聖書朗読:創四・三〜六、八〜一〇、一ヨハ三・一二、ヨハ七・四四、使七・五二、ヨハ四・二三、ロマ八・二
先の私たちの黙想では、命の法則の七重の働きを考慮するよう導かれました。私たちは主イエスのことを命のプリズムとして述べました。この御方により、またこの御方を通して、命はその構成要素に分かれます。この御方に私たちは命の働きを見ることができます。しかし、黙想していくと、この絵図は変わっていき、七つの枝を持つ燭台あるいは燈台がぼんやりと見えてきます。この燭台には一本の中心的な根と茎があり、それから、またその一部分として、その両側に六本の枝が伸びているのが見えます。まずアダムによって示されている命の霊の法則に関する私たちの先の黙想では、中心的な根と茎について述べました。それは他のすべてを含むものであり、そこからすべてが成長し、広がります。すべてはそこに戻ってきます。事の始まりはとても包括的なものなので、先に進むにつれて私たちが見ることになるのは、命の法則のこれらの残りの面はアダムにおいて総括的・包括的に示されているものが成長・発展したものに他ならない、ということです。私がこれを述べるのは、全体の統一性を保つためであり、すべての部分の一体性を保つためです。この一体性はとても卓越したとても素晴らしいものです。その構成要素のどれもが、命の問題です。断片的で、切り離された、無関係な事柄に実際に入り込むことは決してありません。どの面も、まるでそれ自身だけで意義があるかのように取り扱うことは決してできません。一つの点が他の点に導き、この他の点があなたを元の点に導きます。ですから、常にあなたは同じではあるけれども成長しつつあるものを扱っているのです。あなたは今はこれをはっきりと理解できないかもしれませんが、先に進むにつれて私たちが言わんとしていることがわかるようになるでしょう。
カインとアベルが示していること
キリストにある命の法則のこれらの働きの第二に移ることにします。これは旧約聖書もしくは創世記の七人の代表者の二人目に示されています。いま私たちが目にするのはカインとアベルです。ここでは、自らを対比的・対立的に示す命の法則・原則が見えます。命のある所では――私が話しているのは通常の人の命ではなく、神の命、霊の命、キリストであるところの独特で特別な命であることはお分かりでしょう。命はキリストであり、この命がある所には、必然的にこの敵意が生じます。これは常にそうであり、この命に反することをしない限り、この衝突を避けることも抑えることもできません。神の命がどこかに見つかるやいなや、敵意が現れて、戦いが始まります。
ですから、私たちはここにこの命を見いだします。いま述べているのは予型の領域でのことです。アベルの道に命が見つかり、カインの道に死が見つかりました。私たちはその違いを調べなければなりません。その違いとは何でしょう?カインのことをとても注意深く眺めることにしましょう。
私たちはカインについて皮相的な見方をして、極めて正当的で正しくはあるものの不適切な結論に至るおそれがあります。カインに対して大いに公平で、大いに厳密になりましょう。カインは神を無視したのではありませんし、神に外面的に敵対している者でもありませんでした。カインは神を認めていました。神を礼拝の対象として認めていました。カインは礼拝行為として、自分の知る最上の物、自分が持っている最上の物を神に持って来ました。私が言う「最上」とは、彼が知っていた最上のことであり、彼が知り得たはずの最上のことではありません。この領域においては、カインが持って来たものは良い高価なものでした。これを認めて、このように述べない限り、私たちは死と命の違いを理解する道の上にありません。いわゆる死の道を黒色や暗色で描写して、「死の道は神に対する極めて凶悪な怒りという特徴を必ず帯びている」と考えても仕方ありません。「死の道に入るには、公然と積極的に神に敵対すること、神を無視すること、神を実際に認めることを拒否することが必要である」と思ってはなりません。死の道に入るのに、これらのことをする必要はありません。死の道はそれよりもさらに深いものであり、それよりも遥かに深いものです。先に進むにつれて、これがそうであることが分かるでしょう。
