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「愛とは何か」

第二 パウロの愛の讃美

藤井武
Takeshi Fujii



一 愛なくば

人の社会の構成は自然と同じように、決して単調なるものではない。各員みな其の性格上に著るしき特徴をっている。或る人は豊かなる感性を帯びて、美を味わうにこまやかである。或る人は理知にけて、真理を捕捉するに有能である。或る人はまた強き意思を備えて、善の実行に勇敢である。勿論人の能力はたとえ如何ばかり優れたる場合にありても、なお限られたる、いと小さきものに過ぎない。しかしながらそれにも拘わらず、一たび或る条件の下に立つ時は、この限られたる能力が驚くべき飛躍をなして、本来の運命よりは遥かに高き所まで上り得るものであるとの事実もまた、之を拒むことが出来ない。或る条件とは何か、曰く聖霊の感化である。

我等がキリストを信ずると共に、彼の霊即ち聖霊は必ず来たって我等のうちに宿る。しかして聖霊は火である。この火一たび我等の胸に入らんか、乃ち我等の生命を組立つる一切の分子を燃料として、燦然と燃え輝かずんば已まない。かくて我等各自の固有の能力、殊に著るしき特性は、聖霊の火を受けて煉られ、潔められ、見違えるばかりに変化せしめられるのである。されば美しき感情の持主はキリストを信じてより、聖なる神秘に参与することを許されて、遥かに秀でたる詩人又は音楽家となるであろう。明敏なる理知の所有者は宇宙及び人生の中心に近く立つ事を得て、更に偉大なる真理の直観者となるであろう。強烈なる意思の人は正義の永遠的勝利を確信して、如何なる障碍をも意とせざる不屈の事業家となるであろう。佳人ベアトリチェに燃ゆるがごとき思慕を注ぎし熱情の人ダンテは、みたまの火に触れて遂に貴き『神曲』の作者となった。つとにセネカの道徳哲学に関する名著を公にしたる年若き学者カルビンは、キリストを受けて後幾ばくもなくしてプロテスタント神学の大成者となった。同じように、幼少の頃一夜規定の時刻より遅れて家に帰れば門戸の既に鎖されたるを見て、騒がず叫ばず、一片のパンを噛りながら戸外静かに夜を明さんと決心したる可憐児リビングストーンは、神に召されて最も多難なるアフリカ伝道の開拓者となったのである。彼等の異常なる能力はみな聖霊の産物であった。即ち聖霊の火が彼等各自の特有の能力に燃えつきて、之をして自然の領分よりも遥かに高き所へ超躍せしめたのである。しかのみならず、聖霊の火は屡々その人の特性に非ざる、寧ろ欠点と見るべき方面にまで燃え移りて、全く新しき種類の能力を実現せしむる事さえ珍らしくない。何れにせよ、これみな自己の開発の結果ではなくして、聖霊の産物である、恩恵の賜物である。すべて斯の如く、人がキリストを信じてより聖霊を通して獲得するところの能力を称して「霊の賜物」という(前コリント一二の一)。

慕うべきは霊の賜物である。これ神の子らが神のためまた相互のために奉仕すべく必要なる能力である。故にその大なるほどい。歌う者はダビデの如く高らかに歌わんことを求めよ。論ずる者はパウロの如く徹底的に論ぜんことを期せよ。行う者はエリヤの如く火を呼び雨を招くまで行わんことをつとめよ。知識としてはアウガスチンとアクイナス、思想としてはミルトンとバンヤン、事業としてはフランケとジョージ・ミュラー、政治としてはワシントンとグラッドストーン、芸術としてはヘンデルとミレー、讃美としてはトプレデーとカウパー、説教としてはスパルジョンとムーデー、彼等の受けたる賜物が、人道を聖化し又聖徒の徳を建つる上に於いて偉大なる貢献を為したことを誰か否もう。斯の如き霊的能力については何人も遠慮するに及ばない。否、大いなる野心を以て飽くまでも之を慕い求むべきである。パウロ曰う、「汝等優れたる賜物を慕え」(前コリント一二の終)、また「霊の賜物、殊に預言する能力を慕え」と(一四の始)。

霊の賜物たる能力は慕うべくある。しかしながら能力は何処までも能力であって、生命そのものではない。已むを得ずばそれは無くとも可である。ただもし生命なかりせば如何。「無くてはならぬものは唯一つのみ」。即ち人としての真の生命のみ。生命なくして如何に優れたる能力ありとも何かしよう。然らば人としての真の生命とは如何なるものであるか。答えて曰く「愛」である。

たとえわれ諸々の人のことば及び天使の言を語るとも、愛なくば鳴るかねや響く繞鉢にょうはちの如し。
たとえわれ預言する能力あり、又すべての奥義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数えるに足らず。
たとえわれわが財産を悉く施し、又わが体を焼かるる為にわたすとも、愛なくば我に益なし。(一三の一―三)

仮に我等自身が、感情の方面に於ける霊の賜物の最も高きものを受けたと想像せよ。然らば我等の感情はみたまの火に燃やされ潔められて、白熱化しつつ神に向かい奔放するであろう。しかして今まで経験したることもなき高調なる讃美、感謝、又は言いがたき祈祷等が、恰もかれし急流の水のように我等の口を突いて溢れ出るであろう。その時我等の言は日頃のものと似もやらず、此の世ならぬ響きをさえ帯びるであろう。ダビデ又はハンナ、エレミヤ又はハバクク、ダンテ又はミルトン、その他すべての大詩人大音楽家大天才の言、然り、凡そ人として発し得べき最高、至深、極美の言が我等自身のものとなるであろう。否、唯にそれのみではない、天の使いの優れたる言さえ、我等の口に上らないとも限らない。それは誠に壮観、偉観である。此の世の産物たる如何なる詩歌も音楽も、斯のごとき高調なる霊の賜としての言には比ぶべくもない。

然るにも拘わらず、能力は矢張り能力たるに過ぎない。それは遂に生命ではない。生命は美しき言でなくして、愛である。故にたとえ我等が異常なる賜物を与えられて、諸の人の言及び天使の言を語るとも、もしただ一つ愛なからんか、然らば乃ち何かしよう。我等の口より出づる最も詩的なる言も、例えば一片の銅板の叩かれて空しく立つる音と異ならない。よしそれが天使のいと優れたる言であるとしても、例えば銀にてつくりしいのちなき繞鉢の響きと敢えて選ぶ所がない。生命ありてこそ貴き賜物である。愛ありてこそ美しき言である。愛なくして徒らに高調なる詩や音楽はむしろ速やかに虚空に消えよ。霊的能力は決してそれ自身の故に貴くない。ただそれに由って伝えらるる愛の故にのみ貴い。求むべきは賜物よりも何よりも、先ず第一に愛である。

