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「魂の力」対「霊の力」
第一章 終わりの時代の危険に関する洞察

ジェシー・ペン-ルイス著

"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"
Chapter1: Some light upon the perils of the Last Days
by Jessie Penn-Lewis


(プネウマ、pneuma)の力に逆らう(プシュケ、psuche)の力」。この意味深長な句は、目に見えない領域で今日行われている戦いを描写するために、インドにいるある特派員が用いた表現です。彼は今日のインドの実際問題をこう表現しましたが、「魂と霊」を識別できる人なら、この句が東洋だけでなく、英国で起きている出来事をも生き生きと描写していることがわかるでしょう。状況は確実に変化しています。神の事柄において前進しつつあるキリストの教会は、新たな試みの段階に直面しています。従来の知識では、この必要に応じられそうにありません。ですから、聖霊なる神からの新たな光が緊急に必要です。そして、新たな状況が生じつつある今、神はこの光を送られつつあります。

(プネウマ、pneuma)の力に逆らう(プシュケ、psuche)の力!」。この「魂の力」とは一体何を意味するのでしょうか?特派員は次のように詳しく記しています。

「地獄の軍勢が全世界を欺くために出て行きました(黙示録一二章七〜一二節)。その結果、政治の世界で大変動が起きています。私たちはこれらの出来事を考慮する必要があります。なぜなら、それらはキリストの教会に重大な影響を及ぼすからです」。

「以前、私は北インドで一人の人に出会いました。その人はシムラの最上層の社交界である、インド政府の夏の議会に出入りする資格を持っていました。ある晩、彼は私に、彼がインドや他のアジアの国々のマハトマ(聖人)たちと接触をもっていることを話してくれました。彼が言うには、政治的な大事件が起きる数週間、数ヶ月前に、彼はそのことを知っている、とのことでした。彼は、『私は情報を得るのに、電報や新聞には頼りません。それらは過去の出来事を記録するだけですが、私たちは出来事が起こる前にすでにそのことを知っているのです』と言いました。どうして、ロンドンにいる人がインドの出来事を知ったり、インドにいる人がロンドンの出来事を知ることができるのでしょう?」。

「私はこの現象を、マハトマの秘訣を知る人々が投影した『魂の力』によるものと理解しました。魂の力とは何でしょう?神の霊から教わっている信者は、神の御言葉の光によって、それが地獄の力であることを知っています。この地獄の力は、壊滅的変化を生じさせるために、世界の国々の上に投影されているのです」。

「『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています」。

「インド人の心の中にあるこの言葉の力を示すには、セブレス条約の修正を挙げれば十分でしょう。この条約変更により、トルコが失っていたものをすべて戻さなければなりませんでした。東洋の一国家が、西洋諸国に勝利したのです。これ以上の勝利は想像できません。インド人はその理由を説明することができました。インドの数百万の人々は、それが『魂の力』によるものだと信じていたのです」。

「この『魂の力』は、祈りや、断食や、宗教的な瞑想によって開拓されると信じられています。イスラム教徒たちは、彼らの寺院での祈りの集会を誇りにしています。デリの壮大なジャムナ寺院で祈る、イスラム教徒の群衆を考えてみて下さい。そこにはモハメッドに従う数十万の人々が集まり、外ではさらに多くの人々が祈ります。ここで、『魂の力』が生み出されているのです!インドにはイスラム教の寺院が数千あり、熱心なイスラム教徒は毎日三回祈るために集まります。ここに、イスラムの隠れた力の源があるのです。イスラム教徒はみな、世界を動かす力の秘訣は祈りにあると信じています。そして、彼らは信じることを実行します。彼らは『祈り』、ヨーロッパ諸国の議会が覆されることを信じます。これはキリスト教国に対する何という教訓でしょうか!」。

「インドの膨大なヒンズー教徒の間では、魂の力はどのように開拓されているのでしょうか?イスラム教徒の祈りの集会は確かに大きいですが、宗教的瞑想のために大祭に集うヒンズー教徒の数はその十倍以上です。ヒンズー教徒は、彼らの聖なる巡礼地を誇りにしています。数十万のヒンズー教徒が巡礼地に集まります。アラハバドのマーの大祭では、七年ごとに数百万のヒンズー教徒が集まります」。

「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」。

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ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる」「この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。

