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「キリストの復活の力」

The Power of His Resurrection

第一章 概観

Chapter 1 A Survey

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



エリシャとエリヤのつながり

列王記下の大部分は、預言者エリシャの生涯と務めに関係しています。そしてエリシャは紛れもなく、復活の力の中で生活行動している教会の旧約聖書的絵図と型を私たちの前に示します。エリヤの務めがエリシャの務めに席を譲る場面を、私たちはよく知っています。主が火の戦車でエリヤを天に引き上げられた時、エリシャはこの携え挙げ、この昇天と関係していました。彼はその場に居合わせて自分の主人が引き上げられるのを目撃し、エリヤの霊の二つの分を受けたいという願いをかなえてもらったからです。

エリヤはこのようにとても明確に昇天の主イエスの型となっており、また、主の霊の二つの分である聖霊の型となっています。聖霊は教会の上に臨んで、「……これよりも大きなわざを行います。なぜなら、私が父に行くからです」という主御自身の御言葉を成就されます。主イエスの場合、彼の後に教会が続きました。教会は御霊の豊かさによって前進し、キリストが肉体の中におられた時になしえたよりも大きな規模で、キリストの務めを遂行しました。キリストが肉体の中におられた頃の祈りは、「私が受けるべきバプテスマが成就されますように」というものでした。なぜなら、彼は地上に火を撒き散らすために来られたからです。この撒き散らしは、十字架のバプテスマが成就されるまでは不可能でした。ですから、肉体の束縛からの解放を彼は望みました。この受難のバプテスマが成就されて、彼が栄光の中に移された時、この火が地上に撒き散らされ、彼の教会を通して彼の願いが成就されました。彼の制限は取り除かれました。

これがエリヤとエリシャの務めに予表されています。ですから、エリシャと共に来たものは、教会と共に来たもの――復活の力の中にある御霊による豊かさ――です。昇天したかしらの豊かさを示すために、復活の立場に基づいて登場するエリシャから、私たちは始めます。エリシャは復活の力を示しており、この立場に基づく生活の完全な意義を示していますが、この事実は彼の生涯の諸々の際立った出来事から十分証明されます。それらの出来事に目を向けるなら、それは第一に死から命に移る問題であり、第二に制約から豊かさに移る問題であることがわかるでしょう。

最初はエリコの水です。

エリコの水

エリコの水と、新しい壺と、水です。これらのものによって、水は癒されました。そして、地の産物は死と腐敗の束縛から解放され、生き生きとした持続的で豊かなものにされました。次は、同盟を結んだ三人の王です。

同盟を結んだ三人の王

彼らは水不足のせいで困り果てた状況にあり、モアブ人の手に渡される危機に瀕していました。信仰によって谷に溝を掘ったところ、静かに、騒音や壮観を伴わずに、水の奔流が流れ下りました。次に、敵に捕らわれている状態から、略奪者の手から解放されました。これは満ち満ちた復活の命の力です。

やもめの油

災難がやもめを襲い、彼女を窮地に陥れました。そこには少なからぬ多くの容器がありました。命のこの豊かさは注ぎ出された油によって予表されています。それを制限していたのは神の側ではなく、人の側でした。

婦人の息子

婦人に息子が与えられ、取られましたが、死者からよみがえらされました。これは復活の力、命のこの豊かさを物語っています。

毒された煮物

預言者たちの息子たちが、壺の中に死を見つけましたが、その中に食物を入れることにより、死の要素は滅ぼされました――死は命、豊かさ、満足へと変えられました。

シリヤのらい病人ナアマン

彼はヨルダン川で身を清めました。あるいは、バプテスマされたとも言えます。ヨルダン川の意義を少しでも知っている人なら、それが何を物語っているのかわかります――死は命に、キリストの復活の力の豊かさに変えられたのです。

外れた斧の頭

ふたたび預言者たちの息子たちが登場します。彼らは自分たちの学校を建てていました。斧の頭が外れる事件が起きて、水の中に落ちて沈んでしまいました。木の枝を投げ込むと、鉄が浮かび上がりました。ここでさらに、死に打ち勝つ命の奇跡と、十分な満足を見ます。