再び我等をして想像せしめよ、我等の受けし霊の賜物が今度は悟性の方面に於いてその極致に達したと。然らば我等の心の眼は未だ見ざりし世界に向かって開かれ、人類と万物との運命に関する神の永遠の経綸が明らかに啓示せられるであろう。しかして我等は或いは古の預言者らの如く、否、彼等よりも更に勝れる能力を以て、多くの現実の問題に対する神のこころを代言し、また個人と社会と国家と全人類との百千年の将来につき、権威ある預言を発することが出来るであろう。ここに至ってはカーライル、ラスキン、トルストイさえ物の数でない。優れたる賜物を受けさえすれば、我等は現代のイザヤとなりて、万国の運命を一々くわしく預言することも出来よう。または現代のヨハネとなりて、大いなるバビロン即ち世界文明の倒壊を目前に見る如く描き出すことも出来よう。

或いは又人類の救贖に関する深き真理にして、神の特別なる啓示に待たずば何人も悟ること能わぬもの、即ち聖書に所謂「奥義」と称するものが、聖霊の光に照らされて悉く我等の前に開陳せられるでもあろう。然り、もしみこころに適わば、我等は自由に霊界の秘密境に分け入りて、聖書に未だ示されざる或る種の神秘的真理をさえ捕捉することを許されるでもあろう。

或いは又ただに奥義と称する特別の真理のみではない、その他凡ての知識が我等のものとなるかも知れない。即ち人生及び宇宙に関し人として探り得べき一切の真理が、聖霊の力によりて偉大なる体系を成さしめられ、しかして我等の小さき頭脳の中に整然と収められるかも知れない。知識の最も根本的なるは勿論神に関するものである。神学といって、その学問としての地位の重からぬがごとくに感ぜらるるは、神学者たる人の責任であって、神学そのものの関する所ではない。たとえ之が研究に従事する学者の多数は如何ばかり浅薄であっても、神学自体は深遠であり、根本的である。人生の最も深き実在を中心とする系統的真理は、この途に由らずしては獲得することが出来ない。しかして聖霊一たび天来の火を以て我等の悟性に点ぜんか、乃ち神の本質を始めとして、永遠より永遠に亙りての宇宙人類と神との関係、その他諸の偉大なる問題が、見事に解決せられるであろう。また神学以外の知識についても、聖霊の指導が要らぬと言うことは出来ない。否、何れの方面の学問たるを問わず、今日までに探究せられし真理の最も基礎的なるものは、少なくとも聖霊の暗示に負う所があると私は信ずる。例えば宇宙の存在が合理的であるとの観念を基礎とせずしては、科学は凡て成り立たない。また人類は一つの有機体であって、一切の出来事は或る共同の目的に向かって進みつつあるとの思想を以てしなければ、歴史は殆ど無意義である。然るに之等の真理は如何にして発見せられたか。科学は自らこれを証明したか。歴史は自らこれを探り出したか。否、確かにそれは理知の平凡なる産物ではなかった。理知以上の霊の賜物であった。聖霊が或る人々の悟性に触れて、以て之等の偉大なる真理を直観せしめたのであった。すべて永遠なるもの絶対なるもの超自然なるものについては、我等の理知は余りに貧しい。ただこの貧しき理知が聖霊の火にさらさるる時に、それは永遠不動の真理を掴むべき能力を獲得するのである。かくて聖霊の力に由って、我等は人生と自然とに関する凡ての知識を我がものとすることも出来よう。もしアインシュタインの一箇の原理の発見すらなお比い稀なる事績であるならば、まして凡ての原理の獲得をや。悟性の方面に於ける霊の賜物は、感性の方面に於けるそれにも増して、讃歎すべく追求すべき特権である。

三たび想像せよ。此度は意思の方面である。もし我等が霊の賜物のいと高きものを此の方面に於いて受けたとしたならば?然らば我等の弱き意思はみたまの炉の火にて七たび煉り浄められ、鋼鉄よりもなお堅きものと化せられるであろう。しかして我等は宇宙の支配者なる全能の神をたのみ、たとえ如何なる障碍や困難の前途に横たわるものがあるとも恐怖又は躊躇の衝動をすら感ずることなく、必ず打ち勝ちて尚余りある事を確信して動かぬであろう。謂う所の「山を移すほどの大いなる信仰」とは特にこの種の確信を意味する。「信仰」というも、それは救いの条件たる一般的の信仰のいいではない。既に救いに与かりし者が受けるところの霊の賜物の一種である。即ち主として意思の方面に於ける異常なる霊的能力である。我等は知る、同じ基督者の中にても或る人々は特にこの賜物に富んでいることを。偉大なる人道的事業の遂行者は概ね彼等であった。例えばフランケ、ミュラー、ウイルバフォース等である。彼等は能わざるなき神の力とその我等の祈祷に応え給う限りなき誠実とを暫くも疑わなかった。故に神の栄光を揚ぐべき事業の途に当りて、山あらば必ず移さるべく、海あらば必ず埋めらるべきを確信した。しかして遂にその特殊なる信仰的能力に由って尋常人の企て及ばざる事業を成就した。独り彼等のみではない、小さき我等もまたもしみこころに適わば、彼等にまさる信仰的能力を獲得し得るであろう。しかして勇敢にして偉大なる人道の戦士と成ることが出来るであろう。現代のモーセ又はエリヤたるの名誉を荷うべき者は誰か。意思の方面に於ける霊の賜物もまた人の能力のうちいと貴きものの一つである。

預言の力と凡ての奥義と凡ての知識と、しかしてまた山を移すほどの大いなる信仰と、その一つを所有するだに驚異たるを失わない。まして一人にして之等のものを併有したらば如何。しかしながらそれにも拘わらず、能力は遂に生命の代用を為さない。如何に優れたる霊の賜物もただ一つの愛には換えることが出来ない。たとえ我等にして時勢の推移を達観し人心の変動を謬なく看破し以て常に驚くべき警世の言を発することを得るとも、又は聖書の全巻に精通し殊にその凡ての秘義を味得して深刻無比なる或いは適切此の上もなき霊的真理を語り得るとも、又は神学哲学科学その他百科の学問を研究して偉大なる宇宙観を組み立て得るとも、又は伝道、救済、社会奉仕等に関する熱狂的運動を起こして世界を動かすほどの痛快なる事業を成就するとも、もしそれが何か自己を本位とする心より出づるものならんか、然らば乃ち「数えるに足らず」である、我等は神の前に無に均しいのである。愛の欠乏は一切の欠乏である。之を補い得るものは一つも無い。愛こそは我等の生命、我等の人格である。

最後に今一たび意思の方面に於ける霊の賜物の特殊なる発動を想像せよ。それは外見上愛と酷似せる或る種の行動である。例えば我等が全財産を貧民の為に投げ出して自ら無一物と成ったとしようか、又は財産のみならず、生命をも惜しまずして、人のため国のためもしくは神のため火刑に処せられ、従容として死についたとしようか。言う迄もなく壮烈の極みである。幾多の人が之に感動させられるであろう。かかる犠牲的献身的行為を成就したる者が神の大いなる祝福に漏るる筈はないと、我も人も一様に感ずるであろう。然るにも拘わらず、もしそれがいみじくも自己を充たさんとする心に基きしならば、乃ち「我に益なし」である。神は断じて斯の如き行為を受け入れ給わない。彼の見る所は人の見る所と異なる。形ではない、心である。形はたとえ如何ばかり壮烈を極むるにもせよ、純なる愛のこころより出たものでない限り、それは永久に神を悦ばしめることが出来ない。愛なき犠牲は虚しい。貴きは犠牲その事ではない。ただ之を生かす一つの心である。

