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「世とその欲」

第三 アウガスチン研究

藤井武
Takeshi Fujii



一 肉情の縄目断たるるまで

わかき日のアウガスチンに色々の罪があった。その懺悔録において彼自らが録すところによれば、彼には怠慢もあった。それは彼が遊戯を愛し、競技の勝利を得んがために、または虚妄の譚話に耳を楽しませんがために、課せられたる学修の義務にそむいたのであった。また彼には盗みもあった。それは盗んで獲べき物の誘惑ではなく、盗むことその事の誘惑におちて、友だちと共に庭に隣れる梨子の樹を掠め、その果を夥しく奪ったのであった。また彼には虚栄心もあった。それは争訟の事においての優勝を目的とする狡猾なる学問――修辞学――の学校に首席者となって、みずから誇り高ぶったのであった。そのほか多くの悪しきものが彼の心にまた行為にあった。

しかしながら凡てにまさりて力づよき彼の罪は、肉の慾であった。生まれながらに情感ゆたかなる彼は愛しまた愛せられることを何よりも悦んだ。ただ「心より心へ」という愛ののり、その美しき友情の境界を彼は守らなかった。「肉の泥ふかき邪慾より、若気わかげの泡立ちより、霧はけぶりて私の心を掻き曇らせ、ために私は愛の澄明なる輝きと肉慾のもやとを判別することが出来なかった。二つながら相混じて私の中に煮えたち、わが定まらぬ若気を駆りて不浄の願望の断涯にすすませ、ついに淫蕩いんとうの淵に私を沈めた」。こは彼が十六歳の頃の生活に関する記録である。

一たび足をすべらしたるアウガスチンは、次第に深みへと陥った。例えばさわげる海のように泡だちて彼はおのが潮の奔放を追い、神を棄て神の定めたまいし限界を超え往いた。もとより斯して神の鞭を逃れる訳にはゆかなかった。その不法なる快楽のなかにはいと苦きぜものがあった。それは彼をして雑ぜものなき快楽を求めしめんがための神の心尽くしであった。しかし彼は顧みなかった。遠く遠く神の家の悦びより彼はさまよい出た。不潔の願望の荊棘は彼の頭上に生い茂った。しかしてそれを抜き去るべき手とてはなかった。「見よ、いかなる仲間と共に私はバビロンの街を歩み、あたかも香料香油の床にまろぶが如くその泥のなかにまろんだか」と彼は言っている。

翌年かれは或る富者の援助を得て大学に学ばんがためにカーセージへ出た。カーセージは当時のパリであった。富においても人口においてもロマに次ぎ、繁栄をアレキサンドリアと競って、華やかなる歓楽の都であった。「そこには私の周囲ぐるりじゅうに不浄の愛の大釜がわが耳に鳴りひびいていた」。かかる都に来てわかきアウガスチンは、罠なき途をにくみ、愛せずしていたずらに愛を愛した。しかして愛すべき者を彼は求めた。彼の霊魂は病みわづらった。それは浅ましくも自己を投げいだして、何らか感覚の触接により抓きこそげらるることを望んだ。「この故に私は淫慾の汚穢を以て友情の泉をけがし、肉慾の地獄を以てその光輝を曇らせた」。

彼は自ら求めて罠の中に飛び込んだのであった。必然、悦楽と共に悲哀の縄目が彼を縛った。嫉妬と猜疑と恐怖と忿怒と争闘との、燃ゆる鉄杖に彼は撃たるるを覚えた。

その年ついに彼はひとりの無名の婦人を得てこれと同棲した。勿論正しき結婚生活ではなかった。

彼をして初めて自己の生活の虚しさを悟らしめたものは、シセロの著書『ホルテンシウス』であった。この書の中に哲学の勧めの詞を読んで、彼の情感は変わった。肉の慾望の無価値はとみに明らかになった。「信じがたきほどの熱心を以て」彼は不朽の智慧を求めた。燃えながら、地のものより神に上ろうとして彼は起った。その十九歳の時の事であった。

ここに於いて彼は聖書の研究を始めた。しかしながら「入るには低く進むには高き」その途は彼に適わなかった。聖書の見栄みばえなさに躓いて、彼はまた之を棄てた。

間もなく彼はマニ教に帰依した。悪を必然の性質と見るこの教えは、再び彼の罪意識を鈍からしむるに役立った。かくてあたかも事なきもののごとく不浄の結合生活を続くること遂に十幾年。

そのあいだ彼の境遇に幾変遷はあった。彼は一たびロマに出でまたミランに移った。マニ教に対する彼の信頼も甚だしく動揺した。ミランに移りてより監督アンブローズの教導のもとに、彼の蒙は少しづつ啓かれて往った。しかしながらただ変わらぬはその卑しき本能の生活であった。

