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「本物の信仰」

The Real Faith

第三章 さらに優った道

Chapter 3 The Better Road

チャールズ・プライス
Charles Price



私は信じているが、律法の下にある旧約の信仰と恵みの下にある新約の信仰との間には一つの違いがある。ヘブル人へのパウロの手紙で鍵となる言葉は「さらに優った」である。この並外れた手紙の五章に照らして見るとき、これは特に興味深い。パウロはヘブル人たちに対比によってキリスト教の真理を見せようとしている。過去をないがしろにするのではなく、花が根から出て成長するように、キリスト教はユダヤ教から出て成長したことを示している。

この根の儀式の中に隠されていたのは、後に生じるべき恵みの花の色彩、芳香、麗しさだった。この花はこの根よりも優っていたのではないだろうか?その終わりはその始まりよりも優っていたのではないだろうか?キリストの血はユダヤ教の祭壇で屠られた小羊の血よりも優っていたのではないだろうか?イエスは、ユダヤ人の父祖たちをその民族史の記念日に折りに触れて訪問した天使たちよりも優っていたのではないだろうか?神の御子の声は預言者たちの声よりも優っていたのではないだろうか?

当時、これがこの書簡の心臓の鼓動だった。パウロが信仰の章を書いた時、この手紙の目的、この書簡の動機から離れる理由が何かあったのだろうか?私はあったとは思わない。その主題はさらに優っており、その目的はイエスの信仰の麗しさを、族長たちや預言者たちの働きや言葉――これらのものが彼らに対して信仰と見なされたのである――との対比で示すことである。それが当時の信仰だった。パウロがこの信仰の章を、「神は私たちのためにさらに優ったものを備えておられました。それは、彼らが私たち抜きで完成されることがないためです」という言葉で締めくくっていることを思い出してほしい。言い換えると、昔の人の行いや証しは、クリスチャンのユダヤ人たちが見て称賛するために、画廊の絵のように掲げられていたのである。そこにはアベルとエノクの物語があった。ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブが、神の御言葉に対する従順さを描いた絵の中に収められていた。それからモーセとヨシュアが登場して、イエスが馬小屋に誕生される前の昔の著名人たちの大行進が続く。しかし、今やイエスが誕生された――昔の信仰は命令に対する従順な言動によって現された。しかし、それ以上のものがある。言動は、新約聖書が信仰の何たるかについてわれわれに教えていることの一部分にすぎず、僅かな部分にすぎない。もちろん、働きはあるだろうし、証しもあるだろう。しかし、それだけが信仰ではない。決して新約の信仰ではないのである!

これに関して、興味深いのは次の点である。ヘブル人への手紙の十一章で紹介されている男女の生活の旧約聖書の記録に戻ると、彼らの生活に関して信仰という言葉は全く述べられていないのである。信仰という言葉は旧約聖書では二回しか現れない。そのうちの一つは預言的な出来事の一つに現れ、もう一つは邪悪な世代の不信仰に関して消極的な方法で用いられている。その二つの節とは申命記三十二・二十とハバクク書二・四である。

だから、次のような明白な結論を下さなければならない。パウロがこの傑出した族長たちの生活を掲げているのは、従うべき模範としてではなく、イエスのうちに見いだすべき何かさらに素晴らしいものに関する神の御旨の卓越した出発点としてなのである。彼らが持つべき信仰は、彼らの祖父たち全員が持っていた以上のものだったのである。証人たちのこのように大きな雲に取り囲まれているのを見て、彼らもまた重荷や罪を捨てて、自分たちの前にあるこの新しい競争を忍耐をもって走るべきだったのである。彼らは何をなすべきだったのか?自分たちの信仰の創始者であり完成者であるイエスを見上げるべきだったのである。

イエスが彼らの信仰やパウロの信仰の創始者であり完成者である以上、彼は私の信仰の創始者であり完成者でもある。言い換えると、すべての真の信仰は、その始まりも完成もイエスによる。御言葉が述べているのは、イエスは御自分の信仰についてだけ、その創始者であり完成者である、ということではなく、私やあなたの信仰の創始者であり完成者である、ということである。

信仰と思い込み

アルファの前には何もなく、オメガの後にも何もない。イエスがそれを開始し、それはイエスにあって始まる。イエスがそれを完成させ、それはイエスにあって完成する。それが欲しい時、私はイエスの御顔を求めなければならない!この比類無い御方以外のどこからも、それを得ることはできない。イエスはわれわれの信仰の創始者であり完成者である。御自分の信仰ではなく、あなたや私の信仰の創始者であり完成者なのである。

