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「本物の信仰」

The Real Faith

第六章 山々を移す信仰

Chapter 6 - Your Mountains Are MOved

チャールズ・プライス
Charles Price



そのベタニヤの道は、その丘の周囲をうねっていた。その丘は一方に向かって高くそびえ立っており、その終点はエルサレムの城壁だった。反対の方角を見ると、その道は螺旋状に下って行き、狭くて汚れているゴツゴツした無人の田園に通じていた。その田園は遥かギルガル平原と死海へと伸びていた。ある日のこと、イエスとその弟子たちが、エルサレムへの途上、この道に沿って歩いていた。イエスは飢えておられた。ほとんどありえないように思われるが、それでも飢えておられたのである。

世界の中で育っているものはみな神ご自身の創造的な能力と御力のおかげなのに、その世界で神が飢えておられるのを想像してみよ。しかし、イエスは人でもあった。彼が御座と王冠を離れた時、それは人々と喜びや悲しみを分かち合うためであり、日々の生活の諸々の問題さえも分かち合うためだった。彼はわれわれのすべての問題をご存じであるだけでなく、それらをわれわれと分かち合っても下さるのである。

その丘の斜面には葉の茂った一本のイチジクの木があった。主とその弟子たちは、何か実がなっていないかどうかを見るために、その木に近づいた。その木には葉しかなかった。枝に実は何もなかった。イチジクはまったく見えなかった。それはイチジクがないイチジクの木だった。それで主はそれを呪い、「今後、誰もお前の実を二度と食べることはない。もはや二度と実を結ばないからである」と宣言された。さて、なぜイエスはそうされたのか?その木に近づく前から、彼は何の実もないことをご存じだった。ナタナエルを見ていなかったのに、彼にはナタナエルがイチジクの木の下にいるのが見えたからには、そのイチジクの木にもしイチジクがあれば、彼にはそれも見えたのではないだろうか?

イエスは目的を持たずに物事を行ったことは決してなかった。彼の言動の裏には常にある動機があった。その出来事にはある意義があったにちがいない。その時、彼には弟子たちに示したい教訓があったのである。というのは、もしその出来事に教訓がなければ、それは決して起きなかっただろうからである。そこにはあなたや私のために残すことを彼が願われた教訓があったのである。というのは、もしそのような動機がなければ、その出来事が聖書の貴重なページを占めることがそもそもあっただろうか?その教訓とは何だったのか、そして主はなぜそれを教えられたのか?

エルサレムの中に、私の主は従者たちを連れて入って行かれた。宮の中から、彼らは商売根性で聖なる場所を汚していた商人たちを追い払った。翌日、彼らはベタニヤの道に戻った。ペテロはそのイチジクの木を見た。彼はそれが死んで――干上がり――萎んでいるのに気づいた。驚愕して、「主よ、見て下さい!」と彼は叫び、そのイチジクの木を指して、その木が萎みきっている事実に注意を喚起した。そこでイエスは語られた――ペテロだけでなく、彼ら全員に語られた。これがその目的だった。これは実物教材だったのである。人となられた神はこの実物教材を用いようとされたのである。それは、人々が自分の人間性によって神を理解できるようになるためだった。この木を呪った背後には一つの動機があったのである。だからイエスは「神を信じよ」と仰せられたのである。

私の横に私のギリシャ語聖書がある。ギリシャ語の文章構造はわれわれの英語とは異なっていることを念頭に置きつつ、語句が現れる順番通りにこの全文を一語づつ引用することにしよう。ギリシャ語の文章はこうである、「そして答えて、イエスは彼らに言われた、『あなたたちは神の信仰を持っているのですか?』」。これが実際の、原文からの逐語訳である。