愛なくば、如何に優れたる詩も預言も、鳴る銅や響く繞鉢にひとしい、奥義も知識も数えるに足りない、確信も犠牲も無益である。或る場合には偽善である。誠に愛なくば人生は空の空である。

二 愛の美しさ

優れたる霊の賜物のみあるとも何かしよう。貴きものは生命の実体たる愛であって、その道具たる能力ではない。さらば問う、愛の性質如何。

パウロは四節乃至七節に於いて此の問いに対する解答を掲げている。しかし我等はその段に入るに先だち、愛なる原語の意義を一応探らねばならぬ。何となればパウロがここに用いる所は人の言葉のいと美しきものであるからである。新約聖書に於いて愛を表わすギリシャ語に二種あるを見る。その一は phileo である。感情より出づる通常の愛を意味する。その二は agapao である。尊敬の心より出づる無私の愛を意味する。然るに此の第二の動詞より変化したる名詞 agape は『七十人訳』聖書を除いては独り新約聖書に於いてのみ見受くる語であって、一般の作者の筆には決して上らなかったものであるという。疑いもなく聖書記者等は或る特別のものを表わさんが為に選んで此の新しき語を用いたのである。即ちそれは彼等がキリストを信じてのち、始めて経験したる新しき生命――キリストの愛と性質を同じくする聖き愛――敵をも愛するの愛――であった。この基督教独特の、地上のものならぬ天的の愛を表示する語が agape である。トレンチ曰く「これ天啓的宗教のふところのうちに生まれし言葉である」と。幸いなる言葉よ。しかしてパウロがここに録せるは勿論その言葉であった。ただの愛ではない、アガペーである、キリストの霊を受けて始めて経験することを得るその特別なる聖き愛である(前篇参照)。

愛は寛容にして慈悲あり。
愛は妬まず、愛は誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪をおもわず、
不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、
おおよそ事包み、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐えるなり。(前コリント一三の四―七)

注意せよ、愛はここに人格化せられてあることを。愛の姿を描写せんと欲して、パウロは愛と称する抽象的の徳性を考えなかった。彼は直ちに生ける「愛」彼自身をおもったのである。生ける愛とは誰か。答えるまでもなくナザレのイエスである。また彼の父なる神である。「主は我等の為に生命を捨て給えり。之によりて愛ということを知りたり」。「神は愛なり」。

愛とは如何なるものかを明らかにすべく、パウロはその目をイエスに着けまた神に着けた。しかして鮮やかに愛の姿を看取した。乃ち恰も秀でたる日本画家が墨筆一揮、染むるともなく忽ち姿態を躍如たらしむるがように、彼は一言以てその輪廓を描き出でた。曰く「愛は寛容にして慈悲あり」と。ただし訳語については遺憾が無いではない。寧ろ愛は「忍耐しのび深くまた恩恵めぐみ深し」と意訳せば少しく原語の意に近いであろう(恩恵深しとの訳語についてはマイヤー註解書を見よ)。僅かに二字である。しかもその見事さ!受働的には忍耐、能働的には恩恵。忍ぶに非ずんばすなわち恵む。この二字を以て蔽われざる愛の如何なる性格があるか。

見よ、イエスを。「彼は苦しめらるれども、自らへりくだりて口を開かず、屠場に牽かるる羔の如く、毛を切る者の前に黙す羊の如くして、その口を開かざりき」。愛は怪しきばかりに忍耐深くあった。「彼は我等のとがの為に傷つけられ、我等の不義の為に砕かれ、自ら懲らしめを受けて、我等に平安を与う。その撃たれしきずによりて我等は癒されたり」。愛は驚くべく恩恵深くあった。誠に忍耐と恩恵とを外にして、イエスの生涯なるものは無かったのである。殊に十字架の上の彼こそまさしく愛の理想であった。さながら日の美しさが落日に於いて極まるように、愛の貴さはイエスの死に於いて絶頂に達した。「人もしなんじの右の頬を撃たば左をも向けよ」といい、「汝等の敵を愛し、汝等を責むる者の為に祈れ」という、何人も実行しがたき夢である。しかもイエスはここに最も偉大なる事実を以て自ら之を万人の前に証明したのである。再び愛について問うことをやめよ。カルバリ山上人の子イエスの死は、天と地とをその証者として、万世に亙りて輝きつつある。

或いはまた父なる神を見よ。パウロはロマ書に於いて神の人類に対する態度を前後の大いなる二段に分けて言った、「神は忍耐をもて過ぎしかたの罪を見のがし給いしが、己の義を顕わさんとて、キリストを立てその血によりて信仰によれるなだめの供物となし給えり」と。換言すれば、旧約時代に於いては神は己にそむきたる人類に対して専ら受働的態度を取り給うた。その時聖なる忍耐は彼が罪人我等をあしらい給うの途であった。然るに新約時代に入りては彼は遂に進んで能働的態度に出で、その子キリストの血によりて我等の罪の贖いを果たし給うた。従って今や彼は我等をあしらうに恰も始めより罪なかりし者の如き途を以てし給うのである。これ即ち人の思いに過ぐる恩恵の途である。過去には忍耐、現在には恩恵、愛なる神は斯の如くにして我等人類に対したもう。

雅歌にうたわれし「荊棘の中の百合花」に愛の美しき面影がある。荊棘は屡々撃ちて彼女を掻き裂くであろう。しかし見よ、彼女は静かに之を忍ぶ。しかのみならず、更にかぐわしき香をもて己が敵に浴びせかけずしては已まないのである。「愛は忍耐深くまた恩恵深し」という。誰か之よりも適切なる語を以て愛の輪廓を描くことを得ようか。

忍耐と恩恵とが愛の特性である事は、即ち愛の自己否定を意味する。故に愛ある所に、自己本位より起きる一切の見苦しき葛藤がない。およそ人と人との間に於いて見受くるところの諸々の忌むべき出来事は、みな自己を本位とする心にもとづく。期するところは畢竟自己の満足である。故に例えば、人に善きものあるを見るときは、之を我がものたらしめんことを思って、妬む。己に優れたるものある時は、人をして之を仰がしめんことを欲して、おのずから外に向かっては誇り、内にありては高ぶる。また自己本位の心はすべて人のものを尊重することを知らない。故にその外に現わるるや乃ち非礼である。内に潜むや乃ち利己主義である。もしまた人より悪を以てあしらわれんか、忽ち私憤を発せざるを得ない。しかのみならず、何時までも人の悪を忘るることを得ずして之を記憶に留めるのである。ああ妬みと誇りと高ぶり、また非礼と利己主義、また私憤と怨恨、それらのものの苦さ堪えがたさを経験しない者は無い。もし我等の社会より此の種の痛みを一掃することを得んには、我等の福いまさに如何ばかりであろうか。病根は一に自己にある。然るに愛は自己を否定する。故に愛は妬まない、却って讃美する。愛は誇らない高ぶらない、却って感謝する。愛は非礼を行わずして、美しき紳士的態度を守る。また己の利を求めずして、ひとえに人の為をおもう。愛は勿論公憤を発する、しかし断じて私憤を懐かない、如何なる場合にも自己の損害については忍び且つ耐える。愛は人の悪をおもわない、思い切って之を記憶中より拭い去る、しかして己が敵を赦し、かつ憐れみ且つ祈る。「メラの水苦くして飲むことを得ざりき。モーセ、エホバに呼ばわりしに、エホバ之に一本の木を示し給いたれば、即ち之を水に投げ入れしに水甘くなれり」(出エジプト一五の二三―二五)。人生の苦き水を化して甘くならしむる一本の不思議なる木こそは実に愛である。

