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「本物の信仰」

The Real Faith

第五章 働きのための力

Chapter 5 - Strength for Thy Labor

チャールズ・プライス
Charles Price



本書を書くよう私を導いてきた唯一の圧倒的力は、あなたの人生のあらゆる必要のためにイエスに依り頼んで信頼することを示したい、という私の心からの願いである。これまで私は自分の人生の中で、クリスチャンが倒れる悲劇を何度見てきたことか。そのクリスチャンたちは、神の恵みの中で自分が占める真の立場を再び認識できるようになるため、低くされなければならなかったのである。時として、自己義認が連戦連勝から生じる。神の力によって勝利し、神の恵みによって支えられているがゆえに、「自分は難攻不落な立場に達した」という感覚が心の中に成長し始める。そして、高ぶりによって自己義認の精神が涵養され始める。自分自身と自分の立場を過信するあまり、われわれは実に危険な立場に立ってしまう。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(一コリント十・十二)。

聖別された神の子供が自由に使えるよう、神だけが与えられる力の資源が備えられている。無限の可能性を秘めたこの資源に接触することによってもたらされる奇跡を悟ることは、帰郷の途にあるわれわれにとって、罪と自己に対する勝利を意味する。この接触を失うなら、あなたは希望を失うだけでなく、勝利の生活の可能性をも失う。あなたはあらゆることでイエスに依存している。彼は無代価で与えて下さる。彼の臨在によって与えられる諸々の機会を自分のために役立てるか否かは、主の力を引き出す秘訣をあなたが学んだかどうかに全くかかっている。

聖なる御言葉のページに戻って、忠信なアブラハムに対する神の取り扱いの中に示されている、この驚くべき啓示を垣間見ることにしよう。創世記十七章一節は、一つの教訓を通して、神の御心の信実な御旨に関する理解へとわれわれを導いてくれる。この教訓はとても麗しいため、人々は畏怖の念に打たれて立ち尽くし、天使たちは驚かざるをえない。アブラハムの信仰が試されていた。神は一つの約束をお与えになった。時間の中でも、また永遠においても、神は成就できない約束をしたことは決してない!この古代の族長の腰から、その生涯と奉仕によって世界中の諸国民が祝福されるようになる裔が出ることになっていた。その子孫は大空の星のように無数になることになっていた。この子供の上に、主の御手が祝福と御力のうちに置かれることになっていた。

毎晩、この約束が成就される幸いな日を、この老人は夢見た。しかし、暖炉上の砂時計の砂は、時の経過を告げ知らせた。無為な年月が過ぎ去って行った。ああ、その年月は何と長く、果てしなく思われたことか。その少年は生まれなかった。年老いたアブラハムは九十歳だったが、この神の約束はまだ成就していなかった。九十五歳になっても、サラとその夫は空しく待ち続けた。

その後、彼が世紀の転換を期待した年がやってきた。彼は九十九歳だったが、まだ子供はいなかった。理性が彼の耳に恐ろしいことを囁き始めた。この老人の足下で地面が揺れ始めた。彼の信仰は衰え始めた。その時まで、彼の歩みは完全だった――自分によってではなく――主によってである。彼は今や不幸になりつつあった。神が彼に約束をお与えになった夜に見たのと同じ星々を、彼は一度ならず見上げたことだろう。そして、彼の視界を涙が霧のように覆って、ついには悲しみと失望の海の中に星々が溶けていくかのように思われたことだろう。理性は言った、「アブラハムよ、これは不可能である」と。彼はサラの歳を考えた。自分自身が高齢であることを沈思した。どうしてこのようなことがありえるのだろう?しかしそれでも――それでも――この約束があったのである!この老人の心と思いの中で、この戦いが長いあいだ激しく荒れ狂った。しかし、この約束があった――神ご自身からの約束があったのである。

エルシャッダイ

ある夜、一つの声がアブラハムの心に語りかけた。彼はその声を知っていた。彼は弱々しく目を上げて、何年も前に自分に語りかけた御声の厳かな響きを、遠い耳で聞いた。その時、神は語られた。「私は全能の神である。私の前を歩んで、全き者であれ」。何という言葉だろう!私が聞いたところでは、多くのユダヤ人は「エルシャッダイ」というこの神の厳かな御名について述べることを拒んで、この語を「御名」と呼んでいるらしい。これは何を意味するのか?

