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「信仰生活」

第五 祈祷について

藤井武
Takeshi Fujii



一 むさし野

祈祷の哲学を私は知らない。すべての祈祷がそのままに聴かれるとは私は信じない。私の実験が明らかに反証するからである。

かつて私に一つの祈祷があった。私は数ヶ月にわたって殆ど絶えまなく祈った。或る夜私は夜もすがら祈りつづけた。次の夜も同じように始めた。しかし衰弱せる健康は二昼夜の不眠に堪えなかった。幾日かの後、私は心を尽くして祈った。あぶらは汗のように額からしたたり落ちた。私はゲッセマネを憶って、何となく始めて祈りらしき祈りが出来たように感じた。私は私の祈りがそのままに聴かれることを少しも疑わなかった。

しかし私の祈りは遂に聴かれなかったのである。私はつつまず告白する、その時以後暫くの間、私は祈りに疲れ果てて、また祈ろうとする心を起こし得なかったことを。私は私の祈りが別の意味に於いて聴かれるであろう事を疑わなかった。しかし別の意味は別の意味である。私の当面の願いはそこにはなかった。私は私の言葉を以て表わした通りに事の実現を許していただきたくあったのである。その望みが失せた時に、私の実感はありのままに「わが祈りは聴かれなかった」というにあった。

それ限りに然らば私は全く祈らない人になったか。そうではなかった。むしろ私が聖名を呼ぶことは前よりも更に切であった。夕ごとに野路を歩きながら、「エス様、エス様」との声が絶えず私の唇にあった。書斎の卓子に倚りながら、ともすれば我知らず稍々やや大声に「ああ神様……」と呼びかけて、自ら驚かさるることも少なくなかった。して見れば私は祈りなき人になってしまった訳でもなかった。

差別はここにあった。――努力としての祈り、それが私から消えたのである。そしてただおのずからなる祈りのみが之に代わったのである。

この変化は意味あさきものと思われない。祈りが努力の事としてにあらず、さながら呼吸のように、無意識ではあるが暫くもやみがたき事として行われる時に、少なくとも私は幾倍か神と親しくある事だけは確かである。まことに祈りは今や私の霊魂の呼吸である。一切の事、文字通りに一切の事を私は神に訴える、恥づべき事も、わがままなる事も。しかせずして私はもはや生き得ないのである。今や私にとって神はいと近き友である。彼の面前から私の離れ去る時はない。従ってこの身このままに、隠さず、つくろわず、憚らずすがる。

親密なるが故にまた秘密である。私は私の祈りを人に知らるることを好まない。私は実は人の前にて祈るを大いなる苦痛とする。集会の席上にやむを得ず祈りはするものの、私としてはそれは多くの場合に於いて真実の祈りではない。集会の司宰者としての公然の祈りは全会衆の心を代言するものでなければならぬ。そのためには祈祷の準備すなわち一種の予習さえ必要とせられ、甚だしきに至っては朗読祈祷さえ行われるに至る。もし単に集会又は儀式そのものの整備の上より見るならば、それもやむを得ぬことであろう。しかしかくのごとき祈祷が真実の祈祷でない事だけは明白である。誰が父にものいうに朗読の法を以てしようか。いずれの父がかくのごとき対談を喜びとしようか。いかに贔屓目ひいきめに見るとも、かかる精神のうちには或る濃厚なる不純の分子を含むことを拒むべくもない。これ祈祷よりも集会を重しとする精神である。神に聴かるるよりもむしろ人に聴かれんことを求むるこころである。神は最もこのこころをにくみたもう。私は信ずる、朗読祈祷いかに荘重であるとも、それによって会衆の心気いかに純化せられるとも、神はそれを聴きたまわないことを。「我なんじらが手をのぶるとき目をおおい、なんじらが多くの祈祷をなすときも聴くことをせじ」(イザヤーの一五)。「誠になんじらに告ぐ、彼らは既にその報いを得たり(人に聴かれんことを目的とし、しかして目的通りに聴かれたるが故に)。なんじは祈るとき、己が部屋に入り、戸を閉じて隠れたるにいます汝の父に祈れ」(マタイ六の六)。