群衆を養う

わずかなパンで群衆が養われました。

見えない騎手たち

危機と死の危険な日に、これがありました。

弓矢

これは解放の弓でした。最後はエリシャの死です。

エリシャの死

彼の骨に触れた人が生き返りました。

ですからエリシャは、最初から最後まで、復活の力、豊かな命の意義の極めて顕著な型です。

これはみな、一つの総括的真理の各面であり、各々がそれに関連した固有のメッセージを伝えます。後になるまで、そのどれにも触れることはしません。これらを概観したのはただ、エリシャが実際に何を象徴しているのかに関してはっきりと理解するためであり、また、先に進むための足がかりを得るためです。

普通の仕事によるエリシャの備え

いま私たちが専念するのはエリシャの生涯の準備段階と関係しており、彼が公に完全に姿を現す前のことです。常に準備段階があり、主の側で私たちを取り扱う準備的取り扱いがあります。

エリシャが私たちの前に姿を現すこの最初の時は、とても意義深いです。これは主が一人の男性や女性の上に御手を置いて、より豊かな主の証しのこのような器を建て上げられる時に、主が留意されることを示しています。この場面は列王記上十九・十九〜二十一に見いだされます。

「そこでエリヤはそこを去って、シャパテの息子エリシャを見つけた。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて自分の外套を彼の上にかけた。エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、『お願いです。私の父母に口づけさせて下さい。そして後あなたに従いましょう』。エリヤは彼に言った、『行ってきなさい。私はあなたに何をしましたか?』。エリシャは彼を追うことから引き返し、牛のくびきを外して殺し、くびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせたので、民は食べた。そして彼は立ち上がってエリヤに従い、彼に仕えた。」(アメリカ標準訳)

ここに、主が注目される生活、あるいはすでに注目しておられる生活の特徴がいくつか示されています。主が注目される目的は、そのような生活を御自分との関係の中にもたらすためであり、いっそう豊かな方法で御自分の証しとの関係の中にもたらすためです。ここに示されているエリシャの特徴は、主の僕になることを願う人々に主が求めておられるものです。

エリヤが見いだした一人の人は、その行動の徹底さのゆえに神聖な記録の中に書き留められて、その記録が後代に伝わった人です。彼は十二くびきの牛と一緒に耕していました。自分の力をすべてこの働きに注ぎ込んでいました。普段の生活で、彼は何も出し惜しみしませんでした。十二くびきの牛は徹底的な行動を示しています。全力で手を尽くすことを示しています。牛は奉仕の力の型であり、エリシャは普段の普通の仕事をしていたにすぎませんでしたが、そこにいい加減さはまったくありませんでした。特筆すべき実直さで仕事をしていたのです。これはとても単純なことに思われるかもしれませんが、主は御自分の僕たちを観察して、まさにこの点に注意されます。私たちは全力で主に仕えることができるようになる時を待っているかもしれませんが、その待っている間、私たちは他の路線に従ってほんの少し手を抜いているかもしれません。言い訳もできるかもしれませんが、次のことは確かです。すなわち、もし主が普段の生活の歩みの中に怠惰さをご覧になるなら、もし他の方面に気を取られている痕跡が少しでも見つかるなら、主は決してあなたを主の復活の力を現す務めに着かせることはありませんし、あなたを主の務めの中で特に有用な者とすることもありません。いわゆるライフワークを待つことには無限の危険性があります。待つことは積極的性格を帯びているべきであり、待っている間、私たちは何をするにしても百パーセント未満であってはなりません。

これは警告の言葉であり、この警告を発しないわけにはいきません。これはあまり言いたくないことですが、多くの人が主の働きのために備えるのを観察して見守ってきた私たちが述べる必要性を感じていることです。主が訪れて、「さあ、私があなたのために用意した働きに乗り出す時が来ました」と言えるようになる前の時が、あまりにも多くの場合、いかに通常の普通の仕事に対する一途さに欠けたものであるのかに、私たちは注意しています。いわゆる「普通」のことが霊的なもの対して二番目の地位に置かれており、さほど重要でないもの、あまり勤勉さを要さないものと見なされています。

これ以上述べる必要はありませんが、これは私たち全員がとても注意深く警戒すべきことです。主は生活の普通の仕事を見ておられ、大して霊的価値があるとは私たちには到底思えないことを見ておられます。それは、こうしたことで私たちが勤勉かどうかを見るためです。主御自身が「最も小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実です」と仰せられたことを、私たちは思い出さなければなりません。これは一つの法則です。最も小さいことに忠実であることが、増し加わりのための資格なのです。

