「自分自身に気をつけなさい」(申四・二三)。 「目を覚ましていなさい。信仰の中に堅く立ちなさい。男らしく、強くありなさい」(一コリ一六・一三)。 「あらゆることで目を覚ましていなさい」(二テモ四・五)。 「すべての祈りと願い求めによって絶えず御霊の中で祈りなさい。すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい」(エペ六・一八)。 「ですから慎んでいなさい。そして、目を覚まして祈りなさい」(一ペテ四・七)。 「慎んで、用心していなさい」(一ペテ五・八)。 「目を覚まして、死にかけている残りの事柄を強めなさい」(黙三・二)。
目を覚ましていることの性質と、それが信者の生活の中で占めるべき地位とに関して、とても困惑している人が大勢いる。なぜなら、助けになる代わりに、魂にとって神と共なる歩みの邪魔になる類の、目を覚ましていることもあるからである。それは信者に、キリストに頼るよりも自分自身に頼るようにさせる。そして、自然な結果として、そのように目を覚ましていることは無駄に終わる。
さて、当然のことながら、罪を犯すことから守られるために、また、われわれの日常生活の中で正しく導かれるために、目を覚ましている必要がある。しかし、最初に次のことをはっきりと理解しようではないか。われわれの安全は、自分自身を守るわれわれの能力によるのではない。確かに、われわれの安全はわれわれが目を覚ましていることと密接に関係している。われわれは目を覚ましていなければならないし、絶えず目を覚ましていなければならない。しかし、次の幸いな事実を決して見失わないようにしようではないか。われわれを守って下さる方は主であり、ただ主だけなのである。「主が都を守られるのでなければ、見張り人のさめているのは空しい」(詩一二七・一)。
見張りの立場に着くには、主の保護の中にあることがどういうことかを知らなければならない。真のクリスチャンの用心の意味を学ぶには、われわれは塔の中に、主の守りの力の中にいなければならない。
見張りの真の目的をはっきりと認識しようではないか。われわれは自分の思いと注意を間違った方向に向けているのかもしれない。われわれが見張るべきものは何か?
敵だろうか?否、敵は驚くべき欺きの力を持っており、光の天使に変装するからである。もし敵の戦う相手がわれわれの用心だけであり、対処する相手がわれわれの力だけだったなら、敵がわれわれを惑わすのは雑作もないことだっただろう。敵はわれわれが自分の欺きの格好の餌食であることを見出していただろうからである。
見張りの目的は、ただ一つしかありえない。それは「イエスを仰ぎ見ること」である。見張りの姿勢に、他の姿勢はありえない。では、われわれは何を見張るべきか?主の警告、導き、教えである。
われわれは主の警告を見張らなければならない。サタンのすべての陰謀と、暗闇の軍勢の間で進行中のすべての事柄を唯一見抜いている御方は主である。信者は悪魔の悪巧みのほんの少ししか分からない。しかし、キリストの全知の目は、霊的邪悪さの最も奥深くまですべて見抜く。彼が不意を突かれることはありえない。まどろむことも眠ることもない御方は、御自分の信じる従者たちに、予め警告を与える用意が常に整っている。敵の力から彼らを守るために、彼らが知る必要のあるすべてのことを、予め警告する用意が整っている。彼の愛の眼差しは、見張っている信者に守りを堅めさせることに決してしくじらない。そして、敵の接近や、生じかねないいかなる特別な危険に関しても、信者に知らせる。
彼が不意を突かれることはありえないのと同じように、彼は決して間違った警告を与えることはない。神のどの子供も、迫りつつある危険に関して予め神から警告を受けずに、深刻な罪の中に陥ることは決してない。警告を無視することが、堕落の第一歩だった。
われわれは主の導きを見張らなければならない。
「私はあなたに指示し、あなたの行くべき道について教える。私は私の目であなたを導く」(詩三二・八)。
