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「信仰生活」

第六 私のいのり

藤井武
Takeshi Fujii



或る日のいのり

天の父様!又しても私の心がしぼみはじめました。光が薄れて、闇がひしひしと迫ります。熱が失せます。何ともわからず堪えがたき重荷が私を圧迫します。人生がつまらなく感ぜられる時、自分も人も呪わしく思われる時、今までの経験がみな間違いではなかったかと疑う時、そのいやな時がまた来ました。

神様、告白します、こういう時には、実際、祈りの熱心さえ消えてしまうのです。私はいま祈りたくありません。しかし、ああしかし、あなたをいて何処へ往きましょうか。人間のだれが今、私のすべてを受け入れてくれましょうか。否、人間に対する信頼が少なくとも現在私を見棄てたという事が、即ち沈鬱の主なる原因ではないのでしょうか。神様、私は今、人について何の興味をも持ちません。私は人の同情を欲しく思いません。人から慰められたくありません。人は私に取って余りに不可解なのです。彼等は私の少しも求めない時に、熱き愛を以て私を驚かせます。そしてさながら強盗のように私の心から歓喜と感謝とを引き出して往きます。そうかと思えば、私の方に最も切なる要求が動いている時に、彼等が私の期待を裏切らないことは滅多にありません。その失望の味はかなり苦くあります。彼等は果たして親切なのでしょうか、もしくは不親切なのでしょうか。罪は期待する私にあるのでしょうか、それとも裏切る彼等にあるのでしょうか。私にはさっぱりわかりません。結局、人間に信頼する事は、私のようなものに取っては、〔中断――編者〕〔未発表の手稿〕

いのり

神様、あなたが日本国の戸の外に立って叩きたもう音が、今こそ明白に聞こえます。どうぞ私共が開かずにはいられぬほど、強く強く叩きつづけて下さい。〔第四一号、一九二三年一一月〕

年頭のいのり

神様、聖国みくにの来る日が一年だけ近づいた事を深く喜びます。世界の混乱の間に聖旨が成就しつつある事を感謝します。今年も矢張りあなたの勝利であるに相違ありません。どうぞ私共をして益々あなたを讃美させて下さい。出来るならば始より終まで讃美の一年であらしめて下さい。アーメン〔第四三号、一九二四年一月〕

或る日電車の中にて

イエス様、自分の内にも外にも醜いものばかりを見ます時に、失望せずにはいられません。しかしあなたを思うときに、何という明るみに引き出されるんでしょう。あなたを知り得たというこの一事、感謝の感謝です。ただその為に生まれたとして、私の生涯に十二分の意味があります。この喜びを言い表わすべき言葉を知りません。〔第四四号、一九二四年二月〕

いのり

今年もまた患難を通して聖意みこころを一層ふかく知ることが出来ましたことを深く感謝いたします。すべてあなたを見上げて立つ者どもに、新しき智慧と能力とを御注ぎ下さいましたことを感謝いたします。震災の後の日本になお排日問題その他の難問題を御与え下さいまして、国民の自覚を促していただきましたことを感謝いたします。ひとり日本ばかりではございません、東洋全体が眼を醒ましつつあります事は何という意味深い事でございましょう。新しい曙が世界歴史の上に臨みつつあるを思います。実に希望に心燃えます。神様!どうぞ大いなる御経綸に従って、大いなる事を見させて下さい、栄光を地のはてまで御示し下さい、全人類をして聖名を讃美させて下さい。〔第五四号、一九二四年一二月〕

或る日の感謝

光と生命と愛との神様!聖名を崇めさせて下さい。

御みちびきによりまして私もここまで参りました。かつてはあなたの事を耳で聴いていましたが、近頃ようやく目をもって見まつる事が出来るようになりました。今は私も少しばかり人生の何か実在なるものに触れたことを覚えます。今は私にもささやかながら自分の実験と称し得べきものが出来ました。三年前に私の恩師が私について「君は今よりは理想を語るに非ず、研究の結果を語るに非ずして、直に見し所のものを語るに至り云々」といいました言葉は真実でありました。神様、感謝いたします、私ごとき者にも兎にかく目を以て何かを見ることを得さして下さいました事を。殊に人生の至聖所に入って二つのケルビムの間からあなたの御声を聴くことを得さして下さいました事は、私にとって何という特権でありましょう。

