一 愛なくば
人の社会の構成は自然と同じように、決して単調なるものではない。各員みな其の性格上に著るしき特徴を
我等がキリストを信ずると共に、彼の霊即ち聖霊は必ず来たって我等の
慕うべきは霊の賜物である。これ神の子らが神のためまた相互のために奉仕すべく必要なる能力である。故にその大なるほど
霊の賜物たる能力は慕うべくある。しかしながら能力は何処までも能力であって、生命そのものではない。已むを得ずばそれは無くとも可である。ただもし生命なかりせば如何。「無くてはならぬものは唯一つのみ」。即ち人としての真の生命のみ。生命なくして如何に優れたる能力ありとも何かしよう。然らば人としての真の生命とは如何なるものであるか。答えて曰く「愛」である。
たとえわれ諸々の人の言 及び天使の言を語るとも、愛なくば鳴る銅 や響く繞鉢 の如し。 たとえわれ預言する能力あり、又すべての奥義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数えるに足らず。 たとえわれわが財産を悉く施し、又わが体を焼かるる為に付 すとも、愛なくば我に益なし。(一三の一―三)
仮に我等自身が、感情の方面に於ける霊の賜物の最も高きものを受けたと想像せよ。然らば我等の感情はみたまの火に燃やされ潔められて、白熱化しつつ神に向かい奔放するであろう。しかして今まで経験したることもなき高調なる讃美、感謝、又は言いがたき祈祷等が、恰も
然るにも拘わらず、能力は矢張り能力たるに過ぎない。それは遂に生命ではない。生命は美しき言でなくして、愛である。故にたとえ我等が異常なる賜物を与えられて、諸の人の言及び天使の言を語るとも、もしただ一つ愛なからんか、然らば乃ち何かしよう。我等の口より出づる最も詩的なる言も、例えば一片の銅板の叩かれて空しく立つる音と異ならない。よしそれが天使のいと優れたる言であるとしても、例えば銀にて
再び我等をして想像せしめよ、我等の受けし霊の賜物が今度は悟性の方面に於いてその極致に達したと。然らば我等の心の眼は未だ見ざりし世界に向かって開かれ、人類と万物との運命に関する神の永遠の経綸が明らかに啓示せられるであろう。しかして我等は或いは古の預言者らの如く、否、彼等よりも更に勝れる能力を以て、多くの現実の問題に対する神のこころを代言し、また個人と社会と国家と全人類との百千年の将来につき、権威ある預言を発することが出来るであろう。ここに至ってはカーライル、ラスキン、トルストイさえ物の数でない。優れたる賜物を受けさえすれば、我等は現代のイザヤとなりて、万国の運命を一々
或いは又人類の救贖に関する深き真理にして、神の特別なる啓示に待たずば何人も悟ること能わぬもの、即ち聖書に所謂「奥義」と称するものが、聖霊の光に照らされて悉く我等の前に開陳せられるでもあろう。然り、もしみこころに適わば、我等は自由に霊界の秘密境に分け入りて、聖書に未だ示されざる或る種の神秘的真理をさえ捕捉することを許されるでもあろう。
或いは又ただに奥義と称する特別の真理のみではない、その他凡ての知識が我等のものとなるかも知れない。即ち人生及び宇宙に関し人として探り得べき一切の真理が、聖霊の力によりて偉大なる体系を成さしめられ、しかして我等の小さき頭脳の中に整然と収められるかも知れない。知識の最も根本的なるは勿論神に関するものである。神学といって、その学問としての地位の重からぬがごとくに感ぜらるるは、神学者たる人の責任であって、神学そのものの関する所ではない。たとえ之が研究に従事する学者の多数は如何ばかり浅薄であっても、神学自体は深遠であり、根本的である。人生の最も深き実在を中心とする系統的真理は、この途に由らずしては獲得することが出来ない。しかして聖霊一たび天来の火を以て我等の悟性に点ぜんか、乃ち神の本質を始めとして、永遠より永遠に亙りての宇宙人類と神との関係、その他諸の偉大なる問題が、見事に解決せられるであろう。また神学以外の知識についても、聖霊の指導が要らぬと言うことは出来ない。否、何れの方面の学問たるを問わず、今日までに探究せられし真理の最も基礎的なるものは、少なくとも聖霊の暗示に負う所があると私は信ずる。