Pilgrim Holiness Advocate 誌 十三巻―― 一九三三年一月五日 ―― 一号
聖句:「しかし、私自身には、われわれの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは断じてあってはならない。この方によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられてしまったのである」。
イギリスの海岸で最も危険な岬の一つでは、その岩だらけの海岸をよく襲う激しい嵐のせいで、無数の灯台が流されてきた。世界最高の天才が、持ちこたえる灯台を費用に糸目をつけずに建設するために雇われた。時間も金も惜しまなかった。長い年月の後、建物が出来たという発表があった。その季節の最初の嵐は史上最も厳しく最も長い嵐になった。みなが不安がっているのが感じられた。大金と多くの人命が危険にさらされていた。誰もが感じて口にした疑問は、「この灯台はもちこたえられるのか?」だった。酷い荒天が数日続いた後、嵐はゆっくりと弱まって行ったが、濃い霧がその海岸全体を覆っていた。その暗闇を貫けるものは何もなかった。数千の人が集まって、霧の最初の晴れ間を大いにそわそわしながら待った。技術者や建設業者がしびれを切らしかけたまさにその時、突然、一瞬だけ晴れ間が生じて、すべて大丈夫であることがわかった。たちまち叫び――大水の轟きのような大群衆の声――があがった、「灯台は立っているぞ!灯台は立っているそ!」。天気が晴れてから、大喜びの大祝典が開かれた。
唸る風と酷い嵐が四千年続いて、人類の希望がすべて忘却の彼方に吹き飛ばされ、四百年の間いと高き世界からのメッセージや使者のないまま暗闇が絶えず深まって行ったのだが、その後、考えうる最大の犠牲を払って「灯台」が建てられた。主イエス・キリストの十字架がエルサレムの都のすぐ外に立ったのである――キリストの十字架こそ唯一の道である。この十字架が今朝の私の御言葉の主題である。ただこれだけを、この御言葉の著者は誇りとした。この世が誇るものを何も持っていなかったわけではなく、キリストの十字架の光に照らして他のものをすべて糞土と見なしたのである。
使徒パウロは大いなる知性の持ち主だった。その先天的能力は批判者たちを上回っていた。しかし、彼は自分の知的能力を軽視して、「私の資格は自分自身の何かによるものではなく、神による」と言うほどだった。彼の後天的能力と学問的教養は、彼のすべての敵を凌駕していた。しかし、彼は自分の肩書き――神学博士、法学博士、哲学博士――をすべてゴミ箱にやってしまった。「こんなものはキリストの王国の題材になりません。出来が悪く、重荷です。私はそれらを損失と見なします!」「実に、私はキリストを勝ち取るために、すべてを損失と見なします」。彼の雄弁さは非常にずば抜けていたので、邪悪な王たちや総督たちは王座の上で震えるほどであり、その中には説得されてクリスチャンになりかけた者もいた。しかし、彼の雄弁さはゴミ山に送られたのだった。なぜなら、「私は卓越した話や知恵を携えてあなたたちのところに来たのではありません。私の話や宣べ伝えは人の知恵による魅惑的な言葉によるものではなく、御霊の現れにより力をもってなされたのです」と彼は言っているからである。だから、今日人々が誇ることを好んでいる少なくともこの三つのものを、パウロは糞土の山に送ったのである。
多くの説教者は町のボロ収集人のようにゴミ溜めに行き、肩書きを拾い集め、全く似つかわしくない肩書きを身に付けている。私は人が全然似合わない「既成の肩書き」を身に付けているのを見るよりも、むしろ全然似合わない靴下やネクタイを身につけているのを見たい。もう一度この偉大な人の、「しかし、私自身には、われわれの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは断じてあってはならない」という言葉を聞け。
十字架を見る時、そこに何が示されているのがわかるか?そこに私は罪を対処する神を見る。そこで私は神が罪をどう思っておられるのかを知る。十字架の光の中でのみ、罪の罪深さが表れる。十字架において、神が個々の事柄をどう思っておられるのかが示されていることがわかる。学識ある博士たちが何を思い、何を言っても私には関係ない。十字架において、私は傷とあざと打ち身でいっぱいの人を見る。ここに私はその人の絶望的状況と無力さを見る。
また、十字架において、神の諸々の属性の調和が見事に示されていることがわかる――すなわち、愛である。ああ、この愛はその明るさで数百万の人々を魅了したので、とうとう彼らは自分の血で証しに印を押したのである。
愛――この愛は勝利して、私がその価値を悟るにつれて、この古い世界から引き離す。そびえる山々、逆巻く川々、焼け付くような太陽、青い深海に向かうこともあるかもしれないが、愛の発露を見たい場合、私は十字架に向かわなければならない。
知恵――この知恵は悪魔どもを困惑させ、御使いたちを驚かせることがわかる――この知恵は反対者たちの口を封じる。この知恵は学問の府では学べないし、最も教養のある人や地上の学者も知らない。
力――そう、力である。創造して維持する力だけでなく、反対をすべて打ち破って征服する力である。描写不可能な力である――この世と肉と悪魔を征服する力である。あなたの同意によりあなたの中にある力であり、この世にいるあの者よりも大いなる力である。あなたの敵の総力を上回る力である!