預言の務めをエリシャがまったく想定していなかったこの最初の段階から、これが分かります。彼は自分の務めのために準備中の預言者の息子たちのようではありませんでした。エリシャが預言者になる運命にあるとは何も述べられていません。そのような考えが彼にあったのか、私たちには分かりません。私たちに分かるのは、彼が畑仕事をしていたこと、彼がすべての力をそれに注ぎ込んでいたこと、そして主がそれを考慮されたということです。多くの人が霊的働きと称しているものに彼が思いを馳せる前に、神はこの人が御自身と共に長い道のりを歩む人であることをご覧になりました。もちろんエリシャは敬虔な人であり、自分の仕事に勤勉なただのこの世の人だったわけではありません。

「これは天然のものを重んじることだ」と言う人もいるかもしれません。たしかに、主は人々に自分の霊を顧みさせます。そして、たとえある人が方法や道についてしょっちゅう間違いを犯したとしても、主はその人の心をご覧になります。パウロ自身のことを考えてみましょう。彼は確かに盲目であり、彼が取った道は大きな間違いでした。しかし、彼はその道を全力で取ったのです。彼がしたことは彼が全身全霊をかけて行ったものであることに疑いはありませんでした。主はそれを考慮されなかった、と言うことはできません。どんな分野でも、主は勤勉さ、熱心さ、一途さを考慮されます。主がそのような男女を捕らえる時、主には彼らに教えるべき深い強烈な学課があるかもしれませんが、主は御自分に相応しい器を得たこと、そしてその器は御自身と共に進む器であることをご存じです。

これは単純な言葉であり、くどい小言じみていますが、重要な言葉です。私たちが今いるところで全力を尽くさない限り、「さらに高く上りなさい」と主が仰せになる見込みは皆無です。喜ばしいことに、エリシャのような人々もいます。彼らは単純作業、普通の働き、人々が特に霊的奉仕とは称さない働きにひたすら専念しており、最終的に主は「もう十分です」と仰せられます。これが備えです。主はこれを考慮されることを覚えておいて下さい!

すべては御霊からである

エリシャの事例で次に続くことは、彼の召しを示す暗示と密接に関係しています。エリヤは自分の外套を放って彼を覆いました。その後、エリシャは後退したかのように見えます。彼は新約聖書の中で「まず私の家の者に別れを告げさせて下さい」「主よ、まず行って私の父を葬らせて下さい」と言った人と確かに同じであるように思われます。しかし実のところ、何かさらに深いものがエリシャの内に刻まれて、そのせいで彼はしようと思っていたことができませんでした。道すがら彼がエリヤに言ったように別れを述べたことは何も記されていません。記されているのは、彼が行って、後にあるものをすべて捨てたということです。彼は自分の橋を焼き、直ちに持ち物を清算し、その収益を分配して、エリヤの後について行きました。ここにも、徹底さのしるしが見られます!

ここに記されている人は、「まあ、上手くいかなくて、自分の新しい仕事の分野があまり首尾良く運ばなかった時のために、この牛たちを生かしておいた方がいいでしょう。そうすれば、またこの仕事に戻ってこれます!」と言う人ではありませんでした。この召命が彼の心に臨みました。時が来たことを彼を知りました。神が自分に触れて下さったことを彼は知りました。彼の内側深くにある何かが彼を虜にして、それから彼は逃れられませんでした。それで彼はすべてを清算して、この内なる召命の道を進んで行きました。

主な要点は、これをなしたのはエリヤの呼びかけではない、ということです。エリヤの言葉の力だけの場合、エリシャは後を振り返ることができました。つまり、別れを告げに行くのを考えることができました。しかし、エリヤの言葉よりも深い何かがありました。神からの何かが彼の内側に臨み、感傷や地的なものにすぎないものをすべて取り除いて、過去を断ち切って主のために出て行くという働きを彼に徹底的に行わせました。主の働きの中に入る時、人の声よりも深い何かを聞くことが大切です。外側の訴え以上のものがなければなりません。そのために整えられた諸々の集会で、働き人を求める多くの訴え、強い促しがあるかもしれません。外側からの訴えがありえます。促しがありえます。「あなたは行くべきです。神は本当にあなたを召しておられます」と私たちに告げる人々もいるかもしれません。しかし、それでは決して十分ではありません。神がいかなる外側の訴えよりも深い所で語っておられるのを、私たちは悟らなければなりません。神が何かをなさったこと、そしてそのせいで昔の関係、昔のつきあい、昔の関心を保留することは到底出来ないことを、私たちは悟らなければなりません。この深い要求がすべてに決着をつけたこと、そして私たちにできる唯一のことは完全に過去を断ち切って主と共に出て行くことであることを、私たちは悟らなければなりません。