例えば宇宙の存在が合理的であるとの観念を基礎とせずしては、科学は凡て成り立たない。また人類は一つの有機体であって、一切の出来事は或る共同の目的に向かって進みつつあるとの思想を以てしなければ、歴史は殆ど無意義である。然るに之等の真理は如何にして発見せられたか。科学は自らこれを証明したか。歴史は自らこれを探り出したか。否、確かにそれは理知の平凡なる産物ではなかった。理知以上の霊の賜物であった。聖霊が或る人々の悟性に触れて、以て之等の偉大なる真理を直観せしめたのであった。すべて永遠なるもの絶対なるもの超自然なるものについては、我等の理知は余りに貧しい。ただこの貧しき理知が聖霊の火に
三たび想像せよ。此度は意思の方面である。もし我等が霊の賜物のいと高きものを此の方面に於いて受けたとしたならば?然らば我等の弱き意思はみたまの炉の火にて七たび煉り浄められ、鋼鉄よりもなお堅きものと化せられるであろう。しかして我等は宇宙の支配者なる全能の神をたのみ、たとえ如何なる障碍や困難の前途に横たわるものがあるとも恐怖又は躊躇の衝動をすら感ずることなく、必ず打ち勝ちて尚余りある事を確信して動かぬであろう。謂う所の「山を移すほどの大いなる信仰」とは特にこの種の確信を意味する。「信仰」というも、それは救いの条件たる一般的の信仰の
預言の力と凡ての奥義と凡ての知識と、しかしてまた山を移すほどの大いなる信仰と、その一つを所有するだに驚異たるを失わない。まして一人にして之等のものを併有したらば如何。しかしながらそれにも拘わらず、能力は遂に生命の代用を為さない。如何に優れたる霊の賜物もただ一つの愛には換えることが出来ない。たとえ我等にして時勢の推移を達観し人心の変動を謬なく看破し以て常に驚くべき警世の言を発することを得るとも、又は聖書の全巻に精通し殊にその凡ての秘義を味得して深刻無比なる或いは適切此の上もなき霊的真理を語り得るとも、又は神学哲学科学その他百科の学問を研究して偉大なる宇宙観を組み立て得るとも、又は伝道、救済、社会奉仕等に関する熱狂的運動を起こして世界を動かすほどの痛快なる事業を成就するとも、もしそれが何か自己を本位とする心より出づるものならんか、然らば乃ち「数えるに足らず」である、我等は神の前に無に均しいのである。愛の欠乏は一切の欠乏である。之を補い得るものは一つも無い。愛こそは我等の生命、我等の人格である。
最後に今一たび意思の方面に於ける霊の賜物の特殊なる発動を想像せよ。それは外見上愛と酷似せる或る種の行動である。例えば我等が全財産を貧民の為に投げ出して自ら無一物と成ったとしようか、又は財産のみならず、生命をも惜しまずして、人のため国のためもしくは神のため火刑に処せられ、従容として死についたとしようか。言う迄もなく壮烈の極みである。幾多の人が之に感動させられるであろう。かかる犠牲的献身的行為を成就したる者が神の大いなる祝福に漏るる筈はないと、我も人も一様に感ずるであろう。然るにも拘わらず、もしそれがいみじくも自己を充たさんとする心に基きしならば、乃ち「我に益なし」である。神は断じて斯の如き行為を受け入れ給わない。彼の見る所は人の見る所と異なる。形ではない、心である。形はたとえ如何ばかり壮烈を極むるにもせよ、純なる愛のこころより出たものでない限り、それは永久に神を悦ばしめることが出来ない。愛なき犠牲は虚しい。貴きは犠牲その事ではない。ただ之を生かす一つの心である。
愛なくば、如何に優れたる詩も預言も、鳴る銅や響く繞鉢にひとしい、奥義も知識も数えるに足りない、確信も犠牲も無益である。或る場合には偽善である。誠に愛なくば人生は空の空である。
二 愛の美しさ
優れたる霊の賜物のみあるとも何かしよう。貴きものは生命の実体たる愛であって、その道具たる能力ではない。さらば問う、愛の性質如何。