しかも之は少しも私自身の望んだ事ではありませんでした。こんな処に来ようとは私は始めから願いませんでした。今に至って、私もまた手を伸べて他の人に帯せられ、私の欲せぬ処に連れて来られたとの感が甚だ深からざるを得ません。今に至って私は明らかに見ます、三十七年余の私の生涯を通じて、いと大いなる一つの手が私を連れゆきつつありました事を。顧みますれば、之まで私の上に起こりました凡ての事が――そうです、凡ての事が――奇しき御摂理でありました。実に一つとしてそうでなかったものは無いと感ぜられます。私はあなたを求めませんでしたが、遂にあなたを見出さしめられました。私はみずから全く予想しなかった事を私の生涯の仕事として選ばしめられました。私は限りなく愛惜するものを奪われて始めて人間らしきものに煉られました。私ごとき者をここまで御みちびき下さるために、どれだけの御心づくしを成して下さった事でしょうか。実に勿体なく思います。感謝の言葉もありません。それと共にこの小さい経験の中に私にもまたどのような涙があったかは、あなたのみが御存じの事であります。

かくて私は今もなお大いなる聖手に連れゆかれつつある事を心から喜びといたします。どうぞ神様、どこになりと御連れ下さい。あなたに従って歩むにまさる願わしさはありません。どうぞ何処になりと御連れ下さい。そして何処へ往っても、ただあなたを信頼することをお許し下さい、何がどうなっても、ただあなたのみを信頼することが出来ますように。アーメン。〔第五九号、一九二五年五月〕

いのり

天の父様、あなたは何時いつも私共の思いに過ぎる事をなし給います。あなたは私共の愛惜するものを奪い給います。あなたは私共の計画するところを破壊し給います。あなたは私共の歩みゆく途を行き詰らせ給います。無情の神、無理解の神、圧制の神とさえ思わせられる事が稀ではありません。しかしながらあなたを謬なく見上げるために、あなたの驚くべき愛をさとるために、あなたを絶対に信頼しまつるために、之らの経験がいかに必要であるかは、経験者のみが知る事実であります。私共はもはや患難を欺こうと致しますまい。却って「見ずして信ずる」の幸福、「望むべくもあらぬ時になお望む」の恩恵、「その審判は測りがたく、その途は尋ねがたき」永遠の神を知るの特権を、心から感謝します。どうぞ父様、あなたの聖旨を成らしめて下さい。そして唯その事のみが私共の祈願であり、歓喜であり、感謝であるように御導き下さい。讃美とこしえに聖名にあれ。〔第七五号、一九二六年九月〕

いのり

言いがたく聖なるわが神よ。なんじに願わざる何事かわが心にあらん。しかも願いのなかの願いのひとつは、わが聖潔にあり。神よ、われは実に聖からんことを欲す。汚点しみなく皺なくすべてかくのごときたぐいなく、晨の胎よりいづる露のごとくにみまえにあらんことを欲す。吹きすさぶ罪の嵐を蔑みて、鷲のごとく自由に高翔せんことを欲す。然るに何ぞや、わがたましい光をも色をも失って黒きこと炭団たどんにまがい、断えざる旋風に漂って喘ぐこと椋鳥むくどりにたぐう。これを見るごとにわれ浅ましと自らを嘲り、しかして望みなく朽木のごとくに倒れ伏すなり。ああ神よ、われを憐みたまえ。われを潔めたまえ。われを造りかえたまえ。わが衷に住みて我を悉く化したまえ。然り、神よ、なんじ既に我にかかわるこのみわざを始めたまいしことを信ず。なんぢ既にわれを聖子にぎ、彼にありて我を完く潔めたまいしことを信ず。そはなんじわがたましいに告げて、彼はなんじの聖潔なりと言いたまえばなり。さらばわが神よ、願わくはわが信ずるごとくに然あらしめ給え。〔第八五号、一九二七年七月〕