ヘブル人への手紙の十一章を読んで、人々が行ったことを見た後、自分の袖をまくり上げて、自分の行いによって自分の信仰を示して証明しようとする間違いを、われわれは犯したことはあるだろうか?あなたはこれまでそのような間違いを犯したことはあるだろうか?もし犯したことがあるなら、かなえられない祈りや、自分が信仰だと思っているものの無力さに、あなたは困惑して立ち尽くしていることだろう!信仰は働くものだが、働きが信仰から生じるのであって、信仰が働きから生じるのではないことを思い出せ。こういうわけでいとも容易に、神が分与して下さる信仰という境界線を踏み越えて、思い込みの領域の中に踏み込んでしまうのである。しばらく前に、これがとても明白な素晴らしい方法で私に示された。

ブリティッシュ・コロンビア州のビクトリアで、数年前、私は数人の奉仕者たちと連れだって、メトロポリタン・メソジスト教会の中に入ろうとしていた。その大建造物の扉のところで、われわれは車イスに乗った優しそうな老女がトラックから連れ出されるのを見た。私は帽子を脱いで、「神があなたを祝福して下さいますように」と彼女に言った。涙が彼女の目に溢れて彼女は答えた、「プライス博士、神は私を祝福し続けて下さっています。神はとても優しくて恵み深く、私は今神の臨在を感じることができます」。

「あなたは癒しのために来られたのですか?」と私は尋ねた。

「そうです」と彼女は答えた。「御名を賛美します。波が荒いことは分かっています」。丁度その時、トラックの運転手が身を乗り出して言った、「ご婦人、集会の後に戻って来て、あなたを家に連れて行ってもいいですか?」。

彼女は何マイルも旅してきて、車イスに乗って家に帰る唯一の方法はトラックだった。車イスが乗用車には大きすぎたからである。彼女はためらった。すると、一条の光が彼女の顔を照らして、彼女は答えた、「いいえ、私にトラックは必要ありません。私は車イスを後に残して、電車で家に帰ります」。運転手は困惑して頭を掻き、「愚かな女性だ」と思った人に向かってにやついた。運転手は走り去って行った。そして、彼女に彼は必要なかったのである!彼女は喜びながら家に行き、電車に乗って行ったのである!

私はこの物語を中西部で開いた集会で話した。翌日、ある女性が、「私の小屋で少しのあいだあなたにお会いしたいのですが」という便りを送ってきた。私は彼女が長椅子に横たわっているのを見た。その周りで一群れの人々が詩歌を歌っていた。彼女は私を見上げて言った、「プライス兄弟、私は車イスを家に送りました」。彼女は私が叫ぶのを待っていた。私は叫ばなかった。その代わりに、私は落胆した。そこに信仰は全くなかった。私にはそれがわかっていた。彼女の行いに私が興味津々にならないのを見てとると、彼女は私に背を向けて、「一人の女性のために神にそうすることができるのなら、他の人のためにもできます」。

その夜、私がその建物を去った時、彼女はまた一群れの人々の中心にいた。人々は、「彼女は立ち上がって歩く」と言い張っていた。しかし、彼女は悲しみながら帰った。彼女に関して主は、「あなたには欠けていることが一つある」と言えただろう。この二つの行いは全く同じだった。二台の車イスが家に送られた。一方は信仰であり、他方は思い込みだった。新約的信仰では、行いが信仰から生じうるが、信仰は行いからは生じえない。行いは信仰から発しうるが、信仰は神から発しなければならない。

だからこれが、ヘブル人へのパウロの手紙が言うところの優った道である。これが、この書のいわゆる信仰の章の背後にある、目的であり動機である。主の慈しみと寛大さが示されるのを前にして、あなたは驚いて立ち尽くしたことがないだろうか?主は正しく歩む者たちに対して良いものを何も差し控えないことを、あなたは知らないのだろうか?あなたは必要を抱えているだろうか?それをイエスのところに持って行きなさい。あなたは問題を抱えているだろうか?それを主の足下に置きなさい。主に信頼することを始めよ。主に信用と信頼を与えるなら、主の信仰が自分の内に働き始めるのがわかるだろう。主の信仰は海のように無限だというのに、どうして自分の苦闘や努力という茶碗をもてあそぶのか?

