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「セス・リース論説集」

Articles by Seth Cook Rees

第七章 しかしキリストはすべてのすべてである

Chapter 07 But Christ is All and in All

セス・C・リース
Seth C. Rees



Pilgrim Holiness Advocate 誌 十九巻―― 一九三九年六月二二日 ―― 二五号

コペンハーゲンのある大きな教会には、美しい白い大理石から彫られた大きなキリスト像がある。しかし、この像はスカンジナビア人の風貌を帯びており、ユダヤ人的風貌は見あたらない。ヨーロッパの一大美術館を訪れると、キリストの絵を描いたイタリアの芸術家たちはキリストをイタリア人にしたことに気がつく。ゲルマンの芸術家たちは彼にゲルマン人の風貌を帯びさせ、イギリスの彫刻家たちは彼を英国人にした。フランスのいくつかの美術館では、彼はフランス人にやや似ている。この共通の事実の根底には、キリストは万国民の救い主であるという原則がある。キリストはまさに万民が必要とする救い主である。「地の果てのすべての人よ、私を仰ぎ見て救われよ。なぜなら、私こそ神であって、他に神はいないからだ」。

地から天に通じる道は一つだけであり、中に入る門は一つだけである。道は一つだけである――聖潔の道である。キリストは言われた、「私は道であり、真理であり、命です」「まことにまことに私はあなたたちに言う。羊の囲いに門からではなく他の道をよじ登って入る者は、盗人や強盗と同じです」。「私は門です。私を通って入る者は誰でも救われ、出入りして、牧場を見いだします」。「この方以外に救いはありません。それによってわれわれが救われるべき名は、天の下に他に何もないからです」。

人の贖いに関する理念は常に同じである。救いの条件は変更不能である。どの土地でも、クリスチャン生活の基本倫理は同じである。「キリストはすべてのすべてです」。国が違えば神に至る道も違う、という印象を与えている人々もいる。しかしキリストは「私によらなければ誰も御父のもとに来ることはできません」と宣言された。私は「インド人の道であるキリスト」や「あらゆる道のキリスト」について読んだが、クリスチャンの聖書を注意深く批判的に読むと、そこに見いだすのは唯一の道であるキリストだけである。階級区別や高度なカーストで知られているある国から戻った宣教士と話をしたとき、私は自分をクリスチャンと見なす隠れ信者たちのことを聞かされた。そのような信者たちについてさらに尋ねたところ、彼らが言うには、この人々はキリストを自分の信仰と心の中に受け入れたのだが、公にキリストを告白することが決してないのだという。そのわけは、カーストを破るなら必ず降りかかる迫害を恐れているからである。クリスチャン信仰の基本によると、隠れ信者のようなものは存在しないし、少なくとも隠れクリスチャンのようなものは存在しない。「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからです。彼を信じる者は誰であれ恥を受けることはありません。ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人に対して豊かだからです」。アフリカ人の道であるキリスト、イタリア人の道であるキリスト、日本人の道であるキリストはありえない。ひとりのキリスト、一つの道、中に入る一つの道しかないのである。

先に述べたように、キリストはまさに万民が必要とする救い主である。人類が一般的に必要としている第一のものは知恵であることに注意せよ。「何かを自分たちによると考える資格がわれわれにあるわけではありません。われわれの資格は神によります」。「知恵に欠けている人がいるなら、その人は神に求めなさい」。われわれが求める時、神の答は御子である。私の御子を仰ぎ見て、その話に耳を傾け、その理念を理解せよ。そうすれば、あなたは真の理念を知るだろう。罪、救い、創造、天と地、あなた自身、あなたの由来、将来の可能性について、御子の教えを受けよ。父である神、奥義中の奥義に関するキリストの考えを知れ。そうすれば、時間の中でも永遠の中でも持ちこたえる知恵――反対者の口を封じる知恵――を得るだろう。批評家の批判の的になった旧約聖書の節のうち、キリストがその上に油を塗って神聖な刻印を押さなかった節はほとんどない。

二番目の必要は憐れみである。これは唯一の道である御霊の中にのみ見つかる。神は裁きに満ちているように憐れみにも満ちている。しかし、その愛するひとり子のパースンによらなければ、決して人類に憐れみをお与えにならない。「キリストはすべてのすべてです」。キリストはわれわれの義である。キリストは憐れみを与えて、裁きを回避して下さる。憐れみにより、われわれを釈放して下さる。天の銀行でわれわれの信用を再確立して、御自身がわれわれの保証になって下さる。

唯一の道であるキリストは、彼御自身のバプテスマ――聖霊のバプテスマ――によってわれわれを聖めて下さる。聖めは一つの経験であり、聖潔は道徳的状態であり、聖霊はパースンである。この経験によって、われわれは聖潔の状態の中に入る。これは神の働きであり、したがって瞬間的である。聖潔の状態は聖霊の持続的臨在によって永らえる。