これもまたとても初歩的なことですが、とても重要です。訴えかけの力や人の促しに基づいて出て行く人がとてもたくさんいますが、これは常に非常に危険なことです。同様に危険なのは、人々の上に手を置いて、彼らのなすべきこと、神が彼らにさせようとしておられること、彼らの召しの内容と場所を告げることです。人々の人生に関して人々からまったく手を引いて、人々を主に委ねることを求めようではありませんか。人々のためにその人生行路を何とかして形造ろうとするよりはむしろ、人々から数千マイル遠くに駆け去ろうではありませんか。もし神が語っておられないなら、私たちは自分の影響を人々に及ぼそうとして、その生活を壊してしまうだけです。私たちの心に影響を及ぼすものは、主の御言葉以外に何もあってはなりません。誰かが話をして、その人を通して主の御言葉が矢のように正鵠を射るかもしれませんが、それが確実なものになるには、それ以外の要素がなければなりません。それを得る時、私たちにはそれが分かります。神が語られると、すべてが変わります。

興味深いことに、その日からエリヤの務めの終わりまで、エリシャの消息を聞くことは一切ありません。これはもっともなことです。列王記下の第二章で、エリシャがその主人であるエリヤの携え挙げに関連して登場します。この章には三つの要点があります。これらの要点は、証しのこの器を準備するためのこの準備段階の要素です。

1.信仰と忍耐の試練

最初の点は、召されたことを知った後にエリシャが受けた信仰と忍耐の試練です。エリヤは一方でエリシャを振り払おうとしているように思われることが分かります。これは有名な物語です。「ここにとどまっていて下さい……」「ここにとどまっていて下さい……」「ここにとどまっていて下さい……」。このようなエリヤの一つ一つの促しに対して、エリシャは「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。私はあなたを離れません」と答えました。他方、彼らが訪れた至る場所で、預言者の息子たちは、「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」と言って、彼を落胆させて思いとどまらせようとしました。この繰り返しに励ましの要素は皆無です。エリシャは「ええ、分かっています。あなたたちは黙っていて下さい」と言います。それは私には全く関係ありません。私は最後まで従い続けます。これを最後まで見届けます。主人を取り去ることが主の御旨かもしれませんが、それが起きる時私はその場にいるつもりです。こういうわけで、エリヤがエリシャをとどめようと繰り返し努めた意図が何だったにせよ、この人に影響を及ぼすことは少しも出来ず、振り払うことはできませんでした。エリシャは辛抱強さと忍耐とをもって信仰を行使しました。辛抱強さと忍耐がこの章の際立った特徴です。

どのような面で彼の信仰は行使され、またどのような面で彼の忍耐は試されたのでしょうか?エリヤはエリシャが必要とするものを持っていました!このような局面では、落胆して振り落とされる人もいますが、他方、他の人々は進み続けます。「これは酷い言葉だ。誰がそんなことを聞いておれようか?」「それ以来、多くの弟子たちは去って行って、もはやイエスと共に歩まなかった」。彼らは多かれ少なかれあっさりと落胆して立ち去りました。主は十二人の方を向いて言われました、「あなたたちも立ち去るのですか?」。シモン・ペテロは答えました、「主よ、私たちは誰のところに行きましょう。永遠の命の言葉を持っているのはあなたです」。主は必要なものを持っておられ、立ち去ることなど思いもよりません。振り落とされて落胆することなど思いもよりません。主と共に進み続けることしか考えていませんでした。なぜなら、主はこの命の本質的要素を持っておられたからです。自分の人生や務めのために必要なものをエリヤが持っていることをエリシャは知っていました。それでエリヤは「私にしてほしいことを求めなさい」と言いました。エリシャは答えました、「あなたの霊の二つの分を私に継がせて下さい」。エリヤは答えました、「あなたは難しいことを求める。あなたがもし、私が取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるでしょう……」。エリシャはエリヤが本質的なものを持っていることを知っており、振り払われたり、あっさり落胆することはありませんでした。エリヤは彼を払いのけようとしているように思われましたが、他方は払いのけられることを拒みました。彼は命がけでエリヤにしがみつきました。それに加えて、彼は信仰に関して、また忍耐強さに関して試みられました。