祈祷が心意の努力たらず、霊魂の呼吸たるに至って、祈祷の聴かるる所以は私に少しく解る。我らは単に祈るが故に聴かれるのではない。祈るが故に我らはいよいよ神と親しみ彼に似る、従って彼のこころにかなうものを求め、かなわざるものを求めざるに至るのである。かかるが故に我らの祈祷は聴かれるのである。祈祷の背後にある「神との親密」の故に、祈祷によって代表せらるる信頼生活の故にである。すなわち個々の祈祷そのものが聴かれるというよりも、むしろ霊魂全体が聴かれるのである。「われ汝らに告ぐ、求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。……天の父は求むる者に聖霊を賜わざらんや」(ルカ一一の九〜一三)とは、この間の消息を告ぐる言ではないか。

〔第四五号、一九二四年三月〕

二 眠られぬ夜のいのり

「エホバそのいつくしみたもうものにねむりをあたえたもう」。睡眠はたしかにこの世に於ける大いなる恩恵の一つである。傷つきて物狂おしき心、または疲れてサタンの誘いに敗れ易き心などが、いかばかり睡眠によって癒されるか。我らがなお肉体を以て生きるかぎり、「安きねむり」の恩恵に与からずしては堪えられない。

然るに睡眠は時として我等から奪われるのである。眠られぬ夜になやむものは少なくない。しかして不眠の苦痛は必ずしも侮りがたい。

しかしながら睡眠がそうであるように、不眠もまた恩恵ではなかろうか。私は信ずる、眠り得るの恩恵にまさる眠り得ざるの恩恵があると。神は或る時殊更ことさらにそのいつくしみたもう者のねむりを奪いたもう。神を愛する者のためには凡ての事相働きて益をなすのである。不眠もまた必ず我らのために益をなすのである。我らは眠られざるがために、眠りしならば得なかったであろうところの善き経験をもつことが出来る。

その主なるものは祈りである。夜は祈りに善き時である。更けたけてあたり音なき時、この世の刺撃から離れて床の上に身を伸ばしいる時、その時われらは静かに過去の恩恵をおもい、自分のみじめさをおもい、永遠をおもい神をおもうに適する。

夜はわが心われを教う。(詩一六の七)
夜はその(エホバの)歌われと共にあり、この歌はわがいのちの神にささぐる祈りなり。(四二の八)

この故に預言者は悩みのどん底にある者に勧めていった。

なんじ夜の初更しょこうに起きいでて呼びさけべ、主の御前になんじの心を水のごとく注げ。(哀歌二の一九)

私もまた眠られぬ夜の兄弟姉妹たちにすすめたい、「いのりたまえ」と。必ずしも身を起こすには及ばない、床上臥しながらにして結構である。臥しながら、その善き機会に、自分の心のいと深きところを飾らずつくろわずありのままに主の御前に注ぎいだせ。いかばかり乱れたる言葉でもよい。ただ思うがままに憚らず訴えよ求めよ。然らば常には待ちあぐむ時間の進行も、その速やかなるを怪しむであろう。一時うつを聞きしは今しがたとばかり思う間に早や二時を聞きまた三時を聞くであろう。しかして心はややに和らぎうるおい、何となく大いなる手に抱かるるを覚えるであろう。恐らく夜の明くるに先だちて、暫しの安きねむりはつつむがごとくに臨みきたるであろう。

われ床にありて汝をおもい出で、夜のくるままになんじを深く思わん時、わがたましいはずいあぶらとにてもてなさるるごとく飽くことをえ、わが口はよろこびの唇をもてなんじをめたたえん。(詩六三の五、六)