「私はつくづく思い慮りて、時の長きにいたく驚いた。私が始めて智慧の欲求に燃えたち、これを見いださばすべての虚しき望みと空なる願いの狂乱とを棄てようと決心したのは、早く私の十九の年であった。しかして見よ、今わたしは既に三十歳であるのに、なお同じ泥のなかになづみ、現在のものの享楽を貪っている――みな過ぎゆくもの、またわが霊魂を萎えさすもの。然るに私は独語して言った、『明日私はそれを見いだすであろう。それは明らかに顕われるであろう、しかして私は掴むであろう……物みな失せよ、我らはすべてこの空しきものを棄てよう、しかしてひたすら真理の探求にいそしもう……さりながら待て!之らのものもなお楽しくある。之らにも少なからず甘さはある。軽々しく棄つべきでない。何となれば再び立ち帰るは恥辱であるから、云々』と。かように私は言い、かかる風が私の心を吹いて此方彼方に追いやるうちに、時は過ぎた。けれども私は主に帰ることをためらった……福祉の生活を愛しながら、それ自身の住所においてはこれを恐れ、これを避くることによってこれを求めた。女性の手に抱かるることなくば、私はあまりにも憐れであるとみずから思った。しかしてこの荏弱じんじゃくを癒すべきなんじの憐憫の医薬を思わなかった。いまだ試みなかったからである……肉の病とその致命の甘さとに縛られながら、私は解かるることを恐れてわが鎖を引きずったのである云々。」

主として彼の母の願いにもとづいて、他の婦人との正式なる結婚がたくらまれた。遂にその人は選ばれた。しかしなお年若きがゆえに二年だけ猶予せられた。

その結婚を妨げざらんがために、今までの情人は強いて彼の脇より引裂かれた。愛着せる彼の心は破れ傷つき血ににじんだ。彼女は再び他の人を知るまじく神に誓いつつアフリカに帰った。然るに遺されし彼は如何。「不幸なる私よ、ひとりの婦人にだに倣い得ぬとは!」彼女のごとき誓いをなすことも出来ず、二年の後の結婚を待つことさえ能わずして、更に他の婦人と彼は結び付いたのである。もとよりそれはいたずらに彼の霊魂の疾病を募らすに過ぎなかった。破れし心も之がために癒えはしなかった。

もし死と来たるべき審判との恐怖がなかったならば、いよいよ深く肉情の淵に彼は陥ったであろう。ただこの二つの観念はいかなる変化のなかにも彼の胸を去らなかった。そのゆえに彼はエピキュリアンたることを免れた。時として彼は尋ねていった、「もし我らに死がなく、断えざる肉体的快楽の中に生きて、之を失うの恐怖がないならば、何ゆえ我らは幸福でなかろうか、また他の何ものを我らは求めようか」と。肉的快楽の生活そのものの中に如何なる禍いが籠もっているかは、いまだ之を悟らなかったのである。

そのうちに新プラトン派学者の著書が彼の手に入った。かつてはシセロが不朽の智慧の願望に彼を燃え立たせたように、今はプロティヌスが「言」としてのキリストの栄光を彼の前に輝かせてくれた。彼は内なる眼を以て「不変の光」を見た。その光こそは永遠なる「真理」であり、真理なる「愛」であり、愛なる「永遠」であった。これを見て彼は怪しき昂揚をおぼえた。神の美は彼を高めたのであった。しかしやがてまた幻滅は始まった。彼自身の重みによりて彼は引下された。この重みは肉の習慣であった。変わらぬ肉の習慣のために神の光より撃ち返されて、又しても元の泥のなかに彼は沈淪ちんりんした。光のうれしき記憶のみが彼に遣った。願わしきものの香を嗅ぎながら未だ之を味わうことを許されなかった。

再び彼は聖書におもむいた。殊に使徒パウロを精読した。しかしてこのたびはもはや躓かなかった。神の恩寵の讃美は新しき望みを彼に起こさせた。ただに山の頂より平和の郷を望見するのみならず、そこにまで導く途のあることを彼は知った。神のみわざをおもって、彼はいたくおののいた。

今やみことばは彼の心に膠着した。永遠の生命について疑う所は少しもなかった。しかしながらこの世の生活は依然として動揺そのものであった。古きパン種はなおその心より除かれなかった。女性の愛はなお彼を虜にしていた。彼は既に貴き真珠を発見したのである。まさに一切の所有を売って之を購うべきである。然るにそれが出来ないのである。

アンブローズの信仰の父シンプリキアヌスは神の恩寵にかがやく善き僕であった。行き詰まれるアウガスチンは窮余の策として彼を訪ね、しかしてその深き惑いを訴えた。

談はたまたま彼が読みたる新プラトン派著書の翻訳者なるビクトリヌスの事に及んだ。この人の回心の経験をシンプリキアヌスは語りはじめた。彼は親しくこの人を識っていたのである。