唯一の道であるキリストは、「私は道であり、真理であり、命です」と言われた。少しの間、「道」というこの言葉について考えて、この道を知ることがどれほど大事かを見ることにしよう。嵐の中で迷子になった人は、家に帰る道を見つけるためなら大金を払うだろう。間違った道を進んでいたことが分かった時、その人はどれほど怪訝に感じることか!海で航路が分からなくなった船の船員は、港への道を知るためなら持ち物全部を与えるだろう。山で迷子になったことに気づいた若者がいた。彼は自分が聖められていないことを思い出して、神が道を見つけるのを助けて下さるなら真っ先にこの恵みを求めることを神に同意した。一日後彼は救出され、翌日曜日にわれわれの祭壇に真っすぐ歩み寄って聖められた。キリストが強調して教えておられるように、彼は暗闇から光へ、地から天へ至る唯一の道である。

また彼は、「私は命のパンです」と言われた。命がすべて、という時がよくある。ヨーロッパに向かうある裕福な家族が、ニューヨークのホテルに滞在して出航の時を待っていた。すると突然、その家族の母親がかがみ込んで絶命してしまった。命に欠けていたせいで、この旅は台無しになり、彼らの将来の希望はすべて吹き飛ばされたのである。

パン――これはどれほど重要なことか!飢えている人にとって、パンはダイヤモンド以上に重要である。パンを求めるこの世の争いを考えて見よ。ニューヨークやロンドンの長いパン待ちの列を見よ。今日、中国の飢えた数百万の人々にとってパンはどれほど大切なことか!サンフランシスコに地震が起きて、火災がこの都市を滅ぼしかけた時、そこそこ裕福な私の個人的友人がそこのパレスホテルにいた。彼はシカゴに資産を持っていたが、二日二晩パンも水も一口も摂らず、枕するところもなかった。それで彼は喜んで極貧の人々と一緒にパン待ちの列にならんで、施し物から自分のなけなしの分をもらったのである。

ある大きな船が沈んだ数日後、救命ボートに数人乗っているのが見つかった。六日間水が一滴もなかったので、彼らは水だけを叫び求めた。空は美しく、海は穏やかだった。周囲はことごとく魅力的だったが、素晴らしくはなかった。水、水、が彼らの叫びだった。小さな雲が頭上に漂って来て、二、三滴の雨が降り始めた。彼らは舌を出して、出来るものなら一滴だけでも受け止めようとした。彼らにとって水がすべてだった。キリストはすべてである。「私は命の水です」。数千の人々、実に数百万の人々が、この世という道なき熱砂の砂漠、寂しい荒野をとぼとぼと歩きつつ飢えている。しかし、命の泉であるキリスト、裂かれたとこよの岩から流れ出る流れが差し出されているのである。

ある船員が水に渇いていた。遭難信号を発する相手に無線を合わせて通信したところ、水、水、という弱々しい返答が帰ってきた。彼らは水をすくうよう教わった。アマゾン川の河口にいたからである。新鮮な水の海で渇いているとは!多くの人が命の水を求めて滅びてしまうが、飲みさえすればそれを得られるのである。「誰でも望む者は自由に命の水を飲むがよい」。

また、唯一の道であるキリストは良き羊飼いである。羊のために自分の命を与えた唯一の羊飼いである。何という優しい顧みをもって、彼は御自分の羊を緑の牧場と水辺に導かれることか。導いている御自分の羊を絶えず思いやり、供給して下さる――先だって行き、計画を立て、供給して下さる。彼はすべてのすべてである。「神を愛する者たち、すなわち、御旨にしたがって召された者たちに対して、万事は共に働いて益となります」。彼が送られるすべてのものの中に彼がおられることを信じるのは比較的容易だが、起きることを彼が許されたすべてのものの中に彼がおられることを信じるのは比較的困難である。しかし、極めて過酷で極めて不快な事ですら、われわれに対して最大の益になるのである。

ある駅馬者の運転手がマイナス十五度のロッキー山脈を横断していた。乗客は母親とその子供だけだった。子供は命と活気に満ちていたが、母親は青ざめて痩せ細っていた。母親は病気ではなかったが、心配と労苦で消耗して弱っていた。運転手が馬車の中を覗くと、母親が寝ているのが見えた。それは死を意味することを運転手は知っていた。運転手は母親を激しく揺さぶって起こし、「寝てはいけません、さもないと二度と目がさめませんよ」と言った。しばらくして見ると、母親はまた寝ていた。運転手は馬車を止めた。そして、母親を何度も叩いてから冷たい外に引き出し、馬車を出発させた。母親は「ああ、私の赤ちゃん、私の赤ちゃん」と悲鳴を上げたが、運転手は馬車を駆り続け、母親は馬車の後を一マイル追いかけた。運転手が母親を中に入れた時、母親の血行は良くなっていて、指示に従えるようになっていた。これは荒っぽくて不親切に思われるが、運転手の大きな親切心であって、母親の命を救ったのである。

天の父がわれわれを起こすのにこのようなことが必要になる時がある。抜本的覚醒と大震撼を必要としない人は、われわれの中にほとんどいない。私の知り合いの中で最も聖徒らしい人の一人であるマーチン・ウェルス・クナップは、死に際に、「彼らを目覚めさせてくれ、彼らを目覚めさせてくれ」と最後に言い残した。この彼が見た地上の最後の幻で、彼は男も女も眠りながら地獄に向かっているのを見たのである。友よ、どこまでも進んで行って男たちや女たちを目覚めさせ、彼らに唯一の道であるキリストを提示しようではないか。