いのり

いと高き神よ、なんじにむかってわれら口を開くとも、なんじに適わしき何事をか語り得よう。さりともなんじのまえに黙すは禍いなるかな。われら時として何を為すべきかを知らない。ただわれらをして常になんじを讃美せしめよ。なんじわが頭をひきあげたもうときにはなんじの恩恵を、なんじわが霊魂を鞭うちたもうときにはなんじの真実を、しかしていかなるときにも断えずなんじの栄光を、讃美せしめよ、讃美せしめよ、讃美せしめよ。主よ、なんじは苦熱をあたえまた甘涼をあたえたもう。なんじは暗黒をあたえまた曙光をあたえたもう。なんじは涙とともに種子を播かしめ、また歓喜とともに禾束たばかりとらしめたもう。まことにかつてわれらの祖先にむかって誓いたもうた通りである。曰く「地のあらん限りは播種時たねまきどき収穫時かりいれどき寒熱さむさあつさ夏冬なつふゆ、およびひるよるむことあらじ」と(創世八の二二)。されば主よ、ねがわくはわれらをして患難のなかになんじを疑うことなからしめたまえ。却ってなんじのみすがたの見えぬ所に、われらにいと近くいますなんじを信ぜしめたまえ。すべての苦痛、すべての蹉跌さてつ、すべての失望は、限りなく深遠にして宏大なるなんじの経綸の中のものである事をさとらしめたまえ。一切の出来事は聖手の中にある。一羽の雀さえみゆるしなしには地に落ちない。われらの髪の毛一すじだになんじこれをかぞえ知りたもう。ねがわくは主よ、聖意みこころをして成らしめたまえ。われらをしてひたすらに汝に頼み、かつ従わしめたまへ。栄光ねがわくはとこしえに汝にあらんことを。〔第八七号、一九二七年九月〕

いのり

すべてを知りたもう神よ、わが思想おもいは人の思想おもいと馳せちがうことあたかも列車の上り下りのごとく、わが所為わざは彼らのそれと相副わぬこと例えば夏に見る吹雪のたぐいか。彼らが信ぜざるものを我は信じ、彼らが準備そなえするものを我は準備そなえせず。総じてわが歩みは彼らのそれに比べて甚だしく乱調なり跛行的なり。彼らもし正ならば我はほぼ狂にちかく、彼らもし賢ならば我はまさに愚をきわむ。まことに狂愚のそしりはたえずわが負うところ、時には我みずからさえ果たして然らざるかを疑う。然れども常識われを笑い、伝統われを罵り、哲学われを嘲り、道徳われを責め、世のすべての小学こぞりて我を非とし、人ひとりだに我を義とするものなきとき、ああ神よ、我ただ汝のふところに帰り、汝の言に聴く。しかしていかにぞや、なんじの懐はわが狂をれて限りなくひろく、なんじの言はわが愚をよみしてあくまでもこれを義とす。しかして汝、汝だに我をゆるしたまわば、人の審判さばきは何ぞ、世の智慧は何ぞ。たとえ人みな我を賞むるとも我あに悦ばんや。もし世こぞりて我を謗らば我これを誇とせん。神よ、わが平和はただ汝にあり。願わくはなんじ常に我とともにいませ。願わくはわが思想おもいわが所為わざをして、ひとしく転ずる車輪のごとく、ただなんじの思想なんじの所為に相副わしめたまえ。願わくは我が上にとこしえに変わらざるみむねを成しとげたまえ。〔第八九号、一九二七年一一月〕

わがいのり

わが神よ、何時までなんじは我をして豚のごとくに泥の中にまろばしむるや。何時まで罪をして古き情人のごとくわが霊魂に触れしむるや。今は悉くなんじのものなるわが生命いのちに、なおなんじが最もにくみたもうものをるることあるは何ぞや。神よ、われはもはやかかる怪しき二重生活に堪えず。なんじとサタンとひとしく我に臨むがごときは何らの怪事ぞや。

