨な暗闇である。神から聞くことができないとき、薄暗がり、沈黙、耐えられない沈黙がわれわれの上に臨む。そのため時として、人々は嘆き、髪を掻きむしり、通りや森や野原を歩き、悲鳴を上げて叫ぶのだが、それでもその声の響きには何の応答もない。ああ、神の沈黙!神があなたの魂に二度と語ってくださらなくなったらどうなるか?恐るべき沈黙の四世紀の境目に立たなければならなくなったらどうなるか?考えてみよ!神が常にわれわれに語って下さることを、この午後いかに感謝するべきか。「ユダは一切れの食物を受け取ると、すぐに出て行った。時は夜であった」とあるのを私は読んだ。魂が神の臨在から出て行く時は、常に夜である!ああ、神から聞くことのできない魂の上に臨む、この薄暗い恐るべき夜の漆黒と闇よ!磔殺というこの恐るべき試練をくぐったことのある人なら、夜明けに先立つこの悲惨な沈黙について私が述べる時、私の言っていることを理解するだろう。それは決して終わることがないように思われる恐るべき夜であり、耐えられそうにない漆黒と闇である。神が再び語って下さる時、魂はどれほど喜ぶことか!ああ、神がわれわれに語って下さることのゆえに御名に栄光あれ!

この年老いた預言者は啓示の高嶺の上に立ち、四百年の暗い谷間を見渡して夜明けを見た。彼はイエスの来臨を告げ、人々を罪から転じさせて悔い改めと神に向かわせようとする一方で、彼らが神を悲しませている事実、神を侮っている事実、背教に陥ってさまよっている事実に注意を向けさせる。その事実のせいで、とうとう神は彼らに二度と語ろうとはされなくなったのである。何と恐ろしいことか!兄弟よ、この午後もしあなたが神を求めているなら、暗闇だけでも恐ろしいと思うだろう。しかし、この暗闇が続いて増し加わって行き、何世紀すぎても神から一言も聞けないと想像してみよ。それこそ地獄であるように私には思われる。間違いなく、それは私には十分に地獄であるにちがいない。全き聖めの祝福を求めていた頃のことを私は思い出す。その頃、私はよく家族から離れ、友人たちから離れ、きらめく星々の下で、巨大なオークの木々の間に行ったものだった。そこはコオロギの歌や、時折夜鷹の悲しげな泣き声しか聞こえない所だった。しかし、それですら私の罪の意識を深めるように思われたし、その時の静けさは私を殺さんばかりのように思われたのである。私は叫び、悲鳴を上げ、地面の上を転がって、神に嘆願した。ああ、身震いするような感覚で何と満たされたことか!何という夜明けだったことか!神が答え始めて下さった時、私の魂にささやき始めて下さった時、東に何という日がさしたことか!私は前のめりになって、神の語りかけに耳を傾けた。ああ、神がわれわれに語って下さるとは、何たるあわれみか!何度も何度も、耳を傾けるようわれわれは命じられている。神に何か言うべきことがある時はいつでも、われわれが細心の注意を払う価値があるものを神は持っておられる。かりに神が今日われわれに天から語って下さるとするなら、それは大いに価値あることである。それがほんの一文だったとしても、われわれはそれを額に入れ、金メッキし、われわれの魂の壁に永遠に掛けるだろう。この午後、私が注目したいのは次のことである。預言者たちの経綸が終わった終末の時代は、今の時代の終末を著しく予表しているのである。アダムがエデンの園で失敗したように、ノアの洪水以前の時代が裁かれたように、族長の家族がエジプトの暗闇と束縛の中に落ち込んだように、カナン征服が長い捕囚に終わったように、旧経綸が恐るべき夜の四百年の漆黒と暗闇の中に陥ったように、確実にこの経綸時代も背教と恐るべき暗闇に終わるのである。人々はこれを見ていないらしいのを私は承知している。真に霊的な人以外、誰もこれを理解していないようである。平均的なクリスチャンは、われわれを取り巻いているこの恐るべき暗闇を少しも分かっていない。これは極めて痛ましいことである。