エルという言葉は「神」もしくは「強い御方」を意味する。アブラハムは弱かったかもしれないが、神は強かった。人々は周囲の力や生活の不当な力によって動揺するかもしれない。しかし、神は決して動揺しない。神は強い御方である。しかし、それはわれわれに対してどんな益があるのか?われわれがとても弱くて自分の弱さと惨めさの中に座り込んでいる時、神は強い、と仮定してみよ。シャドという言葉は「胸」を表すヘブル語である。旧約聖書全体を通して、この語は常に女性の胸を表すのに用いられている。それは、赤ん坊が自分に力を与える栄養を口で吸うところである。小さな子供が母親の腕に抱かれている光景ほど甘美な光景は地上にない。その赤ん坊の微笑みほど麗しい旋律はない。赤ん坊は母親の命の一部である。母親の命が赤ん坊に流れ込む。母親のありったけの力、愛、心遣い、顧みが、彼女の一部であるこの麗しい小さな存在の命と体の中に流れ込む。このように永遠の神は無限の真理を地上の言葉で包んで、それをアブラハムや、あなたや私に、贈り物として与えて下さったのである。

神が言わんとされたのはこういうことだった。「私から引き出しなさい、アブラハムよ。私はあなたの力です。私はあなたの滋養です。私はエルすなわち強い者ですが、シャッダイすなわち養う者、命を与える者でもあります。よろめく必要はありません、アブラハムよ。あなたの信仰を動揺させる必要はありません。あなたの弱さのために、私の力の泉から引き出しなさい。赤ん坊が母親の胸から命の乳を引き出すように。不信仰のゆえにつまづく必要はありません、アブラハムよ。むしろ、私の前を歩んで、全き者でありなさい」。こう主は仰せられたのである。

これが教訓である。神は供給源である、尽きない供給源である。われわれの必要をすべて満たすのに十分な供給源である。われわれの罪をすべて覆う恵みの供給源である。われわれの咎をすべて赦す愛の供給源であり、われわれを全く癒すのに十分な傷を持つ御方である。われわれのあらゆる弱さのための力の供給源である。これをわれわれは信じる。しかし、ここでわれわれは失敗してきたのである。神はそれを与えて下さる、と信じてはいるのだが、その受け取り方を学んでこなかったのである。母親は赤ん坊に乳を与えるが、その幼子はそれを受け取らなければならない。神の力と性質の注入は二つのことにかかっている。神は喜んで与えてくださるということをあなたが知ることと、その受け取り方をあなたが学ぶことにかかっているのである。種蒔きと刈り取りの季節が止むことがないように、また、昼と夜の交互の訪れを解消できないように、神はあなたのすべての必要を常に満たして下さる、というこの偉大な真理も止むことはなく、解消することもありえない。ただしそれは、あなたに受け取る用意ができていればの話である。

御名を賛美せよ、彼は依然としてエルシャッダイである!「神の性質にあずかる者」になるようにと、パウロはわれわれに勧めていないだろうか?神ご自身が、「私の恵みはあなたに対して十分である」と仰せられたのではなかったか?われわれの虚栄、悲惨な霊的高ぶり、忌むべき自己義認の背後には、神がおられる。神はわれわれを愛して、われわれのためにご自身を与えて下さった。神が望んでおられるのは、われわれが毎日毎瞬必要とするものを全て神から引き出す学課を学ぶことである。

誰が?