聖潔――この聖潔は罪を宇宙の最果てまで撃退する――この聖潔は罪に対する神の嫌悪を極めて強烈に示す。小さな罪に執着しようとする話や思い、また、口ではキリストを愛すると言いながら毎日小さな罪を犯すことは、極めて非合理的であり、愚の極みである。十字架はこの道徳的宇宙のどこにも罪の存在を許さない。罪は去らなければならない。最果ての境に達するまで、あるいは、地獄の後壁に達するまで、進むのを止めてはならないのである。
恵み――私は恵みを見る。この恵みは罪人をまさに神の御前に置く。然り、いと高き方の懐に置く――この恵みは罪を永遠に取り除き、罪人を天の中心に置く。これらの属性は他のどこにも見つからない。この偉大な著者が十字架を誇ってはならない理由があるだろうか?
少しの間、彼とわれわれが十字架を誇るべき理由に注目しようではないか。われわれが十字架を誇るべきなのは、十字架は罪人が平和を得る基礎であり、義と真の聖潔の基礎であり、天から地への唯一の道であり、故郷に導いてくれる唯一の道だからである。十字架はまた、神に対する罪人の関係の基礎である――神との交わりや交流の基礎である。唯一の道である十字架によってのみ、われわれは御許に行くことが出来る。
また、われわれが十字架を誇るのは、十字架は永遠にわたって神の愛の表現としてわれわれを引き寄せる一大中心になるからである。永続するものを誇るのは常に適切なことであり、近々訪れる火災の炎の中でたちまち塵灰になってしまうものを誇るのは愚かなことである。その灯台が奉献された時から多くの激しい嵐がそのイギリスの海岸に押し寄せたが、灯台はいまだに立っている。荒れ狂う突風が様々な角度から吹いたが、その灯台はそれらすべてに持ちこたえて、数百万の海を行く人々のために導きの光を与えてきた。そのように、キリストの十字架は二千年間考えうるあらゆる角度から嵐に遭ってきたが、十字架とキリストは残っている――絶望的状況、無力さ、失望から、いと高き天の至高の謁見室へと高く高く至る、唯一の高速道路なのである。
漆黒と暗闇の千年間の嵐の後、マルチン・ルターは雲の裂け目をとらえて、暗い鉱山から司教や法王の所に行く道すがら、「キリストと十字架は立っているぞ!」と叫び続けた。
この灯台に向かってドイツは百年間暴風を吹き付けたが、唯一の道である十字架とキリストは残っている。あわれな昔の、敗北したドイツ、フランス、スペイン、ロシアよ!彼らは出来る限りのことをしたが、永遠の不名誉な敗北以外彼らには何も残されなかった。キリストの十字架は完全なまま立っている。アメリカの歴史が忘れ去られる時、星々は落ち、太陽はことごとく燃え尽きる時、天と地が過ぎ去る時、新しい天と贖われた地がその軌道に入る時、そして、もはや時はないことが宣言される時、唯一の道であるキリストの十字架は宇宙の中心となり、永遠に栄光の冠を与えられるのである!
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