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「霊の命にある自由の法則」

The Law of Liberty in the Spiritual Life

第七章 力を受ける条件

Chapter 7 - Conditions of power

エバン・ホプキンス
Evan H. Hopkins



「力は神に属する」(詩六二・一一)。

「キリストは神の力です」(一コリ一・二四)。

「主の目は全地をあまねく行き巡り、その心が神に対して完全な者たちのために、御自身の強さを示される」(二歴一六・九)。

「すると彼は私に言われました。『私の恵みはあなたに対して十分です。私の力は弱さの中で全うされるからです』。ですから大いに喜んで、私はむしろ自分の弱さを誇ります。それはキリストの力が私の上に宿るためです」(二コリ一二・九)。

「それはあなたたちが(中略)信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さがどのようなものかを知るためです」(エペ一・一八、一九)。

「神の栄光の力にしたがって、あらゆる力をもって強められなさい」(コロ一・一一)。

霊的力のために必要不可欠な条件はキリストとの合一である。われわれが述べている力は実際的敬虔、個人的敬虔、効果的奉仕のための力である。この力はわれわれからのものではない。それはわれわれの内に眠っているものではない。覆われていて、解放して自由にしさえすればよいものではない。

それは神の力である。当初、神は人の手の中に力を置かれたが、人は堕落の時にそれを失った。今や、神はキリストの中に力を置いておられる。神はそれを各人に個々に分配するのではなく、キリストに授けられた。神はそれを御自分の御子の中に蓄えられた。御子の中でこの力は永遠に安全であり、御子の中にあるこの力はそのからだのすべての肢体のためである。しかし、この力はそこにあり――われわれのためのものである!――のだが、われわれはそれを彼との生き生きとした合一から離れて持つことはできない。

力は神が授ける賜物ではない。例えば、火の力を可燃性の物質に伝えることは可能である。例えば、ロウソクを他のロウソクで灯す時のように。しかしこの場合、新しく灯されたロウソクは、それを灯した源が何であれ、自分自身の独立した炎を持っており、自分自身で燃える。霊的力はこのような方法で伝達されるのではない。それは合一による力である。

大きな工場の中に入って、様々な区画を通り過ぎる時、稼働中の機械の各部品の中に、素晴らしい働きを成し遂げている力をあなたは目にする。そしてあなたは、「これらの機械を動かしているのは何だろう?この活動全体のは何だろう?」と問う。

すると、あなたは動力室に連れて行かれる。そこであなたはその中心、工場全体に伝達されるすべての力の源を見る。各区画の機械は、自分自身の独立した力で働くのではない。自分自身で生み出した力や、他の源から自力で引き出した力で働くのではない。そうではなく、その中央動力から毎瞬絶えず受け取る力によって働く。

動力から機械に力を伝達するのに必要不可欠な条件は合一である。そのつながりを断つなら、力は止む。勝利の生活を送るのに必要なこの力についても同じである。それは神聖な力、神の力でなくてはならない。われわれ自身の内に眠っている力や、われわれが自分で神から引き出してわれわれの内に蓄えられている力ではなく、われわれが受け取り続ける力でなくてはならない――この力は止むことのない力の流れとして、すべての霊の命の中央動力すなわち主イエス・キリストからわれわれのもとに来る。神の力である御方との生き生きとした合一がなければならないのである。

しかし、信者はみなキリストに結ばれていること、「主に結合される者は一つ霊である」ことを、われわれは知っている。われわれはまた、「誰でもキリストの霊を持っていないなら、その人は彼のものではない」ことを知っている。だから、われわれはこう結論する。すなわち、キリストの教理を持っていても、キリストに結ばれていない人がいるかもしれないのである。しかしその人は、キリストに結ばれずに、キリストの霊を持つことはできない。御霊は合一の本質である。これは全ての信者に言える。この合一は聖さの中で到達すべき目標ではなく、すべての命の開始点であり、すべての聖さの出発点である。

命は生ける御方を受け入れることによって来る。キリストの贖いの死の中でキリストと一体化されて、われわれはキリストの復活の命の中でキリストに結合される。「一つからだと一つ霊」。そしてこのからだはかしらと同じ名――「キリスト」――を帯びている。「キリストも同様だからです」(一コリ一二・一二)。キリストは天使たちのかしらである。しかし、キリストはからだのかしらであり、信者は皆このからだの肢体である。これは、キリストが天使たちのかしらであることよりも、いっそう高い意味でそうである。天使たちは天の群れの一部を成しているが、信者たちはキリストの花嫁であるこのからだの肢体である。この合一は言葉の綾や、単なる夢ではない。それは現実であり、文字通り霊的に真実である。

さて、しかし、一つの困難が生じる。この力の欠如をわれわれは嘆き悲しんでいるが、このようにキリストに結合されている人々でもこの力に欠けているのである。すべての力の源との生き生きとした合一の中にある人々の中に見られるこの欠け目を、われわれはどう理解すればいいのだろうか?