カインは自分の天然の命の成果を持ってきたことがわかります。これはそれに尽きます。こう述べる時、もしあなたがこれを理解しているなら、あなたは事の核心に近づいているのです。
アベルの場合、その姿勢は「生きるには死ななければならない」というものでした。神に受け入れてもらえるものを私たちは何も持っていません。神に拒絶される命しかありません。アベルは罪を認め、罪深い魂は注ぎ出されて死に至らなければならないこと、その魂、その働きや成果を神に捧げてはならないことを見ました。カインの側では、魂が自分自身の善とおぼしきものの立場に基づいて受け入れてもらおうとしていることが分かります。
キリスト・イエスとユダヤ人
さて、これをただちにキリスト・イエスとユダヤ人に当てはめることにします。ヨハネによる福音書ではカインについて用いられたのとまさに同じ言葉がユダヤ人にも使われていることがわかります――恐ろしいことです。しかし、私たちと主の全ての民が把握すべき要点は次の通りです。すなわち、カインの立場に立ついわゆる不敬虔な者や、アベルの立場に立つ真の意味で敬虔な者について、私たちは必ずしも扱っているわけではありません。私たちはもっと遥かに狭い領域の中にあります。肉に従うイスラエルと御霊に従うイスラエルがあるのです。
ですから、当時のキリストとユダヤ人に向かうことにします。ユダヤ人は礼拝をしていましたが、殺人を犯しました。これは恐ろしい組み合わせです。彼らの礼拝はその領域ではとても敬虔なものであり、ある意味で代価を要するものでしたが、それにもかかわらず、外面的なものでした。これについて主の口にのぼった様々な御言葉をあなたたちに思い起こさせる必要はないでしょう。「あなたたちは器の外側を清める」「彼らは自分たちの経札を広くする」「あなたたちは長い祈りをする」。彼らは「まず人に見てもらうことを喜び」ました。等々。それは外面的でした。彼らの礼拝は彼ら自身の栄光であり、働きでした。彼らが礼拝をした時、彼らは自分たち自身に注意を引きました。そして、彼ら自身の礼拝を自己栄光化の機会としました。それはすべて形式の問題であり、その中に彼らはおそらく心を込めて飛び込みました。しかし、それにもかかわらず、それによって彼らは自分たちのために利益を得ることを求めました。礼拝ですら、常に彼ら自身に向けられており、実際のところ神に向けられてはいませんでした。彼ら自身の好みや利益のためでした。神の御心とは何の関係もありませんでした。神の満足だけを考えていたわけではありませんでした。
さて、主イエスを見て下さい。主イエスは常にユダヤ人と反対の立場に立っておられ、ユダヤ人は主イエスと反対の立場に立っています。この対立は外面的なものでは全くなく、内側深くのものです。彼は礼拝しました。しかし、全く神に明け渡された生活によって礼拝しました。しかし、それ以上です。彼は神の性質そのものによって支配されている生活によって礼拝されたのです。神は聖であり、神は義です。神には混合が全くありません。神は純粋です。神は光です。神の中に暗闇は全くありません。暗闇、もや、透明性の欠如の疑いはありませんし、それを示唆するものもありません。神が過去にいかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかが、主イエスの礼拝を支配していました。つまり、神が過去にいかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかを理解して、神に似つかわしくないものは何でも全て永遠に放棄しない限り、神を真理の中で礼拝することは不可能であることを、彼は分かっておられたのです。神を礼拝するために神の土台の上に来るには、そこに神に似つかわしくないものや、神に反するものを持ち込むことはできませんでした。真理の中で神を礼拝しなければなりません。偽りであるもの、嘘であるもの、矛盾であるもの、真実でなく非実際的な人間性を信じ込ませるものがたくさんあります。真の礼拝者になろうとするなら、そうしたものとすべて手を切らなければなりません。そして、ここでは神を弄ぶこと、神を欺くことは不可能であること、そのようなものが自分にある限り、神と交わることは不可能であることを、認めなければなりません。