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「キリスト・イエスにある命の霊の法則」

The Law of the Spirit of Life in Christ Jesus

第七章 ヤコブと命の法則(続き)

Chapter 7 - Jacob and the Law of Life (continued)

T. オースチン-スパークス
Theodore Austin-Sparks



聖書朗読:創世記二八・一〇〜一二、一九、ヨハネ一・四七、創世記三一・一三、三五・一、六、七、一コリント一・二〇

私たちのために創世記の中で七人の人物によって示されている命の七重の働きについて、これまで考えて来ました。私たちの前の黙想では、六番目すなわちヤコブに到達しました。神の命の道としてヤコブが示していることに、私たちは再びこの黙想で専念することにします。

神の家、教会、ベテルが、私たちの特別な目的です。再びヤコブを私たちの絵図として取り上げるなら、教会に関する限り、すべてはその地的面からではなく天的面から始まらなければならないことがわかるようになります。これがヤコブの生涯の支配的事実です。これが彼の人生をどのように解き明かすのかを見ることにします。

天の法則と支配

ヤコブが彼の道を進んでその巡礼の旅を始めた時、それは地上における彼の巡礼の旅であるだけでなく、霊的過程の旅でもありました。この霊的過程は、彼の地上生涯や歩みのあらゆる出来事、事件、事象の背後にあるものでした。意義深く印象的なことに、この巡礼の旅で彼が最初に止まった地点が、一晩だけではありましたが、ベテルでした。そして、ベテルが天からのものとして聖書の中に初めて登場します。これが聖書における教会への最初の言及であり、ヤコブと共に登場します。それは天から出たものとして登場します。つまり、その天的な面から出たものとして登場します。そして、これがヤコブの残りの経歴や霊的巡礼を支配し、解き明かす法則となります。この時点で始まるのは、天的なものの統治です。そして、この統治が神によって導入される時、地的意志にすぎないものは、その瞬間から、罪定めと神の懲らしめの下に落ち込んで滅びに至ることになります。それは、すべてが少しずつ、その起源、その源、その発端にしたがって天的なものになれるようになるためです。私たちはこのすべてを包括する問いを発しなければなりません。「すべてはどこから始まり、すべてはどこに至るのでしょう?」。答えは一つです。すべては天において始まり、すべては天に至り、天において究極的に完成されます。これは、「すべてはキリストからです。天から出たものはみな、キリストからであり、キリストの中にあります」ということの別の言い方に他なりません。「万物は御子によって、御子のために創造されました。御子は万物よりも先にあり、万物は御子にあってまとまっています」(コロ一・一八〜一九)。これに対応する真理は示しませんが、御子は万物よりも先にあるだけでなく後にもあることを示す御言葉がたくさんあります。

さて、これが象徴的にヤコブのはしごに集約されていることがわかります。何かが天から降りて来て地に達しています。主はその上におられ、神の御使いたちが上り下りしています。これをヨハネ一章にあてはめると、この原則がこの世界の中に働いていることがわかります。「見よ、まことのイスラエル人を。この人の内には何の悪巧みもない」(ヤコブはいない!)。次にナタナエルに向かって言われました、「あなたはこれよりも偉大なものを見るでしょう(中略)これから後、あなたは天が開けて、神の御使いが人の子の上を上り下りするのを見るでしょう」。天と地、地と天をつなぐのはキリストです。キリストにあって、すべての神聖な伝達が人に対してなされます。「そこで神はご自身をあなたに啓示された」という御言葉を成就するのはキリストです。

神の家はキリストです。しかし、覚えておいて下さい。これはキリストに個人的に言える一方で、この奥義の啓示として私たちが見るようにされたのは、神の家はキリストのからだである教会によって団体的に表現されたキリストである、ということです。そして、団体的キリストの中で、このからだの中で、キリストはかしらであり、そこに神の啓示と伝達があります。この神の家、教会の中に、ヤコブが「天の門」と呼んだものがあります。これが神のベテルです。