ビクトリヌスはいわゆる自由科学の権威であり、多くの元老院議員たちの師傅しふであり、またその功績のゆえにロマの市場に肖像さえ建てられし名士であった。しかして晩年に至るまで彼はロマの貴族たちと同じ偶像崇拝者であった。かつ多年のあいだ彼はとどろく雄弁を以て之を守護し奨励して来たのであった。

然るに熱心なる聖書の研究ののち、彼は密かにシンプリキアヌスに書を送っていった、「私は既に基督者であると承知せられたい」と。後者は答えた、「キリストの教会の中に君を見るまで私はそれを信じない、また君を基督者の中に算えない」と。「然らば壁が基督者を造るのか」。このようなる問答が幾たびか繰り返された。けだしビクトリヌスの地位と名声とによって、今更なる基督教信仰の公然の表白は小さからぬ犠牲でなくてはならなかった。しかし彼はまじめに考えた。もし今私が人々のまえにキリストを恥づるならば、キリストもまた天使たちのまえに私を恥じ給うであろう。

突然、かれはシンプリキアヌスに言い込んだ、「教会に往こう、私は基督者になりたい」。

当時新たに信仰の生活に入る者は、教会の高壇にのぼり、全会衆にむかって信仰の告白をなすの定めであった。ただ心よわきもののために更に隠密なる方法が許された。ビクトリヌスの告白の時は来た。長老たちは彼にも特別の計らいを申し出た。しかし彼は聴き入れなかった。救いならぬ修辞学をさえ自分は公然と表白して来たものを、まして神の言をぶるに当りて人を恐るべきであろうか。

彼は進み出た。会衆のうち誰ひとり彼を知らぬものはなかった。口より口へ、低きささやきは伝わった。ビクトリヌス!ビクトリヌス!姿いよいよ現われるやたちまち歓呼の爆発があった。忽ちまた静謐せいひつがおおった。彼は口を開いたのである。真実なる信仰のいみじくも大胆なる告白よ。一同は彼をおのが胸に引きしめたくさえおもった。

その後ジュリアン帝の代にいたり、基督者は自由科学または雄弁術を教授することを法律によりて禁止せられた。ビクトリヌスは職業のために信仰を変えなかった。彼は神の言を選んでこの世のものを棄てた。

この物語を聴いてアウガスチンはいたく感動した。ビクトリヌスは恵まれたる者であると彼は思った。彼の得たものを自分も日夜なげき求めつつあるのである。しかもおのが鉄鎖に縛られて動くことが出来ないのである。例えば甘き睡りを続けたものが、外よりの刺戟を受けて起きようと努めながら、なおも重き睡気に圧されてまどろみつづける様にも似ている。神は真理を以てアウガスチンに迫った。彼はそれに応じてとうとした。しかしながらち得ず、「今暫く」「今暫く」といってまた倒れ臥した。

ある日かれと同郷の人にして宮廷に高官を勤め居るポンチチアヌスという基督者が訪ねて来た。彼は卓上にある一書を取り上げて見て、それが意外にもパウロの書であることを怪しんだ。やがて彼は当時基督者仲間にいとも名ありしエジプト僧アントニーの事どもを話し始めた。

それはトリエルにて皇帝が競技に耽っていた或る日の午後の事であった。ポンチチアヌスほか三人の宮内官は二組に別れて近郊を散歩した。その一組は或る小屋に立ちよりアントニーの伝記を見いだした。徒然つれづれなるままに一人が読みはじめた。彼の心は怪しくも撃たれた。彼は斯のごとき生涯の慕わしさをおもい、比べては自己をあまりにも浅ましと見た。友を顧みて彼はいった、「君よ、いかに。我らかく辛労しながら何を獲るか。我らの望みは高くも皇帝の寵臣たることに過ぎぬではないか。しかもそのための危険は如何。しかしながら、私は望まば今にも直ちに神の友となり得るのである」。かく言って彼はなおも読みつづけた。胸には強き痛みがあった。高低幾波瀾ののち、彼の心はついに定まった。ふたたび友に言った、「もはや私は今までの望みを棄てて神に仕えようとおもう。しかしてこの時この所において直ちに私は始める。君もし倣うことを欲せずとも、反対はするな」。

しかし今ひとりの者も彼を棄てはしなかった。はえある報償むくい、栄ある奉仕ならば諸共にこそと彼は言った。かくて二人は一切の所有を棄てて神に従った。二人ともに許嫁の婦人があった。彼らもその事を聞くにおよんで、躊躇ためらわずおのが童貞を神にささげた。