神はいかなる方なのかという思慮によって、あなたは完全に支配されることになります。これ以外のことをするのは、極めて敏感な人がいる所にやって来て、その敏感な人を苦しめるようなことを言ったり行ったりするようなものです。もしあなたが音楽家、音楽の才能のある人なら――あなたが演奏したことがあるかどうかということではありません!――あなたに音楽の才能があり、高度な鋭い音感があったとして、もし誰かがあなたの居る所にやって来て、絶えず不調和音をかき鳴らし、打ち叩いたとするなら、それがどんな苦しみか分かるでしょう。あなたは赤くなったり、青くなったりするでしょう。音にとても敏感な人を知っていて、あなたに特別な音楽の才能がない場合、もしあなたに良識があるなら、あなたはそのような人の前で演奏しようとは決してしないでしょう。私はある人のことを覚えています。その人はかなり上手なバイオリンの奏者で、バイオリンがとても上手な人の演奏を聴きに行きました。その人は後で私のところにやって来て、「私はバイオリンから足を洗うつもりです。二度と演奏しません。あの人が私の演奏を聴いたら、頭に来てしまうでしょうから!」と言いました。私の言わんとしていることがお分かりでしょう。要するに、主イエスはこのように神と同調しておられたのであり、彼が重んじられたのは神の性質だったのです。神は礼拝者に何を要求されるのでしょう?何らかの形式でしょうか?神を礼拝することは、罪に反対する証しとして放棄された命によりました。これを覚えておいて下さい!主イエスの死には様々な面がありますが、これはとても決定的な面です。主イエスの死は、罪に反対する証しとして御自身の命を放棄することだったのです。
罪がある限り、神とのいかなる交わりもありえなかったでしょう。そして、罪が存在していたのです。罪に関して、あなたはどうするつもりでしょう?あなたは罪を清算することができません。罪は死ななければなりません。しかし、罪は抽象的なものではないこと、人は罪となったことを理解しつつ、人性――そこからいわゆる罪を取り出したり、根絶したりすることはできません――を取り扱うには、罪の無い別の人性を導入しなければなりません。その時、私たちに起きなければならないことは何でしょう?罪を引き抜いてもらうだけでなく、死んで、キリストに私たちのところに来てもらうことです。「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私ではなく、キリストです」。キリストの礼拝は、罪に反対する証しとして放棄された命によりました。
これがアベルのうちに働いていたことがわかります。もちろん、アベルは自分の命を放棄しませんでした。この型はこの点で欠け目がありますが、原則は同じです。アベルの死は罪に反対する証しでした――「あなたの弟の血が叫んでいます……」。
さて、この争いがわかります。この争いは全く明らかです。そこにはカインの死の道があります。この道は礼拝、神に対する感謝、神への献げ物、それ自身の領域では輝かしいもので満ちています。また、アベルの命の道があります。後者は献げ物という結果になります。物ではなく自分を献げます。そして、この献げ物は祭壇の上にあります。被造物は死ななければなりません。
この戦いの領域
(a)この戦いは二つの王国の間の戦いである
さて、ただちに要点に取りかかることができます。この戦いは二つの領域で作用します。第一に、神からのものとサタンからのものとが存在する領域で作用します。私たちはみなこれを知っています。これはこの敵意が作用する最も単純で最も明確な領域です。つまり、これはすべての再生された神の子供が、この命を受けるやいなや移る領域です。主のものとなって、主の喜びで満たされ、それから、誰もがこれを大いに喜んで歓迎してくれるものと期待しつつ、この世の自分の仕事や自分の生活圏に戻るやいなや、疑いの目を向けられて、雰囲気が怪しくなるのを、私たちはみな知っています。一言も話す必要はありません――敵意がそこにあります。大抵の場合、神の子供がこの世の中で動き回ると、一言も話していないのに、まさに敵対的・対立的雰囲気が生じます。これは想像ではなく、実在します。相手側の魂の命が強ければ強いほど、相手側は私たちの内にあるものをますます素早く察知します。何かがあるという結論に明確に達すれば達するほど、この敵意はますます明らかになります。つまり、単純で素朴な人々は、あなたのことを理解せず、あなたと同行することもできませんが、他方、強い魂の命を持つこの相手方の人々から出て来るものをあなたに話す事もしないのです。この外側の領域を私たちは知っています。その領域では、この敵意は明らかにサタンからのものと神からのものとの間のものです。これを辿る必要はありません。これはとてもよく知られています。
