ジェシー・ペン-ルイス著
"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"
Chapter6: The Distinction between Soul and Spirit
From Fausset's Commentary
by Jessie Penn-Lewis
ヘブル人への手紙四章一二節のノート
「魂と霊さえもばらばらに切り離して」。すなわち、霊から動物的な魂を分離するまでに及ぶこと。魂は、人の非物質的性質の低次の部分であり、獣類と同じ動物的欲求の座である。同じギリシャ語が、コリント人への第一の手紙二章一四節「生まれながらの(動物的な魂の)人」や、ユダの手紙一九節で使われている。霊は人の高度な部分であり、神の霊を受け入れて、人を天的なものに結びつける。「関節と骨髄」。関節と骨髄の両方にまで達して切り離す。
キリストは「人の中にあるものを知って」おられる(ヨハネによる福音書二章二五節)。それゆえ、彼の御言葉は、人の最も深い隠された部分、感情、思いにまで達して、霊的なものを肉的で動物的なものから分離し(区別し)、霊を魂から分離する。箴言二〇章二七節も同じである。
レビ族の祭司たちは、ナイフを用いて、緊密に結合している四肢の関節を切り離し、最も深いところにある骨髄(ギリシャ語原文では複数)をも刺し通した。それと同じように、神の御言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在――魂と霊――を切り離し、霊のもろもろの深みをも刺し通す。
「関節と骨髄の両方」(にまで達する)という節は、「魂と霊をばらばらに切り離す」という節の従属節である。この比喩は、祭司がナイフを用いて、文字通り関節を切り離し、骨髄をも刺し通して中身をさらけだす光景から来ている(ヘブル人への手紙はユダヤ人に宛てられているので、この比喩は適切である)。この比喩は、前に述べた「魂と霊の切断」を描写している。この切断により、魂と霊は神の御前にさらけ出され、「裸」にされる。この見解は一三節と一致する。
明らかに、「魂を霊から切り離すこと」は、ナイフが関節をばらばらに切り離すことに対応している。それは、「霊」が最も深いところにある「骨髄」に対応しているのと同じである。「モーセは魂を形成し、キリストは霊を形成する。魂は体を引き寄せ、霊は魂と体の両方を引き寄せる」……切り離し、刺し通す御言葉の力には、懲罰的効果と、癒す効果がある。
「思いを判別する」――ギリシャ語は「目的を判断することができる」ことを意味する。「意図」――「観念」(クレリウス)、「考え」(アルフォード)。「思い」と訳されているギリシャ語が精神や感情を表すように、「意図」または「知的観念」と訳されているギリシャ語は知性を表す。
ユダの手紙一九節のノート
「感覚的な」(文字通りには「動物的な魂の」)。これは「霊的であること」、「御霊を持つこと」の反対である。この言葉は、コリント人への第一の手紙二章一四節では「生まれながらの人」と訳されている。人間存在の三区分――体・魂・霊――において、神が当初意図された状態は、聖霊を受け入れて人を神に結びつける器官である「霊」が第一となって、体と霊の間にある魂を治めることであった。しかし、生まれながらの人においては、霊は動物的な魂の中に沈んでいる。動物的な魂は、その動機と目的において地的である。「肉的な」人は、さらに低い状態に落ち込んでいる。なぜなら、これらの人においては、人の肉体的な性質の、堕落した、最も低い要素がおもに支配しているからである。
「霊を持たない」:動物的な生まれながらの人においては、その高次の部分である「霊」は、聖霊を受け入れるという本来の働きをしていない。それゆえ、その霊は正常な状態にない。だから、「霊を持たない」と述べられているのである。(ヨハネによる福音書三章五、六節参照)
テサロニケ人への第一の手紙五章二三節のノート
「霊、魂、体を、まったく」。この御言葉は、神が当初意図された通りの、正常で、完全な状態にある人を示している。正常な立場にある霊、魂、体が、「完全な」人を構成する。「霊」は天の高度な知性に人を結びつける。それはまた、人の最も高度な部分であり、人を生かす聖霊を受け入れる器官である(コリント人への第一の手紙一五章四七節)。「非霊的な人」にあっては、霊は低次の動物的魂の下に沈んでしまっているため、彼らは霊を持たない「動物」と呼ばれている(英訳聖書では「感覚的」と訳されている。これは、有機物である肉体と、生気を与える非物質的要素である魂しか持たない人を意味する)。
コリント人への第一の手紙二章一四節のノート