魂の力」対「霊の力」。これはイギリスでは何を意味するのでしょう?それはこれです。私たちの周りでも、意識的・無意識的に、この魂の力が発達・行使されつつあるのです。目に見えない悪の軍勢は、この「魂の力」を利用することができます。「(プネウマ、pneuma)の力に逆らう(プシュケ、psuche)の力」。「魂の力」とは何でしょう?それは「生まれながらの人」が用いる生来の潜在的な力であり、神の霊からではない力です。それでは、「霊の力」とは何でしょう?それは「霊」なる神ご自身の力であり、霊の人を通して働く力です。霊の人は御霊から生まれ、御霊によって歩み、カルバリの血の根拠に立って神に祈ります(たとえば、黙示録八章三〜五節参照)。

魂の力の無意識的な行使は、霊的な信者にいかなる影響を及ぼすのでしょうか?最近受け取った手紙の中にその実例があります。手紙の著者は次のように記しています。「私はたった今、敵の襲撃から逃れてきたところです。出血、心臓病、動悸、疲労。全身ボロボロの状態でした。私が祈っていた時のことです。(魂的な)『祈り』によって私の上に働く魂の力に対抗して祈るよう、突然示されました。キリストの血の力を信じる信仰によって、私はそれを自分から断ち切りました。結果は驚くべきものでした。たちまち呼吸は正常になり、出血は止まり、疲労は取れ、すべての痛みは去り、体にいのちが戻ってきました。それ以来、私は新たにされ、強められています。この解放の経験から、神は私に次のことをはっきりと教えて下さいました。すなわち、私の体がボロボロになったのは、私に反対しているある異端のグループが、私について祈った『祈り』のためだったのです。神は私を用いて、そのグループから二人の人を解放して下さいました。しかし、残りの人々は恐ろしい地獄の中にいます。……」。

過去数ヶ月の間に、私は他にもこのような事例を見聞きしました。霊的な信者はこのような新たな危険に直面しつつあります。この困難はますます大きくなりつつあり、やがて人の住む全地に広がるでしょう。このような他の事例を見ると、何らかの方法で自分を悪霊に対して開いて、超自然的経験をしている人々は、祈りを装って魂の力を生み出せるようです。これらの人々は、「他の人々も自分と同じ経験をするべきだ」という偏執狂的な霊を持っているようです。もし、人が自分と同じ経験をしようとしなかったり、他の人々の邪魔をするようなら、彼らは自分たちが「祈り」だと思っているものをその人に向けて、「あの人は神に裁かれるべきです」とか、「あの人は『真理』に服従するよう強制されなければなりません」と祈ります。

しかし、これらの人々は、主を受け入れようとしなかった町に対して、「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか?」*と言った弟子たちにとてもよく似ています。主は弟子たちに答えて、「あなたがたは自分がいかなる霊なのか、わかっていません」と言われました。神は決して、自分を受け入れるよう、人に強制なさいません。たとえそれがその人自身の益であったとしてもです。聖霊なる神は、神の救いを受け入れるかどうかを選択する人の責任を認識しておられます。

* ルカによる福音書九章五二〜五六節(訳者注)

ですから、神のしもべ、神の真のしもべに警告します。たとえ人々があなたの思うような特定の「祝福」を求めなかったとしても、邪悪な祈りと呼びうるものをその人たちに向けて、魂の力を生み出してはなりません。祈って彼らを神に委ねなさい。激しい祈りに従事する人はみな、他の人々のために祈る時、「神の御旨」に関する自分の見解を祈ることを注意深く避けなければなりません。そして何よりも、決して「祈り」を人々に向けてはなりません。祈りを神に向けなさい。そうするなら、あなたが祈る人々は、時流を通して魂の力の影響を受けずにすみます。この例として、ある牧者が次のように書いています。

「最近、この町で集会がありました。その集会でのことです。『話し手』の一人が『出てきて』、自分の超自然的な経験、彼自身の特別な『祝福』を人々に強制しようとしました。私は多くの『祈り』の標的にされました。それ以来、私はその深刻な影響をひしひしと感じています。……祈る時に、自分の欲する対象に精神(魂の力)を集中することは、実に邪悪なことです。……」。

真に御霊から生じる祈りは、霊から発します。そしてそれは、「祈り」を装って、自分が望むものに精神を集中することではありません。これをよく覚えておきましょう。