一 むさし野
祈祷の哲学を私は知らない。すべての祈祷がそのままに聴かれるとは私は信じない。私の実験が明らかに反証するからである。
かつて私に一つの祈祷があった。私は数ヶ月に
しかし私の祈りは遂に聴かれなかったのである。私はつつまず告白する、その時以後暫くの間、私は祈りに疲れ果てて、また祈ろうとする心を起こし得なかったことを。私は私の祈りが別の意味に於いて聴かれるであろう事を疑わなかった。しかし別の意味は別の意味である。私の当面の願いはそこにはなかった。私は私の言葉を以て表わした通りに事の実現を許していただきたくあったのである。その望みが失せた時に、私の実感はありのままに「わが祈りは聴かれなかった」というにあった。
それ限りに然らば私は全く祈らない人になったか。そうではなかった。むしろ私が聖名を呼ぶことは前よりも更に切であった。夕ごとに野路を歩きながら、「エス様、エス様」との声が絶えず私の唇にあった。書斎の卓子に倚りながら、ともすれば我知らず
差別はここにあった。――努力としての祈り、それが私から消えたのである。そしてただ
この変化は意味あさきものと思われない。祈りが努力の事としてにあらず、さながら呼吸のように、無意識ではあるが暫くもやみがたき事として行われる時に、少なくとも私は幾倍か神と親しくある事だけは確かである。まことに祈りは今や私の霊魂の呼吸である。一切の事、文字通りに一切の事を私は神に訴える、恥づべき事も、わがままなる事も。しかせずして私はもはや生き得ないのである。今や私にとって神はいと近き友である。彼の面前から私の離れ去る時はない。従ってこの身このままに、隠さず、つくろわず、憚らず
親密なるが故にまた秘密である。私は私の祈りを人に知らるることを好まない。私は実は人の前にて祈るを大いなる苦痛とする。集会の席上にやむを得ず祈りはするものの、私としてはそれは多くの場合に於いて真実の祈りではない。集会の司宰者としての公然の祈りは全会衆の心を代言するものでなければならぬ。そのためには祈祷の準備すなわち一種の予習さえ必要とせられ、甚だしきに至っては朗読祈祷さえ行われるに至る。もし単に集会又は儀式そのものの整備の上より見るならば、それもやむを得ぬことであろう。しかしかくのごとき祈祷が真実の祈祷でない事だけは明白である。誰が父にものいうに朗読の法を以てしようか。
祈祷が心意の努力たらず、霊魂の呼吸たるに至って、祈祷の聴かるる所以は私に少しく解る。我らは単に祈るが故に聴かれるのではない。祈るが故に我らはいよいよ神と親しみ彼に似る、従って彼のこころにかなうものを求め、かなわざるものを求めざるに至るのである。かかるが故に我らの祈祷は聴かれるのである。祈祷の背後にある「神との親密」の故に、祈祷によって代表せらるる信頼生活の故にである。すなわち個々の祈祷そのものが聴かれるというよりも、むしろ霊魂全体が聴かれるのである。「われ汝らに告ぐ、求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。……天の父は求むる者に聖霊を賜わざらんや」(ルカ一一の九〜一三)とは、この間の消息を告ぐる言ではないか。
〔第四五号、一九二四年三月〕
二 眠られぬ夜のいのり
「エホバその
然るに睡眠は時として我等から奪われるのである。眠られぬ夜になやむものは少なくない。しかして不眠の苦痛は必ずしも侮りがたい。
しかしながら睡眠がそうであるように、不眠もまた恩恵ではなかろうか。私は信ずる、眠り得るの恩恵にまさる眠り得ざるの恩恵があると。神は或る時
その主なるものは祈りである。夜は祈りに善き時である。更けたけてあたり音なき時、この世の刺撃から離れて床の上に身を伸ばしいる時、その時われらは静かに過去の恩恵をおもい、自分のみじめさをおもい、永遠をおもい神をおもうに適する。