人が平生祈りのために用いる時は余りに少ない。雑談のため、娯楽のため、新聞雑誌の閲覧のためには惜しまない時をも、神との楽しき会話のためには之を惜しむ。いかばかりの欠陥であろうか。この欠陥を補わんがために、神は最も適わしき不眠の時を与えたもうのであるかも知れない。我らはいたずらに眠られざるを思いわずらうをやめよう、しかしてこの善き時を天の父と心ゆくばかり語らんがために用いよう。苦しき不眠の時を化してしずけき祈りの甘美なる時となそう。少しく眠りて多く祈るは、多く眠りて少しく祈るよりも勝ること幾段であるかを知らない。

〔第六二号、一九二五年八月〕

三 われ山にむかいて目をあぐ 私の信仰としてクリスマスに語りしところ

私も今まで度々たびたび自分の生活を省みては、その足らざるを歎いた。信仰に入りて既に幾年、なおかくのごとき歩みは何事かというように、自分に目を着けては悲しんだ。しかし今は私は全くそれをめたのである。自分を省みては歎く事を私は全然廃めてしまったのである。

何故か。その事の無意義を私は知ったからである。少なくとも私の場合に於いては、それは意義を成さぬ事であった。自分を省みる事は、自分について何等かの希望をいだき得る者にこそ適わしけれ、もはや少しの余地なきまで自分について絶望した者に取っては、それは意義を成さないのである。「私は弱い」とか「私は穢れたものである」とかいう事は、私自身については無意義なる空虚の響きに過ぎない。例えば「闇はくらい」「熱はあつい」というと異ならない。誰がくらからざるやみ、熱からざる熱の存在を想像しようか。「私はまだ足らぬ」と言う心はいつか「私はもう十分である」と言い得る心であろう。「私、私」といって自分に目をつける人は、なお自分を問題となし得る人である。しかし私にはその時は過ぎたのである。今や私には私自身が問題にも何にも成らないのである。足るとか足らぬとか、善いとか悪いとか、弱いとか強いとか、すべてそれらの相対的批判の対象には成らない。「私」が何であるか。私はそれに愛憎をつかしてしまった。私はそれを眼中から棄ててしまった。私はそれの存在を無視してしまった。

私は早くから罪の問題に悩んだものではあるが、しかし人に比べては、自分は低くともなお水準より下るほどの者でないと信じて居った。そののち聖書の光に接して、自分に対する私の評価はみに一変した。罪人としての自分の地位は限りなく低いものである事を私は知った。或る意味に於いては自分について絶望もした。しかしそれでもなお多年自分を省みては歎くことを続けていたからには、私は未だ絶望し切らなかったに相違ない。ただ近年に至って私は始めて自分の正体を見届けたのである。自分が弱いというは果たしてどのくらい弱いのであるか、殊に神のまえに罪人として自分は果たしてどんな処に位置すべきものであるか。それらの事を如実に見せつけらるる痛ましき日が遂に私に臨んだのである。

鳴呼、過る数年、私はどんな内的生活を送ったか。ただ彼のみぞ知る。誠にただ自分の偽りなき姿を明白に発見せんがための試煉であったと見てさえ、それは十分に意義ある経験であった。

私はかようなる事を公言するを好まない。しかしここには明らかにせねばならぬ。私はパウロの口調をかりていう、誰か弱りてわれ弱らざらんや、誰か罪を犯してわれ犯さざらんやと。自殺者狂者は私の親友であり、殺人者姦淫者盗賊は私の兄弟である。今や私はたとえ如何なる悪名を以て呼ばれようとも甘んじてそれを受けねばならぬ。

かくのごとき私が今更に「足らぬ」などと言い出すほど笑止の沙汰があろうか。実際私はもはや自分を見るに堪えない。その事は余りに心苦しい。もし私をして何時までも己に省みさせるならば、私は自ら果つるのほかないであろう。

この故に私はやむなく目を自分よりそむける。しかして之を何処に向けるか。「われ山にむかいて目をあぐ」(詩一二一の一)。私はただ目をあげて彼に着ける。自分を見ておる暇に、私はただ彼をあおぐ。然り、ただ、ただ、彼をあおぐ。