まずは次のことを心に留めようではないか。すなわち、どの信者についても、力が全く無いとは決して述べられていないのである。神の子らはみな、ある程度の力を持っている。命があるところには、力がある。それは最も低い形の命かもしれないが、命が少しでも存在しているなら、どれほど弱々しくても、そこにはいくばくかの力も存在するのである。

しかし、今われわれが述べているのは勝利する力についてである。罪に対して戦ってある程度抵抗するだけの力ではなく、誘惑のあらゆる波に対して立ち上がって勝利する力、悪しき者のあらゆる攻撃に効果的に立ち向かって、神の恵み・十全性・忠実さを勇敢に証しする力である。

この意味で、合一が存在するにもかかわらず、なぜ力が不足しているのかを、われわれは理解することができる。

腕が萎えている一人の人を見よ。その手と体との間には合一が存在する。しかし実用上、そこに行動や奉仕のための力は無い。それゆえこれは、多くの信者とすべての力の源との間の状況――合一が存在していても力が無い状況――の絵図である。

これにより、さらに核心へと近づく。キリストとの合一の中にある人々において力が現れるのを妨げるこの妨げとは何か?われわれはみなやむをえず諸々の制約に服している――これらの制約はわれわれの道徳的・身体的成り立ちと不可分である。われわれは有限な被造物であるという事実のゆえに、諸々の妨げが存在する。

神の力は無限だが、われわれの容量は限られている。いくら成長して霊的に前進したとしても、神の豊かさに等しくなるほどわれわれの容量を拡大することはできない。それゆえ、諸々の制約が生じる。しかしこれらの制約は、われわれが述べている力に対する妨げではないし、取り除かれるべき障害でもない。われわれの容量は決して無限にはなりえないが、絶えず増し加わること――想像できないほど拡大すること――は可能である。例えば、次のような御言葉を見てみよ。「それはあなたたちが神のあらゆる豊かさをもって満たされるためです」。私が持って行く容器は空かもしれないし、あるいは、他のもので部分的に満たされているかもしれない。最悪なことに、私はその口を自分の手で塞いでいて、それによって水が流れるのを邪魔しているかもしれない。その場合、問題は供給の十分さではなく、受け取り手の状態である。それゆえ、たとえ備えが無限であって、その容器を泉と結ぶ経路が確立されていたとしても――合一が存在していたとしても――それでも、力の流れが流れ込む妨げがあるかもしれないのである。それでは、この妨げとは何か?

この大きな妨げ――他のすべての妨げの根幹――は不信仰である。われわれは自分の不信仰によって神を制限しているのである。われわれをキリストとの接触にもたらすわれわれの存在中の道筋が狭まって、力が流れ込むべき器の容量がとても小さくなっているのかもしれない。それは不信仰の恐ろしい影響のためである。神の力で満たされるには、われわれの信仰は成長しなければならない。われわれの信仰を増すものは何でも、われわれの容量を増し加え、われわれの存在中の道筋を神に対して開く。そして、力が流れ込むのである。

しかし、理論的な力について考えたり、力のことを神から受けて神から離れて持つことのできる資質と見なす代わりに、力は主御自身と不可分であると考えた方が、力が現れる条件を理解する助けになるだろう。「主の目は全地をあまねく行き巡り、その心が神に対して完全な者たちのために、御自身の強さを示される」(二歴一六・九)。私は弱いが、神は私にあって御自身の強さを示して下さる、という真理を認識する代わりに、私は自分が強くされるのを期待しているのかもしれない。私にあって神の力が現れることではなく、自分自身の中にある力を経験することを期待しているのかもしれない。主は、その心が神に対して完全な者たちのために、御自身の強さを示して下さるのである。

それゆえ、力の条件は神に対して完全な心を持つことである。完全な心をわれわれはどう理解するべきか?