すべてのことをまず天的な観点から、キリストにあって天から出たものとして見なければならない一方で、私たちはこの二番目の点を見なければなりません。すなわち、「イスラエル」のための場所を設けるために、ヤコブは排除されなければならないのです。つまり、人からのものはすべて排除されなければなりません。それは、神の家における神聖な秩序のための道を設けるためです。ヤコブはヤコブで、神聖な事柄を侵害し、生得権を侵害しました。確かに、神の主権により、ヤコブは生得権のために選ばれた者でした。しかし、神の選びは決して一方的なものではありません。神の選定には常に二つの面があります。一つは主権的行為である選びであり、もう一つは選びの器がそのために選ばれたものにふさわしくなることです。ですから、たとえヤコブが神の主権と選びの道筋の中にあって、生得権が確約されていたとしても――その本体として教会もそうなのですが――神の主権が取る別の道筋があるのです。その道筋とはつまり、ヤコブ的な立場から全く離れることです。嗣げるのはありのままのヤコブはないからです。嗣ぐのは「イスラエル」です。

このもう一つの点に注意することにしましょう。この点は重要であり、興味深いです。この点とは、特別な方法でヤコブに対してこの「家」が登場する、ということです。アブラハムはユダヤ人国家の祖父でした。ユダヤ人たちは常に「アブラハムの子孫」と呼ばれています。しかし、アブラハムは父祖だったにもかかわらず、聖書の中に「アブラハムの家」という句は全く見あたりません。次に、神は何度も何度もご自身のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と告げておられるにもかかわらず、聖書の中に「イサクの家」という句は全く見あたりません。しかし、「イスラエルの家」という句はあります。ですから、これはみなヤコブに遡るのです。

さて、この意義がわかると思います。イスラエルは天的で神聖なものを表しており、地的な人からのものを除いたものを表しています。ヤコブは地的なものの型です。イスラエルが道から外れた時、霊的に衰退した時、主はイスラエルのことを「ヤコブ」と呼び、御心にかなっている時は「イスラエル」と呼ばれたことはご存じでしょう。「イスラエル」は天的な面です。ですから実際に神の家が登場するのは、ありのままのヤコブに対してではなく、イスラエルに対してです。同じ人なのですが、今では言わば天に移されており、今や天的な人です。「見よ、イスラエル人を。この人のうちに悪巧みはない」(ヤコブはない)。これはナタナエルに対する途方もない誉め言葉だったと思います。すべてをご存じの主が、「ここに真に霊的な人、霊的洞察力と判断力と識別力を持つ人がいます」と言えたのです。そこに「ヤコブ」はいません。彼が言わんとされたのはこれだと思います。

さて、原則はこれで十分だと思います。神の家は、人にしたがっているものをすべて排除して、神にしたがっているもの、天的なものをもたらすことを要求します。

神の秩序の一部である天的性質

次に、天的性質は単なる何か抽象的な類のものではなく、物事の秩序、天的秩序の一部として現れることがわかります。秩序立った生活、秩序立った関係、天的秩序にしたがったあらゆるものの一部として現れるのです。次に見る必要があるのは、完全な神の秩序がいかなるものかということです。これについて黙想し、熟慮するよう、私はあなたにお勧めします。

愛する人よ、今はかなり多くのものが矯正的であることがわかります。これは混乱と無秩序のせいです。最初、麗しい神聖な秩序がありました。どの領域、どの方面にも秩序がありました。すべてがあるべき所にあり、正しい関係を保って、完全な秩序のうちに機能していました。摩擦、矛盾、不安、圧迫は全くなく、すべてが安息に満ちていました。神は、はなはだ良い、と宣言されました。当時、神の標準に照らしてそう言えたからには、そのような秩序は大いに良いものであるにちがいありません。神の標準は私たちの標準より遥かに高いからです。摩擦や矛盾、圧迫や緊張のない秩序をある程度得るとき、「自分は何かとても良いものを得た」と私たちは感じるようになります。しかし、ああ、神の標準は何と高いことか!神があるものについて、「はなはだ良い」と言われる時、それは本当に良いに違いありません。

しかし、次に混乱が生じました。すべてが無秩序になり、神の宇宙の調和は破壊されました。圧迫、戦いが生じて、もはや安息はありません。そしてその時以来、無秩序と混乱というこの要素が状況を支配し続けています。神の秩序がこの世界に回復されることは決してありませんでした。無秩序が至る所にあります。混乱が至る所にあり、あらゆるものの内にあります。諸々の要素の中にあります。人類の中にあります。あらゆる関係の中にあります。至る所にあります。そして今、神に関する限り、この混乱のせいで、すべてが矯正の過程の中にあります。