愛は自己否定であるという。然らば自己以外の人を本位とする心であるか。確かに此の世の愛はその最も純なるものといえども人本位より以上に達しない。それは愛する者の為に全自己を惜しみなくささげるであろう。しかしながら遂に其処までである。人の為にする自己の否定である。故にすべて人の喜ぶところを喜ぶ。不義といえどももしそれが愛する者の喜ぶ所ならんか、乃ち己も共に之を喜び、もしくは少なくとも之を如何ともすることが出来ないのである。所詮、人本位の愛の中に義又は真理の占むべき地位がない。たとえ自己をみするとも、人を第一として、愛は卑しきまがりたるものと堕落せざるを得ない。

真の愛は自己を否定すると共にまた不義を否定する。即ちそれは人本位でなくして、神本位である。曰う「不義を喜ばずして、真理の喜ぶ所を喜ぶ」と。愛の憂え悲しむものにして不義の如きはない。不義――神のこころに背く事、愛の最大関心事はここにある。誠にベンゲルが愛(アガペー)を説明して「隣人の救いを求むる心」と言った通りである。愛は如何なる場合にも不義を喜ばない。何となれば愛と真理(真実)とは神にありて一つであるからである。愛の体現なるイエス自身がまた真理であった(ヨハネ一四の六)。愛は彼にありて真理と結婚してった。二者は本来一体である。此の故に二者は常に喜びを共にする。真理の喜ぶ所は愛もまたこれを喜ぶのである。ここに再び真理が人格化せられてあるに注意せよ。宇宙の深き所に於いて互いに抱擁する愛と真理、一は上なく熱く他は飽くまでも冷たい。しかし両者の心臓には同じ血が通いつつある。真理にそむくものは必ず愛を痛ましめざるを得ない。愛に適わざるものは遂に真理の敵たらざるを得ない(不義と真理との対照についてはロマ二の八、後テサロニケ二の一〇、一二参照)。

愛と真理との結婚!それは実に限りなく深き事実である。愛の絶対性、恒久性、不変性は此の事実に根ざすのである。真理の立場が絶対的、恒久的、不変的の所にある事は何人も之を知る。愛にありては如何。愛はその性質上必然相対的のものであるか、それは何時までも続くことの不可能なるものであるか、感情の自然的移動に従ってうつろい変わるを免れざるものであるか。此の世の愛の讃美者らは皆然りと答える。殊に近代人に至っては、理不尽にも相対性を以て却って愛の美しき特色のように看做し、その自由に移り往くところに寧ろ愛の生命の発露があるかの如くに主張する。呪われたる思潮よ。疑いもなく彼等は未だ愛の何たるかを知らないのである。愛を叫ぶ声の高きこと近代の如きは未だ曾て見ざりし所であるにも拘わらず、愛を解する思想と、従って之を味わう経験との浅薄なることもまた、近代の如きは未だ曾て無かった。何故に然るか。他なし、近代人の愛は真理と離縁しているからである。すべて真理を離れたるものは当然に浅薄である。愛は真理のともである。プラトーの論じたる恋愛(eros)すらも恒久不変なるイデアを慕うの心であった。ましてイエスより溢るるアガペーの愛をや。真理の喜ぶ所を喜ぶ愛は真理と共に相並んで、絶対的恒久的不変的の立場に立つ。

斯の如くまことの愛は常に真理と相抱きつつある。しかして真理の喜びに愛が参与すると同じように、愛の悲しみに対しては真理がいつも深き慰めを供給する。愛にしてもし堪えがたき痛手を負わんか、真理は静かに之に囁いて言う、事は斯くして終るのではない、眼を挙げて永遠を見よと。此の言に励まされて愛は将に投げ出さんとしたるものを取り直し、再び之を包みて以て維持するのである。「包む」とは善かれ悪しかれ兎に角己がものとして守って、投げ出さざることを意味する。故にまた之を「忍ぶ」とも訳することが出来る。何れにするも同意である。感情の僕なる此の世の愛は、感情の動くと共に動きて、今まで己が手に抱き占めたるものをも容易く棄て去りて憚らない。しかしながら真理の縄たるまことの愛は異なる。それは真理の動かざるが如くに動かない。堪えがたき痛手を負いながら、なお之を負わせたる者を棄てずして却って包むのである、包んで之を離さないのである。福いなるかな、芳香を以て荊棘を包む百合花の如くに、愛を以て敵をつつみ得る者!

斯く包みたる後に、愛は再び真理の声に耳を傾ける。乃ち後者は曰う、人を見るな、彼を支配しつつある神を見よと。もし人に目を着けんか、多くの場合に於いて彼を信ずることは事実上不可能である。故に折角包みながら遂に守り切れずして、また之をなげうたざるを得ない。しかしながら如何なる人も神の支配の外には出ることが出来ない。二羽一銭にて売らるる雀も、神の許しなくしては一羽だに地に落ちない。或る人の立つも倒るるも究竟くきょうする所みこころに由るのである。従ってたとえ如何に信ずべからざる人についても、なお彼を支配しつつある神を信ずるに由って、間接に彼をも信ずることが出来る。これ畢竟ひっきょう神の摂理に対する信頼である。しかして愛は真理と共に在るが故に、信ずべからざる人を見ずして、永久に信ずべき神とその摂理とを見る。故にすべての環境にさからって、「おおよそ事信ずる」のである。

既に信頼がある。従って希望なきを得ない。彼の立つも倒るるもみこころに由るとせば、彼はた何時か立てられるであろう。誰かその事を否定し得ようか。たとえ今は人の目より見て如何に望みなき状態にあるとも、神の智慧と能力との貯えは無限である。みこころに適わば遂に再び美しき日が来るに相違ない。すべて摂理を信ずる者に取って、希望を失うことは不可能である。愛はおおよそ事信ずる。故にその受けたる傷の深さは癒えがたきほどのものであっても、なお眼を挙げて望まざるを得ない。まことの愛にふさわしからぬものにして絶望の如きはない。愛は望む。望むべくもあらぬ時になお独りさびしくも又雄々しく望みつづける。

しかして望む者は耐える。恰も絶望者は最早や如何なるよき環境の中にも生くるに堪えないと同様に、望みをもつ者は如何なる悪しき条件の下にも圧倒せられない。破滅の前提は絶望でなくてはならぬ。愛はおおよそ事望む。望みの光りが愛の前に消え失する時はない。故に愛は破滅することを知らない。たとえ人として堪えがたき苦き杯を飲ましめられるとも、たとえ恐るべき叛逆に遇ってその心臓を刺されるとも、愛はなお耐えて生きつづけるのである。愛の特性は畢竟この何ものを以ても砕くべからざる超自然的忍耐力の一事に集中する。