聴き居るうちに、アウガスチンは自分の姿が背後より眼前に引きいださるるを覚えた。いかに醜く、いかに曲れる、いかに穢れたる姿よ。彼は見て慄然とした。しかしてあたかもこれを見ざるもののごとく、之に瞬きして、之を忘れた。

「しかし今私はそれら癒されんがために自己を全く汝に委ねたという健全なる情感の人々を愛すれば愛するほど、彼らに比べて一しお私自身を憎んだ。そはわが十九歳のときキケロ(シセロ)のホルテンシウスを読んでまじめなる智慧の愛に動かされて以来、すでにわが齢幾年いくとせか(ほぼ十二年)馳せ去ったからである。しかも私はなお単なる地上の福祉を棄てていやまさるものの探索におのれを委ねることをためらっている。そのものの発見のみならずただの探索さえ、既に得られたる世の財宝または王国にもまさり、また思うがまま身のまわりに展べらるる肉の快楽にもまさるものを。然るに私は浅ましくもいと浅ましいかな、わかき青春の首途しゅとにおいて汝に貞潔を請いながら、言ったのである、『貞潔貞節をたまえ、ただし今すぐではなく』と。そは私は汝が直ちに聴きたもうて直ちにわが淫慾の疾病を癒し給わんことを恐れた。私は淫慾の除かれん事よりもむしろその満たされん事をねがったのである。」

かく日々にためらいつつも彼はみずから弁解して、進むべき途が未だ明らかならぬ故であると言っておった。しかしもはやその口実も空しくなった。彼の良心は今や彼を責めていった、「なんじの舌は今何処にあるか。見よ、彼らその途の探索に労することもなく、之が考慮に十幾年を費すこともなかりし人々が、既にその肩を軽うして飛び去るべき翼を受けたではないか」と。彼は内に歯がみした。恐るべき恥辱のために心いたく惑乱した。言い得べき限りの事を自らに向かって言った。鞭をあげてひたすらにその霊魂をうった。それでもなおたじろぐのである、拒むのである、ただしもはや弁疏べんそする所はない。すべての論破は用い尽くされた。あとはただ言もなく立ちすくむのみであった。彼の霊魂は死を恐るるがごとくにその肉情の習性よりの節制を恐れた。しかしてその故に却っておのれを死に渡しつつあった。

そのときアウガスチンの内的闘争は烈しくあった。遂に居堪いたたまらずなりて、彼は庭園に馳せ去った。

かつ煩いかつ悶えた。彼の骨はみな叫んでいった、「速やかにみこころに従え」と。しかし鎖はなお破れなかった。微かながらなおそれは彼にまといついていた。彼は自らを怒り自らを責めた。恐怖と恥辱とはいやましに募った。心の中に彼は言った、「今こそ!今こそ!」。かく言ってほとんど彼は成しとげようとした。しかし成しとげ得なかった。再び彼は試みた。まさに触れて捉えようとした。しかし僅かに、僅かに足らぬ所があった。なおかつ触れず、はた捉えなかった。

「私の古き情人なるかの虚の虚、空の空は、なお私を捉えた。彼らは私の肉の裳を引きとめて優しくささやいた、『なんじは我らを棄て去るのか。その時よりして我らはもはや永久に汝と共にあり得ないのか。その時よりして此事彼事は永久に汝に許されぬ事となるのか』と。しかしてここに私が『此事彼事』というところの事を以て彼らの暗示したものは何か、何を彼らは暗示したか、ああわが神よ。ねがわくは汝の憐憫のゆえに汝の僕のたましいよりそれを斥けたまわんことを。如何なる汚穢、いかなる恥辱を彼らは暗示したか。今私は半ほども彼らに聴かない、彼らも自らをあらわに示して私に逆らうことをせず、ただ私の背後にありてつぶやき、去りゆかんとする私をひそかに引きとめて、ただ彼らを顧みさせんとするに過ぎない。しかもなお彼らは私を妨げたのである。しかして私は自由に彼らと断絶しておのが呼ばれし所に飛びゆくことをためらった。烈しき習慣が私にいった、『なんじは彼らなしに生き得るとおもうのか』と。