夜はわが心われを教う。(詩一六の七)
夜はその(エホバの)歌われと共にあり、この歌はわがいのちの神にささぐる祈りなり。(四二の八)
この故に預言者は悩みのどん底にある者に勧めていった。
なんじ夜の初更 に起きいでて呼びさけべ、主の御前になんじの心を水のごとく注げ。(哀歌二の一九)
私もまた眠られぬ夜の兄弟姉妹たちにすすめたい、「いのりたまえ」と。必ずしも身を起こすには及ばない、床上臥しながらにして結構である。臥しながら、その善き機会に、自分の心のいと深きところを飾らずつくろわずありのままに主の御前に注ぎいだせ。いかばかり乱れたる言葉でもよい。ただ思うがままに憚らず訴えよ求めよ。然らば常には待ちあぐむ時間の進行も、その速やかなるを怪しむであろう。一時うつを聞きしは今しがたとばかり思う間に早や二時を聞きまた三時を聞くであろう。しかして心はややに和らぎうるおい、何となく大いなる手に抱かるるを覚えるであろう。恐らく夜の明くるに先だちて、暫しの安きねむりはつつむがごとくに臨みきたるであろう。
われ床にありて汝をおもい出で、夜の更 くるままになんじを深く思わん時、わがたましいは髄 と脂 とにて饗 さるるごとく飽くことをえ、わが口はよろこびの唇をもてなんじを讃 めたたえん。(詩六三の五、六)
人が平生祈りのために用いる時は余りに少ない。雑談のため、娯楽のため、新聞雑誌の閲覧のためには惜しまない時をも、神との楽しき会話のためには之を惜しむ。いかばかりの欠陥であろうか。この欠陥を補わんがために、神は最も適わしき不眠の時を与えたもうのであるかも知れない。我らは
〔第六二号、一九二五年八月〕
三 われ山にむかいて目をあぐ 私の信仰としてクリスマスに語りしところ
私も今まで
何故か。その事の無意義を私は知ったからである。少なくとも私の場合に於いては、それは意義を成さぬ事であった。自分を省みる事は、自分について何等かの希望をいだき得る者にこそ適わしけれ、もはや少しの余地なきまで自分について絶望した者に取っては、それは意義を成さないのである。「私は弱い」とか「私は穢れたものである」とかいう事は、私自身については無意義なる空虚の響きに過ぎない。例えば「闇はくらい」「熱はあつい」というと異ならない。誰が
私は早くから罪の問題に悩んだものではあるが、しかし人に比べては、自分は低くともなお水準より下るほどの者でないと信じて居った。そののち聖書の光に接して、自分に対する私の評価は
鳴呼、過る数年、私はどんな内的生活を送ったか。ただ彼のみぞ知る。誠にただ自分の偽りなき姿を明白に発見せんがための試煉であったと見てさえ、それは十分に意義ある経験であった。
私はかようなる事を公言するを好まない。しかしここには明らかにせねばならぬ。私はパウロの口調をかりていう、誰か弱りてわれ弱らざらんや、誰か罪を犯してわれ犯さざらんやと。自殺者狂者は私の親友であり、殺人者姦淫者盗賊は私の兄弟である。今や私はたとえ如何なる悪名を以て呼ばれようとも甘んじてそれを受けねばならぬ。
かくのごとき私が今更に「足らぬ」などと言い出すほど笑止の沙汰があろうか。実際私はもはや自分を見るに堪えない。その事は余りに心苦しい。もし私をして何時までも己に省みさせるならば、私は自ら果つるのほかないであろう。
この故に私はやむなく目を自分よりそむける。しかして之を何処に向けるか。「われ山にむかいて目をあぐ」(詩一二一の一)。私はただ目をあげて彼に着ける。自分を見ておる暇に、私はただ彼をあおぐ。然り、ただ、ただ、彼をあおぐ。
しかして福いなるは彼をあおぐものである。その人は自分を忘れ得るからである。自分の責任から