主は人を偏り見ることがない。主はわれわれ全員の中の最も弱い者や最も単純な者を愛しておられる。しかし、われわれはあまりにも自尊心を抱いており、自分の霊的達成をあまりにも誇っている。そのせいで、われわれの証しが示すものというと、空しいことに自己の義だけなのである。主はそれを御覧になる――汚れた布切れである義を御覧になるのである!われわれは幼子の純真な霊の中で御許に行く必要がある。心の鐘楼の中の愛の鐘を鳴り響かせつつ、御許に行く必要がある!「自分は価値ある者だ」と感じるようになるまで待っても無駄である。なぜなら、われわれは決してそのような者になることはないからである。幼子のようにこの御方のもとに行け。この御方は昔、幼子を自分たちの間に立たせて、「幼子のようにならない限り、あなたたちは天の王国に入れない」とパリサイ人に言われた方である。

イエスに穏やかに忍び寄れ。恵みの時代、クリスチャンのための信仰はキリストにしか見いだせない。しかし、われわれの祝された主は、自分の必要を全て満たすのに十分な御方であることを、あなたは見いだすだろう。ノアが持っていたのは良いものだったが、われわれが持っているものの方が優っている。ノアには神の御言葉があったが、われわれには神の御子がある。ノアは神の御言葉に基づいて建造したが、われわれの基盤はイエスご自身である。だから、この素晴らしい章全体にわたって、神の栄光の現れが列挙されているのがわかる。神を信じて、神と共に従順に歩んだ人々の行いによって神の栄光が現れたのである。そのうちの一人でエノクという名の人は、ある日、神と共に歩んで、戻って来るのを忘れてしまった。神から発する信仰が神の御子の姿で地上に訪れた時、パウロはヘブル人にこう言わざるをえなかった、「先人が持っていたのは古い信仰ですが、ここに新しい信仰があります。先人たちには良い道がありましたが、これはさらに優っています」。

ミュラーの物語

キリストがすべてのすべてとならなければならなかった。そして御父の御心の愛は、彼はわれわれのすべての必要を満たせるだけでなく、そうすることを望んでいる、という事実に示されている。私はジョージ・ミュラーの生涯の物語をここのところ読んでいる。チャールズ・パーソンズ牧師はミュラーに関する一つの経験について次のように述べている。

暖かい夏の日のこと、私はブリストルのアシュレイ・ヒルの日陰の木立を歩いて上っていた。その頂上で私は巨大な建物を見た。その建物は二千人以上の孤児を保護するものであり、一人の人によって建てられたものだった。その人は、世界がかつて見たことがないような極めて印象的な信仰の実物教育を、世界に与えてきた。

一つ目の家は右側にあり、ここには、簡素で素朴な共同住宅の中に住んでいる彼自身の民の間で、聖人のような家長であるジョージ・ミュラーが住んでいる。この山荘の門を通って、私はしばしのあいだ立ち止まって、自分の前にある三号建屋を見た。この建屋は六〇〇、〇〇〇ドルで建てられた五つの建屋の一つにすぎない。

呼び鈴に応えたのは一人の孤児だった。彼は私を導いて高い石の階段を上らせ、その尊敬すべき創立者の私室の一つに私を入らせた。ミュラー氏は九十歳という高齢に達していた。

彼は心のこもった握手で私を迎え、「ようこそ」と述べてくれた。その人によって神が偉大な御業を成し遂げられた人に会って私は感無量だった。その声の響きを耳にするのは格別なことである。その霊との直接的接触に導かれて、その魂の暖かい息吹が自分自身の魂の中に吹き込まれるのを感じること以上に格別なことである。その時の交わりは、永遠に私の記憶に刻まれるだろう。