神の目によって導かれることは、あらゆる種類の導きの中でも最も細心の注意を要することである。あなたは自分の手で耳の聞こえない人を導くことができるし、あるいは、自分の声で目の見えない人を導くこともできる。しかし、目が見えていて、喜んであなたの目を見続け、あなたの表情を理解する人でない限り、あなたはその人を自分の目で導くことはできない。しかし、これは親密な知識と個人的面識とを前提とする。
一生に及ぶわれわれの旅路の大路だけでなく、一日の行程の中にも、御旨を知る必要がある多くの小さな岐路がある。御旨の中にとどまり続けるためにわれわれが見張る必要があるのは、神の目の静かではあるが誤りなき指示である。時として、一つのささやかな出来事や、ほんの一歩によって、どれほど重大で深刻な結果が生じることか!見張っていることが必要なのは、敵の罠に陥ることから守られるためだけでなく、神の御旨を知る知識の中にとどまるためでもある。
それゆえ、あらゆる種類の神の導きの中でも最も幸いで最も真実なこの導きを知りたいなら、神の御傍近くに生きること、そして用心深い霊をもって歩むことがどういうことかを、われわれは理解しなければならない。その時、神がわれわれに行わせたいことやわれわれに取らせたい道を、ただ神の目だけがわれわれに十分に示せるようになる。魂とキリストが完全に理解しあっていなければならないのである。
「あなたは理解力のない馬や騾馬のようであってはならない」(詩三二・九)。真の知恵は神の御心を知ることにある。「賢くない者にならないで、主の御旨が何であるのかを理解しなさい」(エペ五・一七)。
われわれは主の教えを見張らなければならない。
「私は自分の見張り場に立ち、塔の上にとどまって、彼が私に何を語られ、私が訴えられる時に何と答えるべきかを見張って見よう」(ハバ二・一)。「彼は私の耳を呼び覚まし、教えを受けた者のように聞かせられる」(イザ五〇・四)。彼にはわれわれに教えるべきことがたくさんある。それらの事柄は、われわれの弟子たる身分の初期の段階では、われわれには学べないことである。しかし、彼は知恵のある、優しく、忍耐強い教師である。われわれはマリヤのように彼の足下に座して、彼から学ばなければならない。それは彼の真理を受け入れることによってだけでなく、彼の恵みにあずかり、彼の霊から飲むことによってでもある。彼は「恵みと真理に満ちて」おられる。
「日毎に私の戸口で見張り、私の門柱で待っていて、私に耳を傾ける人は幸いである」(箴八・三四)。この見張りの姿勢、主の御声に耳を傾ける姿勢にどれほど多くのことがかかっているのか、述べるのは不可能である。最善の使者は最も独創的な人々ではなく、主が自分たちに語られたことを最も忠実に他の人々に伝えられる人々である。心に満ちているものの中から口は語るが、聞くことによって心は満たされる。主の御声の良き聞き手となるには、日毎にその戸口で見張ることがどういうことかをわれわれは知らなければならない。
次に、われわれの見張りの目的について。その目的は祈りである。「見張って祈りに至りなさい」(一ペテ四・七)。これはしばしばなされる勧めである。それはわれわれに、用心深くしていることの直接の目的について示している。われわれは敵が近くに迫っていることや、特別な恵みと保護の必要性について神から指示を受けるために、ずっと見張っていてはならない。諸々の警告を受けるこうした時は、祈り――特別な祈り――の時でなければならない。
それゆえ、必要なのはただ見張っていることだけではない。見張って祈りに至ることである。
外側の環境から判断して、現実の危険は存在しない、あるいは、祈る特別な必要性は何もない、と結論付けそうになる時、しばしば御霊はわれわれを祈りへと促す。しかし、神の呼びかけを無視することによって、われわれは罠に陥ったり、誘惑に負けたりしてしまうのである――これはわれわれにとって損失である――後になってこれに気づくことが何と多いことか!