パウロは四節乃至七節に於いて此の問いに対する解答を掲げている。しかし我等はその段に入るに先だち、愛なる原語の意義を一応探らねばならぬ。何となればパウロがここに用いる所は人の言葉のいと美しきものであるからである。新約聖書に於いて愛を表わすギリシャ語に二種あるを見る。その一は phileo である。感情より出づる通常の愛を意味する。その二は agapao である。尊敬の心より出づる無私の愛を意味する。然るに此の第二の動詞より変化したる名詞 agape は『七十人訳』聖書を除いては独り新約聖書に於いてのみ見受くる語であって、一般の作者の筆には決して上らなかったものであるという。疑いもなく聖書記者等は或る特別のものを表わさんが為に選んで此の新しき語を用いたのである。即ちそれは彼等がキリストを信じてのち、始めて経験したる新しき生命――キリストの愛と性質を同じくする聖き愛――敵をも愛するの愛――であった。この基督教独特の、地上のものならぬ天的の愛を表示する語が agape である。トレンチ曰く「これ天啓的宗教の
愛は寛容にして慈悲あり。 愛は妬まず、愛は誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念 わず、 不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、 おおよそ事包み、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐えるなり。(前コリント一三の四―七)
注意せよ、愛はここに人格化せられてあることを。愛の姿を描写せんと欲して、パウロは愛と称する抽象的の徳性を考えなかった。彼は直ちに生ける「愛」彼自身を
愛とは如何なるものかを明らかにすべく、パウロはその目をイエスに着けまた神に着けた。しかして鮮やかに愛の姿を看取した。乃ち恰も秀でたる日本画家が墨筆一揮、染むるともなく忽ち姿態を躍如たらしむるがように、彼は一言以てその輪廓を描き出でた。曰く「愛は寛容にして慈悲あり」と。ただし訳語については遺憾が無いではない。寧ろ愛は「
見よ、イエスを。「彼は苦しめらるれども、自ら
或いはまた父なる神を見よ。パウロはロマ書に於いて神の人類に対する態度を前後の大いなる二段に分けて言った、「神は忍耐をもて過ぎ
雅歌にうたわれし「荊棘の中の百合花」に愛の美しき面影がある。荊棘は屡々撃ちて彼女を掻き裂くであろう。しかし見よ、彼女は静かに之を忍ぶ。しかのみならず、更に
忍耐と恩恵とが愛の特性である事は、即ち愛の自己否定を意味する。故に愛ある所に、自己本位より起きる一切の見苦しき葛藤がない。およそ人と人との間に於いて見受くるところの諸々の忌むべき出来事は、みな自己を本位とする心にもとづく。期するところは畢竟自己の満足である。故に例えば、人に善きものあるを見るときは、之を我がものたらしめんことを思って、妬む。己に優れたるものある時は、人をして之を仰がしめんことを欲して、おのずから外に向かっては誇り、内にありては高ぶる。また自己本位の心はすべて人のものを尊重することを知らない。故にその外に現わるるや乃ち非礼である。内に潜むや乃ち利己主義である。もしまた人より悪を以て
愛は自己否定であるという。然らば自己以外の人を本位とする心であるか。確かに此の世の愛はその最も純なるものといえども人本位より以上に達しない。それは愛する者の為に全自己を惜しみなくささげるであろう。しかしながら遂に其処までである。人の為にする自己の否定である。故にすべて人の喜ぶところを喜ぶ。不義といえどももしそれが愛する者の喜ぶ所ならんか、乃ち己も共に之を喜び、もしくは少なくとも之を如何ともすることが出来ないのである。所詮、人本位の愛の中に義又は真理の占むべき地位がない。たとえ自己を
真の愛は自己を否定すると共にまた不義を否定する。即ちそれは人本位でなくして、神本位である。曰う「不義を喜ばずして、真理の喜ぶ所を喜ぶ」と。愛の憂え悲しむものにして不義の如きはない。不義――神のこころに背く事、愛の最大関心事はここにある。誠にベンゲルが愛(アガペー)を説明して「隣人の救いを求むる心」と言った通りである。愛は如何なる場合にも不義を喜ばない。何となれば愛と真理(真実)とは神にありて一つであるからである。愛の体現なるイエス自身がまた真理であった(ヨハネ一四の六)。愛は彼にありて真理と結婚して