まず第一に、この無秩序、この混乱は、人自身の中にあります。人はもはや調和しておらず、一つのまとまりでもありません。人はみな無秩序の中にあります。次に、この無秩序は人間関係の中に見られます。人間関係はみな、無秩序で転倒しています。次に、人が造ったこの世の中にもあります。人はこの世を造って、今の秩序を設けました。それは神の観点では無秩序です。この世の至る所に無秩序があります。これがどれほど正しいのかを示し続ける必要はありません。この世の至る所に、神ではないもの、神の意図ではないものが見つかります。秩序はなくなって、もはや見あたりません。

そこで今、コリント人への第一の手紙に向かうことにすると、最初に導入されているのはこの世であり、二番目が人、天然の人です。他方、三番目が諸々の関係や人の関わり合いです。そこで、このコリント人への第一の手紙はすべて、矯正するための手紙であることがわかります。それはこの世に触れ、人に触れ、人間関係に触れます。これはみな矯正的です。それでは、この手紙はもっぱら何を取り扱っているのでしょう?この手紙の関心はキリストのからだである教会です。「キリストは分けられたのか?」が、この手紙が私たちに突き付ける問いです。そして、「キリストの中には何の分裂も無秩序もない」と、この手紙はただちに答えます。この手紙を読み進むと、神の御心にしたがって教会を真に霊的に理解するなら、アダムを通して入り込んだ無秩序はすべて正されることがわかります。こうしたことがこの手紙の中で一つ一つ取り扱われています。

これを別の言い方で、もう少し単純に述べましょう。キリストのからだである教会が神の御心にしたがって霊的に表現されている所では、アダムを通して入り込んだ混乱や無秩序といったものの余地は全くありません。それは排除されます。この世は排除されます。天然の人は排除されます。人間関係の中のこの無秩序は排除されます。教会は完全な神の秩序を表します。そしてこれは、その中にいると主張するすべての人に諸々の要求を突き付けます。その一つの根本的要求が、この矯正するための手紙の冒頭に見つかります。「私はあなたたちの間で、イエス・キリスト、十字架に付けられた方以外に何も知るまいと決意しました」。教会に属すると主張しているこの人々の上に課せられた、この一つの根本的かつ包括的な要求とは、主イエスの十字架を通して――これによりこの世は十字架に付けられ、これにより天然の人は十字架に付けられ、これにより人間関係の中の混乱はすべて十字架に付けられました――ただキリストだけを知るべきであり、ただキリストだけを認めるべきである、というものです。なぜならここで私たちは、教会の性質そのものである奥義に触れるからです。その奥義とは天からのキリスト、この世からのものが何もない、団体的に表現されたキリストです。地上の人にしたがっているのではなく、天的な人に関する神の御心にしたがっているキリストです。天的秩序の化身であるキリストです。私は組織という言葉が嫌いで、この言葉をしょっちゅう悪い意味で用いていますが、この言葉を正しい良い意味で用いることも可能です。もしそれを我慢していただけるなら、私は言いたいのですが、キリストは天的組織の化身です。キリストのからだである教会の中に入ることは、ある天的な組織、神聖な秩序の中に入ることです。ですから、この完全で神聖な秩序の領域がキリストのからだである教会であり、それは「そのキリスト(the Christ)」と呼ばれています。さて、これにより私たちはこの一般的真理の適用へと導かれます。