真に聖められた人が道や野原を歩いていると、心が痛んで目から涙が流れ、「来て、この恐ろしい罪の支配を終わらせて下さい」と主に向かって叫ぶことがよくある。捕囚から回復された後、イスラエルは繁栄の時期を迎えたが長続きしなかった。今日、繁栄に耐えられる人はほとんどいない。繁栄している時よりも、極めて深い悲しみと厳しい試練の中にある時の方が、人々は霊的になる。この年老いた預言者は立ち上がって、人々の間に商売根性がはびこっていて、人々の自発的奉仕と自己否定はすっかり過去のものになってしまった事実に、人々の注意を向けさせる。彼は言う、「無給で宮の扉を閉ざす人は誰もいない。どうしてこんなことになってしまったのか。賃金なしで祭壇に火をともす人が一人も見つからない」と。われわれは今や霊的衰退の時を迎えた。人々が宗教的なのは金が目当てである。教会員でいるのは、そこから何かが得られるからである。多くの人々がわれわれのこの世的な人気のある諸教会の会員でいるのは、経済的利益のためである。商売人が教会を支援するのは、教会に支援してもらうためである。ブリキ職人、馬具屋、靴屋が、ある村に入ってそこに落ち着くと、一番人気のある教会を探して、そこの礼拝に出席するのは、教会員たちに支援してもらうためである。ああ、近頃は給料は高いのに、リバイバルが一つも起きない。オルガン奏者、聖歌隊員、歌手は給料をもらっているのに、回心者は一人もいない!今の時代はマラキの時代に似ていないだろうか?今は欲得ずくの時代である。主や教会のために何をするにしても、誰もが高給を欲しがるのである。この時代の終末の恐るべき背教がすでにわれわれの上に臨んでいる。どうか神がわれわれを助けて下さり、今は恐ろしい時代であること、われわれは恐るべきことに遭遇していること、立ち向かうには人の力以上のものを身に帯びなければならないことを見せて下さいますように。われわれを不動の者にしてくれるものを、われわれは得なければならない。どんな嵐があろうと、大波がどれほど荒れ狂おうと、穏やかに乗り切るためである。この年老いた預言者は、人々が汚れたパンを献げている背教の状態に注意を向けさせる。パンが古くて食べられない時、人々はそれを主に献げたのである。そのような事は想像もつかない。しかし、今日献げられているものは、多くの場合、いらないものだったり、なくても快適にやっていけるものである、と言えるのではないだろうか?彼は言う、「あなたたちは目の見えないものを献げ、足なえのものや病んでいるものを犠牲として献げている」と。当時、人々が主への献げ物として片目の動物や、三つ足になった動物や、病んでいたり足なえだったりする動物を選ぶようになった時、彼らは霊的衰退の状態に陥ったのである。これは馬鹿げたことに思われるが、まさに私自身が直面していることである。人々のいけにえや献げ物が、足なえで病んでいるのである。肥え太った献げ物ではなく、欠けたもののない献げ物でもない。自発的な献げ物であることは滅多にない。私は信じているが、聖められた金の一ドルの方が病んだ金の十ドルよりも有用である。祈りと聖なる生活に支えられた一ドルの自発的献げ物は、諸教会がバザーや祭や豆の夕食で募る十ドルよりも価値がある。片目の動物や足なえの動物を神に献げようとする者が、あなたたちの中に誰かいるだろうか?しかし、何であれ十分の一を差し控える者は足なえの動物を献げている、と言えるのではないだろうか?けちけちと控え目に与える者はみな、不完全なもの、足なえのもの、目の見えないものを献げている、と言えるのではないだろうか?われわれは最上のものや初穂を神に献げるべきである。そうする代わりに、いわゆる聖潔派の人々はドル札を取っておいてペニー硬貨を献げている。神はやもめの少額硬貨は受け取って下さるが、病んでいるもの、足なえのもの、傷のある献げ物を決して受け取ることはない。今日神が望んでおられるのは、自己を否定して自己を犠牲にする人々である。神が最上のものを求めるのは、必要としているからではなく、それを与えることによってわれわれは神に対する自分たちの愛や熱心さを示すことになるからである。神に感謝すべきことに、これは最上のもの、群れの初子、事実上すべての持ち物を献げて、それを御足下に置くようわれわれを促す経験なのである。