(b)人自身が真の戦場である
しかし、この別の領域があります。この領域では内なる方法で神からのものと自己からのものとの間に戦いが生じます。要点は、この領域、この戦いの真の領域は人自身である、ということです。ここで、この戦いは実際に極めて激しく荒れ狂っています。外側の領域ではこの戦いは私たちと神の味方ではない者たちとの間の戦いですが、この外側の領域での違いを私たちの大部分は直ちに理解するようになります。しかし、この戦いが内なるものになる時、それに処するのは遥かに困難です。この戦いが私たちの内側に生じる時、それを受け入れるのはとても困難です。それを理解できないからです。私たちはこの戦いを自分の内側に見いだし、この戦いはまさに私たちの内なる命によって始まったことを見いだします。それはキリスト・イエスにある命の法則の働きです。そうであることを知るのは、一面慰めです。状況が厳しくなる時、多くのとき、誘惑者はそれに関する自分自身の解釈を吹き込んで、「すべてが間違っていて、神からのものは全くそこにない」と私たちに信じ込ませようとします。しかし真相は、神からのものがそこにあるからこそ、この戦いが生じたのであり、私たち自身が戦場になったのです。「肉の欲するところは御霊に反し、御霊は肉に反します。両者は相反しているからです」(ガラ五・一七)。しかし、この戦いの中にあるこの二つのものとは何でしょう?さて、非常に幼稚で皮相的な答えは、もちろん、「それは肉と御霊、古い人と新しい人である」というものです。これはまったくその通りなのですが、適切な答えではありません。この答えは事の核心を突いていません。この問題の核心を見てもらいたいと思います。これは極めて重要です。この問題に関する洞察力に欠けているせいで、主の民の多くは無力で無能な者にされており、混乱に陥っています。愛する人よ、真の戦いは魂と霊との間のものであることがわかるでしょう。
さて、魂は肉であり、魂は古いアダムである、と単純に言うことはできません。これは完全に正しくはありません。注意深くなければなりません。もしそう言うなら、魂を殺す路線上に乗ることになりますが、そうしてはいけません。魂自体は悪いものではありません。魂を持つのは悪いことではありません。魂を勝ち取らなければならない、と主は私たちに述べておられます。「忍耐によって、あなたたちは自分の魂を勝ち取ります」(ルカ二一・一九)。「私たちは退いて滅びに至る者ではなく、信仰を抱いて魂の救いへと至る者です」(ヘブ一〇・三九)。しかしそれでも、この戦いは魂と霊の間のものです。これから、堕落の性質がわかります。堕落とは魂が霊を侵すものだったのです。先の黙想では、人の魂への攻撃、すなわち、人の理性、願い、意志に対する攻撃に注目しました。そして、いかに人の理性、願い、意志が本来の立場から逸らされ、神から独立して活動・機能するようにされたのかを見ました。人には霊があります。そして霊によって、人は霊である神との交わりの中に入れられました。人は神を知りました。魂を通してではありません。この堕落していない状態では、人は理性を用いて神の御旨に関する結論に至ったのではありませんでした。座って、神の願いを理詰めで割り出したのではありませんでした。この堕落していない状態では、人は知覚し、感じ取り、直感的に理解しました。それで良心が起き上がって人を打ったのです。良心は魂の器官ではなく、霊の器官だからです。あらゆる問題に関する最高決定者である神を軽んじた時、人は神との交わりの器官を軽んじ、自分自身の魂に基づいて行動して、自分の霊を侵しました。人の中に生じたこの戦いは、それ以来ずっと続いています。人は自ら分かれ争う家であり、この家は立つことができません。