愛と真理との結婚!それは実に限りなく深き事実である。愛の絶対性、恒久性、不変性は此の事実に根ざすのである。真理の立場が絶対的、恒久的、不変的の所にある事は何人も之を知る。愛にありては如何。愛はその性質上必然相対的のものであるか、それは何時までも続くことの不可能なるものであるか、感情の自然的移動に従ってうつろい変わるを免れざるものであるか。此の世の愛の讃美者らは皆然りと答える。殊に近代人に至っては、理不尽にも相対性を以て却って愛の美しき特色のように看做し、その自由に移り往くところに寧ろ愛の生命の発露があるかの如くに主張する。呪われたる思潮よ。疑いもなく彼等は未だ愛の何たるかを知らないのである。愛を叫ぶ声の高きこと近代の如きは未だ曾て見ざりし所であるにも拘わらず、愛を解する思想と、従って之を味わう経験との浅薄なることもまた、近代の如きは未だ曾て無かった。何故に然るか。他なし、近代人の愛は真理と離縁しているからである。すべて真理を離れたるものは当然に浅薄である。愛は真理のともである。プラトーの論じたる恋愛(eros)すらも恒久不変なるイデアを慕うの心であった。ましてイエスより溢るるアガペーの愛をや。真理の喜ぶ所を喜ぶ愛は真理と共に相並んで、絶対的恒久的不変的の立場に立つ。
斯の如くまことの愛は常に真理と相抱きつつある。しかして真理の喜びに愛が参与すると同じように、愛の悲しみに対しては真理がいつも深き慰めを供給する。愛にしてもし堪えがたき痛手を負わんか、真理は静かに之に囁いて言う、事は斯くして終るのではない、眼を挙げて永遠を見よと。此の言に励まされて愛は将に投げ出さんとしたるものを取り直し、再び之を包みて以て維持するのである。「包む」とは善かれ悪しかれ兎に角己がものとして守って、投げ出さざることを意味する。故にまた之を「忍ぶ」とも訳することが出来る。何れにするも同意である。感情の僕なる此の世の愛は、感情の動くと共に動きて、今まで己が手に抱き占めたるものをも容易く棄て去りて憚らない。しかしながら真理の縄たるまことの愛は異なる。それは真理の動かざるが如くに動かない。堪えがたき痛手を負いながら、なお之を負わせたる者を棄てずして却って包むのである、包んで之を離さないのである。福いなるかな、芳香を以て荊棘を包む百合花の如くに、愛を以て敵をつつみ得る者!
斯く包みたる後に、愛は再び真理の声に耳を傾ける。乃ち後者は曰う、人を見るな、彼を支配しつつある神を見よと。もし人に目を着けんか、多くの場合に於いて彼を信ずることは事実上不可能である。故に折角包みながら遂に守り切れずして、また之を
既に信頼がある。従って希望なきを得ない。彼の立つも倒るるもみこころに由るとせば、彼は
しかして望む者は耐える。恰も絶望者は最早や如何なるよき環境の中にも生くるに堪えないと同様に、望みをもつ者は如何なる悪しき条件の下にも圧倒せられない。破滅の前提は絶望でなくてはならぬ。愛はおおよそ事望む。望みの光りが愛の前に消え失する時はない。故に愛は破滅することを知らない。たとえ人として堪えがたき苦き杯を飲ましめられるとも、たとえ恐るべき叛逆に遇ってその心臓を刺されるとも、愛はなお耐えて生きつづけるのである。愛の特性は畢竟この何ものを以ても砕くべからざる超自然的忍耐力の一事に集中する。
かくてパウロは愛の性質の叙述を目的とする一段を終えた。彼は先ずその全体の輪廓を描いては「寛容にして慈悲あり」といい、次にその社会的関係に於ける特徴を挙げては「妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を
パウロの挙げたる愛の性格は、
三 愛は絶えず
愛は何時までも絶えることなし。されど預言は廃 れ、異言は止み、知識もまた廃らん。それ我等の知るところ全からず、我等の預言も全からず。全きもの来たらん時は、全からぬもの廃らん。われ童子 の時は語ることも童子の如く、思うことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。今我等は鏡をもて見る如く見るところ朧 ろなり。されどかの時には顔を対 せて相見ん。今わが知るところ全からず。されどかの時には我が知られたる如く全く知るべし。(前コリント一三の八―一二)