かくてパウロは愛の性質の叙述を目的とする一段を終えた。彼は先ずその全体の輪廓を描いては「寛容にして慈悲あり」といい、次にその社会的関係に於ける特徴を挙げては「妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪をおもわず」といい、進んでその根本的の立場を示しては「不義を喜ばずして、真理の喜ぶ所を喜び」といい、最後にその持続性を明らかにして「凡そ事包み、凡そ事信じ、凡そ事望み、凡そ事耐えるなり」と言った。此の一段を通読して何人も気付かざるを得ないことは、愛の特性として挙げられたるものが殆どみな消極的の方面に於いてある事である。愛は人生の最も華々しき要素ではないか。パウロは何故に甘くして酔うが如き愛の積極的方面を説かないか。思うに斯の如き疑問は殊に現代人の禁じがたしとする所であろう。しかし解答は簡単である。愛がその光輝ある真面目を遺憾なく発揮するは、甘き歓楽に酔う時ではなくして、却って堪うべからざる苦き杯を飲ましめられる時にあるからである。歓楽に酔うことは利己主義もまた之をくする。しかして実に現代人の愛は多くの場合に於いて愛ではなくして、その仮面を被りし強烈なる利己主義に外ならない。故に徒らに酔うことを知って苦しむことを知らない、歌うことを知って忍ぶことを知らない、棄つることを知って包むことを知らない。近頃世界に於いてまた我国に於いて、愛の名を以てしきりに宣伝せられ且つ実行せらるる一種の匂い強き現代的思想を人は何とか見る。我等は最早やその悪趣味に堪えない。我等は正直なる現代人に向かって勧告する。曰く汝の利己主義より愛の仮面を外せと。愛か、利己主義か、試みは叛逆を受けたる時にある。叛逆者に対してなお忍耐を維持し好意を浴びせかけ得るもの、刺されし傷を抑えつつなお事包み、事信じ、事望み、事耐え得るもの、それのみが愛である。之に反して酔うべき時には飽くまでに酔えど、忍ぶべき時に忍ぶ能わず、叛逆に遇っては一たまりもなくついえるものは、明白なる利己主義でなくして何であるか。繰返して言う、現代人の愛は仮装したる利己主義に外ならないと。「汝等己を愛する者を愛すとも何の報いをか得べき。取税人も然かするに非ずや」。愛の特性は主としてその消極的方面に於いてある。右の頬を撃たれて、左をも向け得るか否か。己を責むる者の為に祈り得るか否か。凡そ其の辺に岐路があるのである。

パウロの挙げたる愛の性格は、もとより一として徳性の高きものならぬはない。今もし之等の諸条件が一箇の律法として我等に与えられたのであるとしたならば如何。誰かよく之に堪えんやである。しかしながらパウロのここに掲ぐる所は決して律法ではない事に注意せよ。彼は決して「汝等寛容にして慈悲あれ、妬む勿れ、誇る勿れ、高ぶる勿れ云々」と言って我等に迫るのではない。彼の提唱は律法ではなくして、福音である。パウロはここに愛を讃美しているのである、しかしてそれと共に、我等をして愛の体現たるイエスを受くる事に由って、自発的に之等すべての高き徳性を実現せしめんことを期するのである。愛は道徳ではない、生命である。故に之を外側より鍛え上ぐることを許さない。必ずや内側より湧き出でねばならぬ。如何にして愛なる生命が我等の内側より湧き出るか。曰くただ生ける愛なるキリストを我等の衷に迎えるに由るのみ。誠にただそれのみ。人は何人も生まれながらまことの愛をってはいない。此の世には何処にも純なる愛がない。ただキリストに於いてのみそれがある。彼はアガペーの体現であり、愛そのものである。彼を我が衷に宿さずして、如何に愛せんとつとむるも無益である。之に反して彼をだに正しく受け入れんか、即ち「最早やわれ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」との地位にだに立たんか、然らば純なる愛は必ず我が新しきいのちとして内より溢れるであろう。しかして此処に録されたる諸々の貴き性質が、努力せずして自ら我がものと成るであろう。愛は律法の家に生まれない。それは疑いもなく福音の子である。「律法はモーセによりて与えられ、恩恵と真理(真実)とはイエス・キリストによりて来たれるなり」(ヨハネ一の一七)。

三 愛は絶えず

愛は何時までも絶えることなし。されど預言はすたれ、異言は止み、知識もまた廃らん。それ我等の知るところ全からず、我等の預言も全からず。全きもの来たらん時は、全からぬもの廃らん。われ童子わらべの時は語ることも童子の如く、思うことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。今我等は鏡をもて見る如く見るところおぼろなり。されどかの時には顔をあわせて相見ん。今わが知るところ全からず。されどかの時には我が知られたる如く全く知るべし。(前コリント一三の八―一二)

愛の特性はその何ものを以ても砕くべからざる超自然的忍耐力にある。愛はおおよそ事包みおおよそ事信じおおよそ事望みおおよそ事耐える。故に之にうち勝ち得る敵はない。如何なる攻撃又は圧迫を以てするとも、愛は遂に破滅することを知らない。

愛する者の胸に於けるこの主観的忍耐力は、やがて愛の客観的恒久性の序曲であるとゴーデーは言った。愛はただに主観的に終わりまで耐え忍ぶという性格を有するのみでない。また客観的にとこしえに朽つべからざる生命をっている。「愛は何時までも絶えることなし」という。愛そのものが限りなきいのちである。故にすべての生命が滅びるとも、愛は滅びない。天地が過ぎ往くとも、愛は消え失せない。たとえ人の生活状態に根本的の革命が臨みて、その一切の経験が全然別種のものに変化するとも、愛のみは依然として変わらない。己が心に取っての如何なる痛みの下にもおおよそ事耐える愛は、また外側のあらゆる変動を超越して、永遠にまで生きるのである。

何故に愛は何時までも滅びないか。けだし愛(アガペー)は神の生命の人に注がれしものに外ならぬからである。言い換えれば、愛は神の生命の反射である。故にたとえ其の光度は弱くとも、その実質に於いては神より輝く光そのものと異なる所がない。凡そ人に許されたる経験のうち愛のみが全きものである。愛する時にのみ我等は聖なる者の最も深き経験に参与しつつあるのである。しかして神の生命と性質を同じくするものがとこしえに滅ぶべからざるは言う迄もない。

之に反して、人の優れたる能力――霊の賜物に基く凡ての高き経験といえども、或る時に至ればみな廃滅に帰してしまう。例えば預言は今は貴くある。特別なる啓示により歴史の未来に懸かるとばりを掲げて、世の人の未だ見ざる前途の光景を望み、しかして之を声高く語り告ぐるは、選ばれたる者の人類に対する重大なる使命である。その他広き意義に於ける預言、即ち聖書の正しき解釈の応用に基くところの文明の批判、時勢の観察、また勧言、慰籍等は、常に我等の社会を導く光明たるを失わない。暗黒に迷い易き我々は屡々声を揚げて問う、「斥候よ、夜は何の時ぞ」と(イザヤ二一の一一)。斥候は即ち預言者である。しかして彼等の警告は「夜明けて明星の出づるまで暗きにかがやく燈火」である(後ペテロ一の一九)。之あるによりて、我等は暗黒の中にありながら謬なく行手を定めることが出来るのである。かく預言は今は無くてならぬ貴き経験に属する。然るにも拘わらず、それは永久には存続しない。やがて或る時の来たらんか、今の預言はみな廃物に帰して、最早や過去の思い出の料たるに過ぎぬに至るであろう。