しかして福いなるは彼をあおぐものである。その人は自分を忘れ得るからである。自分の責任からのがれ得るからである。「なんじの荷を我にゆだねよ」と彼は言ってくれる(詩五五の二二)。私は罪ふかい、私は弱い。省みてそれを憶うとき心くずおれる。しかしすべて私の責任を私はみずから負わなくとも善いのである。彼が代わって之を負ってくれるのである。彼は己をあおぐ者を無責任の地位に置いてくれるのである。十字架のキリストに頼るとき、私は彼の功績のゆえに無責任者である。私に多くの恥辱がある。しかし私は彼にそのすべての始末を附けていただく。私が真実に彼に頼るかぎり、私の恥は掻き棄てにすることを許される。

然らば私が彼に頼る理由は何か。彼が私の祈りに答えたもうからであるか。彼が私に恵みを加えたもうからであるか。否、すべて「私」のために彼が何かを為し或いは為したからではない。すべて私のために彼が何かであり又はあったからではない。そうではない。私は今や何の恵みにも好意にも値するものでない事を十分に知っている。彼が私のために何をなさずとも、彼が私に対してどんなに冷淡であろうとも、然り、どんなに無慈悲、残酷でさえあろうとも、それをもって私は彼を疑うの理由とすることは絶対に出来ない。

しかして現に私は自分の関するかぎりに於いては、幾多の躓きをもっている。私には聴かれざりし又は聴かれざる祈りがある。私には奪われし恵みがある。私には時々見失われし聖顔みかおのなげきがある。私は信仰の先輩が余りに安く祈りの応答についてあかしした事をうらむ。私をして言わしめよ、祈りは多くの場合に於いてはそのままに聴かれないのである。霊魂に関する祈りのほかは、聴かれたと見えるものも実はそうではない。「たとえわれ彼を呼びて彼われに答えたもうとも、わが言を聴き入れたまいしとはわれ信ぜざるなり」とのヨブの告白は、近代基督者の経験よりは遥かに深刻である(ヨブ九の一六)。「求めよ、さらば与えられん……天の父は、求むる者に聖霊を賜わざらんや」とある。これこの世に於ける祈祷応験の原則である。聖霊は必ずこれを賜う。しかし健康や成功や金銭などは、多くの場合に之を賜わない。霊魂以外の事についての私の祈りは聴かれない事が多い。

しかし右にも言った通り、たとえ私の祈りが悉く拒絶せられたとしても、それをもって私は神を信じ或いは疑うの理由とすることは出来ないのである。何となれば、私は素々彼の前に立つ資格さえないものであるからである。神が私に対して聾者みみしいとなりたもうはげにうべなる事である。

私が神を信ずる理由は、「私」の側には少しも存在しない。私はただ神を信ずる神が神でありたもうがゆえに!神はキリストの十字架に於いて御自身を明白に現わしたもうたが故に!神は御自身の永遠的公義の要求を満たさんがためにおのが独子キリストを惜しまず世に送って敢えて之を十字架につけたもうたが故に!

私が神を信ずるの理由は之よりほかに一つもない。キリストに於いて、殊に十字架上の彼に於いて、私は神を見たのである。私はもはや彼を見識っているのである。彼処に神の神らしさは悉く現われ尽くしたのである。たとえほかの事はどうあろうとも、十字架のキリストが変わらないかぎり、私の信仰は変わらない。勿論私は屡々神を疑おうとする。しかしその試みに出遇うとき、私はただちに十字架のキリストに帰る。彼は私の唯一の避所さけどころである。さればたとえ地は変わり山は海の中央もなかに移るとも、私は恐れない。よしその水なりとどろきて騒ぐとも、その溢れきたるによりて山はゆるぐとも私は恐れない。何となればそれらの騒ぎのなかに、なお十字架の上に永遠に変わらざる神を私は見出すことが出来るからである。かしこに神は己の義を顕わして、自ら義となりまた人を義とするの途を開きたもうた。かしこに彼はその独子をけるほどに世を愛したもうた。この一つの事実を打ち消す何ものがあるか。我らの社会に何事が起ころうとも、人が何をなそうとも、自分の上にいかなる悩みが加わろうとも、この一つの永遠的事実を如何にするか。

