少数の人々だけが自然と超自然の緊密な関係――体と霊の緊密な関係を理解している。われわれはこの二者を引き離して、遠く隔たった領域の中に置くという間違いを犯してきた。そのせいで多くの人は、主は自分たちの霊的必要しか満たせない、と考えている。このような有様のとき、肉体を持つ人であるわれわれのために血で買い取られた輝かしい諸々の特権を、われわれは必然的に見落とすことになる。
われわれの主の偉大な贖いの御業は人全体――体、魂、霊――を網羅する!それは肉体的必要の領域に届きさえする。イエスは弟子たちに言われた、「何を食べよう、何を飲もう、何を着ようと言って、思い煩ってはなりません。あなたたちの天の父は、あなたたちがこれらのものを必要としていることをご存じだからです。しかし、神の王国とその義をまず第一に求めなさい。そうするなら、これらのものはみな、それに加えて与えられます」(マタイ六・三十一〜三十四)。この御言葉は推論的発言ではなく、直々の明確な宣言である。イエスは「あなたたちの天の父は、あなたたちがこれらのものを必要としていることをご存じです」と述べただけでなく、「天の父はそれらのものを供給して下さいます」とはっきりと約束して下さったのである。
霊のものと天然のものとの間には、とても緊密なつながりがある。彼の弟子たちは天然のものを求めるべきではなく、その代わりに霊のものを求めるべきだった。彼らはまず王国を見いだして、次に王国の中に入らなければならなかった。そうするとき、彼らは自分たちの生活のすべての必要を満たす豊かさを見いだす。これはわれわれの主の直々の約束だったのである!
イエスがこの地上に来られる数百年前、神の預言者の一人が、自分は人間によるいかなる供給源からも遠く離れたところ――小川のそば――にいることに気がついた。そしてその場所で神は、朝と晩の薄明かりの時に、食物を持ったカラスを送ることにより、この預言者に対するご自身の御言葉を守られた。やもめの食物入れは空っぽになるおそれがなかった。それは、神の宝物庫の無限の供給のおかげだった。神が食物を賜ったのは、やもめが食物を求めたからではなく――彼女が神に従ったからだったのである!
その命令は常に「神の王国をまず第一に求めなさい!」である。こういうわけで、天然のものを霊のものに明け渡すこと、自分たちのアダム的性質を祭壇の上に置くことが強調されているのである。それは、キリストが私たちに対して霊的に、次に肉体的に、すべての約束を果たせるようになるためである。
主の命令は常に創造と「再創造」だった。天然のものが最初であり、その後、霊のものが続く。エレミヤ書十八章にこう記されている。「主からエレミヤに臨んだ言葉。『立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所で私はあなたに私の言葉を聞かせよう』。そこで私は陶器師の家へ下って行った。すると見よ、彼はろくろの上で作品を造っていたが、粘土で造っていた器が、その人の手の中でし損じたので、彼は自分の意のままに、それで他の器を造った。その時、主の言葉が私に臨んだ。『ああ、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、私もあなたたちにできないのだろうか』」。「つぎはぎ細工」をすることが創造者の御旨だったことは決してない!最も酷い罪人でも、創造者の御手に自分を委ねるなら、「新創造」になる。体は病になるかもしれないが、霊はそれを癒す!砕かれた粘土は、永遠の陶器師の御手の中に再び委ねられなければならない。それは、彼が自分の意のままに、それで他の器を造れるようになるためである。
完全な御業
どれだけ多くの人が癒しを求めて、ただ癒しの御手の接触だけを求めて来ることか!彼らは主が体に触れることを欲しているが、主は霊に触れることを願っておられるのである!肉体的顕現は生じるだろう。しかし、神は霊であり、復活の命の流れはもっぱら御霊を通して生じなければならず、肉体のみによるのではない。「私が来たのはあなたたちが命を持つためであり、それを豊かに持つためです」とイエスが言われた時、彼は霊の命について話されただけでなく、われわれの存在の全ての原子に文字通り浸透して、尽きることのない命の栄光をもって私たちを満たすあの命についても話されたのである。
癒しを求めて来るものの、癒し主を求めていない人々がいるのである!彼らは肉体的興奮を期待してきた。折々の祈りは効果がないように思われたかもしれないが、いかなる嘆願も空しく終わることはありえない。祈りが今日かなえられなくても、それは明日もかなえられないことを必ずしも意味しない。「愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべてのことで栄えて、また健康であることを、私は願っています」三ヨハネ二。時として、外面的変化が内面的変化に続く――内なる人が御霊によって造り変えられ、その後、外なる人においてこの造り変えの現れが見えるようになるのである!確かに、この引用した御言葉――霊感を受けたヨハネの筆が記した御言葉――は、この問題の上に神聖な光を投じる。この御言葉が述べているのは、人全体が栄えることである。しかし、人の繁栄と健康は内なる繁栄に伴うものでなければならなかったのである!