原文のこの言葉を見ると、まず、それは神に対して平和な心を意味することがわかる。

平和のための偉大な御業を神は受け入れておられる。「その心があなたにとどまっている者を、あなたは完全な平和のうちに保たれます」(イザ二六・三)。神に対して完全な心は、キリストの贖いの御業に頼る心である。「完全な平和」あるいは「平和、平和」という言葉には、償いという思想が含まれており、これにより、贖いあるいは平和のための御業という観念を明らかにしている。ヘブル語のシャレム(shalem)という言葉は歴代誌下一六・九では「完全」と訳されているが、創世記三四・二一では「平和な」と訳されている。なぜなら、心が平和のための御業――この御業は神聖で、十全な、一度限り永遠に成就された御業である――に頼るようになる時、神との平和を持つ特権にあずかるだけでなく、神平和を持つ特権にもあずかるからである。義認の平和だけでなく、聖別の平和をも知るようになるのである。したがって、神に対して完全な心は、何も責められるところのない心である。あらゆる点で正しいとされる心であり、また、その中にもはや神とのいかなる論争もない心である。御霊はそのような人の中に、叱責者としてではなく慰め主として住まわれる。

歴代誌下のこの節の中にあるシャレムという語は、別の思想も示している。「完全な」心は、神に対して全く明け渡された心である。「全き石で、あなたはあなたの神、主のために祭壇を築かなければならない」(申二七・六。ヨシ八・三一も見よ)。完全な心は全き心である。全きさは聖さの主要な意味の一つである。心の聖さは心の全きさである。「わが子よ、あなたの心を私に与えよ」(箴二三・二六)。完全な心は、この訴えに応答してきた心である。それは保留せずに自分自身をささげる。それは献身の祭壇の上に自分自身を完全に置く。この祭壇とはキリストである。この祭壇は贈り物を聖別する。なぜなら、「奉献物はみな、主に対して最も聖である」(レビ二七・二八)からである。

しかし、この同じ言葉には別の訳もある。ソロモンの神殿に関して、「その家は建てられる時、石切り場で整えられた石で建てられた」(一列六・七)。「完全」という言葉はここでは「整えられた」と訳されている。石はみな整えられて、建設者の用に適うものにされた。建設者の用のために整えられたのである。それゆえ、完全な心は用意の整っている心である。それは「主人の用に適い、すべての良いわざのために整えられている」(二テモ二・二一)。それは「自分自身のことを顧慮しない心」である。自分自身の心配や霊的困難に没頭しておらず、安息しており、神に捧げられている。自由に神の奉仕に打ち込める。好機が到来するとすぐに、それをつかむ用意が整っている。用意を整えるために時間を費やすことはない。常に調律された楽器のように、そのような人は主が望まれる時はいつでも、主に用いていただく用意をただちに整える。

どれだけ多くの人が、自分の心を整える働きに自分の時間を費やしていることか!まるで、彼ら自身の聖別が彼らの召しの一大目的であるかのようである。

大工は、自分のなすべき働きのために、自分の道具を研ぐ。しかし、道具を研ぐことは目的ではなく、彼の目の前の目的のための手段にすぎない。同じように、われわれの心を神に対して正しくすることは、そのためにわれわれが贖われた一大目的を達成するための手段にすぎない。

最高の技能を要する精緻な作品、極めて繊細な手仕事に従事している職人が、一つの道具を手に取って、その刃が欠けているのを見出したとする。すると、彼はただちにその道具を置いて、使える状態の別の道具を取り上げる。彼は、完全な或いは「用意の整った」道具を通して、自分の力を注ぎ出す。このような道具だけを、職人は自分の仕事に使うことができる。

何と多くの神の子供たちを、神は御自分の用に適う者とするために――場合によっては厳しい訓練によって――整えざるをえないことか!われわれが神の奉仕に真に適うようになるために、どれほど多くの高ぶり、自己意志、肉的なエネルギーが取り除かれなければならないことか!力が不足しているせいではなく――力は神に属し、神に力の不足はない――神に対して正しくないせいで、神の御言葉がしばしば述べているこの心の完全さに欠けているせいで、われわれは自分自身において力が現れるのをあまりにも少ししか経験していないのである。神の用意は整っており、「その心が神に対して完全な者たちのために、御自身の強さを示」すのを待っておられるのである。

さらに、ダビデの勇者たちに関してこう記されている。「彼らは完全な心と共に来て(中略)ダビデを全イスラエルの王にしようとした」(一歴一二・三八)。この件に関して心は全く固まっていた。不純な動機や、誠実さの欠如はなかった。それは真実な心であり、使徒がピリピ人たちに「それはあなたたちが誠実な者となるためです」と願ったような誠実な心である。これはつまり、「白日の下で裁かれて、純粋であることが判明する」ことである。その心の目的と意図は徹底的である――「神に対して完全」である。これが描写しているのは達成よりはむしろ姿勢である。