これはエリシャの備えの一部であり、主のすべての真の僕たちにも言えます。彼らはまさに最後の一滴まで忍耐を試される経験を通ります。この試みは、主さえも自分たちを振り払おうとしているかのような道筋に沿ってなされます。これはとても荒っぽい言い方ですが、こういうことはしょっちゅうあります。見た目だけですぐに判断して落胆し、「主は私を欲しておられないのだ。結局のところ、自分は召されたと感じているけれども、主はこれを実現して下さらないのだ」と思ってしまうのです。まるで何度も何度も戻されているように見えます。あなたには落胆するおそれがありますか?振り払われるおそれがありますか?あなたの信仰はあっさりと譲歩してしまうおそれがありますか?もしそうなら、この召しに関してあなたは少しも役に立ちません。キリストの復活の力を証しする僕になりたいなら、あなたは非常に多くの問題に直面するでしょう。もし可能ならあなたを戦いから締め出そうとするものに直面するでしょう。始める前に確立されることが大いに必要です。ある程度、これによって、あなたを逸らして落胆させることは容易ではないことが立証されます。

エリシャは試みを通り抜けました。一方において、彼自身の主人が試みの原因であり、他方において、霊的な立場にある人々、すなわち預言者の息子たち――霊的知識を持っているはずの人々――は励ましどころか、むしろ落胆させるものでした。多少なりとも公的に霊的地位にあるがゆえに助けとなるべき人々がまったく励ましにならないことが、あまりにもよくあります。私たちを引き戻そうとするのです。私たちに残されているのはただ、「主は私を召して下さいました。私はそれを知っています。主は私をこの道に導いて、私が取ったこの一歩を踏み出すようにされました。私は自分の橋を燃やし、全ての絆を断ち、主に向かって踏み出しました。今、私がこうしたのに、主は私を試しておられます。私に確証や励ましを少しも与えて下さらないように思われます。主の公的な代表者たちは全く助けになりません。それにもかかわらず私はそれを固持して、神と共に進み続けます」ということだけです。このように進み続けることのできる男女は、神にとって価値あるものとなります。

召命と思われる道を行くとき、あらゆる方面から励ましを受けるのはとても素晴らしいことです。主が同行して下さって、あらゆる方法で召しを確証して下さるなら、そして、他の人々がみな、「私たちはあなたの味方であり、あなたを支持します。私たちはあなたを支援して支えます」と言ってくれるなら、それはとても素晴らしいことです。私たちはその道を元気に進んで行けます。しかし、主が特別かつ明確な御旨や主権的行動を私たちに示して下さらない場合はどうでしょう。主が御自身を隠されて、私たちが目にするのはむしろ前進を阻もうとするものの場合はどうでしょう。主の側から見てもそうだったらどうでしょう――最大の困難の一つは主が御自身を隠されることです。ですが、主はそこで隠れて事を行っておられ、見事に事を運んで拡大と豊かさに導いて下さいます。ただしその間、主は肉が手にできるものを何もお許しになりません――このとき重要なのは神と共に進み続ける信仰です。主が御自身を隠して、私たちを落胆させるものを視野の中にたくさん残しておられるかのように思われる時でも、神と共に進み続ける信仰が大切です。そのような時、その中に立ち入れる人は誰もいません。目を向けて何か助けを得られそうな他の人々は、私たちに対して何の役にも立ちません。彼らに言えるのは憂鬱なことだけです。「主が今日、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。エリシャはこれに対して少しもイライラしているようには見えません。こんな風に言えたかもしれません。「あなたたちは病んでいる人々です。もっとましなことが何も言えないなら、私がすぐにあなたたちを黙らせましょう!」。彼らはまったく元気づけてくれません。励ましを求めて私たちが目を向ける人々も、往々にしてこうです。彼らは困難や、物事の暗い面を見て、私たちが頭を突っ込むことになる問題や、私たちに襲いかかるであろう災いについて私たちに告げます。問題は、「あなたは神と共に進み続けるのか?」ということです。エリシャは進み続けました。御言葉は「彼ら二人は進み続けた」と述べています。さらに広い場所に至る何か、主にとって重大な何かがここにあります。