「私はあなたの伝記を読みました、ミュラーさん。そして、時として、あなたの信仰がどれほど大きな試みに会ったのかに気づきました。今も昔と同じようにそうでしょうか?」。ほとんどの時間、彼は前屈みの姿勢で床を見つめていた。しかし今、彼はまっすぐ座って、しばしのあいだ、私の魂を貫くような真摯さで私の顔を見つめた。その曇りのない両目は、壮大な気高い雰囲気を帯びており、霊的な諸々の幻を見て、神の深い事柄を見抜くことに慣れていた。この質問が浅ましいものだったのかどうか、私にはわからない。あるいは、この質問が古い自己の残滓に触れて、彼がこの会話の中でそれとなくそれに触れたのかどうかも、私にはわからない。いずれにせよ、微塵の疑いもなく、この質問は彼の全存在を呼び覚ました。短い沈黙の後――その間、彼の顔は厳粛で、彼の澄んだ両目の奥に炎が閃いていた――彼は自分の上着のボタンを外して、そのポケットから古風な財布を取り出した。その財布の真ん中には輪がついていて、異なる種類の硬貨を分けていた。彼はそれを私の手の上に置いて言った、「私の全財産はこの財布の中にあります――このペニーがみなそうです!自分のために貯蓄することなど決してしません!私自身の用途のためにお金が私に送られてくる時でも、私はそれを神に渡します。こうして一、〇〇〇ポンドものお金を一度に送ってきました。しかし、私はこうした贈り物が自分のものだとは決して見なしません。それは神のものです。私はこの神のものであり、この神に私は仕えています。自分のために貯蓄する?そんなことはあえてしません。そんなことをすれば、私が愛する、恵み深い、恩寵豊かな御父を辱めることになるでしょう」。

「大事なのは、答えが来るまで決して諦めないことです。私は五十二年間毎日、私の若い頃の友人の二人の息子のために祈ってきました。彼らはまだ回心していませんが、いずれ回心するでしょう!そうでないことがどうしてありえるでしょう?エホバの不変の約束があります。そして、私はそれに信頼します。神の子供たちが犯している大きな間違いは、祈り続けないことです。彼らは辛抱しません。神の栄光のために何かを願うときは、それを得るまで祈るべきです。ああ、私たちが関わっている御方は、何と素晴らしい、親切で、謙った御方なのでしょう!この御方は、私のような無価値な者に、私が求めたものや思ったものの全てを無限に上回るものを与えて下さいました!私は哀れな、脆い、罪深い人間にすぎません。しかし、神は私の祈りを何万回も聞いて下さり、数万人の人を真理の道にもたらす手段として私を用いて下さいました。数万人というのはこの国やよその国でのことです。このつまらない口で大群衆に福音を宣べ伝え、とても多くの人が信じて永遠の命に至ったのです」。

このようにジョージ・ミュラーは語った。このように時の人である人は語った。というのは、ミュラーがまだ生きていた頃、少年の私はブリストルにいたからである。このように、水は泉から湧き、花は根から生じるという学課を学んできた人は語った。神の信仰はただ神からのみ生じるのであって、他のどこにも見いだしえないことを、彼は学んできたのである。与える恵みをこんなにも惜しみなく与えて下さる御方は、恵みを効率よく受ける方法を御自分の弟子たちに教えて下さるということを、彼は学んだのである。金が必要な時、彼が行ったのはそれを持っている人のところではなく、金を持っている人の心に語りかける力を持つキリストのところだった。彼の信仰は、主との日々の生き生きとした接触のおかげだった。また、彼は神の御旨の中にあったので、あらゆる必要を満たすのに十分すぎるほどのものを与えられたのである。

人々は彼のことを「十九世紀の信仰の使徒」とよく称してきた。自分のことを人々がこう述べるのを、彼は聞いたにちがいないと思う。彼がヘブル人への手紙の十一章を読んだことがあるのかどうか、私にはわからない。人々が自分の名をこの信仰の英雄たちの巻物に加えている事実に、彼が気づいていたのかどうか私にはわからない。もし気づいていたなら、彼はヘブル人への手紙の十一章の最後の節、「神は私たちのためにさらに優ったものを用意しておられたのです」を読んで、微笑んだにちがいないと思う。そして、その優った道が何であるのかを、そのすぐ二節後にある御言葉、「私たちの信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめなさい」に見いだしたにちがいない。

だから、今イエスのもとに行け。彼に信頼すること、彼は御自分の信仰を分与できることを学べ!あなたの必要を彼に知らせよ。あなたの悲しみを彼に告げよ。そうするなら、彼の臨在という聖所の中で、内外からあなたを悩ませる騒音や心配からの安息と自由を見いだすだろう。

「主の優しい御声をわれらは聞く、
 息のように穏やかな御声を。
 この御声はすべての思いを見守り、すべての恐れをしずめて、
 われらに天について告げる。」