愛の特性はその何ものを以ても砕くべからざる超自然的忍耐力にある。愛はおおよそ事包みおおよそ事信じおおよそ事望みおおよそ事耐える。故に之にうち勝ち得る敵はない。如何なる攻撃又は圧迫を以てするとも、愛は遂に破滅することを知らない。
愛する者の胸に於けるこの主観的忍耐力は、やがて愛の客観的恒久性の序曲であるとゴーデーは言った。愛はただに主観的に終わりまで耐え忍ぶという性格を有するのみでない。また客観的にとこしえに朽つべからざる生命を
何故に愛は何時までも滅びないか。けだし愛(アガペー)は神の生命の人に注がれしものに外ならぬからである。言い換えれば、愛は神の生命の反射である。故にたとえ其の光度は弱くとも、その実質に於いては神より輝く光そのものと異なる所がない。凡そ人に許されたる経験のうち愛のみが全きものである。愛する時にのみ我等は聖なる者の最も深き経験に参与しつつあるのである。しかして神の生命と性質を同じくするものがとこしえに滅ぶべからざるは言う迄もない。
之に反して、人の優れたる能力――霊の賜物に基く凡ての高き経験といえども、或る時に至ればみな廃滅に帰してしまう。例えば預言は今は貴くある。特別なる啓示により歴史の未来に懸かる
異言とは如何なる経験であるか。それについては学者の解釈必ずしも一致しない。しかし人のたましいが救いを実験したのち、殊に聖霊の火によりてその感情を高められ、普通の言語を以てしては到底表わす能わざる深くして微妙なる讃美感謝又は祈求に対し、それに適わしき或る新たなる発言を与える時、之を称して異言といったのであるとの解釈は多分大体に於いて謬らぬであろう。その原始的の形態に於いては、異言は寧ろ物珍らしき驚異であった。例えばペンテコステの日に、使徒たちは聖霊の強き火を受け、恍惚として、みたまの宣べしむるままに諸国の語を以て神の大いなる業を語り始めたという(行伝二章、其の他新約聖書中異言に関する記事は行伝一〇の四六、同一九の六、マルコ一六の六、前コリント一二、一四章にある)。それは或る有力なる学者の解するように、使徒たちが未だ学ばざりし外国語を語ったのではなくして、聖霊の創造にかかる新しき言語を発したのであるかも知れない。しかして聴衆中霊的状態の高かりし者は之に共鳴し、且つ自らその意義を明らかに解し得たため、恰も自国語にて語るを聞くかの如くに感じたのであるかも知れない。然りとするもなお常ならぬ経験に相違ない。またコリントの信者等の語りし異言も、之を釈く者なくば何人も解し得ないものであった(前コリント一四章)。しかしながら独りこの種の経験のみならず、すべて聖霊の感化を直接の原因とする高調なる感情の発表は、之を広き意義に於ける異言の一種に数えるを妨げぬであろう。斯の如くに見る時は、美しきものは異言である。純信仰的の偉大なる詩と音楽とはみなこの範疇に属する。しかして我等は勿論詩を要求する、音楽を要求する。人のたましいの深刻にして高調なる消息は、この種の表現に由らずしては伝わらない。ダビデは琴を
知識もまた同様である。探究また探究、止まる所を知らず、神と人生と宇宙とに関するあらゆる複雑なる事実の中より、系統的真理を建設しつつある知性の活動は、確かに人類の感謝すべき特権である。殊に聖霊の光に照らされて始めて我等の了解に委ねらるる深き霊的真理の知識は、之なくしては我等の霊性の進歩を期すべくもない。「兄弟よ、智慧に於いては子供となるなかれ。悪に於いては幼児となり、智慧に於いては成人となれ」とパウロ自ら勧めている(智慧は知識の応用的方面である)。知識の貴さは異言の貴さに勝るとも決して劣らない。然るにも拘わらず、預言の廃るが如く、異言の止むが如くに、知識もまた或る時に至って悉く廃るのである。仮説を基礎とする科学的知識が日々に廃りつつある事は人みな之を知る。ガリレオ、ニウトンの立派なる知識さえ早や既に揺らぎかけた。誰か今日の科学的又は哲学的知識を以て永遠に動かざる絶対のものとしようか。否、ひとりこの世の智慧のみではない。唯一の天啓の書たる聖書に基く神学的知識といえども、遂には全く不用に帰する時が来る。凡そ人の知識という知識は、その如何なる種類のものたるを問わず、一つとして永遠的価値を