然れども神よ、我はなんじを信ず。なんじは一たびわがたましいに告げたまえり、「我はなんじの救いなり」と。なんじ二たび三たびこれを繰返したまえり。

なんじは渾沌より秩序をつくりたまえり。なんじは光に命じて暗より照りいでしめたまえり。汝は昴宿ぼうしゅく参宿しんしゅくとを空につらね、日と月とをして地の上にかからしめたまえり。なんじは民をえらび使いをおくりて六千年の歴史をみちびきたまえり。なんじはキリストの十字架によりてわが罪をゆるしたまえり。しかしてなんじ今現に我が衷にやどりたもう。ああわが神!われあになんじを信ぜざるを得んや。

神よ、ねがわくは我を憐み、わが足にからめるこの錆びたる鎖を断絶せしめたまえ。ねがわくはわが霊魂をして鳩のごとく地を蹴りて翔らしめたまえ。ねがわくはただなんじ我を瞳のごとくにおおいたまわんことを。〔第九二号、一九二八年二月〕

祈祷

神様、何をあなたに申し上げないでいられましょう。一切の事を御存じのあなたであります。人には言いがたい事もあなたには残らず申し上げさしていただきます。

特別に此事彼事についてでなく、私の生活の全部について、私の起き臥しの土台について、あなたに対する無限の感謝がいつも私の胸をみたしております。どんなに寂しいおもいの漂うときでも、その底の深淵のようなところに、この感謝が湧いていない時がありません。それはただ活ける神様あなたを知ることが出来たからの心もちであります。神を知るの悦びであります。人と生まれてこの事がかなえば、もうほかに願いはありません。何という福いでありましょう。

けれども神様、虫けらのような私であります。感謝のほか何もないなどとはどうして申し上げられましょう。御存知の通りの悩みが絶えずおそってきます。神様!どうぞ恥知らぬ者のような告白の繰り返しを御ゆるし下さい。あなたに訴えないで之をどうしましょうか。聴かれる聴かれないはとにかくとして、すべての悩みをただあなたに訴えさして戴きたくあります。あなたにむかって語ることその事がまず私の救いであります。

しかしまた虫けらのような者の胸にも、あなたを知りましてから大きな考えが住まうようになりました。人類全体の事、すべて造られし物の事、永遠の事、それらの問題がやはり私の最も切なる祈りを喚び起こします。神様の立場に少しく自分も立って見ることが出来るように思います。そうしてその遠大なるみこころの成ることを何よりも深く願わずにはいられません。

どうぞ神様!みこころを成らしめて下さい。私ひとりの悩みなどは、そのために宜しきように御処置下さい。そうして如何なる場合にもただあなたに従わせて下さい。黙って、小羊のように。〔第九三号、一九二八年三月〕

歳末の感謝

感謝す、わが神よ、今年中にわが上に起こりし一切の事について我は今汝に感謝す。その善き事について感謝す。その悪しき事について感謝す。そは悪しき事もまたみなわが為に働きて善をなすを我は見たればなり。汝は今年我をして前後二回、百数十日に亙りて病床に臥さしめたまえり。我は自ら肉体をあしらうの足らざりしことを遺憾とす。然れども神よ、わが病床の生活一日としてなんじの恩恵ならざりしことありや。なんじはわが肉を病ましめてわが霊を健やかならしめたまえり。なんじは我をして堪えがたき痛苦の中にもがきつつまろびつつ汝を呼ばしめたまえり。しかして汝つねに我にむかい応答こたえをなしたまえり。病床はわが新たになんじを見んがための聖所なりき、なんじの静かなる細き声を聴かんがためのホレブの嶺なりき。恐らくはこの後、我ふたたび同じ痛苦に陥ることあらん。されども我は怖れざるなり。なんじ必ずわれと共にいますことを信ずればなり。汝と共にあることをだに得ば、病患何かあらん、貧窮何かあらん、孤独何かあらん。禍いなるは汝なくして健やかにかつ富みかつさかゆることなり。神よ、われは我に与えたまいし病患を感謝す。その他のもろもろの煩累と災累とを感謝す。然れどもわが感謝あに是に止まらんや。なんじは今年もまた偉大なる真理を我に啓示したまいしにあらずや。われは汝がいと高き所よりして宏大無辺なる永遠の経綸を行いたもうを見たり。われは我らの世界が汝の定めたまいし至福いとさいわいなる目標にむかって速やかに進みゆくを見たり。然り、神よ、われは見たるなり、汝の聖意の日々に成りつつあるを。ああ、これ何ら厳粛なる事実ぞや。神よ、かくてわれは今生くることの光栄をおもう。まことになんじの統べたもう国において、生くるは誇らし、身にありても身を離れても。さらばわが神よ、この機会においてまたわが溢るる言いがたき感謝を受けたまえ。願わくは栄光とこしえに汝にあらんことを。〔第一〇二号、一九二八年一二月〕