あなたには、この一つのものの二つの面――魂と霊――があります。性質的に、人は今や本質的に魂の人です。新約聖書では、残念なことに、人は「生まれながらの人」と呼ばれていますが、この言葉は「魂的な」人であることを皆が知っています。これは魂によって、すなわち、自分自身の理性、識別力、意志によって支配され、動かされている人のことです。これがありのままの人の型です。そして、この人に対して、新約聖書は霊の人、「霊的な人」を置きます。こうして、一人の人ではあるけれども二人であるこの人たちの間でこの戦いが生じます。この戦いは魂と霊、霊と魂の間の戦いです。神からのものと、私たちの考えに逆らう神の考えに対する戦いです。(このような言葉を使ってもいいなら)神の理屈、もしくは私たちの理屈に逆らう神の理屈に対する戦いです。私たちの意志に逆らう神の意志に対する戦いです。私たちの感情、愛情、願いに逆らう、神の感情、愛情、願いに対する戦いです。この二つのものが今や入り込みます。再生されていない人の中にではなく、再生された人の中にです。いま述べているのはキリストの外にいる人のことではなく、肉的な人のことです。肉的な人とは、その内にまだ肉が残っていて、肉によって動かされているクリスチャンです。
さて、魂は肉が宿る所であることがわかります。肉は(肉体的な意味ではなく)霊的な意味では、邪悪なものだからです。それは自己意志、自己決定の座であり、サタンによって動かされています。これが肉です。肉は御霊に逆らって欲望を抱くものです。新約聖書がどれほど肉を邪悪なものとして述べているかはご存じでしょう。肉は生まれながらの魂の中に宿っています。新生によって再び生まれた霊は、神からのものを宿すための器となります。
さて、この戦いが始まります。「そんなことはよく分かっています。おそらく、私はこれまでこれをこのように分析して説明したことはないかもしれませんが、それでも分かっています!よく分かっています!」とあなたは言うでしょう。しかし問題は、多くの人がまだこれをくぐり抜けていないことです。彼らはまだその中にいます。私たちはまだこの地点に達していませんが、私は直ちに「この戦いが私たちの霊的生活全体にわたっていつまでも続くこと、私たちが始終この戦いの中にとどまることは神の御旨ではない」と言うことができます。これについては別の時に話すことにします。
神の命は御霊による歩みを要求する
ここで、これまで述べてきたことを一句か二句に要約しなければなりません。ここでこれまで扱ってきた基本的問題のこの側面は、命の法則は肉や私たち自身の魂による歩みではなく、霊による歩みを要求するということです。それが要求するのは私たちの霊における神との天的合一であって、私たちの考えに従った魂的な宗教生活ではありません。これがカインとアベルの違いです。ああ、確かにカインは宗教的な人であり、礼拝者であり、それ自身の領域では良い貴重で高価なものを持ってきました。カインは神を礼拝すべきことを認めて、自分なりの方法で熱心でした。しかし、彼の理解力はくらまされており、私たちの魂の理解力も同様です。私たちは生来、神の御思いを知りません。「生まれながらの(魂的な)人は神の御霊に属する事柄を受け入れませんし(中略)それを知ることもできません。それらは霊的に識別すべきものだからです」(一コリ二・一四)。こういうわけでカインは、その熱心さ、礼拝、信心、神認識にもかかわらず、依然としてくらまされた理解力の暗闇の中にありました。彼の判断はすべて的外れで、彼の考えはすべて間違っていました。彼は的を外していて、祭壇上で受け入れられたものは何もありませんでした。神はカインの供え物を尊重されませんでした。ユダヤ人はこの立場に立ちました。そして、その証拠として、カインが殺人を犯したようにユダヤ人も殺人を犯しました。これを証明するには、魂的な礼拝者たちの礼拝、霊的でない宗教的人々の礼拝に異議を唱えてみなさい。そうするなら、何かが燃え上がるのが分かるでしょう。彼らはそれに対する干渉、異議、接触に耐えられません。真の礼拝者、霊と真理の中で礼拝する者たちには、何でも自分が思うことを言ったりしたりすることができます。そうしても、殺人の霊やそれに似たものが生じることはないことが分かります。アベルのように、そのような人は自分の命を放棄します。礼拝者、宗教的な人々の手にかかって命を捨てることすらあります。これがここに示されている魂的な人と霊的な人の違いです。