こういうわけで、「もし主が私を癒して下さるなら、私は生ける限り主に仕えます」と言う人々は「本末転倒」なのである。彼らは御力が外から中に向かって働くことを求めているが、実際のところ、御力は中から外に向かって働くのである!われわれの体は、われわれがその中に生きている殻であるだけでなく、いと高き方の幕屋でもある!いと高き方は体が健康で丈夫であることを望んでおられないだろうか?彼の復活の命の癒しの光線は、外側からわれわれを照らすのではなく、われわれを通して内側から輝くのである。
主の法則は前進することである!われわれは栄光から栄光へと変えられていく。しかし、完成に向かって成長することは、究極的目標に達しない限り、決して完成に至ったことではない。人の中には完全なものが何もない。完全はただ神の中にのみ見いだされるからである。われわれが主のもとに行くのは、命を得るためであり、命を豊かに得るためである!復活の命は、われわれがその流れで満たされるまで、溢れ流れる。
「イエスに来たれ!」と歌うのは良いことである。「イエスは私のもとに来てくださった」と歌うのはさらに良いことである。しかし、「イエスは私の心の中に生きておられる!」と宣言できることは、遥かに恵まれたことである。困窮している人々が長老たちを探すことや、聖別されている人に祈りを求めることは聖書的である。しかし、それは神の究極的解決法ではない。主にあってわれわれにはいかなる祭司も必要ない。主こそ確かにわれわれの大祭司だからである。主にあってわれわれにはいかなる仲保者も必要ない。主が神と人との間の唯一の仲保者だからである。
神殿の幕は上から下に向かって裂けた。そして、アダムの種族は誰でも至聖所に近づけるようになった。キリストの身代わりの死によってキリストと共に死んだ人は、キリストの復活の命の栄光と力により、キリストと共に復活するのである!
その時、われわれは自分の全存在を、それを造った御方に明け渡すのである!われわれはそれを献げて明け渡す。それを放棄する。その時、土くれから造られた器は天の陶器師の管理下に委ねられる。そして、天の陶器師は御旨のままにそれから他の器を造られるのである!たとえその器が壊れても、彼はそれを投げ捨てたりなさらない。何という優しさと愛をもって彼はわれわれは造り直し、御自分を分与してわれわれの体・魂・霊を癒して下さることか。
内側で食すること
「救う」のは伝道者ではないし、説教者でもない。神は御自分の真理の宣言のために、油注がれた人を用いるかもしれないが、主ご自身の御手以外のいかなる手も、永遠の契約の血を人の心に適用することはできない。教会の長老たちは主イエスの御名によって油を注いで、手を置くことはできるかもしれない。奉仕者たちは裂かれたパンを与えて、交わりの杯を他の人々に飲ませることはできるかもしれない。しかしこれは、その受け手が主イエスの裂かれたからだと流された血を受けることを必ずしも意味しない。陪餐者は、主の晩餐の「パンを食べ」「杯から飲む」だけでなく、御霊の中で主の犠牲に実際にあずからなければならない。それは、この最も聖なる貴い秘蹟の真の目的を果たすためである。
癒しには何の処方箋もない。人が恵みにおいて成長する処方箋や決まりは何もない。われわれが最終的に自己の終焉に達する時、自分の肉的性質を罪に定めて――自分に霊的悲しみと肉体的苦痛をもたらしたアダムの命を卑しみ蔑んで――自分を全く明け渡す時、自分の行いだけでなく自分自身をもわれわれの栄光の主の頭首権に明け渡す時、そのとき、超自然的命が始まる。われわれが主と同じ性質――同じ本質――の者になるのは、模倣することによるのではなく、あずかることによる。「なぜなら、彼がそうであるように、私たちもこの世でそうであるからです」(一ヨハネ四・十七)。
この造り変えは人全体に及ぶので、体の苦しみは心の痛みや苦悶と共に追い出される。なぜなら、御子が自由にする者は、全く自由だからである!ヨハネ八・三十六。主の造り変える栄光をわれわれは反映する。なぜなら、われわれ自身、栄光から栄光へと変えられて行き、ついには主の幸いな御姿に似た者となって目覚めることになるからである!