向こうに、敗北と霊的恥辱の中で座りこんでいるエリヤが見える。彼は辞めてしまった。獅子の心を持つ彼が魂の戦場で打ち負かされてしまった。しかも、軍勢に立ち向かった後で!その時、何かが起きる。彼は四十日四十夜食事抜きで神の山であるホレブに向かう。その間、われわれは彼を見守る。誰の力で彼は進んだのか?生来弱い者なのに、進んでガテのゴリアテに立ち向かうよう、誰がダビデに告げたのか?石を導いて的中させたのは誰か?誰が彼の腕に力を与え、彼の心に勇気を与えたのか?誰がエリコの壁を押し崩したのか?シリヤ人であるセナケリブが狼のように砦に下って来た時、誰がその軍勢を屠ったのか?

誰がイスラエルを解放し、誰が彼らを出エジプトに導いたのか?誰がペテロのために牢獄の扉を開いたのか?誰がステパノのために栄光の幕を開けて、自分を殺害する者たちのために祈る恵みを与えたのか?誰がマルタの涙を乾かし、マリヤの砕けた心に油を注いだのか?

われわれが十字架の麓に跪いた時、誰がわれわれの咎ある魂を救ったのか?誰がわれわれの暗闇を昼に変えたのか?誰が今この時、われわれの傍らに立って、喜んで恵みと栄光を与えようとして下さっているのか?誰がわれわれの弱さのための力を持っているのか――誰がわれわれの病を癒す力を持っているのか――誰がわれわれの試練のための力を持っているのか――誰が奴隷状態にあるわれわれを自由にする力を持っているのか――そしてわれわれのあらゆる必要を満たすのに十分な恵みを持っているのか?イエス以外の誰にそれができるだろう?

エルシャッダイはなおも人々の心に真理を告げて下さる。われわれはなおも、「あなたの労苦のための力を主は備えて下さる」と歌うことができる。読者よ、主の命を引き出せ。主が無代価で喜んで与えて下さる恵みを受け取れ。主はあなたの必要を満たすのに十分すぎる御方である。主の御前を歩んで完全であることは可能である。ただしそれは自己によるのではなく、キリストによる。自分が話していることを私は分かっている。

主の福音を宣べ伝えるよう私の主によって召されたことは、私の特権である。私の人生で最大の喜びは魂を勝ち取ることである。主は私を導いて、この任務のための力を私に与えて下さる。行軍の多くは八〜十週間開催される。体がとても疲れることも時々ある。ある晩、私は天幕の隅の事務室に座っていた。疲れを感じていたし、忍耐も限界だった。外の聴衆席では、大群衆が集会が始まるのを待っていた。薄い壁を通して、祈っている人々の囁き声が聞こえた。すると扉が開いた。ある奉仕者がそこに立って言った、「プライス兄弟、今晩ここには約五百名の人がいて、癒しのために主の御名によって油を塗ってもらうことを期待しています」。

五百人――だが私には説教に必要な力が無かった。その時、私の主の御名の中で会うべき群衆がそこにいた。心の中で、一瞬、逃げ出したいように感じた。その時、私は思った、「病人を解散させて、いつか別の晩に戻って来るよう告げることが、自分にできるのか?」と。壁の割れ目を通して覗くと、苦しんでいる哀れな人々が見えた。彼らは、私のような哀れな人が出て来て、イエスについて彼らに告げるのを待っていた。突然、私の神経が粉々になったかに思われた。私は床の上に跪いて泣いた。「ああ、イエスよ」と私は叫んだ。「私にはできません。私には力がありません。私はとても疲れ果てています。主よ、この任務を行いたいのですが、やりこなせないのです」。