それから主は続けて弟子たちに仰せられた、「もしあなたたちにそのような信仰があるなら、そのような信仰を行使することにより、一本の小さなイチジクの木を干上がらせるだけでなく、あの山々を移して海に投げ込むこともできるのです」。その教訓は、神の信仰である信仰の圧倒的力を教えるための教訓だったのである。それは実に山を移す信仰だった。その条件の一つは、マルコによる福音書十一章二十二から二十六節の記録を読むと分かるように、奇跡の成就に関する疑いが心の中に全くないことである――「自分が願って祈り求めることは成就する」という信仰しかないことである。これらの条件が満たされる時、奇跡――いかなる奇跡であろうと――が起きざるをえない。なぜなら、その背後には神の御言葉があり、神の御言葉の背後には神の力があるからである。そのイチジクの木、その山、存在する万物を造ったのは神の力である。というのは、それは永遠なる御方の創造的能力だったからである。この御方は存在する万物を生じさせられたのである。その御言葉が混沌の中から宇宙を生じさせたのである。

今、「聖霊を神聖な真理と共に遣わして、照らす光である臨在の光を私たちの知性と心にもたらして下さい」と神に求めようではないか。一般的に言って、われわれはこの御言葉を「神を信じよ」と解釈して、「自分たちには山を移す神の力に対する確信がある」という意味に受け取っている。われわれは自分の心の中でこう言っているのである、「神信じる十分な信仰が自分にありさえすれば。十分しっかりと信じられさえすれば。自分の心の中から疑いを追い払えさえすれば。そうすれば、神はこの山を移して下さるのに」。

不可能なこと

あなたは不可能なことをしようと努めている。たとえあなたが百万年もがいたとしても、あなたの信仰は決して十分強くなることはないし、十分純粋になることもない。神を信じる自分の信念を取り上げてそれを信仰と呼ぶのは、何という間違いであることか。神の愛する子供たちの中に、病に対する勝利を信じようともがいている人がいるのを見る時、私の心はどれほど痛んできたことか(あなたもそうだろう)。というのは、神の癒しの力に対する信念(この信念を悪魔も持っている)と、勝利をもたらす神の信仰との違いを、彼らはわきまえていないからである。人が神を信じるいわゆる信仰と、人に分与される神の信仰との間には、大きな違いがある。このような信仰は努力の所産ではないし、苦闘から生じるものでもない。

それは神信仰であり、そうである以上、われわれはそれを神から得るのであって、自分の知的態度や確証から得るのではない。イエスは、「神はあの山を移して下さる、と信じる力があなたたちにあるなら、神はそうして下さる」と仰せられたのではない。「それはなされる、と十分に強く信じることができるなら、それはなされる」と仰せられたのでもない。そうではなく、「神の信仰を持ちなさい」と仰せられたのである。言い換えると、神の信仰を得よ、ということである。あなたがそれを得る時、あなたは山々を移して海に投げ込む力を持つようになる。

しかし、「主の御言葉の第二区分で、疑わずに心から信じることについて主は語っておられます」と、あなたは私に言う。この第二区分は第一区分がなければ不可能である。神の信仰を得ない限り、あなたは疑わずに信じることができない。われわれ人の心を、すべてのガラクタ、恐れ、心配、疑いから清めるには、神の信仰が必要である。

われわれが聞いてきた呻きや苦闘は、神の信仰を持たずに「それは成った」と信じようとする人々によるものである!彼らは神の力を確信しており、神の約束を信じているかもしれない。しかし、神の信仰を持つことは、それとは別のことである。

こうしたすべてのことにより、癒しよりも癒し主を求めることの方が遥かに重要である、と私は信じるようになった。その隠れた臨在の中には、魂のための隠れ家がある。生活の中からこの世やそれとの接触がなくなる時、神が与えることのできる物事のための余地が生じる。われわれの祝された主が、山々を移す信仰について弟子たちに述べた御言葉の最後で、主は弟子たちに「誰かに恨みや悪感情を抱いているなら、その人たちを必ず全員赦してあげなさい」と述べておられることに、あなたは気づいただろうか?どうして主は、山を移す信仰というこの重大な学課に関連してこれを述べておられるのか?これは次の事実のためではないだろうか?すなわち、神が御自分の信仰をわれわれに分け与えることを望まれる時、神は憎しみや赦さない精神で詰まっている水路があるのを見たくないのである。