さりながら今やその声もいと微かになった。何となれば私が顔を向けながら往くにおののくその方に、潔くしていかめしき『貞節』が私に顕われたからである。弛みはなき朗らかさ華やかさを以て、『来たれ、疑うな』と私を招きつつ。私を受けて抱かんと差し伸べらるるその聖き手には、善き範例の衆群が充ちている。数多の青年男女、若きまた齢様々の衆群、まじめなる寡婦、老いたる処女たちなど。しかしてすべての中に『貞節』みずから、石女うまずめならぬ喜悦の子らのうみ多き母として。もとよりそれは、主よ、夫なんじによりてである。かくて彼女は説き伏すごとき戯れをもて私にほほえみ、言わんとするよう、『この青年ら、この少女らが能う事をなんじは能わぬか。もしくは彼らが能うは彼ら自身にありてか、むしろ主なる彼らの神にありてではないか。主なる神は私を彼らに与えたもうた。なにゆえ汝は自らに立ち、その故に立たないのか。汝自身を彼に委ねよ、恐れるな、彼は退き汝は倒るることあるまい。恐れなく自らを彼に委ねよ、彼は受けて汝を癒したもうであろう』。私はいたく羞じらった。それはなおもかの虚なるもののつぶやきを私は聴いて、逡巡していたからである。しかして彼女は再び言うと見えた、『地にある汝のその不潔の肢体に耳を閉じよ、かくてそれを殺せ。彼らは悦楽を汝に告げる、しかし主たる汝の神の律法には比ぶべくもない』と。」

アウガスチンの霊魂の隠れたる底より、彼自身の浅ましさが悉く現われいでて、彼の目のまえに積み累なった。そのとき力づよき嵐は起こり、涙の驟雨は烈しくそそいだ。彼は更に人を避けて、或る無花果の樹の下に倒れ伏し、心ゆくばかりに涙した。彼は叫んだ、「しかしてなんじ、ああ主よ、何時までか、何時まで、主よ、なんじは限りなく怒りたもうか。わが先の答を憶えたもうな。何時までか、何時までか。『明日また明日』か。なにゆえ今ではないのか。なにゆえこの時わたしの不潔は終わらぬのか」。

かように烈しく心くずおれて呼びかつ泣いていたとき、隣家よりひびきくる或る声を彼は聞いた。子供の唱歌であった。繰返し言うには、「取上げて読め、取上げて読め」と。それは彼のために特別に意味ある声としか思われなかった。涙の滝つ瀬を抑えて彼は起った。しかして往いて聖書を取りあげ、開いた。まずその眼の落ちし章節を沈黙のままに読んだ。いわく

宴楽、酔酒に、淫楽、好色に、争闘、嫉妬に歩むべきにあらず。ただ汝ら主イエス・キリストを着よ。肉の慾のためにそなえすな。(ロマ一三の一三、一四)

もはやその後を彼は読もうと思わなかった。また読むにも及ばなかった。何となれば直ちにこの句の終わりにおいて、晴朗の光が彼の心にさし入り、すべての懐疑の暗黒を逐い払ったからである。アウガスチンは今や新しき衣のごとくにキリストを着たのである。しかしてその故に、さしも長らく彼を苦しめたる肉情の縄目は遂に見事に断ち切れたのである。

「ああ主よ、私は汝の僕である。汝の僕にして汝のはしための子。汝はわが縄目を断ち切りたもうた。感謝の祭物をこそ私は汝に献げよう。わが心わが舌をして汝を讃美せしめよ。然り、わがすべての骨をして言わしめよ、主よ、誰か汝に比ぶべき者があろうかと。しか言わしめよ、しかして汝わたしに答えて、わが霊魂たましいに言いたまえ、私は汝の救いであると。私は誰か、また私は何か。如何なる悪かわが行為わざでなかったか。もし行為ならずば、わがことば、もし言ならずばわが意思でなかったか。しかし主よ、なんじは善にして憐憫ふかくいまし、汝の右の手はわが死の深みをまで顧み、わが心の底よりその腐敗の深淵を除きたもうた。すなわちすべて私の意思したるものを私は最早や意思せず、汝の意思したまいしものを意思するに至った事これである。しかしこの幾年のあいだ何処にか、また如何なる低く深き隠所よりわが自由意思は瞬くまに呼びいだされ、かくて汝の易き軛にわがくびを、なんじの軽き荷にわが肩を従わすに至ったか、キリスト・イエス、わが助け主、わが贖い主よ。かの虚なるものの甘さ、今は無きこそ私にいかに甘くなったか。かつて別るるを恐れたもの、今は失うに喜びである。そは汝かれらを私より投げ棄てたもうたからである、なんじ真実にして至高なる甘美よ。なんじ彼らを投げ棄てて代わりに自ら入りこみたもうた。血肉には然らねど、すべての快楽よりも甘く、みずから高ぶるものには然らねど、すべての光よりも輝かしく、しかもすべての深みよりも隠れ、すべての誉れよりも高き汝。今やわが霊魂は奔走し獲得し、また汚物の中にまろび、また肉慾の疥癬を掻きむしるなどの、劇しき煩慮より解き放たれた。しかしてわが幼き舌は自由に汝にむかって語る、ああわが光輝、わが富、わが健康なる、主よ、わが神よ。」

