注記A
キリストの身代わり。カノン・リドンは彼の説教の一つの中で貴重な見解を述べている。「『彼は私を愛して、私のために御自身を与えて下さいました』。永遠の存在である御方が、御手が造った被造物のために御自身を与えられた。彼は御自身を貧困、労苦、謙卑、苦悩、十字架に渡された。彼は私の益のために(huper emou)御自身を渡されただけでなく、私の代わりに(huper emou)御自身を渡された。この前置詞のこのような意味で、聖パウロはピレモンから受けるべき奉仕の代わりとして――hina huper sou moi diakone――オネシモの奉仕を要求した(ガラテヤ三・一三についてのエリコット司教の注解を参照)。咎ある罪人のためのこのようなキリストの身代わりが、キリストが人類の罪のために十字架上で実現された達成の根拠である。」――リドン「大学説教集」二三九頁。
注記B
「マイヤーによると、サルキノス(sarkinos)は、クリスチャンとして初期の成長段階にあるコリント人たちが依然として持っていた非霊的な性質を指す。聖霊はまだ彼らの性格をほんの少ししか変えていなかったので、彼らは依然として肉の人のように見えたのである。
しかしサルキコス(sarkikos)は、敵対的な物質的性質が神の原則に対して――漸進的指導により彼らはそれに与る者とされたのである――後で優勢になったことを表わす。彼(マイヤー)の考えによると、この後者の理由に基づいて使徒は叱責した。しかし、この二つの形容詞は似た意味なのだが、両者の違いにもかかわらず、使徒は『あなたたちは依然として肉的だからです』と断じることができた。」―― 一コリント三章に関するランゲの注解。
「しかしサルキノイ(sarkinois)という句を、ここでは相対的に理解するべきであり、プネウマ(pneuma)に全く欠けていることを意味するのではないと理解するべきである。これは『キリストにある赤子』という句が明確に示している。」……
「彼らは最初サルキコイ(sarkikoi)だったが、自分たちの霊性を伸ばさなかったので、サルコイキ(sarkoiki)になったのである。」――ランゲ。
デリチェによると「サルキノス(sarkinos)は、自分自身の内に肉体的性質と、それと共に遺伝的に受け継いだ罪深い傾向性とを持つ人である。しかしサルキコス(sarkikos)は、個人の根本的傾向性がこの肉の衝動である人である。」
ベンゲルはシリアのエフレムを引用している。「使徒は自分の性質にしたがって生きている人々のことを天然的(psuxikous)、自分の性質に逆らって生きている人々のことを肉的(sarkikous)と呼んでいる。しかし、霊にしたがって自分の性質を変えることさえするのが、霊的な人々(pneumatikoi)である。」
注記C
「使徒は霊を人の性質に属するものと見なしている。これは一コリント二・一一から明らかである。この箇所で彼は人の霊(pneuma tou anthropou)について明確に述べている。それは知識と自己意識の原理であり、他の箇所で彼がヌース(nous)と述べているものと同じである。しかしここではプネウマ(pneuma)と称している。それは神の霊(Pneuma tou Theou)と人の霊(pneuma tou anthropou)とを対比させるためである。」――ディクソン教授「肉と霊という用語の聖パウロの使用法」二二〜二三頁。
「天然の人にプネウマ(pneuma)はあるのか、という問いには、不明瞭では全くない様々な節(例えば一コリ二・一一、五・四、六・二〇、七・三四、ロマ八・一六)に基づいて、大いに肯定的に答えなければならない。これらの節はまた、その性質に関して意義深い示唆をわれわれに与える。それは明確に神のプネウマ(pneuma)とは区別されている。なぜなら、それには慰めと安息が必要だからである(二コリ二・一三、七・一三)。それは汚されて清めを必要とするようになる可能性がある(二コリ七・一)。それは聖別されて保たれる必要があるものとされている(一テサ五・二三)。そして、それが救われていない可能性も明らかに示唆されている(一コリ五・五)。」――ディクソン教授(前掲書)五六〜五七頁。
注記D
「ギリシャ語のアオリストは、それ自身で完了・完成された行為・出来事を表わす。過去や現在や未来の『時の広がりの中の一点』であり、特に過去における一点である」。「それゆえ、アオリスト時制は完成された行為を表わす。それは単一の行為や一連の行為を網羅する。前者の場合、それは進行中ではなく完成された行為を意味する。後者の場合、それは完結・完了・終了して一点に収束した一連の行為を表わす。アオリストは常に、一本の線とは対比的に一つの点を意味する。この力は、そのあらゆる話法に対して本質的である。」
注記E
「キリストは他の人々のように知恵と身の丈において成長しただけでなく、通常の訓練の過程――これにより徳が成熟してその正当な報いに達する――も経過された。彼は肉体的・知的に成長したように、道徳的にも成長された。彼は称賛に値する従順さを示し、十字架を忍ぶことによって冠を獲得された(ヘブ一二・二)。ヘブル人への手紙が述べているテレイオシス(teleiosis、五・九)は、相対的に不完全だった以前の状態を意味する。罪なき御方であるとわれわれが信じている方に、どうしてこのようなことがありえるのか?
これは積極的にではなく、消極的に考えなければならない。最初の試みを経過する前の最初のアダムの不完全さと同類のものとして考えなければならない。徳は、それが徳であることが証明されるには、試みられなければならない。そしてその試練が厳しければ厳しいほど、罪への抵抗が成功に終わったとき、その結果は大きくなる。第二のアダムは、第一のアダムのように、溶鉱炉を通らなければならない。彼は誘惑を受け、その誘惑に勝利し、死で終わる苦難を耐え忍ばなければならない。『受けた苦難によって従順を学』び(ヘブ五・八)、以前とは違った意味で『完全』(ヘブ二・一〇)にならなければならない。彼は、立証された勝利の美徳である完全さに到達された。この完全さは、試みを受けたことのない無垢な状態とは異なる。こうして彼は、御自身の経験により、『神に関する事柄で憐み深い忠信な大祭司』となるのに相応しくなったのである。」――オックスフォードにあるオリール大学の故特別研究員E.A.リットン師「教義神学入門」二二七頁。
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