人の性質のこの諸々の脆弱性が、あらゆる面でわれわれを悩ませる。良き主はそうであることをご存じである。どれほどの忍耐と顧みをもって、主はわれわれを見守らなければならないことか。どれほど多くの時、主の恵みはわれわれの不完全さを覆う毛布のようにわれわれを包み込むことか。われわれが愛されるのに相応しくない時に、われわれは主の愛の御声を聞く。父親が自分の子供たちをあわれむように、主は御自分を畏れる者たちをあわれまれる。主が御自分の信仰という恵みを分け与える前に、主は生活や振る舞いの完全さを要求される、と言っているのではない。そうではなく、主が御自分の祝福を分け与えるために、主がわれわれに要求されるものが何かある、と言っているである。無限の永遠の愛である神は、御自分の子供たちの心の中にいかなる悪意もあって欲しくないのである。これほど多く赦されてきたわれわれが、どうしてわれわれに対して罪を犯してきた人々を赦すことを拒むことができよう?

主が言わんとされたことは明らかである。神の信仰である信仰の受け取り手になりたいなら、自分に対して罪を犯した人を全員赦さなければならない、と主は言っておられるのである。このように明け渡された心の中に――自分自身の無力さのゆえに魂が神の必要性を叫ぶ時――神の信仰という恵みが臨む。そしてそれと共に、それはそこにあるという意識が芽生えるのである。

ある女性の物語

癒しと祈りの必要を抱えて数年前集会に来た一人の女性のことを私はどれほどよく覚えていることか。彼女はとても気高い性格の持ち主のように思われた。彼女の家族は彼女を一心に心を込めて愛していた。ある晩のこと、われわれは彼女のために主イエスの御名の中で祈った。帰る時、彼女は幸せそうに思われた。「私は神の約束の上に立っています」と彼女は言った。しかし、彼女は癒されなかった。数日たって、彼女の娘の二人が私に会いに来た。そして、もう一度祈ることを私に乞うた。実のところ、彼女らは不安と絶望のせいでヒステリー気味だった。彼らは自分の母親を愛していた。そして、神が自分たちの唯一の希望であることを知っていた。母親にもう一度油を塗るよう、彼らは私に求めた。私はそうしたのである!

この愛すべき人々が恵みの御座に押し寄せた時の嘆願、執拗さ、狂おしい叫びを、私は決して忘れないだろう。彼らは信じようと努力した。しかし、すべて徒労であるように思われた。われわれが「イエスはすべての枷を砕かれる」と歌った時、この哀れな病気の女性は目から涙を拭った。そして、われわれの祈りに対する明確な答えを受けずに、集会から去って行った。二日経った。彼女は集会の前に、事務所の玄関にやって来た。そこには別人の女性がいたのである!その顔はその魂の中の栄光の光で輝いていた。「あなたは癒されましたね」と私は言った。

彼女は微笑んで答えた、「いいえ、まだです。しかし、私は今晩癒されるでしょう。私は公に祈ってきました。今晩の集会で、主は御力をもって私に触れることを願っておられる、と私は信じています。それは、主は信実であることをすべての人が見るようになるためです」。張り詰めた、緊張した雰囲気はなかった。もがきはなかった。むしろ、主にある甘く麗しい安息があった。それから彼女は自分の物語を私に話した。

打ちのめされて――絶望しそうになりながら――彼女は家に帰った。もうお手上げであることを彼女は悟った。ベッドの傍らに跪いて祈った時、彼女はすすり泣いていた。「愛するイエスよ、私は信仰を持とうと懸命に努めてきましたが、私には無理です。私は失敗しました。愛する主よ、それでも私はあなたの約束とあなたの御言葉を信じています。プライス兄弟が試してくれましたが、だめでした。集会に参加していた人々も試してくれましたが、やはり駄目でした。私はどこに行けばいいのでしょう?何をすればいいのでしょう?私に語って下さい、主よ。私の唯一の希望はあなたです」。