2.高き所からの力の秘訣を学ぶ

エリシャが学ばなければならなかったもう一つの学課は、彼は力ある人であり、自分自身を徹底的に献げて、何をするにしても自分の天然の力をすべて傾注する人だったにもかかわらず、力は高き所からのものでなければならないということでした。「人は勤勉で熱心でなければならず、自分の力をすべて諸事に注ぎ込まなければならない」と述べたことと、「たとえそのような人でも、霊的に十分に有用な者になるには、そのための力は自分自身のものであってはならず、高き所からのものでなければならない」ということは決して矛盾しません。主は以前このような人のことを評価されたかもしれませんが、熱意と熱心さに満ちていたパウロですらそうだったように、人はすべての力を自分自身ではなく上から引き出す境地に達しなければなりません。力の秘訣は高き所からの力、遣わされた御霊であることをエリシャは学ばなければなりませんでした。その時だけ、私たちは生ける証しになります。その時だけ、私たちはこのような証しの器になります。いま述べているのはキリスト教の一般的な働きのことではなく、主が私たちの内に豊かな証しを持つようになることについてです。主の豊かな証しとは、まさに私たちの存在中にあるキリストの復活の力の現れであり、そのためには、私たちの存在のどの部分においても、力は自分自身によるのではなく、上におられる方によるものである境地に達しなければなりません。神の右手に上られた御方こそ、私たちの力の源であり、私たちのエネルギーの源泉です。彼が生きておられるので、私たちも生きます。彼の力により、ただその力によってのみ、私たちは生きて働きます。栄光の内におられる主こそ私たちのエネルギーです。エリシャはこれを型として学びました。この先ずっと、彼の資源は上からの御霊、昇天した彼の主人の霊でなければなりませんでした。私たちはこれをますます深く学ばなければなりません。

3.ヨルダンから始める

最後に、彼はすべてがヨルダンから始まる地点に達しなければなりませんでした。エリヤとのこの旅の最後の段階、そして御霊の下における彼の旅の最初の段階は、ヨルダンにおいてでした。彼はエリヤと共に死をくぐり抜けました。そして、復活の力の中でヨルダンから戻ってきました。預言者たちの息子たちである五十人は見つめていました。そして、彼がヨルダンを渡って戻って来るのを見た時、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言いました。彼の出発点――あるいは彼の原点と言ってもいいかもしれません――はヨルダンにありました。ご存じのように、私たちは主イエスの十字架に根ざす必要があり、キリストの死と復活からまさに始まる命を経験的に知る必要があります。そのような神の僕の命の中に、ある経験が臨まなければなりません。その経験により、一度限り永遠に、この命――その良い面も悪い面も、そのすべての力、たとえそれが神の働きのためだとしても――は終わらされなければなりません。その当事者に関する限りはそうです。キリスト教の活動、宗教的関心、奉仕のための情熱においてすら、この命は終わらされなければなりません。キリストの復活の力によらない限り、すべて不可能です。これを口で述べて教えとして保持することと、これを経験的に知って、主と連携して動こうとする度にこれを自分の存在中に刻み込んでもらうこととは、全くの別問題です。あなたの人生の一日一日が、主の権益に関する限り、すべてを主から引き出すものでなければなりません。すべてはキリストの復活の力によってでなければならず、それ以外のものがあってはなりません。これに決着をつけて、心に刻み込み、一度限り永遠に確立するには、深いヨルダンの経験が必要です。これは深い死であり、ヨルダンの中に深く沈むことですが、これによりキリストの復活の命の素晴らしい証しが可能になります。これにより、キリストの復活の命を知る、巨大な絶えず増し加わる知識への扉が開かれます。

カルバリは生まれながらの人に対して門を閉ざします。しかしカルバリは、すべては自分自身からではなく神からでなければならないと決意している人に対して門を開きます。エリシャはすべてがヨルダンから始まる地点に達しました。エリシャの将来はことごとくヨルダンから発しなければなりません。あなたも私もこの証しの器となることを学ばなければなりません。復活の命のキリストを知る人々でなければなりません。

これが備えです。もし主の働きに出かけて行った人が皆、この基礎に基づいて出かけていれば、まったく別の物語が語られていたでしょう。そうしなかった人全員に対して責任を持つのは無理ですが、私たちに出来るのはこれが真理であることを悟ることです。そして自分たちに関する限り、「これを自分にも成就して下さい」と主に求めることです。これは深い死です!これは終わりですが、始まりでもあります。私たちの課題は――第一に言葉による証しではなく――私たちの人となりによるキリストの復活の命に対する証しです。もしこれが私たちの課題だとするなら、それを成し遂げる唯一の基盤は、それ以外の知識や命のあらゆる領域で私たち自身が停止することです。そして、これがキリストの十字架によるキリストとの合一の意義です。これが準備です。これが備えです。これが主が御自分の豊かな証しのための器を整えるための出発点です。