さて、前に述べましたが、私たちは信者や不敬虔な者を包括する領域よりも遥かに狭い領域の中にあります。愛する人よ、進み通して前進し続ける命、神の印影でありしるしである命、神から出た神に受け入れられる命とは、霊の道筋に沿う命です。死は、形式、礼拝、神認識、宗教といった外見上似通っているものをすべて持ち合わせていたとしても、死以外の何物でもありません。目標に達することはできませんし、進み通すこともできません。「ああ、きっと、あなたが話しているのは、とても大局的なことなのでしょう?あなたの考えていることが私たちには分かります。教会に行って形式的な祈りを唱える、単なる宗教的な人々のことを考えておられるのでしょう」と言う人もいるかもしれません。いいえ、違います!私の言葉は確かにそのような人に当てはめることもできますが、私が考えているのはそういうことではありません。私はこれらの事柄を徹底的かつ完全に分けて、分類整理しているのではありません。私が述べているのは、これらの事柄は大部分の信者に重なるものであり、そのせいで命が制限されている、ということです。宣教士たちが二十五年、三十年の奉仕の後、宣教地から戻って来て、「すべては駄目になってしまいました。神の約束は私にとって塵灰になってしまいました!」と言う体たらくなのはどうしてでしょう?率直に言わせて下さい。彼らはそうしており、中には私たちの知っている人もいます。これはどうしてでしょう?実効性の欠如のゆえに、また物事が上手く行かず、初志貫徹して神の目標に至らないがゆえに、とても多くの人が行き詰まって、事物の実在性に関する疑問――もっとな疑問――を抱いています。どうしてでしょう?今、私は他の幾つかの事柄を除外しています。肉体や神経の衰弱、意気消沈、憂鬱、時として入り込んで混乱を引き起こすこうしたものについて、私はすべて知っています。私が述べているのはそうしたことではありません。私が話しているのは、霊的なものが効を奏さない領域、しかるべき神のしるしが無い領域のことです。たくさん注ぎだし、たくさん与え、多くのことを行っているのに、その結果としての霊の命が実際には見あたらないのです。命が欠如しているのです!ああ、愛する人よ、私たちが神の懲らしめと訓練の御手の下にあって、自分の労苦の成果、自分の働きの結果が何もわからず、私たちの感覚――私たちの魂――に関する限り、すべてが隠され、暗くされ、ぼやけていたとしても、それにもかかわらず、私たちによって、また私たちを通して――私たちがそれを見たり感じたりしていなくても――復活の力によって命が絶えず働く、ということもありえます。そういうこともありますが、私が述べているのはそういうことではありません。私が述べているのは霊的に死んだ状態にある、命の欠如のことです。何が問題なのでしょう?その答はカインとアベルにあります。それが示す解き明かしは、魂と霊の違いにあります。魂は悪いものではありませんが、それが支配することは別の問題です。もし魂に属するものが優位に立つなら、それは自己が優位に立つことです。そして、働きは私たち自身から出たものとなり、その力や活動は私たち自身からのものとなって、私たちの霊を通して働く神の力からではなくなってしまいます。
こう言ったからといって、一瞬たりとも誰も勘違いしないで下さい。霊の水準――そこではすべてが神から発し、自分自身からのものは何もありません――に生きる時、決して何もしなくなるわけではありません。全く何の働きも、何の活動もなくなる、と多くの人々が考えています。唯一の違いは活動の種類です。活動が減るのではなく、別の活動をするようになるのです。それは別の活動であり、その結果、神のために自分で推進した活動全体よりも遥かに大きな益が生じます。隠れた深い所で、全てが自己ではなく神に向かっていなければなりません。自己がどれほど深く自分自身の魂の中に根ざしているのか、私たちは知りません。それが幾らか分かるようになるのは、私たちがもはや行動できなくなる時、神が私たちの上に御手を置き、「一ヶ月か二ヶ月、行動するのをやめなさい」と言って、私たちに活動をやめさせる時です。