異言とは如何なる経験であるか。それについては学者の解釈必ずしも一致しない。しかし人のたましいが救いを実験したのち、殊に聖霊の火によりてその感情を高められ、普通の言語を以てしては到底表わす能わざる深くして微妙なる讃美感謝又は祈求に対し、それに適わしき或る新たなる発言を与える時、之を称して異言といったのであるとの解釈は多分大体に於いて謬らぬであろう。その原始的の形態に於いては、異言は寧ろ物珍らしき驚異であった。例えばペンテコステの日に、使徒たちは聖霊の強き火を受け、恍惚として、みたまの宣べしむるままに諸国の語を以て神の大いなる業を語り始めたという(行伝二章、其の他新約聖書中異言に関する記事は行伝一〇の四六、同一九の六、マルコ一六の六、前コリント一二、一四章にある)。それは或る有力なる学者の解するように、使徒たちが未だ学ばざりし外国語を語ったのではなくして、聖霊の創造にかかる新しき言語を発したのであるかも知れない。しかして聴衆中霊的状態の高かりし者は之に共鳴し、且つ自らその意義を明らかに解し得たため、恰も自国語にて語るを聞くかの如くに感じたのであるかも知れない。然りとするもなお常ならぬ経験に相違ない。またコリントの信者等の語りし異言も、之を釈く者なくば何人も解し得ないものであった(前コリント一四章)。しかしながら独りこの種の経験のみならず、すべて聖霊の感化を直接の原因とする高調なる感情の発表は、之を広き意義に於ける異言の一種に数えるを妨げぬであろう。斯の如くに見る時は、美しきものは異言である。純信仰的の偉大なる詩と音楽とはみなこの範疇に属する。しかして我等は勿論詩を要求する、音楽を要求する。人のたましいの深刻にして高調なる消息は、この種の表現に由らずしては伝わらない。ダビデは琴をかなでて歌い、ルーテルは笛を奏してたたえた。彼等の讃美祈祷の言は世の終わりに至るまで人類の言いがたき慰籍であることを誰か否もう。然るにも拘わらず、原始的の形態に於ける異言はもとより、今の世の最も優れたる詩又は音楽に至るまで、決して永久的生命を有するものではない。いつか或る日が来れば、凡て之等のものは惜し気もなく葬り去られざるを得ないのである。

知識もまた同様である。探究また探究、止まる所を知らず、神と人生と宇宙とに関するあらゆる複雑なる事実の中より、系統的真理を建設しつつある知性の活動は、確かに人類の感謝すべき特権である。殊に聖霊の光に照らされて始めて我等の了解に委ねらるる深き霊的真理の知識は、之なくしては我等の霊性の進歩を期すべくもない。「兄弟よ、智慧に於いては子供となるなかれ。悪に於いては幼児となり、智慧に於いては成人となれ」とパウロ自ら勧めている(智慧は知識の応用的方面である)。知識の貴さは異言の貴さに勝るとも決して劣らない。然るにも拘わらず、預言の廃るが如く、異言の止むが如くに、知識もまた或る時に至って悉く廃るのである。仮説を基礎とする科学的知識が日々に廃りつつある事は人みな之を知る。ガリレオ、ニウトンの立派なる知識さえ早や既に揺らぎかけた。誰か今日の科学的又は哲学的知識を以て永遠に動かざる絶対のものとしようか。否、ひとりこの世の智慧のみではない。唯一の天啓の書たる聖書に基く神学的知識といえども、遂には全く不用に帰する時が来る。凡そ人の知識という知識は、その如何なる種類のものたるを問わず、一つとして永遠的価値をたないのである。

預言と異言と知識、之等の貴き経験がみな何時か廃滅に帰さねばならぬとは、如何なる理由によるのであるか。答えて曰く、それ等は何れも完きものでないからである。成るほど我等の知識は周密である、深遠である。各種の原理法則が縦横に相つらなりて、見事なる体系を組立ててはいる。しかしながら今一段高き立場より見んか、遂にこれ真理の断片たるに過ぎない。我等の世界についての根本的真理を究めると称する哲学に於いてさえ、学者が辿る所の思想の系統各々相異なり、殆ど互いに接触点を見出しがたきほど分散しているではないか。救贖に関する霊的知識もまた畢竟永遠的事実の或る特殊なる部分を拾って渉っているに過ぎぬではないか。高山の絶頂より全峯を俯瞰してその裾野に至るまでの形相を一陣の中に収むるが如く、神の立場より時間及び空間を超越して宇宙と人生との全体を直観したる大知識は何処にあるか。預言についてもまた全然同じ事が言い得る。誠に「それ我らの知るところ全からず、我等の預言も全からず」である。

思うに能力は機関によって制限せらるるを免れない。我等が現在の肉体の如き不完全なる機関を備える間は、たとえ聖霊の感化によりて驚くべくその能率を増進するとも、なお我等に許さるる能力は或る限度を超えることが出来ないのであろう。身体の構造が完全なるものに改造せられない限り、我等の知識も預言も詩も音楽も、今の如く全からぬ断片的のものたるを免れない。

しかしながら何時までも斯の如くにしては続かない。「完き者の来たらん時は、全からぬ者廃らん」という(完きものの原語は量の全部よりも寧ろ質の完全を意味する語である)。完きものは必ず来る。完き知識と完き預言、完き詩と完き音楽、それ等のものが打ち揃って必ず我等に臨み来る日がある。即ちキリスト再臨の日であって、また我等が復活栄化の日である。その日には我等の生活の凡ての方面に於いて完き能力が賦与せられる故に、全からぬものは忽ち廃物と化するであろう。今の神学と哲学と科学、預言と詩と音楽は其の日限り我等の手を離れるであろう。まして道徳と法律、政治と経済、教育と衛生、勧業と土木、その他今日我等の生活の内容を織り成せるあらゆる経験が悉く廃滅に帰するは論をたない。霊の賜物は遥かに貴いとはいえ、均しく全からぬものに属する以上、此の世の一切の経験と運命を共にするはけだし已むを得ない事である。