私は時として自分に臨むことあり得べき一切の患難を想像して見る。自分が陥り得べき最も呪われたる谷底を想像して見る。しかしてそれでもなお私は神に信頼し得べきかを考える。よろしい。何処まで往っても宜しい。私の幸福がたとえどうなっても、神は変わらないのである。十字架のキリストの神は永遠に変わらないのである。しかして私にとって最大の問題は、私の幸福の如何ではない、神が神でありたもうか否かである。神が神でありたもうかぎり、私はただ彼に信頼すればよいのである。たとえ私は地獄に落ちても、なおひたすらに彼に信頼して彼の名を呼べばよいのである。まことに大いなる患難、大いなる呪いが私に臨めば臨むほど、私はいよいよせつに彼にすがるのほかないのである。

かくいえばとて、勿論私は如何なる場合にも泰然自若としてあり得ると言うのではない。断じてそうではない。私自身は前に言った通りの者である。たとえば今にも死が私に臨むならば、私は或いはいかばかり見苦しき様子を示すかも知れない。しかしその事の故に私の信仰は変わらない。否、さほどに言い甲斐なき者であればこそ、私は自分を見ずしてひとえに彼を仰ぐのである。私が絶対に彼に信頼することは、私自身の憐れさをこそ証明すれ、断じて私の功績にはならない。

かくて私の生涯は聖旨のままである。自分がどうあろうとも、社会がどうあろうとも、私は関わない。自分のために思いわずらわない私は、また世を憂えず人を憂えない。私はただ神をあおぐ、しかして一切を彼に委ねまつる。彼の聖旨の成らんこと、その事のみを私は願う。聖旨の成るにまさる善き事はない。故に彼の成したもうがままに私は従う。私の信仰は之である。

〔第六七号、一九二六年一月〕

四 私は何故に祈るか

「何故になんじは祈るか」と問われたならば、私は何と答えようか。それはあたかも「何故になんじは呼吸するか」と言うと異ならない。もし祈りをやめたならば私は窒息するのである。祈らずして私は生きることが出来ないのである。有名なる心理学者ウィリアム・ジェームスも言っている、「我らはなぜ祈るかといえば、理由は簡単である。祈らずにはいられないからである……たとえ科学が之に反対して何と言おうとも、人は世の終りまで祈りつづけるであろう」と。確かにそうである。祈りは人の本能である。神が人を創造する時にひそかに植えつけたもうた性質である。故にまことの神を知らない人すらなお祈る。全く祈らない人とてはひとりもない。しかしながら私などにとっては祈らない事が不可能であるは無論の事、たとえ暫くなりとも、祈りなしには生ける心持がしないのである。実際、祈らない時に私は死んでいる。そのとき私の霊魂は窒息し生命を失っている。気がついて直ちに祈りを回復する時の感じは、息つまりしのち胸をひらいて大気を吸い込む時のそれと少しもちがわない。祈りに於いて私は息つく。祈りに於いて私は生きる。祈りは文字通りに私の霊魂の呼吸である。

呼吸である。私の霊魂はここに息つく。ここに私は天の国の新鮮なる大気を吸うと共に、また私の衷なるすべての気を吐きいだす。衷に起こりしすべての思いを祈りに於いて神のまえに吐き出さなければ、恐らく私は鬱結うっけつする悪気に中毒してたおれるであろう。故に私は事ごとに祈る。どんな事でもいのる。神に祈るべくあまりに小さいというような事は一つもない。〔中断――編者〕

〔未発表の手稿〕