その時、私たちの行動の中に自己満足がどれほど多く存在していたのかを私たちは見いだし、活動の停止と共に、私たちはもはや満足しなくなります。私たちは自分の満足を失い、その代わりになるものは何もありません。主がしようとしておられるのは、物事や行為に関する私たちの満足を取り去って、御自身が私たちの満足となることです。私たちが行動していても行動していなくても、たとえ私たちに出来ることが何もなくても、私たちには主があるので満足です。これがこの件全体の最重要点であると私は完全に確信しています。私たちに満足を与えるのは主御自身であって、私たちの働きではありませんし、その座や源が私たち自身の魂の中にある何物でもありません。私たちには主があるので満足です。この境地に絶対的に達している人が私たちの中に一人でもいるでしょうか?いません。私たちは依然として忍耐して、自分自身の魂を勝ち取らなければなりません。神が唯一の満足となるいっそう高い境地に、私たちの魂は依然としてもたらされなければなりません。多くの苦い涙を通して、私たちはその境地に達するかもしれません。しかし、この境地に達する時、涙は拭い去られます。涙はどこかに到達しようとすることと関係していることがわかります。到達する時、涙は全くなくなります。「神がすべての涙を拭い去るには、とても大きなハンカチが必要ね」と言った少女は、涙を拭い去る方法に関して間違った考えを抱いていたのです。涙は諸々の過程と関係しており、涙が拭い去られるのは到達した結果に他なりません。涙は過ぎ去ります。「忍耐によって、あなたたちは自分の魂を勝ち取ります」。
照らしの必要性
しかし、理解力は照らされなければなりません――「あなたたちの心の目が照らされて」――理解力は照らされなければなりません。それはカインの道――それは魂の道であり、たとえ神に対して熱心で、神を認めていたとしても、魂は依然としてすべてを自分に引き寄せます――の代わりに、霊にある命が生じるようになるためです。カインはそうであることを認めようとしなかったでしょう。魂の命は、すべてを自分自身に集めていることを認めようとしなかったでしょう。誰にとっても、これを受け入れるのは極めて難しいことです。しかし、これが魂の性質です。霊はその正反対です。霊――すなわち新しくされた霊――は常に神に向かいます。主イエスはその魂を死に至るまで注ぎ出して、その霊を神にお委ねになりました。
これは黙想の新たな領域に触れます。そのようなものである魂の命は下位になり、霊の命が上位にならなければなりません。魂の命が支配する限り、そこには死があります。感情、感興、嘆願、活動がたくさんあるかもしれませんが、その結末は死です。霊的な命、霊の命が支配する限り、そこには命があり、「キリスト・イエスにある命の霊の法則」があります。
さて、この言葉を詳しく述べたその仕方や方法には煩わされずに、「結論を理解できるようにして下さい」と主に求めて下さい。この命を持つ者として、私は二つのことを自覚しています。内側に戦いが生じるのは、この命の必然的結果です。この戦いの性質を私はもっと知らなければなりません。私の理解力が照らされる時、これは魂の側につく私自身と霊の側につく私自身との間の戦いであることがわかります。これは私自身の魂と私の内にある神からのものとの間の戦いです。これは自ら分かれ争う家であり、立つことはできません。遅かれ早かれつぶれる運命にあり、私たちはこのように分裂した家がつぶれるのを至る所で目にしています。これは神の御旨ではありません。脱出の道があります。主の御旨なら、後でその道が何かを見ることにします。しかし、ここでその事実が分かります。御霊の中を歩くこと、御霊によって歩くこと、事物ではなく神を自分の命とすること、自分自身から行動しないことが出来るよう、神に求めようではありませんか。なぜなら、この天然の命は偽りの命であり、欺かれているがゆえに欺くものだからです。しかし、御霊の命は真実であり、命である御方は真実です。御霊は命ですから、御霊は光でもあります。御霊は光ですから、御霊は命です。
この意味を明らかにしてくれるよう主に求めましょう。
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