キリストの増し加わりがこの神聖な秩序の唯一の目的である

第一に、この秩序、教会におけるこの神の天的な秩序は、キリストの増し加わりの法則によって支配されています。

神の定めによって何が起きるにせよ、その目的はただ一つ、すなわち、キリストの増し加わりです。教会における天的秩序の一部として神が定められたものはみな、これを目的としています。私がこれから述べようとしている言葉には多くの意味がありますが、それを詳述するつもりはありませんし、決して批判が目的でもありません。しかし、例証として、私はある人々が「私は叙任された」という句を用いるのを時々耳にします。この句から、彼らがある特定の教会組織の領域の中に入ったこと、もしくは、「聖位の祭司」になったことを、私たちは理解します。さて、要点はこうです。教会の天的秩序ということでは、どの奉仕者、任命、地位、関係も、ただキリストの増し加わりのために存在するのです。これが全てを支配しているものです。役職にすぎない地位や務めを持つ人は誰もいません。天的観点から見ると、教会の地位とは何でしょう?主の民のすべての関係が帯びている意義とは何でしょう?それらのものはみな、神の御旨によると、キリストの増し加わりのためです。特別な奉仕に関する限り、これを受け入れてもらえると思います。しかし、これには検証が必要かもしれません。それらの特別な務めがあるのは、メッセージを与えたり、説教するためではありません。天的秩序の中には、キリストを分与してキリストを増し加えることを意味しないいかなる奉仕もありません。それは、教会がさらに豊かなキリストの表現となるためです。これに至らない務めや、これに至れない務めはどれも、天的秩序の中にありません。教会の職務は、投票や任命による単なる教会組織とは全くの別物です。教会内のすべての職務や地位を天的秩序にしたがって支配しているのは、どの職務や地位も与えるべきキリスト、キリストの増し加わりを表すものを有しているということです。なぜなら、教会は団体的に表現されたキリストだからです。

あなたは教会における職務や地位を渇望しているでしょうか?それに至る方法をあなたに告げましょう。あなたの兄弟たちよりも大きなキリストの度量を持つことを渇望しなさい。聖霊は、御霊によって支配されている教会の中で、あなたが地位や務めを得るよう案配して下さいます。これが教会内の地位を支配している法則です。誰が役員になるべきか、教会が挙手で投票を行うということではありません。平均以上にキリストを有する人たちを聖霊が抜擢されるのです。それは、教会をさらに豊かなキリストの度量にもたらすためです。

では、このからだの肢体全員についてはどうでしょう?この同じ法則が支配しています。あなたはこのような人々に御言葉を供給する全責任を与えて、「私たちにキリストをもたらして、キリストにあって私たちを建造することがあなたたちの仕事です」と言うかもしれません。しかしこの時、あなた自身もキリストのからだの肢体なので、あなたも個人的にこのからだの供給の節々となるよう専念しなければなりません。このからだを相互に建て上げて、キリストを増し加える働きに専念しなければなりません。私たちがキリストにあずかることや、キリストのからだの肢体であることですら、このこと、すなわち、私たちはキリストの増し加わりに寄与する要素である、ということによって支配されています。私たちはこの「説教壇と会衆席」の観念から逃れて、全く新しい心構えを持たなければなりません。教会はその相互的奉仕によって自らを建て上げます。そして、このような建造が意味するのは、あなたがそこにいるのはキリストの増し加わりを意味するということです。愛する人よ、これを強調させて下さい。他のことはすべて忘れたとしても、次のことは押さえておいて下さい。あなたがキリストのからだである教会の中にいる意味は、あなたがそこにいることはキリストの増し加わりを意味するということです。そうであるにちがいありません。あなたがそこにいるおかげで、そこにはキリストに属するものがさらに多くあるのではないでしょうか?これが支配的原則です。これによって奮い立って下さい。あなた自身の個人的責任を自覚して下さい。教会は団体的に表現されたキリストです。あなたは教会です。どれだけ多くのキリストが、御民の全体的増し加わりと建造のために、あなたによって表されているでしょうか?教会、務め、地位、諸々の関係のすべてを支配しているのは、このキリストの増し加わりの法則です。

さて、私は「諸々の関係」という言葉を用いました。確かに、これがみな、単なる専門的・教会組織的・事務的・法律的なものから、どれほどかけ離れているのかがわかります。そして、これがどのように一つのこと、すなわち命に帰着するのかがわかります。このキリストの増し加わりの法則によって支配されている、神の天的御旨、天的秩序にかなった教会を得る時、あなたは命を得ます。教会組織や位階ではなく、命を得ます。これが命の道です。これがキリスト・イエスにある命の霊の法則が働く道です。新たな立場から、あるいは新たな考えで、この関係の問題に取り組むことにします。