その時、私の心の奥底で、あの静かな小さい声が聞こえた。「あなたには力がありません……どうして私の力を受け取らないのですか?」。一瞬、「これは本当だろうか?」と私は思った。どうして受け取らないのか?昔、主は御力を人々にお与えになったのではなかったか?どうして今そうでないことがあるだろう。「感謝します、主よ」と、私は主の御業を待ちつつ言った。すると、温かなほてりが私のこの体を覆うのを私は感じた。私は外に歩いて行って講壇の上に立った。多くの時、私はメモから話すのだが、その晩は違った。何の疲れも疲労もなかった。御力を覚える意識しかなかったのである。

信仰によって、私は苦しんでいる人たちに「今晩、みなさんに手を差し伸べます」と保証した。真夜中になっても、私は自分の無価値な両手を主イエスの御名によって人々の頭の上に置いていた。主の力が現れて彼らを癒した。主御自身がそこにおられたからである。それから、最後の人が来た。私は祈り、祝福を宣言して、家に帰った。退こうとした時、私は再び酷い疲れを感じた。しかし、ひざまづいて、その晩主がなさったことのゆえに主に感謝できないほど疲れてはいなかった。主は依然としてエルシャッダイだった。主が御力を私に分け与えて、私の弱さに応じて下さったことが、私には分かっていた。主はあなたの弱さにも応じて下さる。あなたのすべての必要に応じて下さる。まっすぐ歩む者たちに主が良いものを差し控えることは決してない。

主が与えることのできる力を受けるのに必要な一大条件は、力の必要性をあなたが感じることである。主に信頼するわれわれの信頼は個人的確信である。われわれが主の功績の基礎の上に立つ時、主はわれわれにご自身の信仰を与えて下さる。われわれはイエスを見るだけでなく、見て彼のもとに行くのである。多くの人は遠く離れて彼に従っているが、彼に十分に近寄っていない。彼らは後でぐずぐずしており、その間、信条を分析し、教義を取り扱い、他人と解釈について論争し、そしてそれによって主の臨在の甘さを失っているのである。

昔、二人の人がある論争的な質問を携えて私の所にやって来て、それに関する私の意見を求めた。私は彼らの話を聞いた。彼らが話し終わった時、自分には答えがわからないことを認めないわけにはいかなかった。そこで私は言った、「兄弟たちよ、大事なのは何をあなたが信じているかではなく、誰を信じているかです」。あなたはおそらく最初のうちは、「自分の信じていることは途方もなく重要である」という根拠に基づいて、私の話に同意しかねるだろう。それでも、最終的にあなたが「家」の門に着く時、あなたは天使たちに向かって、「私が天に登ったのは信条という梯子によってです」とは言わないで、「私が家にいるのは、カルバリの十字架で私のために死んで下さった御方のおかげです」と証しするだろう。

あなたはどちらか?

自分の生活上の必要のためにイエスから引き出すという学課を、あなたは学んできただろうか?主の中に住む甘さを見いだしただろうか?結局のところ、自分は悲惨な失敗であることを、あなたは悟っただろうか?自分が抱えている大きな必要と、勝利するのに必要な力に欠けている自分の惨めさとを、あなたは意識する境地に達しただろうか?自分の義しさを強烈に意識していて自分の行いを大いに誇っていたパリサイ人が履いていた靴を履くよりも、むしろ、宮の階段の所にいた取税人の靴を履くことを、あなたは望むだろうか?われわれが減少する時だけ、イエスは増し加わることができる。これは、われわれの自己の命、自尊心、自信の減少を意味する。

砂の上に建てられた家は自分を誇らしく感じた。しかしそれは、風が吹き、嵐が荒れ狂い始めるまでのことだった。

キリストはあなたのすべてのすべてとなることができる。美しい神学の枠の中にはめられた絵の中でだけでなく、過ぎ行く年月の毎日毎瞬、実効的かつ現実的にも、そうなることができる。キリストは「私を試してみなさい」とあなたを招いておられる。「私を試みてみなさい」とあなたに勧めておられる。溢れ流れるほど満たされることができるのに、どうして空っぽでいるのか?養ってもらえるのに、どうして飢えているのか?自分の明日の道が分からなくて泣きながら、どうして迷子の子供のように人生の不毛な荒野の上をさまよっているのか?それよりも遥かに優っているのは、あなたの手を御手の中に置いて、「私に従いなさい。私があなたを家まで案内します」というキリストの神聖な御声の囁きを聞くことである。