われわれの主は、「行きなさい。もう罪を犯してはなりません。もっと悪いことがあなたに降りかかるといけないから」と仰せられなかっただろうか?何度も繰り返し、主は外側の病を内なる人の状態と結びつけられた。主は「あなたの病はどんな具合ですか?」「どれくらい痛みますか」と言われたのではなく、「あなたは信じますか?内側に生ける信仰はありますか?」と言われたのである。主は外側の状態を気遣わずに、常に「高慢な肉」の背後にあるものを察知して、内側の状態を見抜かれたのである。様々な処方箋に則って癒しをもたらそうと悪戦苦闘することよりも、その器を造り主の御手の中に戻すことの方が、はるかに喜ばしいことだし――効力の上でも無限に優っているのである。
人は常に小さなことを強調しすぎて、小さなもののために大きなものを無視しがちである。食事や睡眠の場所に関して、他の地的事柄と同じように、神の導きを受けることは可能だが、そうしたことは神にとって究極的目的ではない。神はわれわれが御自分を知ることを願っておられる。神を正しく知ることは永遠の命だからである。神はわれわれを天の領域の中に導くことを願っておられる。われわれの非常に多くは、従順の地理的面を気遣っている。「主よ、私はこの町に行くべきでしょうか?」「ここに住むべきでしょうか、それともあそこに住むべきでしょうか?」というように。主はわれわれのために特定の場所を定めておられることに、全く間違いはないかもしれない。しかし、われわれが御霊の中に生きることの方が、遥かに重要である!イエスにとって最も大事なのは、自分がユダヤにいるのか、それともサマリアにいるのかではなく、自分が御父の御旨の中心にいるかどうかだったのである。
私の家は神である
昔の人の一人が主に、「主よ、どこにお住まいですか?」と尋ねた。イエスの答えは、「来て見なさい」だった。しかし、これは比較的あまり重要なことではなかったので、イエスの住まいの場所は何も記されていない。イエスがどこに滞在しておられたのか、われわれにはわからない。通りや家の番号は記されていない。町中だったのだろうか、それとも郊外だったのだろうか?おそらく、どこかの森林の木の長く伸びた枝の下だったのだろう。なぜなら、主には枕するところがなかった、と記されているからである。われわれには場所はわからない。しかし、主の家は神だったことは分かっている!彼は御父の御旨を行うために来られた。御父の御旨が彼の御旨だったのである!
彼が暗黙の従順のうちに生きたことをわれわれは知っている。「彼は子であるにもかかわらず、苦難によって従順を学ばれました」(ヘブル)。「人としての有様で見いだされ、ご自身を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順になられました」(ピリピ二・八)。だからわれわれもまた、「私たちに臨む苦難は私たちを従順へと導くためであることが時としてある」と言うべきではないだろうか?もしそうなら、われわれは自分の癒しよりも自分の癒し主を求めるべきではないだろうか?
効果を調べること、常に効果に注視して、効果を祈り求めることは、人間らしいことかもしれない。しかし、それはわれわれの御父にとって、動機を検証する恵みを求めることよりも喜ばしいことではない。こういうわけで、われわれの在り方の方がわれわれの行いよりも遥かに重要である。「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか?」(詩篇百二十一)。山々からではないのは確かである!「私の助けは天と地を造られた主から来る!」
われわれは山々を移す信仰について読むと、山々を移す信仰を求める代わりに、すぐに山々を見つめ始めてしまう。主はわれわれの信仰の創始者であり完成者である!主がそれを開始して、それは主にあって完成するのである以上、どうしてわれわれはそれを造り出そうともがくべきなのか?主だけが信仰を分け与えることができる!ああ、主の素晴らしい臨在は何と甘いことか。主の信仰を行使して主の御力を現すことは――筆舌に尽くしがたいほど――何と驚くべきことか。
われわれは外側の細々としたことを顧みることにあまりにも汲々としていて、自分の絶え間ない労苦にあまりにも疲れ切っているため、「私のもとに来て休みなさい!あなたの疲れた魂を横たえなさい。あなたの頭を私の胸に横たえなさい!」と言っておられるイエスの御声を聞き逃している。御声に従う時、大事なのは主を信じるわれわれの信仰ではなく、われわれの内に働く主の信仰であることを、われわれは見いだす。それはわれわれの祈りの力によるのではないし、力強く大声で嘆願することによるのでもない。主の聖霊の麗しい動きによるのである。体・魂・霊を癒されて、われわれの主の再創造の力の生ける奇跡となった、主の親愛なる子供の一人は、「私が停止した時、イエスが働き始めました」と言った。「私にはできませんが、主にはできます!」と言う境地に達することは、何と幸いなことか。
解放されて神のもとに来たれ!神にそうしてもらえ!神が御言葉を語られると――宇宙が誕生した!神が「あれ」と言われると、海がその場所に生じた!神が語られると、星々が大空に生じた!すべては神の命令によってなされた。神は常に主権者だった。今日もそうである!神は御自分の子供たちに、自分のすべての持ち物と自分の全存在を完全に放棄するよう求めておられる!そうするなら、暗闇は出て行き、光が入って来る!自己が去る時、主が来て下さる!その時、われわれの内側から「生ける水の川々」が流れ始める――われわれの人生の砂漠の中に癒しの流れが流れ始める。荒野――われわれのことである――は喜び始める。そして砂漠――われわれは砂漠だった――は薔薇のように花咲くのである!
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