すると、若者の授業で教師として成功を収めているある女性に関する思いが彼女の心に浮かんだ。彼女の心の奥底で、この女性に対する敵対心が育ちつつあった。かつては若者たちの愛情は自分の上に注がれていたのに、その女性がこの若者たちの心を勝ち取ったからである。これは妬みだろうか?嫉妬だろうか?そうでないことを彼女は知っていた。しかし、月日が流れるにつれてこの感情が強まっていくのを、彼女は自覚していた。今や、彼女は自分のことを考えた。その時、彼女は自分の心の真の状態を見たのである。おそらく彼女は、「あなたたちが立って祈る時、赦してあげなさい」と主が言われるのを聞いたのだろう。

その午後、彼女はその女性と一緒に一時間祈った。神は彼女の心の中に、その女性に対する深くて麗しいキリスト者の愛を与えられた。祈りの甘い一時!それは素晴らしい交わりの場である。この場でわれわれは神に語りかけ、その中で神はわれわれに語られるのである!その傷は癒された!妬みは溶け去り、イエスの愛が流れ込んできた。ようやく彼女が家に着いた時、彼女は夕食の席で家族に「私は今晩癒されます」と告げた。彼女にはそれが分かっていた。しかし、どうやって分かったのか、彼女には分からなかった。その意識は命そのものと同じくらい現実的だった。それについて疑いはなかった。何の執り成しもなかった。それは過去のものになった。苦悶や嘆願はなかった。それは成就したが、依然として成就していなかった!これが信仰の逆説である。それから彼女は私に、「兄弟、イエスが何をなさったか分かりますか?」と言った。

「私の主はすべてを良きに計らって下さいます」が私の返答だった。

「主は私にご自身の信仰を与えて下さったのです」と彼女は言った。「正直言って、いつそれを受けたのかは分かりません。しかし、御名を賛美します。それがここにあることを私は知っています」。

確かにそうだった。その晩、天のそよ風が吹いた。その晩、癒し主であるキリストが、全能の力をもって、必要を抱えている御自分の子供の病んで弱っている体に触れて下さった。その晩、神聖な接触により、癌は消え去った。栄光の主ご自身によって一人の病気の女性に分け与えられた神の信仰によって、山が移ったのである。

癒しではなく癒し主を求めよ

われわれの主な問題は、癒し主の代わりに癒しを求めていることである。光を求めているときに太陽を拒んで何になろう?聖書で述べられているあの女性は、長血の問題を抱えていたが、知的理解力による解放という命綱を握ろうともがいていなかった。彼女の望みはイエスのもとに行くことだけだった。エリコの路上にいた哀れな、盲目の、みすぼらしい不幸な人がしたのは、心からの叫び声を上げて、その叫びの中に自分自身の無力さという物語と、ナザレのイエスの愛と力と同情を信じる信仰とを込めることだけだった。われわれの祝された主は彼に「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われたが、それでも、彼が持っていた信仰は主ご自身によって与えられたものである、と私は確信している。

埃っぽいエリコの道を僅か数フィート歩いただけで、癒しに必要な信仰を生み出せるだろうか?昔の時代、ナザレ人の臨在が信仰のだった。疑いと不信仰の時代である今日も、イエスの臨在われわれの信仰の源である。「私なしでは、あなたたちには何もできない」とイエスが言われた通りである。

イエスの弟子たちはローマ人への手紙の十二章を読むのが実に好きである。それは、分離・聖別されたクリスチャン生活の素晴らしい諸々の可能性を示している!しかしそれは、肉的なクリスチャンたちが触れたがらない種類の福音である。パウロはクリスチャンたちに懇願している――主の子供たちに求めている。良いものから優ったものへ、優ったものから更に優ったものへと前進するよう懇願している。彼らはこの世に同形化されてはならない。むしろ、造り変えられるべきである――文字通り、変容されるべきである。これは思いを新たにすることによってなされる。このギリシャ語は刷新である。芝生を刷新する時は、古いのを取り除いて新しいのを植える。何が良いものであって、神に受け入れられる、完全なものなのかをわきまえることができるようになるには、この刷新が必要である(ローマ十二・二)。