二 『懺悔録』に現われたるモニカの信仰生活の進展

人類が永久に記念して忘れないであろう所の女性のひとりに、アウガスチンの母モニカがある。彼女は珍しき信仰の婦人であった。しかしながら彼女の信仰生活にも勿論進展の歴史があった。我らは『懺悔録』の随所に現わるる片鱗によりて少しくその跡をたどることが出来る。

アウガスチンがなお年少にして悪しき仲間とともに「バビロン」(世俗的腐敗の都)の街を歩み、香料香油の床にまろぶがごとくその泥土の中に転んでいた頃、モニカはいまだ俗臭を脱せぬ基督者であった。彼女は既に「バビロンの中心より逃れ出た。しかし更に徐々とそのへりの中を往いた」。彼女は乱行の子に貞潔を勧めはした。「姦淫を犯すな、殊に断じて他人の妻を汚すな」と誡めはした。しかし現在すでに毒悪にして将来最も危険なるものの存在を彼の中に認めながら、之が制御について適当に注意する事をしなかった。「彼女が之を注意しなかったのは、結婚が私の希望に障碍となり邪魔となることを恐れたからである。希望というは、わが母が汝(神)の中に措くところの来世のそれではなくして、勉学のそれであった。私の両親はあまりにも私の勉学の成就を望んでいたのである。父は殆ど汝につける思想おもいたなかったから。母はかかる通常の勉学の途が汝に近づくために何らの障碍でないのみならず、却って幾分の促進であるとさえ考えたから」(『懺悔録』二巻三の八)。

しかしながら一両年の後、アウガスチンが邪教マニ教に帰依して、次第に神より遠ざかり霊的暗黒の深みに陥りゆくを見るに及び、彼女の胸はいたく痛んだ。世の母たちがその子どもの肉体死をくにまさりて彼女は彼のために神に哭いた。そは神より賜わりし信仰と霊とによって、彼女は事態の重大さを見わけたからである。彼の褻涜せっとくは彼女にとって堪えがたきものであった。ついに彼女は彼と共に同じ家に住まい同じ食卓にて食らうことを拒絶した。しかして断えず彼のために祈った。その祈る所ごとに溢るる涙は地をうるおした。

或る夜、夢に彼女はみずから一つの木製定規の上に立つを見た。ここにひとりの輝かしき青年が来て、彼女にむかい楽しげにほほえんだ。彼女自らは悲しみに沈んでいた。何ゆえ悲しむかとの問いに答えて、その子の滅亡を歎きおる旨を彼女は告げた。彼は言った、「安らかにあれ、見よ、なんじの在る所に彼もまた在る」と。見れば、同じ定規の上にアウガスチンは立っていた。

悲しみの心は慰めを得た。彼女は祈りのついに聴かるべき日あることを信じた。しかしてその子に復帰を許した。

また或る監督の許にゆいて、誤れる己が子に面接説服せんことを彼女は願った。監督は聡明にも答えていった、「しかし暫く棄て置けよ、ただ彼のために神にいのれ。彼は読書によって、その誤謬の何たるとその不虔のいかに大なるとを、自ら発見するであろう」と。同時に彼は告げて言った、自分も少年のころ、迷える母のためにマニ教に渡され、唯にその書を読んだのみでなくまた殆ど凡てを筆写したことがある、しかし誰からも説かれずに、その教えの迷妄をさとって遂に之を避けたと。さりながら彼女は満足しなかった。しかしてなおも執拗に、涙をそそぎながら、相会って言い聞かせんことを歎願した。監督は少しく不興気にいった、「往け、かかる涙の子が滅びることは有り得ない」と。この一言は彼女に天よりの声と聞えた。すなわち深く之を胸に蔵めて、いよいよ信頼を堅くした。

年は来たり年は去った。しかし迷える子がたち帰りて母と同じ定規の上に立つべき気配は少しも見えなかった。アウガスチンは早や二十有九歳に達した。カルタゴの学生らの風儀を嫌いし彼はロマに移ろうと欲した。モニカは悦ばなかった。家を出でしその子を追って彼女もまた海辺に往いた。連れ帰るにあらざれば共に往かんとてである。しかし子は母を欺いた。ひとりの友人が順風を得て出帆するまでは去りがたいと彼は偽り告げた。かくてもモニカは独り帰るをがえんじなかった。是に於いて一夜海岸にあるサイプリアン記念礼拝堂の中に彼女を留まらしめ、しかして密かに彼は出発した。「私はわが母、かかる母をしも欺いて逃れた」。知らぬ彼女は、疑いもなく神にむかって彼の出帆の許されざらんことを祈り求めていたであろう。風は吹いて帆を孕ました。船は岸を離れた。明くる朝、人はそこに狂気のごとく歎き叫べる母を見た。