このような心は神の検査に尻込みしない。神の聖なる火の、貫き通し、純化し、焼き尽くす力に喜んで自分を明け渡す。このような心は主に対して忠実である。その願いは、キリストが全存在に対して王となることである。

魂のこの状態が生じるなら、力の不足はまったくなくなる。神御自身が、われわれの弱さの中で、御力を完全に現わされる。

これまでわれわれは「力はあなたのものです!」と何度言ってきたことか!しかし、この言葉の深い意義の中にどれほど少ししか入り込んでいなかったことか!「ああ、この力が自分のものだったなら!」という考えが、どれほどわれわれの思いを占めてきたことか。しかし、神の力を持つには、神御自身を持たなければならない。が強いことを神は示して下さる、ということではない。私自身の弱さを――私は弱さそのものであることを――私はずっと学ぶことになる。しかし、神の力が幕屋のように私を覆う。これが「……それはキリストの力が私の上に宿るためです」(二コリ一二・九)という御言葉の意味である。

神が御自分の子供たちを通して御力を現わそうとされる時、神は次のように彼らを導かれる。神は彼らをこの心の状態の中にもたらされる。神との論争がもはや何もない状態、彼らが自分の存在の各部分を自発的に神に明け渡す状態である。神が全く自由に用いることができ、しかも、神に対する忠実な姿勢が維持されている心の状態である。その時、その僕にあって神の力が現れるのを邪魔するものは何もない。その時、その経路は開かれ、神の豊かさを流し出すのを妨げるあらゆる障害から解放される。その時、あらゆる方面で、神の力が現わされる。

征服する力。もし勝利の生活を送りたいなら、まず第一に征服すべき敵は自己である。自己を征服できる唯一の力は神の力である。われわれがこの力の恩恵を受けるのは、それに服することによる――その下に入ることによる。キリストによって勝利の中を導かれることの何たるかを知るには、まずキリストの虜にならなければならない。キリストは常に征服者として前進しておられる。その行列の中に含まれている者たちをおいて征服者たちはいない。彼らが征服しつつあるのは、キリストによって征服されたからである。自分の言葉に部下たちが従う理由について、百卒長が述べたことに注意したことはあるだろうか?彼は「私は権威を持っている者だからです」と言ったのではなく、「私は権威の下にある者だからです」と言った。彼の信仰の偉大さはここにある。すなわち、天の神に対するキリストの関係を認識したことにある。「私権威の下にある者です」。キリストの言葉に力があったのは、彼が神の権威の下にあったからである。百卒長は神の全能に対するキリストの関係を認識した。彼はこう考えたのである。自分の背後にローマの全権があり、自分が語りさえすれば事が成るのとまさに同じように、天の全権が人なるキリスト・イエスの背後にあり、彼が御言葉を語りさえするなら自分の僕は癒される、と。

これが罪を支配する秘訣である。われわれは神の支配の下にいなければならない。それに全く服することの何たるかをわれわれは知らなければならない。「ですから、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」。

支える力。自分を引き上げようと常にもがいているように思われる神の子供たちがいる。人が水の中にいるのを見たとしよう。沈むのを恐れて、その人はもがき始める。だが、自分の奮闘は無駄なことがすぐにわかる。散々努力しても、沈んでしまうからである。しかし、この水そのものの中に、彼を浮かんだ状態に保つ力がある。確かに、信仰が必要であり、特定の条件を満たさなければならない。一つの条件は、もがくのをやめなければならないことである。その人をして、水の上に身を投げ出させよ、そして、沈まないようにしようとする努力をやめさせよ。自分を浮かび上がらせてくれる水に信頼させよ――そうするなら、沈む代わりに浮かぶのである!

倒れることからわれわれを霊的に守ってくれる力を見出すのも、これと同様である。われわれは覚悟を決めて、神の全能の保護に喜んで自分を明け渡さなければならない。倒れることからわれわれを守る責任は神にある。われわれを保ってくれる神に信頼する責任はわれわれにある。

守る力。われわれはこれをあらゆる方面で必要とする。われわれの上や下だけでなく――われわれを取り巻く――四方にも必要とする。われわれは「神の力の中に守られている」。神の力であるキリストは、信頼している魂がその中で守られる要塞である。敵がこのようにかくまわれているあなたを発見したとしよう。すると、敵はあなたのものではなく神のものである力によって対処されるのである。敵はあなたに触れることができない。「神から生まれた方(すなわちキリスト)がその人を守って下さるので、悪しき者がその人に触れることはありません」(一ヨハ五・一八、改訂訳)。