権威と服従の神聖な諸々の特徴

キリストのからだである教会には二つの主要な面があります。その第一は権威であり、第二は服従です。これが主に教会を原則的に支配している二つの事柄です。

さて、機知と狡猾さと悪巧みによって自分の兄を出し抜いた時、ヤコブは権威、優れた地位を求めていました。彼は弟なのに兄より優位に立とうとしていました。さて、神がこれを定められたのであり、ヤコブは狡猾さや機知等を用いる必要はありませんでした。ヤコブが神に信頼していれば、神がこれを引き受けて下さったでしょう。それにもかかわらず、権威と優位性を得ることを彼は気にかけていました。二十年間の道のりで彼が学ばなければなかったのは、権威に至る道は従順であるということでした。神の家であるベテルの皇子であるヤコブにとって、この二つ――権威と服従――は同行します。この二つを分けることはできませんし、分けてはなりません。神がこの二つを組み合わされたのです。権威は服従によります。服従は権威に至ります。それに加えて私は信じていますが、神はこれを示すとても麗しい方法を選ばれました。

神はこれを(偉大な教会書簡であるエペソ書でパウロが私たちに述べているように)エデンの園が始まった時に開始されました――「男と女を神は造られた」。夫と妻、男と女です。これが教会の第一の原則であることを、あなたはこれまで認識したことがあるでしょうか?これを天まで、すなわち神の御旨と御心まで辿るなら、神の目的は教会であることが分かるでしょう。キリストとその肢体である教会、夫である御方とその妻、花婿である御方とその花嫁であることがわかるでしょう。諸々の関係、夫と妻というこの人間関係は、ですから、神の御旨においては、地上の人々の間の単なる個人的な個別の関係よりも遥かに偉大なものと関係しているのです。これはキリストと教会という大いなる崇高な観念を示すものに他なりませんし、その目的はこれを示すことです。キリストと教会を支配する二つの支配的原則は権威と服従です。教会はどのようにして統治するようになるのでしょう?キリストに服従することによってです。かしらであるキリストはどのようにして統治するようになったのでしょう?御父に服従することによってです。権威と服従は不可分です。これは天で確立された二重の法則です。男と女のこの二者は、神から見てどちらもとても神聖なものであり、そのどちらも入れ替わってはなりません。もし入れ替わるなら、神聖な天の秩序を覆すことになります。この二人がそこにいるのはとても聖いもの、とても神聖なものを示すためです。

もっとよく見るなら、これらの特徴はどれもキリストご自身のパースンの中に見いだされることがわかります。ああ確かに、御父に対するキリストの服従から私たちはどれほど恩恵を受けていることか!どんな恩恵を受けているのでしょう?このおかげで、一方では、キリストによる神の全ての啓示を私たちは与えられています。御父へのキリストの服従により、キリストによる神の啓示が現れました。「子は自分からは何もすることができません。父がなさることを見てするのです。父がなさることはなんでも、子も同じようにします」(ヨハ五・一九)。御父への服従が意味するのは、キリストは御父がなさっていることを見て、御父の働きをされたということです。キリストの働きの中に私たちは神の働きを見ます。神がいかなる方かを見ます。神の御旨、神の御思い、神の願いを見ます。

キリストの服従のおかげで、私たちは神の愛の啓示を与えられています。御父の御旨はキリストが自分の命を捨てることでした。そして、その命を捨てることは私たちに対する御父の御心の表れでした。キリストは私たちの諸々の罪のために御自分の命を捨てました。それは彼が私たちを贖って神にもたらすためでした。神の愛はみな、主イエスの服従によって私たちにもたらされます。これを覚えておきましょう。

次に、彼の服従から何と豊かな実りが生じたことでしょう。「一粒の麦が地に落ちて死なないなら……」。これは服従ではないでしょうか?その反対は何でしょう?私は死ぬことを拒みます、自分の命を捨てることを拒みます、自分の魂を手放すことを拒みます。私は自己に、自分のものにしがみつきます。「一粒の麦が地に落ちて死なないなら、それは一粒のままです。しかし死ねば(つまり、自分自身を明け渡せば、自分の命を手放せば、自分の権利を拒めば)多くの実を結びます」。これに直ちに次の御言葉が続きます、「自分の命(自分の魂)を愛する者はそれを失い、自分の命(自分の魂)をこの世で憎む者はそれを保って永遠の命に至ります」(ヨハ一二・二四〜二五)。これもまた、一言で言うと、服従です。

「死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました」(ピリ二・八)という御言葉でこの問題を追って下さい。従順――これが服従です。これは女性の面であり、女が表しているものです。私たちはその恩恵を何と受けていることか!