用心の霊によって、祈りの習慣を深め、強めるよう導かれなければならない。御霊によって促された祈りに対する答えにより、場合に応じて、解放、救済、導き、求めていた光が訪れる。これに感謝と賛美が続く。これから、神の御言葉の中に頻繁に現れる、目を覚ましていること、祈ること、感謝することの間の密接な関係がわかる。「祈りの中に居続けなさい。そして、感謝すると同時に目を覚ましていなさい」(コロ四・二)。
さて、これまで述べてきたことから、目覚めている霊の前提はキリストの能力に対する確信、彼の全知の顧みと確かな愛に対する堅固な信念であることがわかる。彼の知恵、彼の力、彼の忠実さをあなたが疑問に思うことはもはやない。あなたは自分に対する彼の顧みの中で安息することができる。「私が彼に委ねたものを彼は守ることができると、私は確信しています」。あなたは敵の力のゆえにもはや恐れない。なぜなら、自分と共に、また自分の内におられる方は、自分に敵対するあらゆるものよりも偉大であることを、あなたは知っているからである。あなたは神の保護する力に信頼することができる。自分が常に勝利している御方の傍らにいることを、あなたは知っている。
しかし、これにはもう一つの前提がある。それは神との親しい歩みである。親密さである。一定間隔で行われる礼拝のときだけでなく、日常生活や一日のすべての時間にも及ぶ親密さである。それは鋭敏な良心を意味する――罪の接近に対してますます敏感になってゆく良心と、罪の忌まわしさに対するいっそう深い真実な憎しみとを意味する。几帳面な良心ではなく、健全な優しい良心――咎めのない良心――を意味する。
これから、次のことが言える。もしも私が何らかの悪習によって突然打ち負かされてばかりいて、繰り返し敵の攻撃によって不意を突かれているなら、私の霊は実際には目を覚ましていないのである。習慣的に「イエスを仰ぎ見て」いないのである。神との交わりの中を歩んでいないのである。私の魂と主との間の交流が断たれているのである。
「不意を突かれた」と弁解して、自分の失敗の言い訳をすることはできない。万事を御存じである御方が、目を覚ましている者たちに常に与えて下さる警告に対して忠実なら、われわれは決して不意を突かれる必要はない。
次の出来事は、ここでわれわれが触れた重要な真理の良い例として役に立つだろう。この真理とはすなわち、目覚めている霊の前提条件は、鋭敏な良心もしくは霊的識別力の器官を持つことである、ということである。これはわれわれの信仰の歩みにおいて極めて価値のあるものである。
「一八七九年の秋のことである。当時存在していた海洋蒸気船の中で最も速かった五〇〇〇トンの蒸気船アリゾナ号は、約十五ノットで帰路を航行していた。ほんの一、二日前にニューヨークから出航したばかりだった。
時は夜であり、微かな光しかなかったが、航行中の船と衝突する危険性はほとんどなかった。船長と乗組員は、見張るべき特別な理由があるとは思っていなかった。乗客たちは不安とはまったく無縁だった。
切迫した危険が乗員全員を現実に脅かしたその時、大ラウンジの乗客の多くは翌日の航行距離数を賭ける競売に耽っていた――実に、三五〇マイル以下の航行距離はとても低い掛け値で売られていたのである。
突然、衝突音が聞こえた。船の速やかな前進は止まった。そして数分後、アリゾナ号が巨大な氷山に衝突したことを皆が知った。氷山の頂が船の上に覆いかぶりそうになっているのが見えた。氷山は船のマストの先にある明かりの中で、崩れそうに輝いていた。
しかし、船の乗員を脅かした危険は、崩れ落ちる氷で船が潰されることではなかった。アリゾナ号の船首が静かに沈んで行くのが見えた。やがて、船は右舷の方に傾いた。前方の区画と側面の小さな区画が浸水しつつあった。
それは乗員全員にとって不安な時だった。多くの人が目をボートの方に向けた。そして経験豊かな人は、自分たちを最も近い陸地から隔てているうんざりするような距離に思いを馳せた。そして、通りかかった蒸気船がアリゾナ号のボートを海で拾ってくれる見込みはほとんどなさそうに思われた。