この預言者はここで現経綸の到来について述べている。彼は契約の使者として聖霊の経綸、世界史で最も素晴らしい時代の到来を告げる。今日われわれが受けている特権は、過去のいかなるものをも凌駕している。私はかつて、「主ご自身が地上におられた時、主と共にいて、主と共に村々や町々を歩き、主の御口から発せられる恵みの言葉に耳を傾けることができたなら、それはどれほど素晴らしい特権だったことか」とよく思っていた。しかし、愛する人よ、聖霊はわれわれの目を開いて下さって、御子の経綸より優るものがあることを見せて下さる。その特権は過去全体の上にそびえ立ち、われわれを高めて聖霊の経綸にもたらす。その特権は過去最大の特権の一つであり、以前なら人々が五十日かけて行った以上のことを、人は神のために一日で行うことができる。万事が聖められた教会の可能性を増し加えている。世界を福音化する用意を整えるという目標に向かって、万事が働いているように思われる。機械の発明、最近の進歩、現代の発見はどれも、聖められた教会が栄光を受けたかしらの御計画と御旨を成し遂げる助けをすることを目的としている。今はせわしい時代である。人々が時を待とうとしない時代である。起きていても眠っていても、われわれは走り回っている。先日、夜私はシカゴで眠りにつき、シンシナティで目覚めた。人間的才能のおかげで眠っている間に三百マイル移動できたのだとすると、天の機器や知恵に慣れていたなら、聖められた教会は一体何が出来ていたことか。今は凄まじい進歩の時代、稲妻のような急行列車の時代である。この古びた世界は、一つの巨大な囁きの回廊になった。自分の事務室に座って、遠く離れた友人たちと親しく会話することができる。ああ、神の聖徒たちが炎と燃えて、時流についていくなら、われわれは何を成し遂げられることか。聖霊を知っている人がここの個室に入って短く祈り、受話器を置いて出て来るとき、神はインド、アフリカ、日本でその人に答えて下さる。ああ、愛する人よ、主の来臨の日に耐えられる者は誰か?神は御自分の真理を力強く描写するために、常に特定の象徴を用いられる。この箇所では、「布さらしの灰汁」と「吹き分ける者の火」によって教わることがわかる。灰汁は、もちろん、洗うためのものである。これは第一の祝福、再生の洗いである。布さらしの灰汁は強力な灰汁だが、再生の洗いはとても強力な洗いである。それは咎や犯した罪の汚れをすっかり取り除くだけでなく、罪を犯すことによって生じた腐敗をすべて取り除く。そのため、模範的再生をした人の魂の中には、元々生まれつきの堕落性しかなくなる。長い間不従順だった結果増し加わった人間性の腐敗は、この強力な再生の洗いによって除き去られる。次に来るのが聖霊の火である。水は洗うためだが、火は滅ぼすためである。

愛する人よ、もし模範的再生をするなら、それは通常信じられている以上に遥かにわれわれにとって有益である。布さらしの灰汁は汚れや油を取り除くだけでなく、縮みを除いて衣服を直す。そのため、布を裁断しても型紙と同じ大きさのままである。これから分かるのは、非常に多くの人々が一度も再生されていないということである。彼らは膨れ上がり、縮こまり、信頼できない。全き聖めの前でもわれわれを神に対して真実な者とする恵みがある。確かに、それには困難が伴う。辛い時も時々あるかもしれないが、再生された人は神と共に突き進んで征服する。「勝利を得るために全く聖められなければならない」というこの誤謬を私は否定したい。再生された人は大勝利を得るし、悪の全軍勢に対する驚異的な勝利を得ない限り、永遠の義認はありえない。主が現れる時、誰が耐えられよう。主は吹き分ける者の火、布さらしの灰汁のようだからである。