その時、作り話のアラビヤンナイトでは夢にも思わなかったことがキリストにあって現実となる。砂漠は花の小道に変わる。そして、心臓の鼓動は天の鐘の紐を引き、ついには天の音楽が死ぬべき耳にも再び聞こえるようになる。岩山は、聖徒たちと共に変容される会合場所へと至る登り道にすぎなくなる。われわれがキリストを愛する時、キリストはわれわれを導いて案内して下さる。この道を一歩づつ、ますます導いて下さるのである。

ああ、私の魂よ、思いにおいても行いにおいても、自分の業績を今誇ってはならない――永遠においても誇ってはならない。微かな奉仕という星は、十字架から流れ出る光の中では、実に暗く思われる。その木の上で傷ついた御手を涙を通して見る時、われわれ人間の手がなした労苦は忘れられてしまう。われわれが誇って身に付ける称号や学位は、十字架の頂にある刻印を見る時、恥じて顔を伏せる。われわれが行ってきたことは、彼が行われたことと比べると、あまりにもちっぽけに思われる。彼の指導力は何と素晴らしいことか!その恵みは何と驚くべきことか!われわれのすべての必要を満たすのに十分すぎるほどのものを彼は今ここで分け与えて下さるという真理は、聖霊の力によって照らされたことのない知性にとって、何と思いもよらないことか。彼は今そうして下さる。彼は依然としてエルシャッダイ、十分な神である。

最近の野外集会で、年配の女性が印刷されたこのページに示されている真理を聞いた。彼女はとても病んでいたのである!何度も何度も彼女は油を塗られてきた。何度も何度もそうしてもらったのだが、効き目はなかった。集会の終わりの時に、私は彼女が静かに座っているのを見た。しかし、彼女の表情は内なる葛藤を物語っていた。突然、彼女は両手を組んで祈り、力強く訴えて言った、「ああ、イエスよ、私はこれまで長い間、この自分の哀れな信仰で何とかしようとしてきました。どうかあなたの信仰を私に与えて下さい」。すると、イエスはそうなさったのである!

これがクリスチャンの勝利の秘訣である。これが打ち勝つ秘訣である。あなたの重荷を彼の足下に置くこと――重荷をそこに残して、古いすり切れた衣のようにそれを二度とまとわないこと――これこそ主が願っておられる信頼であり、われわれが喜びとするところである。これこそ十分な方である神の使信である。誰のために十分なのか?もちろん、あなたのためである。いつのために十分なのか?もちろん、のためである。これこそエルシャッダイの備えである!永遠の門に向かって時間という小道に沿って日毎に進む時、あなたは地上で天を感じるようになるだろう。天使たちに「もうすぐ着きます」と言えるようになる日にあなたが近づけば近づくほど、恵みと栄光の歌が故郷へと通じる小道一帯に鳴り響くだろう――彼の臨在――彼の強さ――彼の御力――彼の愛――彼の信仰――彼の恵みが鳴り響くだろう。そしてあなたは、前に向かって上りつつある間、自分が歌っていることに気づくだろう。

「道中ずっと私の救い主は私を導いて下さる。私が歩むどのうねり道でも力づけて下さる。試練のたびに私に恵みを与えて下さる。生けるパンで私を養って下さる」。

「私の霊が不死の翼をまとって、明るい世界に飛んで行く時、私は代々にわたって歌う、道中ずっとイエスは私を導いて下さった、と」。

ああ、エルシャッダイ、十分な神の素晴らしさよ!