幸運なことに、アリゾナ号の建設者たちは、自分たちの仕事を忠実かつ首尾よく果たしていた。同様の危険にさらされている同じ海路を行く他の船のように、速度は落ちたがそのぶん衝突の危険性は減って、アリゾナ号は壊れたにもかかわらず沈まなかった。船は何とかニューファンドランド島の聖ヨハネ港に向かった。そして、乗員たちは後に別の蒸気船によって拾われたのだった。
アリゾナ号沈没を引き起こしかけたこの危険性――氷山との衝突――は、蒸気船とくに高速蒸気船がまれに遭遇するものである。また、この危険性により、特に夜間や霞や霧の時は注意深い見張りの務め――細心の注意と慎重な配慮――が必要である。なぜなら、他の船と衝突する危険性とは異なり、氷山と衝突する危険性は側面灯や船首灯や船尾灯といったいかなる装置によっても減らせないからである。ただし(不幸なことにあまりその可能性はないのだが)強力な前橋灯と、それを助ける強力な側面灯か船首灯がある場合、少し先にある危険な氷を見分けるのに役立つかもしれない。しかし、十四か十五ノットで航行している蒸気船の場合、たとえ良く晴れ渡った天候だったとしても、夜間、低い氷山を目で捉えられる距離になった時には、最高の目をもってしても、手遅れである。見張りが警告を伝えて、技師がエンジンを止めて逆回転させる前に、船は氷山に乗り上げてしまう。
しかし、科学はわれわれの感覚を拡張してくれる他に、われわれが生来持っているのとは異なる感覚をわれわれに与えてくれる。科学の写真機の目は千分の一秒の時間を捉えることができる。われわれの目の場合、そんなに短時間では、はっきりした像を捉えられないので、見ることはできない。
他方、写真機の目は微かに輝く物体を何時間も見続けることができる。われわれの目には見えなくなっても――おそらくそれ以下でも――毎瞬いっそうよく見えるようになる。最初に見えたまさにその瞬間からそうである。科学の分光器の目は、発光性の蒸気や吸光性の蒸気や液体等の成分をわれわれのために分析することができる。しかし、天然の目にそのような分析力はない。感触感覚、あるいは熱に対する感覚を、リードは初めて第六感として適切に識別したが(現代風の感覚の分類はこれを触覚と混同しているが、そのような混同をしてはならない)、それが元々及ぶ範囲はとても限られている。
しかし科学はわれわれに、光に対してわれわれに与えてくれるのと同じくらい鋭敏でしかも広範にわたる、熱に対する目を与えてくれる。科学は今後、最も強力な天体望遠鏡ですらその光を示すのに失敗する星を、その熱によって捉えることができるようになる。これはエジソンが抱いた空しい夢ではなく、いつの日か有益な結果を大いにもたらしてくれるであろう考えである。なぜなら、若者のドレーパー(彼の父親が惜しまれつつ亡くなった後、彼がこんなにも早く亡くなったのは、科学にとって大いに悲しむべきことだった)が作製した写真乾板には、それらの写真を撮影した人たちが天体望遠鏡では見ることのできない星々が写っていた、と言われているからである。(中略)氷山が近づいて来る時、影響を受けるのは視覚だけではない。気温の低下も感じられる。しかし熱に対する生来の感覚にとって、この気温低下はあまりよく分かるものではないし、目に見える景色よりも信頼に足るとすぐに素早く判断できるものでもない。
しかし、科学が持つ熱に対する感覚はそれよりも大いに鋭いため、最高に鋭い視力の持ち主が夜中に氷山を察知できる距離よりもはるかに遠くから、氷山の存在を示すことができる。おそらく、普通の視力の持ち主が昼間に察知できる距離よりもはるかに遠くから、単独の氷山を察知することすらできるだろう。
それだけでなく、熱電対列のような装置や、さらに精度の高いエジソンやラングレーの熱計測器なら、検出したことを自動的に告げるようにすることもたやすい。過去二十年の間にティンダル教授の講義を聞いたことのある人なら、熱を測る科学計測機の目盛りは熱の流入や流出に応じて、あるいは一般的な表現を使うと熱さや冷たさに応じて、自由に動くことを知っているだろう。電気スイッチをオン・オフするように動く目盛りを造ることもできるし、あるいは他の方法で、迫り来る危険をとても効率的に示すようにすることもできる。