そうですが、次に、別の面があります。ああ、キリストのうちに見られる力、強力な力!ああ、私たちがキリストにあって持っている命、積極的な復活の命!ああ、力強い解放者であるキリストを通して私たちに与えられているこの解放!ああ、十字架のおかげで私たちに向けられているこの保持する力!服従の面は私たちに対するキリストの愛です。権威の面は私たちを守るキリストの守りです。服従の面はキリストの優しい同情、御自分の者に対する憐れみ深い優しさです。キリストの権威は、御自分の敵に対する御力の表れです。これが男と女です。

教会における神の諸々の特徴の実際的表れ

さて、これが教会のまさに中心に据えられています。ですから、再びコリント人への第一の手紙を見て下さい。男と女、そして教会における各自の地位について述べられていることは、すべてご存じでしょう。この天的関係がキリストの増し加わりのために確立されるなら、貧困ではなく途方もない豊かさという結果になるでしょう。教会における女性の地位は何でしょう?キリストのこの側面――それは常に恵み深く、同情に満ちており、助けになる側面です――を表すことです。女性は抑圧されるべきである、と思われるでしょうか?私はそうは思いません。神の御言葉がそう教えているとは私は思いません。それは命へと至る秩序と地位の問題です。もしこれをごく普通の、一般的な、日常の、人間的な言葉で述べるなら、これをこう述べるべきでしょう。「男がそこにいるのはキリストの権威を代表するためですが、服従せずにその権威を行使することはできません」。さもないと何が起きるでしょう?男が神の家の中で君主になってしまいます。使徒が「神の遺産を牛耳る」と述べていることをしてしまいます。男に必要なのは、服従を示す女が同伴して、こう述べることです。「まあ、愛する人よ、優しくして下さい。あのような強引さ、あのようなおせっかいで、神の権益に損害を与えないで下さい、傷つけないで下さい。主によって耐え忍ぶ必要があることを思い出して下さい」。服従の原理が働いているのがお分かりでしょうか?この二人は切り離せません。主は二人共必要とされます。私は信じていますが、主が教会の中にこのような関係を示されたのは益のためであって損失のためではありません。増し加わりのためであって、貧しくするためではありません。キリストの服従というこの原則にしたがって、この親切さ、この優しさ、細やかな感情に対するこの配慮――それは統治の荒っぽさを和らげるものです――が常に維持されるようにするためです。ああ、もしそうするよう召されるなら、私たちは男として、自分自身もまた神のあわれみを大いに必要とすることを常に覚えつつ、治めなければなりませんし、権威を用いなければなりません。「兄弟たちよ、もしある人が過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたたちは、そのような人を柔和の霊の中で回復しなさい。自分も誘惑されないよう気を付けなさい」(ガラ六・一)。この御言葉の中に女の声が聞こえるでしょうか?これはキリストの一つの面であって、正しく治めるのに必要なものです。

実際のところ、私にはこの意義について示唆を与えることしかできません。私が常に心の奥底で心がけているのは、あらゆること、諸々の関係、他のすべてのものが、神の家の中では、キリストの増し加わりのためである、ということです。親愛なる姉妹たちよ、「あなたたちは抑圧されて排除されなければならない」と述べている箇所が新約聖書にあるとは思わないで下さい。あなたたちにはとても本質的な務めがあります。その務めは神の家において重要なものであり、キリストの増し加わりのためです。そして、もう一方の側の者たちはあなたたちを必要としており、あなたたち抜きでは自分の務めを果たせません。「男が一人でいるのは良くない」と主は言われました。これには、人間的交友を持つ以上のとても深い意味があります。これを積極的な言い方で述べるとこうなります、「男が一人の女を持つのはとても良いことです。だだしそれは、女が神の御思いにかなう正しい優しさを持っていればの話です。あなたはバランスを保たなければなりません」。