モニカの祈りは聴かれない。涙の子はただ滅びにむかって進む。神は彼女の涙を見過ごしにしたもうのである。しかしながらモニカは失望しなかった。彼女はどこまでも憐憫の父を信じた。故に変わらず歎きと涙とを以て祈りつづけた。

しかして彼女の心をひとえに神に向けしめたものは実にこの聴かれざる祈りであった。聴かれねばこそいよいよ依り頼むの他を彼女は知らなかったのである。涙の子をたせられた事はモニカの不幸ではなかった。子のために注ぐ無量の涙ゆえに、母は限りなく神と親しむことが出来た。神はまず彼女を己に近づかしめんがために、憚らずその子を遠ざけたもうた。しかる後にまた彼女によりて彼をも取り戻さんとするは、神の神らしき奇しき聖慮みはかりであった。

幾ばくもなくモニカはアウガスチンを追って海陸を越え、遠くミランにまで赴いた。海上風荒れ浪は高くあった。旅客は勿論、船員たちさえ恐怖をいだいた。ただ信頼ふかきモニカは或る幻を得て、航海の安全を疑わなかった。しかして女性の身を以て却って彼らを慰め励ました。

往って彼女はその子の悲しむべき危機にあるを見いだした。そは彼はもはや真理の発見について絶望していたからである。但し過去九年の迷謬マニ教より彼の既に離れたことを知るは、彼女にとって大いなる慰めであった。彼女は既に彼を精神的死者と見ておのが思想の棺台の上に運びながら、神が何時か寡婦の子にむかい「若者よ、起きよ」といって之を起きかえらしめ、しかして母の手にわたしたもうべきを疑わなかったのである。故に今その神の約束の一部の成就を見て、彼女の望みは更に確くせられた。すなわちいった、「私は世を去るまえに、必ず正しき信者としてのなんじを見るであろう。キリストにありて私はそれを信ずる」と。

ミランの監督アンブローズに於いて彼女は善き指導者を見いだした。或る時彼女はアフリカの習慣に従い菓子パン酒などの祭料を携えて教会に往き、すげなく門番に拒絶せられた。彼女の側には多くの申分があった。しかしその処分が監督の命によることを知るや、彼女は処分の是非を批判せずして直ちにおのが習慣を責め、いとつつましく之に従った。その態度の信頼ぶかさはアウガスチンをして怪しましめた。

彼の結婚問題について彼女の取った態度は私には腑に落ちない。何故にその十数年の伴侶たりし婦人との当然なる結婚を彼女は勧めなかったのか。ひとりこの問題については、彼女は不思議にも神の明瞭なる啓示を待たずして行動した(『懺悔録』六の一三)。それは恐らく彼女の信仰の生涯における最大の失敗であろう。

彼女にかかる失敗はあった。しかしながら神には失敗も違算もなかった。時は遂に来た。涙の子は遂にキリストに帰った。無花果の樹かげの出来事を聴いたときに、「彼女は歓喜のために躍り、勝ち誇り、しかして我らの求むる所思う所よりもいたく勝る事をなし得る者を祝福した」。そは彼女の古き夢は充たされて、その子は果然、信仰の「定規」の上に彼女と共に立ったからである。涙とともに播きしものは豊かなる禾束たばを穫取ることを許されたからである。心貧しき者の信頼はいとも高き栄光を被せられたからである。

数ヶ月の後、彼らは新しき奉仕の生活に入らんがために、アフリカを指して帰途に就いた。タイバーの河口オスチアまで来て船出を待った。或る日、母子ふたり庭にのぞめる窓に倚りながら、静かに語り合った。

ふたりの霊魂は怪しくも至高いとたかき天にむかって天翔った。すべて物象の世界を超越して、永遠の智慧の住む国に彼らは上った。まさしく「主の歓喜に入る」の経験であった。此の世とその一切の歓楽とは彼らに卑しきものと見えた。

母は言った、「子よ、私としては、最早や今生こんじょうに何の楽しみもない。此の世にての私の望みは遂げられたからには、もはや此処にて何をなすのか何を目あてに此処にあるのか私には分らない。私が暫く今生に留まりたく思ったのは唯一つの事のためであった。すなわち死ぬまえに公教基督者としてのなんじを見たかったのである。神は願いしにまさりてこの事を私のために成就したもうた。今私はなんじが地上の幸福を斥けて神の僕となったのを見る。私はここに何をなそうか」。