熱検知器(それは必然的に冷気を検知するものでなければならない)を船の舳先に据え付けて、丸々四分の一マイルも先にある氷山の存在を検知したとき、その結果を――ずっと近くにある氷山を見張りが見てそれを告げるよりも――大音量で効果的に告げさせる方法をいくつも考えるのは容易である。危険が近づいているのを霧笛が力強く告げるように目盛りの動きを設定することもできるし、必要なら、電灯を即座に灯すのに必要な動力を作動させることもできる。技師たちにエンジンを停止・逆転させるように合図を送ることや、あるいはエンジンを自動的に停止・逆転させるようにすることすらできる。
大西洋の数々の蒸気船が、多くの蒸気船同様、氷山に衝突した結果、壊れて失われてきた。これらの蒸気船は、こうした高速な自動計測器があれば、救われていたかもしれない――いずれにせよ、熱や冷気に対して科学が有する遥かに鋭敏な感覚器官を用いることは、氷山による危険を最高の見張りが察知するよりもずっと早くずっと効果的に検出するための、一つの実行可能な方法になるだろう。この方面における科学の力を知る者なら、だれもこれを疑うことはできない」(タイムズ紙に出版されたリチャード・A・プロクターによる手紙からの抜粋)。
有名な執筆家であり科学者でもある人の筆による前掲の文章は、現代の科学的発見の素晴らしい結果を示すものとしてだけでなく、霊的生活にも同じようにあてはまる真理を描写するものとしても、非常に興味深い。
例えば、聖書を読むと、信者に与えられる他の祝福の中に霊的識別力の賜物がある。「彼は私たちに理解力を与えて下さいました。それは真実な方を私たちが知るためです」(一ヨハ五・二〇)。彼はわれわれに「感覚を与えて」下さった(ランゲ)。それはわれわれが真実な方を知るようになるためである。以下の文章はこの節に関するウェストコット博士の注釈である。
「『神の御子』が信者たちに与えて下さったものとは、理解する力、解き明かす力、人生の諸々の複雑な出来事の中で正しい結果に辿りつく力である。この賜物の目標は、一度きりではなく継続的・漸進的に、『真実な方』を彼らが理解力をもって知ることである」。
それゆえこれこそ、目を覚まして神の導きに従順に歩む人々が実際に意識するようになる現実の賜物である。彼らに与えられているのは、「諸々の事象の困惑するような謎の下で、人生に対する神の御旨を、少しずつ、信じ且つ見る力である」。
あまり比喩的ではない言葉で述べると、次のように確かに言えるだろう。何らかの形で誘惑や危険が迫ってくる時、「気温の低下が感じられる」のである。描写や説明のしようがないものによって、われわれは危険が迫っているのを感じるようになる。特別に用心して祈るようにという天からの呼びかけを感じるようになる。このような警告を無視するなら、深刻な損失を必ず被ることになる。そのような時は、よく目を凝らして、単純に信頼し、へりくだって拠り頼み、いっそう子供のように神に信頼して、速やかに従おうではないか。
この霊的識別力の器官は、軽視すべき賜物ではない。それをもてあそぶことはできない。目を覚ましていないなら、あるいは、不注意に歩んでいるなら、この賜物はすぐにぼやけてしまうか、完全に失われてしまう。そして、一度失うなら、回復するのはあまり容易ではない。
霊的視力のこの器官、あるいは、道徳的気温の低下を直ちに察知するこの感覚ほど尊い賜物はほとんどない。時として、この器官のおかげで、神の御霊を悲しませ、奉仕におけるわれわれの喜びや平安だけでなく自由と力をも失ってしまうようなことをしでかすことから、われわれは守られる。
他方、この賜物を用いるたびに、この賜物は強くなり、ますます鋭敏になって行く。われわれは「理解力のある心」をますます持つようになる。そして、このように目を覚ました従順な姿勢で生活する時、使徒の次の言葉の意味を、どんな注解書もわれわれに教えられないような方法で、われわれは知るようにされる。「どうかあなたたちが、知恵と霊的識別力の限りを尽くして、神の御旨を知る知識で満たされ、主にふさわしく歩んで、すべての事で主を喜ばせ、あらゆる善いわざで実を結び、神を知る知識が増し加わりますように」(コロ一・九〜一〇)。