数週間前、私はコロラド州のデンバーにある精錬所を通った。人々が荷台に積んだクリップルクリーク(アメリカの都市、訳注)の鉱石を大きな溶鉱炉の中に放り込んでいる所から私は見学を始めた。鉱石の他に石灰、石、他の物質も混ざっていて、それが何トンもあった。鉱石は黒ずんで汚れており、あまり金のようには見えなかった。人々は取鍋が満たされている所に私を連れて降りた。巨大な取鍋が半トンもの美しい流れる金属で満たされているのを見て、「ああ、これは素晴らしい!」と私は言った。人々は「全然良くありません」と言って、それをゴミ捨て場に送った。何百トンも捨てては、それを鉱滓と呼んでいた。溶鉱炉を開けて白熱した流れる金属を数百ポンド流し出しては、それでも依然として「これはただの鉱滓だ」と言っていた。私は「金はどこにあるのですか?」と尋ねた。人々は私を反対側に連れて行って、小さなたらいを私に見せた。そのたらいの容積は半ガロンほどに見えたが、半分も満ちていなかった。「ここから金がとれるのです」と人々は言った。「これで全部ですか?」と私は言った。長い時間待った末に、ようやくその小さなたらいが一杯になって、鋳型一つ分になった。金の精錬業者のことを考える時、私は何トンもの鉱滓のことを思わずにはいられない。そこからは二、三匙の金しか得られないのである。これから私は昔のことを思い出した。私が溶鉱炉をくぐり抜けて全く聖められた時のことである。私は分離する火のことを覚えている。その火は泥や鉱滓が驚くほどあること、そして金はほとんどないことを示してくれた。一つまた一つと、私の心の中の偶像はその炎の中に送られてゴミ捨て場に運ばれた。救うべきものは何もないように私には思われた。火の下にある時、あなたはこのように感じるのである。聖霊のバプテスマは体積を大いに減らすが、価値を大いに高める。本物は火に耐える。燃やせば燃やすほど、ますます良くなる。燃やすことで金を損なうことはできない。ああ、愛する人よ、われわれが望んでいるのは燃え尽きないものである。裁きが到来しようとしている。可燃物をすべて滅ぼす試みが到来しようとしている。救われない限り、火が臨むことは決してない。救われる前に火が臨んでいたなら、われわれを全く滅ぼしていただろう。しかし、再生はわれわれに新しい性質、不滅の性質を与えてくれた。だから、神はこの火を第二の祝福のために差し控えておられるのである。神がわれわれに神聖な性質を与えて下さる時、われわれは燃え尽きることはない。神が火を燃やしたとしても、それは可燃性のものからわれわれをすっかり解放するだけである。金が一匙しかないのを見るのはとても恥ずかしいことだが、鉱滓がなくなったのを感じてほっとするのは素晴らしいことである。神に栄光あれ!われわれの身の回りにある燃え尽きてしまうものをすべて、神はいま望んでおられる。地上で吹き分ける者の火をくぐり抜けたことがあるなら、死後地獄の火はわれわれを捉えることはできない。われわれが欲しいのは偽物の金ではなく本物である。燃やせば燃やすほど、ますます良くなるものである。小さくなればなるほど、ますます価値が増すものである。誰が耐えられよう?絶対的に神に明け渡した人々以外、誰も耐えることはできない。何か一つでもしがみついているものがある限り、自己を否定しない限り、あなたは決して耐えられない。

愛する人よ、自分自身のことを話すのをやめて、神のことを話すようにしようではないか。神をたたえよ。そうすれば神はあなたに誉れを与えて下さる。裁きが到来しようとしている。ガブリエルがラッパを吹き鳴らそうとしている。世界は火のバプテスマによって聖められようとしている。われわれは燃え尽きないもので建てなければならない。木や草や刈り株ではなく、金、銀、宝石で建てなければならない。