預言と異言と知識、之等の貴き経験がみな何時か廃滅に帰さねばならぬとは、如何なる理由によるのであるか。答えて曰く、それ等は何れも完きものでないからである。成るほど我等の知識は周密である、深遠である。各種の原理法則が縦横に相
思うに能力は機関によって制限せらるるを免れない。我等が現在の肉体の如き不完全なる機関を備える間は、たとえ聖霊の感化によりて驚くべくその能率を増進するとも、なお我等に許さるる能力は或る限度を超えることが出来ないのであろう。身体の構造が完全なるものに改造せられない限り、我等の知識も預言も詩も音楽も、今の如く全からぬ断片的のものたるを免れない。
しかしながら何時までも斯の如くにしては続かない。「完き者の来たらん時は、全からぬ者廃らん」という(完きものの原語は量の全部よりも寧ろ質の完全を意味する語である)。完きものは必ず来る。完き知識と完き預言、完き詩と完き音楽、それ等のものが打ち揃って必ず我等に臨み来る日がある。即ちキリスト再臨の日であって、また我等が復活栄化の日である。その日には我等の生活の凡ての方面に於いて完き能力が賦与せられる故に、全からぬものは忽ち廃物と化するであろう。今の神学と哲学と科学、預言と詩と音楽は其の日限り我等の手を離れるであろう。まして道徳と法律、政治と経済、教育と衛生、勧業と土木、その他今日我等の生活の内容を織り成せるあらゆる経験が悉く廃滅に帰するは論を
或いは考える人があるであろう、我等の現在の経験は
さらばすべて現在の知識や預言や詩また音楽などは来世永遠の生活のためには何の必要もなきものであるか。答えて曰く、然り、また然らずと。直接には無用である。例えば現在の知識の如何に拘わらず、かの日には信ずる者みな一様に完き知識の恩賜に与かるであろう。しかしながら間接には無用でない。現在より来世にまで通じて存続する所の或るもの(愛)に対する奉仕という点に於いて、之等の霊的能力その他一切の経験はみな大いなる使命と意義とを有する。之を要するに知識も預言も詩も歌もただ愛に仕えて之を助くべき僕としてのみその存在の理由を見出すことが出来る。
完きもの来たる時は全からぬもの廃る。人と成りては童子の事を棄てざるを得ない。同じように、「かの時」には今の預言や知識が悉く廃るに相違ない。何となれば来たるべきものこそ完き預言、完き知識であるからである。之を今の能力と比較してその差まさに幾ばくか。「今我等は鏡をもて見る如く見るところ朧ろなり、されどかの時には顔を
知識についてもまた同じ。知識の中の知識は神を知るにある。我等は今如何ばかり神を知るか。最も深き神学の研究を以てして、なお神に関する僅少なる部分的知識を得るに過ぎない。科学の天才ニウトンが自分の知識の数えるに足らぬを歎じて、さながら
かつてルーテルが病床にあったとき、人の運び来たりし校正刷を手にしながら、家族の者に語って曰った、「今は我等は神の心を鮮明に知ることが出来ない。例えば校正刷を読むが如きである。しかしかの時には完全なる印刷を与えられて、凡てを明瞭直截に読み得るであろう」と。ルーテルのこの告白はパウロの論説に対する好き註解である。誠に今の我等の預言と知識とは、誤植又は遺漏多き粗末なる校正刷に過ぎない。かの時には完きものが之に代わるであろう。しかして完きもの来たらば、校正刷は忽ち
げに信仰と希望と愛と、此の三つのものは限りなく存 らん。しかしてその中 最も大いなるは愛なり。(一三)
預言は
すべての賜物は斯の如くにして廃る。彼等は全からぬが故である。とこしえに廃らざるものはその性質上完きものでなくてはならぬ。我等が現在の経験中全き性質を有するものは何であるか。その第一は言う迄もなく愛である。しかし必ずしも愛のみではない。我等は彼女の親しき姉妹を忘れてはならない。即ち信仰と希望である。信と望と愛と、我等の数えがたき経験中ただこの三つのもののみ性質上完くある。愛の完きは先に見たように、神のいのちの反射であるからである。信仰と希望との完き所以は如何。信仰とはキリストの血によりて果たされし贖いを受け入るることである(ロマ三の二四)。希望とは神の永遠の栄光に与るべく望むことである(ロマ五の二)。二者は何れも完きものを対象として、之と無条件的関係に立つ。故に自らまた完きものたらざるを得ない。しかして完きが故に廃らない。すべての霊の賜物が落伍する時、信仰と希望と愛との三つのみは倒れずして、立ちて限りなく存続するのである。