或いは考える人があるであろう、我等の現在の経験はもとより全からぬには相違ないといえども、再臨の日に至って廃滅に帰しはしない、かえってこの全からぬものが全うせられて、来世永遠の生活に続くのである、従って霊の賜物もまた何時までも絶えないという点に於いて、別段愛と異なることはない筈であると。斯の如き誤解を防がんが為に、パウロは特に一箇の通俗的なる実例を挙げて、以て完きものの到来による全からぬものの廃滅の法則を説明した。曰く「われ童子わらべの時は語ることも童子の如く、思うことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人となりては童子の事を棄てたり」と。これ凡ての成人者の一たび実験したる真理である。幼児時代の言語と思慮と論究、そは何れもあどけなくはあるが、幼児たる者の貴き特権たるを失わない。之等の能力あればこそ幼児としての生活の発展を期することが出来るのである。しかしながら、それ等は勿論幼児らしきもの即ち甚だ全からぬものであって、そのまま何時までも存続すべきものでないことは言うまでもない。然らば我等は人と成るに及び之等の全からぬ言語、思慮、論究等を拡大して、以て新しき生活に引き継ぐのであるか。言い換えれば、我等が現に使用しつつある所の言語又は思慮又は論究等は幼児時代のものの存続であるか。明らかにそうでない。我等が成人に達するに従い、成人にふさわしき新たなる言語其の他の能力を獲得して、かの幼児特有の片言、お伽噺式の想像、論理を超越したる判断等は、之を抛棄してしまったのである。乙は甲の前身ではなくして、その到来までの間の代用物であったに過ぎない。あたかも太陽出でて燈火の不用に帰すると異ならない。現世生活に於ける異言預言及び知識の(三者はそれぞれ小児の言語、思慮、論究に対応する)来世生活に対する関係もまたその通りである。之等のものは永遠の世にまで継続しない、その入口までである、門をくぐると共に必ず其処にて抛棄せられるのである。

さらばすべて現在の知識や預言や詩また音楽などは来世永遠の生活のためには何の必要もなきものであるか。答えて曰く、然り、また然らずと。直接には無用である。例えば現在の知識の如何に拘わらず、かの日には信ずる者みな一様に完き知識の恩賜に与かるであろう。しかしながら間接には無用でない。現在より来世にまで通じて存続する所の或るもの(愛)に対する奉仕という点に於いて、之等の霊的能力その他一切の経験はみな大いなる使命と意義とを有する。之を要するに知識も預言も詩も歌もただ愛に仕えて之を助くべき僕としてのみその存在の理由を見出すことが出来る。

完きもの来たる時は全からぬもの廃る。人と成りては童子の事を棄てざるを得ない。同じように、「かの時」には今の預言や知識が悉く廃るに相違ない。何となれば来たるべきものこそ完き預言、完き知識であるからである。之を今の能力と比較してその差まさに幾ばくか。「今我等は鏡をもて見る如く見るところ朧ろなり、されどかの時には顔をあわせて相見ん。今わが知るところ全からず、されどかの時には我が知られたる如く全く知るべし」という。我等の預言は神を見るの実験に基づく。然るに今の世にありて我等は如何にして神を見得るか。必ずや何かの啓示によらねばならぬ。しかして自然に於ける啓示の如きはただ神の能力とその神たる地位とを現わすに過ぎず、もとより言うに足らぬ。啓示らしき啓示は先ず第一に福音である。ここに我等は始めて神彼自身を見ることが出来る。彼のこころの深き所、その聖なる愛、その動かすべからざる義、その世々に亙る救いの経綸、その罪びとに対する喜ばしき使信等、凡て人格者としての神の姿を我等はただ福音に於いてのみ見る。又この福音的啓示の為の器として選ばれたる預言者等は特別なる異象の中に神を見、使徒等は肉となりたる神の子キリストの中に父の栄光を見た。イザヤ曰く「われ高くあがれる聖座みくらにエホバの坐し給うを見しに、その裳裾もすそは殿に満ちたり。セラピムその上に立つ……互いに呼び言いけるは、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍のエホバ!その栄光は全地にみつ」と。ヨハネもまた曰う、「言は肉体となりて我等のうちに宿り給えり。我等その栄光を見たり。実に父の独子の栄光にして、恩恵めぐみ真実まこととにてみてり」と。福音と異象と『言』、これみな神の啓示として最も福いなるものである事は言うまでもない。然るにも拘わらず、之等の啓示を通しての経験は、あたかも「鏡をもて見る如く、見るところ朧ろ」なるを免れないのである。鏡とは古代の金属製の鏡を意味する。コリントはその名ある産地であった(ガラスの背面を鉛又は水銀にて蔽いし鏡は十三世紀の産物であるという)。鏡に映ずる像は実物の像には相違なしといえども、なお鏡に固有の欠点によって制限せられるが故に、不鮮明たるを免れない。福音又は異象又は『言』もその通りである。何れにも共通なる固有の欠点がある。即ち之等の啓示はみな現存の不完全なる人間をして之を受けしむることを目的とするが為に、是非とも人間的制限の中に入らざるを得ない。例えば人の用いる言語を用い、人の解し得べき人物を典型とし、また人と同じ肉体を取る等の類これである。鏡を通しての像は、鏡に固有の人間的技巧の制限を免れないように、啓示を通しての神の姿は、啓示に固有の人間的適応性の制限を免れることが出来ない。故に自ら不鮮明である、朧ろである(朧ろと訳せられたる語は「隠語にて」の意である)。されど、「かの時」には、然りかの時には、我等自身が今の 人間的制限を超越せしめられて復活的生活に入るかの時には「顔をあわせて相見ん」である。友と物言う如く、何ものの媒介もなくして、まのあたり神と相見ることが出来るのである。「我は……目さむる時聖容みかたちをもて飽き足ることを得ん」(詩一七の一五)。この完きもの来たらば、今の全からぬ預言の類は之を何としようか。

知識についてもまた同じ。知識の中の知識は神を知るにある。我等は今如何ばかり神を知るか。最も深き神学の研究を以てして、なお神に関する僅少なる部分的知識を得るに過ぎない。科学の天才ニウトンが自分の知識の数えるに足らぬを歎じて、さながら渺茫びょうぼうたる真理の大海の岸辺に二三の礫を拾ったに異ならないと言いしは何人も知る。もし神の手の業についてすら斯の如くならば、まして神彼自身についてをや。人は「神」といって簡単に無雑作に発音するも、ああその名を以て呼ばるる者の偉大さよ!彼自ら言った「我は有りて在る者なり」と。有りて在る者、絶対にして自主にして永遠なる者、勿論時間空間を超越したる者、斯の如き者に関して我等の今知る所果たして何ほどぞ。されどかの時には、即ち顔をあわせて相見るべきかの時には、あたかも先に(今の世にありて)我等が彼に知られたごとく全く彼を知ることが出来るのであるとパウロは言う。何と大胆なる言葉ではないか。詩人の歌ったように、われ隠れたる所にて造られ、地の底所そこべにてたえに綴り合わされし時、わが骨彼に隠るることなく、日々に形作られしわが百体の一だにあらざりし時に、悉く彼のふみに録されたのである。彼はまた遠くより我が思いをわきまえわが諸々の途を悉く知る。我が舌に一言ありとも、見よ、彼は悉く之を知り給う。「汝等の頭の髪までも皆数えらる」。誠に「かかる知識はいと奇しくして我に過ぐ」である。然るに驚くべし、かの時にはかかる全き奇しき知識を以て我等が神を知ることを許されるのであるとは。その時に至らば、今のささやかなる礫の如き知識は最早や何にしよう。人と成りて童子の事を棄てしよりも遥かに勝る満足を以て、我等之をなげうつであろう。