いのり

永遠の神様。また心からの讃美を以てこの新しい年を始めさせて下さい。聖名を讃美するにまさる喜びはありません。恐らくあなた御自身も何よりそれを御喜びくださることと思います。なぜなら、私どもにとりそれほど適わしい、それほど当然な事は無い筈でありますから。そうして私どもの目を一たびあなたに向けますときには、どうして讃美せずにいられましょう。神様、あなたは六千年の世界歴史を驚くべき方法によって御支配になりました。聖意みこころは日々に成りつつあります。アーメンであります。また私どもひとりびとりの生涯をあなたは深き恩恵と奇しき摂理とを以て御導き下さいました。自分の過去を顧みまして、おごそかさ、勿体なさに打たれます。ああ神様。世界の歴史に、自分の生涯に、ひとしくかくも鮮かに御足みあしの跡を見、御手みての動きを感じますとは!実に詩人の歌った通り、「我いずこに往きてなんじのみたまをはなれんや、われ何処にゆきてなんじのみまえをのがれんや」であります。「なんじの事跡みわざはことごとくくすし」であります。しかしながら神様、奇しきあなたの事跡みわざにもまさってなお奇しきは、あなたの御性格であります。あなたの義であります、あなたの愛であります。そうです、あなた御自身であります。独子キリスト・イエスに現われましたあなたのみかおを拝しますときには、ほかに何がありましょうか。我もなく世もなく、罪もなく死もなく、涙もなく嘆きもありません。ただ讃美――心に溢れる永遠の讃美があるのみであります。ほんとうに神様御自身が私どもの酒杯に受くべきもの、私どもの絶えざる所領、私どもの一切全部であります。願わくはとこしえに聖名に栄光あれ。(一九二九年年頭のいのり)〔第一〇三号、一九二九年一月〕

編集室にてのいのり

この月もまたわれは野にでてなんじに呼ばわれり、主よ、示したまえ、伝うべきの真理をと。その時たちまちわが胸かがやけり。またも天の薫りうせぬ新鮮なる音信を、小さき器に盛りてわが同胞にすすむることの福いを想いてなりき。われはすなわち入りて卓に倚れり。かくするはまさに幾十月ぶりなりしぞ。この年頃ただ(病床ならずば)寝椅子の上にのみ仰臥しながら原稿を書き続けたるものを。発行の日はすでに迫りてあわただしくも過ぎ去らんとす。百枚に近き稿、今よりいかにして綴らるべきか。されど我に思いわずらいは露ほどもあらざりき。然り、ただ主よ、なんじを見あげて我はペンを執れり。しかしてまことに主人の口授に従い物書く人のごとく、我は示したもうままに綴れり。一段また一段、はつ夏地平に湧く雲の嶺のごとく、真理は真理のうえに畳々相重なりいでて、わが思いは躍り、わがペンは飛ぶ。ひそかに想いいづるは、百合花のしらべにあわせてのコラの子の歌の一節なりき。いわく「わが心はうるわしき事にてあふる。わが舌はすみやけく写字ものかく人の筆なり」と。稿成りて言いがたき感謝大水のごとくわが胸にあふれぬ。主よ、かくしてこの月の号もまた世に送らるるにいたれり。なにらの奇しさぞ。常にただなんじみずからこれをつちかいこれを実らしめたもう。数ならぬ一巻の『旧約と新約』、これはた生命の水のほとりに立ちて月毎に実を結ぶ樹の一枝ならざらんや。ああ主よ、栄光はことごとくなんじに、ただなんじにのみ帰せんことを。聖名により、アーメン!〔第一〇五号、一九二九年三月〕

秋の朝のいのり

神様、宇宙の神様、そうして私の神様!