これが起きる時、われわれはいかなる態度を取るべきか?パウロは手紙の中でこう続けている、「私は、自分に与えられた恵みを通して、あなたたち一人一人に言う。思うべき限度を越えて思い上がることなく、むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」。これは重要である!神は自に信仰の量りを分け与えて下さる。どのような量りか?どのくらいの量か?それは一節と二節にかかっている。一節と二節が三節の前にある。要点は――神が信仰を与えて下さる、ということである。神が信仰を量られるのである!このギリシャ語は、逐語訳ではこう述べている。「各自に神は信仰の量りを分割された」。ウェイマスは現代口語訳でこう述べている、「神が各自に割り当てられた信仰の量にしたがって」。

われわれは――御言葉によると――霊的に信じるべきなのに、もがいて知的に信じようとするとは如何に愚かしいことか。あなたにはこれが分からないのだろうか?知的に黙諾して、頭で信じることも可能である。しかし、新しくされた思いは、恵みのあらゆる働きに対して、信仰によって「アーメン」と言う。本来、信仰は心の中に生まれるものである。心は非合理的なことでも受け入れる。知性が「無理だ」と言うことでも心は信じる。心は有るものを無いもののように見なし、無いものを有るもののように見なす。

信仰はノアの腕に力を与えて、洪水の兆候は何も無いのに、百年間箱船を建造させた。理性が「徒歩による行進ではエリコの土台を摩耗し尽くすのに百万年かかる」と言ったとしても、信仰はその城壁の周囲を行進する軍隊を送る。信仰は一つの国民を深くて渡れない海の縁に送り出すが、その結果、その「海」の門は全能の力という水の蝶番の上で大きく開け放たれ、人々の通る道が海の底に設けられる。信仰はひるむことなく人々を火の炉の中に送り込むが、獅子の巣穴の中で彼らを保たれる。信仰は、体を眠らずに見張っている死を追い払う。そして、逃げた命を呼び戻す。信仰である!神の信仰である!信じようとする弱々しい、取るに足りない努力ではない。永遠なる御方の御力を理解しようと大いに努めることでもない

茶碗の中に海を入れることができるだろうか?一粒の砂が惑星を覆えるだろうか?私の貧弱な理解力が全能の神の栄光を理解できるだろうか?神の愛が無代価で与えられる時、神が御自身を私に啓示しようとされる時、その時はじめて私は理解できるようになる。と言っても、それは部分的な理解にすぎない。なぜなら、神の栄光の豊かさを見ようものなら、いかなる肉も御前に生きながらえることはできないからである。神が赦しを与えて下さるとき初めて、私は救われる。神が御力を分け与えて下さるとき初めて、私は信仰の良い戦いを戦えるようになる。神が愛を与えて下さるとき初めて、私は自分の敵を赦せるようになる。神が私を引き上げて下さるとき初めて、私は悲しみと罪の世を超越することができるようになる。偉大なるかな、敬虔の奥義。夢想だにしない素晴らしさよ、神の贖いの御計画!

必要を抱えている人よ、自己の道が尽きる所で、あなたはあなたを待っている主を見いだすだろう。あなたの信仰の創始者であり完成者である御方は、喜んでそこであなたと会って下さる。あなたの背後には涙と悲しみ、心痛と失望がある。それらは、信仰に欠けていて、神を信じる信仰の無い、この世の賜物である。しかし、イエスが立っておられる陽光の小道は、臨在の光で明るく輝いている!恵みを求めて彼に信頼せよ。彼の約束の上で安息せよ。彼は、あらゆる良い完全な賜物の与え主である。あなたが彼と共に歩む登り道は、ますます照り輝いて真昼になるのである!

もしあなたが救いを得ているなら、それは彼が救いを分け与えて下さったおかげである。もしあなたが癒しを得ているなら、それは彼の功績のおかげである。もしあなたが信仰を持っているなら、それは彼の御心の中からあなたの心の中に信仰が流れたおかげである。それこそ、山を移すことのできる唯一の信仰である。

あなたはそれを得ることができる。なぜなら、彼はそれを与えて下さるからである!その時、あなたは確かに知るだろう。信仰――あなたを健やかにしたあなたの信仰――は神からの賜物であることを。