かつてルーテルが病床にあったとき、人の運び来たりし校正刷を手にしながら、家族の者に語って曰った、「今は我等は神の心を鮮明に知ることが出来ない。例えば校正刷を読むが如きである。しかしかの時には完全なる印刷を与えられて、凡てを明瞭直截に読み得るであろう」と。ルーテルのこの告白はパウロの論説に対する好き註解である。誠に今の我等の預言と知識とは、誤植又は遺漏多き粗末なる校正刷に過ぎない。かの時には完きものが之に代わるであろう。しかして完きもの来たらば、校正刷は忽ち反古ほごに帰する。全からぬものの存在はかの時までである。

げに信仰と希望と愛と、此の三つのものは限りなくのこらん。しかしてそのうち最も大いなるは愛なり。(一三)

預言はすたり、異言は止み、知識もまた葬られる。之等の優れたる霊的能力さえ、光栄ある永遠の生活には適しない。かの時来たりて、我等が復活のいのちに入る時、愛は愈々輝きを増し加えつつ其のまま彼世へと移り往くに拘わらず、すべての霊の賜物は其処にて落伍してしまうのである。以て知るべし、如何なる賜物も愛の貴きには比ぶべくもないことを。

すべての賜物は斯の如くにして廃る。彼等は全からぬが故である。とこしえに廃らざるものはその性質上完きものでなくてはならぬ。我等が現在の経験中全き性質を有するものは何であるか。その第一は言う迄もなく愛である。しかし必ずしも愛のみではない。我等は彼女の親しき姉妹を忘れてはならない。即ち信仰と希望である。信と望と愛と、我等の数えがたき経験中ただこの三つのもののみ性質上完くある。愛の完きは先に見たように、神のいのちの反射であるからである。信仰と希望との完き所以は如何。信仰とはキリストの血によりて果たされし贖いを受け入るることである(ロマ三の二四)。希望とは神の永遠の栄光に与るべく望むことである(ロマ五の二)。二者は何れも完きものを対象として、之と無条件的関係に立つ。故に自らまた完きものたらざるを得ない。しかして完きが故に廃らない。すべての霊の賜物が落伍する時、信仰と希望と愛との三つのみは倒れずして、立ちて限りなく存続するのである。

然り、来世永遠の生活に於いて、我等はなお何時までも今の如くに信じ、望み、また愛する。基督者の現世生活と同じく、その来世もまた信仰と希望と愛との生活である。我等はとこしえにキリストの贖いを信ずる。我等をして神に結ばれしむる鎖は今も後もただ之あるのみ。今は「見える所によらず(顔をあわせて見ざる故)、ただ信仰によりて歩む」(後コリント五の七)。後には見る所により、しかしながら矢張り信仰によりて歩む。もしこの信仰にして失せんか、乃ち神と我等との結合は絶えざるを得ない。殊に顔をあわせて相見る如き親しさの極みなる交わりに至っては、勿論純なる一すじの信仰がその基調でなければならぬ。

我等はとこしえに神の栄光に与るべく望む。希望といって信仰及び愛と相並べて、基督者の生活の根本的要素を表わす時には、それは個々の具体的の希望を意味しない。神の限りなき栄光の我等の上に実現せんことを目的とする包括的の希望を意味する。しかしてこの希望は或る一定の時を期して悉く成就するものではない。神の我等にせんと欲し給う栄光の内容は無限である。我等の来世生活は尽きざる進歩の生活である。かの時以後なお恩恵は恩恵に次いで与えられるであろう、栄光は栄光を追って加えられるであろう、かくして遂に止まる所を知らないであろう。我等は今も後も常に限りなきものを望みつつ進む。我等の希望は永遠にその生々しさを失わない。

しかして我等は勿論とこしえに愛する。「愛は何時までも絶えることなし」である。現に我等の胸にある所の、小さけれども完きいのち、キリストの心を以て神と人とを愛するの愛、それは実に限りなきいのちである。かの世に至りて、この生命は更に更に豊かなるものとせられるであろう。神の国は愛の国である、愛を以て充ち溢れつつ、立ちて永遠にまで至るべき国である。

我等の今の経験は殆ど残なく消え失せる。最も優れたる霊の賜物さえみな廃る。廃らないものはただ三つ、信仰と希望と愛とのみ。故にこの三つは我等の一切の経験のうち比いなき貴きものであると言わざるを得ない。知識は無くともよし、信仰は無ければならぬ。預言の能力はたずともよし、希望は之を懐かねばならぬ。詩と楽とは欠くるもよし、欠くべからざるものは愛である。愛あり希望あり信仰ありて、我等の恵まれたる所有は足りる。すべて必要なる能力は皆その中より生まれ出るのである。

信仰と希望と愛と、この三つのもののみは廃らない。しかもその中にありてなお最高の地位を占むるものは愛である。何となれば愛は生命そのものであるからである。信仰と希望とは何れもこの生命を獲得せんが為の手段に外ならない。目的は常に愛なる生命にある。神は愛である。しかし彼は信仰ではない、また希望でもない。愛こそは聖なる者の本質であり、彼の生命そのものである。故に愛は信仰よりも希望よりも更に勝る。愛に比すべき何ものをも我等は絶対に想像することが出来ない。

私訳コリント前書第十三章

もし私が人々の、また天使らの言を語っても、
 愛をたなければ
  私は鳴るかねや響く繞鉢にょうはちになったのである。
又もし私が預言(の能力)を有ち、
又すべての秘義と
すべての知識を悟っても、
又もし私が山々を移すほどの凡ての信仰を有っても、
 愛を有たなければ
  私は何でもない。
又もし私が私の凡ての所有を分け与えても、
又もし私が私の身体を焼かるる為に渡しても、
 愛を有たなければ
  いささかも私を益しない。
愛は忍び
(また)尽くす。
 愛は妬まない、
 愛はてらわない、
 高ぶらない、
 不躾ぶしつけをしない、
 自分のことを求めない、
 憤らない、
 悪を心にとめない、
不義を喜ばないで
真理と共に喜び、
 すべてを包み
 すべてを信じ
 すべてを望み
 すべてを耐える。
愛はいつまでも凋落しない。
然るに或いは預言にせよ、それは廃せられるであろう、
或いは異言にせよ、それは止むであろう、
或いは知識にせよ、それは廃せられるであろう。
 何となれば我等は部分的に知り
 また部分的に預言するのみ。
しかし完全なるものが来た時には
部分的のものは廃せられるであろう。
私が嬰児であった時には、
 嬰児らしく私は語った、
 嬰児らしく私は感じた、
  嬰児らしく私は考えた。
 しかし大人に成った時に
  私は嬰児のものを棄ててしまった。
 けだし今は我等は鏡を通して謎のように見る、
 しかし其の時には顔と顔とを合わせて(見るであろう)。
 今は我等は部分的に知る、
 しかし其の時には私が完く知られたと同じように完く知るであろう。
かくて信仰と希望と愛と、此の三つのものが(限りなく)のこるのである。
(しかして)之等のうち最も大いなるものは愛である。

〔第一八号、一九二一年二月〕