初秋のすがすがしい暁、虫の声が雨のようにしっとりと。またあちこちから起こる鶏鳴がいかにも原始的に聞こえます。人はみな寝しずまって、この静寂を掻き乱しません。珍しく暫くの間は自動車の笛さえ響きません。

って雨戸をくりあけて空を仰げば、何という健やかさでしょう。庭一面にひろがるクヌギの古木の黒い葉かげから、滴るような星々。ああオリオン!ああ大犬!金牛のほとりに一つ殊さら大きく燦然さんぜんときらめくは、木星か。東には小舟のように浮かぶ下弦の月、またその水先をしるべするような曙の明星。

ああ昔ながらの神秘をたたえたこの一朝、永遠の中からまた私どものために巡ってきたこの新しい一日!讃美と感謝なしにどうしてこれを迎えることができましょう。今私は声をあげて呼ばわりたいような気もちで一杯であります。

神様、あなたの造りたもうた宇宙は、今なお荘厳そのものであります。あなたの日々に導きたもう歴史もまた、これをあなたの御摂理という側からのみ見ますれば、何という奇しいみわざでありましょう。私どもは実に申し上げようのない美わしい貴い世界に置かれておることを思います。それであるのに、ひとり私どものたましいだけは、なぜこんなにも濁った乱れた浅ましい世界なのでありましょうか。

すべてを新たにしたもう神様!人の擾乱じょうらんの一夜をもこの朝のようなものに変えたもう神様!私は失望しません。否、あなたを仰いで新しい希望に満たされます。あなたは既に私どもの衷に善きわざを御始めになりました。かの日までには、あなたは必ずこれを完うしたもうでありましょう。然り、アーメン、聖名を讃美させていただきます。〔第一一一号、一九二九年九月〕

病床の感謝

永遠の神様!

静かにあなたを御思いする機会をたくさんに御与え下さいまして、ありがとうございます。病床は何とあなたの聖座に近い所でございましょう。醒めてはあなたを思い、寝ねてはあなたに憩い、苦しんではあなたに寄り縋り、安らいではあなたに感謝します。一杯の牛乳、百グラムの葛湯さえ、心から湧き起こる真実の感謝なしには戴かれません。

あなたは去年の秋以来、この地方の好き天気を奪い、殊に美しき日光を奪い、私の野原に散歩する機会を奪い、かくて次第に私の健康を奪いたまいました。そうして私を病床に投げ込み、私の仕事と義務を果たす能力とを奪いたまいました。その上になおこたび三たび大きな蹉跌をお与えになり、暫くは苦しむ事のほか一切をお奪いになったかのようでありました。

けれどもそうではありませんでした。何を私からお奪いになっても、ただ信頼とそれにもとづく平安とをあなたはお遺し置き下さいました。否却ってすべてをお奪いになるとき、これらのものだけは一層豊かに私に御加え下さるのでありました。それはどんなに有りがたい事でありましたか。何がなくともあなたへの信頼さえあるならば、ほんとうに足りるのでございます。

しかし又それだけではありませんでした。あなたはその間に私の一切の需要を見事に充たして下さいました。数多の意外なる実際的恩恵を以て私を豊かに潤おして下さいました。私は寝ながら、片腕をさえ動かすことなしに、多くの義務を果たすことができました。

しかしながら何と申しましても、病床における最大の恩恵は、あなたに親しみあなたを知り奉るその事でございました。平生健康の時には経験しない深さをもって、あなたは私にあなた御自身とその真理とをよろこぶの歓喜を御与え下さいました。

誠に病床の一人の上に施したもうあなたの聖業は、全世界の上に施したもうそれと同じだけ奇しくあります。人類の歴史を導き、地の面を新たにしたもうその聖手を以て、あなたは又私ひとりをも導き、わがしとねをさえ敷きかえたもうのでございます。此処にも彼処にも聖旨は確実に成就しつつあります。

何という感謝でございましょう。ああ讃美すべきかな、あなたの聖名は!栄光とこしえにわが神にあれ!アーメン!

聖徒は栄光の故によりてよろこび
その寝床ふしどにて喜びうたうべし。

〔第一一五号、一九三〇年一月〕