造り変える力。神の力がわれわれを満たすことになる。幕屋が完成した時、神の臨在がそれを満たした。「こうしてモーセはその働きを終えた。その時、雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕の中に入れなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(出四〇・三三〜三五)。生ける神の宮であるわれわれがこの栄光を失う時、われわれは力を失う。神はわれわれを満たすことによってわれわれを造り変える。「それはあなたたちが神の全豊満をもって満たされるためです」が、使徒がエペソの回心者たちのために求めた祝福だった。

最後に、勝利する力。すなわち、奉仕のための、挑戦的働きのための、苦難のための力である。ある有能な説教者はこう述べている。「教会は自らの内に、世界を征服するのに常に十分な力を持っている」(マクラーレン)。これは真実である。なぜなら、この力は教会の中におられる神御自身だからである。「私は彼らの中に住み、彼らの中を歩む、と神は仰せられる」(二コリ六・一六)。

気が狂っている若者の件で失敗した後、弟子たちは主に「どうして私たちには追い出せなかったのですか?」と尋ねた。その時、われわれの主は何と答えられたか?「あなたたちの不信仰のせいです」。献身すなわち神に対する絶対的姿勢と信仰とは密接な関係にある。

われわれは信者である人たちに向かって語っている。それゆえ、これは信仰の賜物の分与の問題ではなく、われわれがすでに持っている信仰を活用する問題である。信仰はどのように増し加わり、強められるのか?

信仰に必要なものが三つある。自由、糧、運動である。

信仰には自由が必要である。信仰を解き放つのは絶対的姿勢である。自分を全く主にささげるように導かれる時、われわれの信仰が解き放たれる。もしわれわれの目が単一でないなら、われわれの信仰は損なわれ、妨げられる。「互いに誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたたちは、どうして信じることができよう?」。単一で、健全な、二心ではない目に欠けていたせいで、信仰が不可能になったのである。

「神は信頼できないと感じます」とある人は言う。なぜできないのか?神は信頼に足るのではないだろうか?「ああ、そうです。しかし、何かが私を引き止めているのを感じるのです」。それは、ダビデが次のように述べて言及したものではないだろうか?「もし私が心の中に不義を抱いているなら、主は私の言うことを聞いて下さらない」(詩六六・一八)。何かを差し控えているおそれはないだろうか?光の中に持ち出して神に裁いてもらうのを恐れている疑わしいものが何かあるのではないだろうか?信仰が強められるのは「信じようと努力する」ことによってではなく、それを縛り続けている束縛を取り除くことによる。

また、信仰にはが必要である。神の御言葉は信仰の糧である。信頼するには、何か信頼に足るもの、信頼できる御方を信仰は持たなければならない。聖書は信仰の保証である。信仰がこの誤りなき保証によって常に占有されていなければ、信仰は弱く貧弱なものになる。飢えによって信仰が損なわれるおそれがある。われわれの思いが自分の方に向くおそれがある――神の御言葉よりも、自分自身の活動、自分自身の信仰活動で占有されるおそれがある。しかし、聖書の真理や聖書が啓示していることを信仰が把握するときはじめて、信仰は強められるのである。

さらに、信仰には運動が必要である。信仰はみな、活用するために与えられる。信仰を活用しない限り、われわれは自分に信仰があるかどうかわからない。これは従順となって現れる。なぜなら、従順は活動中の信仰以外の何だというのか?信仰は自らが信じることを実行に移さなければならないのである。

体も同じである。食物を摂るだけでなく運動もしなければ、われわれは無精で怠惰になってしまう。魂についても、霊的消化不良のようなものがある。われわれの実際的従順と信仰の勇気は、われわれの知識よりもかなり遅れているかもしれない。われわれに啓示される光に基づいて、絶えず踏み出そうではないか――すなわち、われわれの心の中に糧として与えられる真理を実行し、行動に移そうではないか。

われわれの信仰が成長する時、われわれの力は増す。われわれの信仰の成長ほど、望みうる大きな祝福はない。なぜならこれには、われわれの霊的生活の他のあらゆる部分の幸福が含まれているからである。

使徒はテサロニケ人たちのために「兄弟たちよ、私たちはあなたたちのために常に神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。なぜなら、あなたたちの信仰が著しく成長しているからです」(二テサ一・三)と述べた。

「あなたが信じる通り、あなたになりますように」。