然り、来世永遠の生活に於いて、我等はなお何時までも今の如くに信じ、望み、また愛する。基督者の現世生活と同じく、その来世もまた信仰と希望と愛との生活である。我等はとこしえにキリストの贖いを信ずる。我等をして神に結ばれしむる鎖は今も後もただ之あるのみ。今は「見える所によらず(顔を
我等はとこしえに神の栄光に与るべく望む。希望といって信仰及び愛と相並べて、基督者の生活の根本的要素を表わす時には、それは個々の具体的の希望を意味しない。神の限りなき栄光の我等の上に実現せんことを目的とする包括的の希望を意味する。しかしてこの希望は或る一定の時を期して悉く成就するものではない。神の我等に
しかして我等は勿論とこしえに愛する。「愛は何時までも絶えることなし」である。現に我等の胸にある所の、小さけれども完きいのち、キリストの心を以て神と人とを愛するの愛、それは実に限りなきいのちである。かの世に至りて、この生命は更に更に豊かなるものとせられるであろう。神の国は愛の国である、愛を以て充ち溢れつつ、立ちて永遠にまで至るべき国である。
我等の今の経験は殆ど残なく消え失せる。最も優れたる霊の賜物さえみな廃る。廃らないものはただ三つ、信仰と希望と愛とのみ。故にこの三つは我等の一切の経験のうち比いなき貴きものであると言わざるを得ない。知識は無くともよし、信仰は無ければならぬ。預言の能力は
信仰と希望と愛と、この三つのもののみは廃らない。しかもその中にありてなお最高の地位を占むるものは愛である。何となれば愛は生命そのものであるからである。信仰と希望とは何れもこの生命を獲得せんが為の手段に外ならない。目的は常に愛なる生命にある。神は愛である。しかし彼は信仰ではない、また希望でもない。愛こそは聖なる者の本質であり、彼の生命そのものである。故に愛は信仰よりも希望よりも更に勝る。愛に比すべき何ものをも我等は絶対に想像することが出来ない。
私訳コリント前書第十三章 もし私が人々の、また天使らの言を語っても、 愛を有 たなければ 私は鳴る銅 や響く繞鉢 になったのである。 又もし私が預言(の能力)を有ち、 又すべての秘義と すべての知識を悟っても、 又もし私が山々を移すほどの凡ての信仰を有っても、 愛を有たなければ 私は何でもない。 又もし私が私の凡ての所有を分け与えても、 又もし私が私の身体を焼かるる為に渡しても、 愛を有たなければ聊 かも私を益しない。 愛は忍び (また)尽くす。 愛は妬まない、 愛は衒 わない、 高ぶらない、不躾 をしない、 自分のことを求めない、 憤らない、 悪を心にとめない、 不義を喜ばないで 真理と共に喜び、 すべてを包み すべてを信じ すべてを望み すべてを耐える。 愛はいつまでも凋落しない。 然るに或いは預言にせよ、それは廃せられるであろう、 或いは異言にせよ、それは止むであろう、 或いは知識にせよ、それは廃せられるであろう。 何となれば我等は部分的に知り また部分的に預言するのみ。 しかし完全なるものが来た時には 部分的のものは廃せられるであろう。 私が嬰児であった時には、 嬰児らしく私は語った、 嬰児らしく私は感じた、 嬰児らしく私は考えた。 しかし大人に成った時に 私は嬰児のものを棄ててしまった。 けだし今は我等は鏡を通して謎のように見る、 しかし其の時には顔と顔とを合わせて(見るであろう)。 今は我等は部分的に知る、 しかし其の時には私が完く知られたと同じように完く知るであろう。 かくて信仰と希望と愛と、此の三つのものが(限りなく)存 るのである。 (しかして)之等のうち最も大いなるものは愛である。
〔第一八号、一九二一年二月〕