次に注目したいのは、愛する人よ、全き聖めは突然臨むものであるということである。主が突然臨まれるのは主の宮にであって、あなたの家にではない。自分を聖霊に明け渡して、神の信実さについて、その約束の確かさについて語れ。神に話すことを始めよ。神は決してしくじらなかったし、しくじることはありえないことを神に告げよ。しばらくの間、神の信実さについて神に告げよ。忍耐強く神を待ち望め。そうすれば神は来て下さる。「私は聖別されました」「私はすべてを明け渡しました」「私は何でもします。主よ、私、私、私……」と始終自分の聖別について話してばかりいる間は、神は決して来て下さらない。これが祝福をもたらすことは決してない。尊大な「私」から離れて、神について話すことを始めよ。神が過去いかに信実だったのか、約束の言葉を成就して下さることをあなたがどれほど神に期待しているのかを、神に告げよ。聖書が破られることは絶対にありえないことを神に告げよ。あなたが本当に神に信頼するつもりであることを神が御覧になる時、神は来て下さり、決して遅れることはない。神を信じている人はほとんどいない。神に全く信頼している人はほとんどいない。誰かが主に向かって誉めるのを聞くのは何とまれなことか。先日、私はある人が、「主はわれわれを助けて下さると、私は最善を尽くして信じるよう努力しています」と言うのを聞いた。何とひどいことか!私が妻にこう言ったとしたらどうだろう。「あなたの言うことを、私は最善を尽くして信じるよう努力しています。あなたを信頼できればいいのに。私はあなたを信頼するよう努力しています。私があなたを信じるのを助けて下さい」。ひどいことである!神がわれわれをあわれんで下さいますように。ああ、愛する人よ、われわれはどうして信じようとする努力について告げて、あえて神を侮辱することができようか。

聖霊が来て下さる時、その来訪の目的はとどまることである。自分の感情が沈むたびに、「聖霊は自分から去ってしまった」と思い込んでいたらどうなるか?私は困ってしまうだろう。私は始終月の上を跳ねているような感覚を味わいたくはない。私が望んでいるのは、時には揺り椅子の中で落ち着くことである。休むこと、聖霊がわれわれを休ませて下さることである。われわれはお互いに束縛に陥ってはならないし、他の人の経験に捕らわれてもならない。いかなる計画も用意してはならない。聖霊にすべての仕事をしてもらえ。聖霊が来られるのは突然だが、とどまるのは徐々にである。すきま風が吹いている所でたまたま寝てしまい、起きたとき頭痛がして、宗教的感情を感じなかったとしても、「自分は後退してしまった」と思い込んではならない。「私は来てとどまらなければならない」と主が仰せられるなら、主はそうしなければならないのである。聖化は感情の問題ではなく事実の問題である。事実が十分にあるなら、感じていなくても主を賛美することができる。他の人と同じようには感じていないからといって、あるいは、他の時と同じように感じてはいないからといって、悪魔があなたを罠に陥れて威嚇するのを許してはならない。神の契約は永遠に永らえること、永遠の契約であることを覚えよ。あなたが契約を破らない限り、それは破られることはない。結婚の契約は、もしそれが適切になされたものなら、一生続くのに十分である。本当に結婚している人なら、再び結婚しようと思う人は誰もいない。毎月一回聖別しようというこのキリスト教的試みは愚かさの極みである。聖霊は来てとどまって下さる。あなたが聖霊を悲しませる時は必ず、聖霊はそのことをあなたに知らせて下さる。しかるべき時に教えて下さる。あなたが夜眠りに着く時、また朝起きる時も、聖霊はあなたと共にいて下さる。あなたが病や問題の中にある時も、聖霊はあなたと共にいて下さる。いかなる緊急事態でも、聖霊は遅れることなく常にそこにいて下さる。聖霊が遅れることは決してない。波が荒れ狂い、すべてが沈みそうに思われる時、聖霊は船の反対側で眠っておられる。しかし、聖霊は遅れずに起きて下さる。聖霊は真実な方であり、しくじることはありえない。永遠に御名に栄光あれ!