更に五日ばかりを経て、彼女は熱病にかかった。一時は失神の状態に陥った。気づいてのち子らに目をとめて言った、「此処に母を葬れ」と。アウガスチンの弟は、母がかかる異国に於いてでなく故郷にて死なんことを望む旨を語った。彼女は心配げに目にて彼を制し、しかして言った、「この身は何処へなりとも置くがよい。さる事のためにいささかも思い煩うべきでない。ただ一つ私は望む、なんじら何処にあるとも主の祭壇にて私を憶えるように」と。出来るだけの言葉をもてこのおもいを表わし、しかして沈黙を守った、募りゆく病苦に煩わされて。

おのが埋葬の場所如何は、今までかなりに彼女の関心事であったのである。即ち夫の傍に葬らるることを彼女は望んでいたのである。しかし何時しかそれも問題にならぬほど彼女の心は満たされていた。同じころアウガスチンの留守中彼の友人たちが、かくも故郷より遠き所に身を遺しおくを不安には思わぬかと問うたときにも、彼女は答えて言ったそうである、「神に遠いものは一つもない。また世の終わりに、神が私を何処より起こすべきかと迷いたもう筈があろうか」と。

かくて後四日ばかりにして、この信仰の婦人は世を去った。彼女の五十六歳のとき、アウガスチンの回心の翌年であった。

モニカは通常祈りの婦人として知られる。まことに彼女はそれであった。しかしながら祈りは祈りのゆえに貴くない。ただ信頼より湧きいづる祈りのみが貴い。モニカのモニカたる所以は、祈祷になくして信頼にあった。はじめ多少の俗臭を帯びたる彼女の霊魂は、その子の堕落のゆえに限りなく砕かれた。彼女の生命はただ信頼する事にのみあった。しかしてその信頼が一先ず見事なる果を結んだときに彼女の地上における使命は成就して、モニカは召されたのである。彼女のごときはいわば信頼せんがために生きたる婦人であった。

三 『懺悔録』を復読して

十幾年ぶりにアウガスチンの懺悔録を復読した。それが全く新しい書として現われたのに驚いた。

前に読んだときには何しろよく分らなかった。著者の内的生活が自分にしっくりしない上に、その神についての思索やその記録の真実味などが、自分にとっては或いはもどかしく或いは多少疑わしくさえ感ぜられた。

然るに今度はどうしたものか、開巻の初めからその一言一句がひしひしと自分の胸に訴えた。著者の簡潔なる言い表わしの下に無限の真理が展開せられているのを自分は見た。心の深いところに断えざる共鳴のひびきがあった。いつの間にか自分の呼吸が著者のそれにぴったりと適合して、人の著書を読んでいるのか自分の告白を聞いているのか分らなくなってしまった。七月初めからただこの一書に自分は読み浸った。朝起きてすぐそれを読んだ。寝る前に必ず読んだ。外出のときには携えて電車の中で読んだ。始めから読み、終わりから読み、中から読んだ。或る部分は三回四回五回読んだ。読む毎にアンダーラインが殖えて遂に全頁を黒くしたところも少なくない。自分の用いたのはピウゼー訳である。確かに名訳である。訳者に霊感なくして之だけの訳文は綴れない。しかし自分はどうしても原文で読まずにはいられなくなった。到底得られまいと覚悟しながら書店に往って見た。偶然その一本を手にし得た時の喜びは口で表わし得ない。二十年間棄ておいたラテン語の復習を始めた。神は早晩自分の願いをかなわして下さるであろう。大いなる期待に胸がおどる。

それにしても何という貴い本であろう。一つの霊魂が神に帰るまでのさまよい、その罪ふかさ、その憐れさ、そのいじらしさ。之をみちびく神の限りなく深き心づくし。実に人生とはどれだけ厳粛な実在であるかがよくここに窺われる。かつまたその言い表わし方。一切を神の前に、一切を神との関係において、一切を神のために。これが本統の態度である。人が物を言うときには先ずこうあるべきなのである。幾千万とも数えがたき書物の中にただこの一書においてのみ(勿論聖書は別)霊魂の発言として最もノーマル(正規)な声を聴くことが出来る。今度これを読んだときに自分のたましいは故郷に帰ったような気がした。多くのアウガスチン学者が懸念する衒気げんきや誇張を自分は今はこの書のうちに微塵も認めることが出来ない。却ってそういう心持の存在をゆるさない所にこの書の貴さがあると自分は信ずる。

一通り読み終ったときの感じ――神様がこの本を自分に見せて「これはお前の書いた本ではないか」と。自分は驚いて読んでみたら、確かにそうであった。もう一つ――もし人類が天の使いたちにむかい、見よ我々の社会にもこんなものがと言って示し得る書物があるとしたら、それはダンテ神曲とアウガスチン懺悔録とであろう。

この書の著者の霊に平安あれ、祝福あれ。この書の読者の心に光明あれ、生命あれ。

〔第八六号、一九二七年八月〕