しかし、そのどちらも入れ替わってはなりません。さもないと、天的秩序は直ちに覆ってしまいます。こういうわけで、コリント人への第一の手紙はすべての領域で無秩序を正します。この世は無秩序なので排除されることがわかります。天然の人は無秩序なので排除されます。この無秩序な領域にしたがっている関係が教会の中に入り込むなら、そのような関係は出て行かなければなりません。そして、天的秩序がもたらされなければなりません。パウロが教会の中の女性について述べていることはどれも、正しく解釈するなら、「女性には何の地位もない」という意味ではありえない、と私は信じています。その正反対だと私は信じています。しかし、彼が述べたことはどれも、無秩序な所に秩序をもたらすということです。それは天的秩序の問題でした。あなたが正しい所にいるなら、あなたは完全に機能できます。しかし、あなたは自分のいるべき正しい所にいて、それを保たなければなりません。さもないと、命は出て行ってしまいます。おそらく、こうした問題に関して私はこれまであなたを完全には満足させてこなかったかもしれませんが、私は原則を扱っています。命の法則は天的秩序の道筋に沿って働きます。

そこで次に、すべては御子に関する神の御旨にかかっていること、そして、すべては「神の御旨はどのように実現されるのか」ということに則って支配されていることがわかります。神が良しとされる方法は、キリストの増し加わりを第一として考案された方法です。それ以外のものはすべて神によって排除されます。秩序は技法ではありません。偶然ではありません。キリストの増し加わりのために確立された天的秩序の現れです。あるいは別の言い方をすると、秩序とは、それが天的秩序である場合、命の道なのです。無秩序は死の道です。

さて、ヤコブの生涯が理解できたでしょう。彼は天然の人につきものの無秩序と共に開始しました。この世の知恵と狡猾さと共に開始しました。彼が召されたのは、神の家と神の家にまつわる奉仕――ベテルとベテルに住むこと――を主眼とするようになるためでした。ですから、この人は取り扱いを受けなければなりません。そして、天然の人に属するものはみな、無秩序なものとして除き去られなければなりません。また、彼の中にあるこの世の要素はすべて滅ぼされなければなりません。神の家はヤコブの家ではありえません。「イスラエル」の家でなければなりません。これが諸事の霊的・天的な面です。

重要な学課

この実際的意義をあなたたちがどれだけ理解しているのか私にはわかりません。おそらく多くの疑問を抱えているでしょう。しかし、これは少なくとも一つのことを私たちに教えていると思います。それは、キリストにある満ち満ちた命に向かって進むには、主の民は霊的関係を持たなければならない、ということです。キリストの肢体たちの間にこのような関係――それにより秩序ある方法でキリストが増し加わる機会が生じます――がなければなりません。これは大いに考えるべき問題です。私は堅く確信しているのですが、必要以上の苦しみを受けている人がたくさんいるのは、彼らが教会、キリストのからだと実効的・実際的な方法で関わっていないからです。主の民の個人的な、独立した、関連性のない生活や運動のせいで、大きな悪が彼らの上にのしかかっています。主の民が集まりさえするなら、多くの病が癒され、不必要な多くの苦しみから解放されるでしょう。「あなたたちは穴の空いた袋に金を入れている」というハガイの言葉が依然としてあてはまります。欠乏と不毛さに見舞われて、費やした霊的力にまったく見合わない結果です。次に、主はその原因について御自分の民に尋ねます。彼らに対する主の答えは、私の家のためである、というものです。もしあなたが私の家を自分の人生を支配する中心的なものとするなら、今は祝福がないところに多くの祝福があるようになるでしょう。今は死があるところに命があるようになるでしょう。今は暗闇があるところに光があるようになるでしょう。今は欺きがあるところも安全になるでしょう。主の民の独立的行動や関連性の欠如のせいで、今日、こうしたあらゆる方法で、どれほど多くの苦しみが生じているのか、私たちは少しもわかっていません。これについて主に尋ねてみて下さい。もしそれが主の御心なら、そして主の御旨に関してあなたが主と共に考えるなら、これを癒せる何らかの方法を主はきっと示して下さるでしょう。