「生まれながらの人」:文字通りには、動物的な魂の人。霊の人とは対照的に、動物的な魂によって支配されている人。生まれながらの人においては、動物的な魂がその霊を押さえ込んでおり、その霊の中に神の霊は宿っていない(ユダの手紙一九節)。それゆえ、動物的な(生まれながらの)体、低次の動物的性質(人間の堕落した理性や心を含む)によって導かれている体が、聖霊によって生かされている体と対比されている(参照、コリント人への第一の手紙一五章四四〜四六節)。肉的な人(肉欲や自己高揚の霊によって導かれていて、神のいのちから離れている人)とほぼ同類であり、「地的」である。最悪の場合、このような人は悪魔的、悪鬼的であり、悪霊によって導かれている(ヤコブの手紙三章一五節)。実に恐ろしいことである。
コリント人への第一の手紙二章一五節のノート
「霊的な人は」。文字通りには「その霊の(人は)(the spiritual (man))」。五章一四節では、「ある生まれながらの人(A natural man)」(その生まれながらの人(the natural man)ではない)となっている。「霊の人」の前には定冠詞がついており、「生まれながらの人」の前には不定冠詞がついている。この対比に注目せよ。その霊の人は、御霊(the Spirit)によって治められているという点で、周囲の人々よりも高い状態にあり、区別されている。再生されていない人においては、聖霊の器官であるべき霊が(人が再生される時、霊は聖霊の器官となる)*、動物的な魂によって蹂躙されており、機能停止の状態にある。それゆえ、このような人を「霊的」と呼ぶことは決してできないのである。
* ああ、しかし、再生された人でさえ、「動物的な魂」が御霊(the Spirit)を蹂躙している場合があまりにも多いのです!
コリント人への第一の手紙三章一節のノート
「さて、私は……」。この文を言い換えると次のようになる、「生まれながらの(動物的な)人は神の深い事柄を受け入れることができません。そのため、私もまたあなたがたに向かって、霊の人に対するようには、神の深い事柄を話すことができませんでした。私はあなたがたに向かって、『肉の人』に対するように話すことを余儀なくされました」。
「肉の人」は、肉や天然に完全に属している人を意味する。「肉的な人」は、まったく天然的で、再生されていない人を意味するのではなく、肉的な習性を多く持っている人を意味する。パウロはコリントの信者たちに対して、彼らが回心していたにもかかわらず、まったく天然的な人に対するように話さなくてはならなかった。
ヤコブの手紙三章一五節のノート
「感覚的な」文字通りには、「動物のような」:「生まれながらの」人の知恵は、その起源において悪魔的であり……その性格もまた、その起源に相応のものである。
あらゆる真の霊的現象には、必ず魂的な対応物があります。たとえば、真理を愛する愛、霊的現象と見なされる愛は、その魂的な対応物とは本質的に異なります。感情や、強くかき立てられた愛情からなる愛は、肉的なものにすぎません。それは苦難を避け、この世の享楽や寵愛を追い求め、家庭や社会に執着します。もっとも洗練された形になると、それは貧困を減らし、家庭の安寧を促進することへの深い関心という形を取ります。しかし、こうしたことはみな、真理に対する深い憎しみに根ざしているかもしれないのです。
神聖で霊的な愛は、その性質において、これらの愛とはまったく正反対です。それは神に対する愛であり、神がまず最初に私たちを愛して下さったこと(ヨハネ第一の手紙四章一九節)を知る結果生じる愛です。
魂的な愛は、被造物を愛することによって、創造者を愛する真似をします。それに対して、霊的な愛は、創造者を通して被造物に到達します。魂的な愛は、被造物の幸福を促進するためなら、いつでも創造者の真理を犠牲にします。それに対して、霊的な愛は、創造者の真理を通して被造物の幸福が確保・促進されることを喜びます。
霊的な愛は、真理を格別に愛する愛であり、真理のために人々を愛する愛です。魂的な愛は常に神の真理を二の次にします。それは霊的に見えるかもしれませんが、この特徴によって見分けることができます。それに対して、霊的な愛の本質的特徴は、神の真理をなにものにもまして最高に愛することです。
魂的な愛の性質は、時として自分自身を裏切ります。魂的な愛は、一般的に認められている人間的事実や人の説得力ある議論と神の御言葉とを調和させようとして、しばしば大いに苦悩します。そして、神の真実さを犠牲にしてでも、妥協しようとします。しかし、神聖で霊的な愛は、「たとえすべての人を偽り者としても、神を真実としなさい」*と言います。
* ローマ人への手紙三章四節(訳者注)
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