然らば私が彼に頼る理由は何か。彼が私の祈りに答えたもうからであるか。彼が私に恵みを加えたもうからであるか。否、すべて「私」のために彼が何かを為し或いは為したからではない。すべて私のために彼が何かであり又はあったからではない。そうではない。私は今や何の恵みにも好意にも値するものでない事を十分に知っている。彼が私のために何をなさずとも、彼が私に対してどんなに冷淡であろうとも、然り、どんなに無慈悲、残酷でさえあろうとも、それをもって私は彼を疑うの理由とすることは絶対に出来ない。
しかして現に私は自分の関するかぎりに於いては、幾多の躓きをもっている。私には聴かれざりし又は聴かれざる祈りがある。私には奪われし恵みがある。私には時々見失われし
しかし右にも言った通り、たとえ私の祈りが悉く拒絶せられたとしても、それをもって私は神を信じ或いは疑うの理由とすることは出来ないのである。何となれば、私は素々彼の前に立つ資格さえないものであるからである。神が私に対して
私が神を信ずる理由は、「私」の側には少しも存在しない。私はただ神を信ずる、神が神でありたもうがゆえに!神はキリストの十字架に於いて御自身を明白に現わしたもうたが故に!神は御自身の永遠的公義の要求を満たさんがためにおのが独子キリストを惜しまず世に送って敢えて之を十字架につけたもうたが故に!
私が神を信ずるの理由は之よりほかに一つもない。キリストに於いて、殊に十字架上の彼に於いて、私は神を見たのである。私はもはや彼を見識っているのである。彼処に神の神らしさは悉く現われ尽くしたのである。たとえほかの事はどうあろうとも、十字架のキリストが変わらないかぎり、私の信仰は変わらない。勿論私は屡々神を疑おうとする。しかしその試みに出遇うとき、私はただちに十字架のキリストに帰る。彼は私の唯一の
私は時として自分に臨むことあり得べき一切の患難を想像して見る。自分が陥り得べき最も呪われたる谷底を想像して見る。しかしてそれでもなお私は神に信頼し得べきかを考える。
かくいえばとて、勿論私は如何なる場合にも泰然自若としてあり得ると言うのではない。断じてそうではない。私自身は前に言った通りの者である。たとえば今にも死が私に臨むならば、私は或いはいかばかり見苦しき様子を示すかも知れない。しかしその事の故に私の信仰は変わらない。否、さほどに言い甲斐なき者であればこそ、私は自分を見ずしてひとえに彼を仰ぐのである。私が絶対に彼に信頼することは、私自身の憐れさをこそ証明すれ、断じて私の功績にはならない。
かくて私の生涯は聖旨のままである。自分がどうあろうとも、社会がどうあろうとも、私は関わない。自分のために思いわずらわない私は、また世を憂えず人を憂えない。私はただ神をあおぐ、しかして一切を彼に委ねまつる。彼の聖旨の成らんこと、その事のみを私は願う。聖旨の成るにまさる善き事はない。故に彼の成したもうがままに私は従う。私の信仰は之である。
〔第六七号、一九二六年一月〕
四 私は何故に祈るか
「何故になんじは祈るか」と問われたならば、私は何と答えようか。それはあたかも「何故になんじは呼吸するか」と言うと異ならない。もし祈りをやめたならば私は窒息するのである。祈らずして私は生きることが出来ないのである。有名なる心理学者ウィリアム・ジェームスも言っている、「我らはなぜ祈るかといえば、理由は簡単である。祈らずにはいられないからである……たとえ科学が之に反対して何と言おうとも、人は世の終りまで祈りつづけるであろう」と。確かにそうである。祈りは人の本能である。神が人を創造する時にひそかに植えつけたもうた性質である。故に
呼吸である。私の霊魂はここに息つく。ここに私は天の国の新鮮なる大気を吸うと共に、また私の衷なるすべての気を吐きいだす。衷に起こりしすべての思いを祈りに於いて神のまえに吐き出さなければ、恐らく私は
〔未発表の手稿〕
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