「そして彼女は一人の子、男の子を産んだ。この子は鉄の杖ですべての諸国民を治めることになっていた」(黙一二・五)。 「そして勝利を得る者、私の言葉を最後まで保つ者には、諸国民に対する権威を与える。彼は鉄の杖で彼らを治める」(黙二・二六〜二七)。 「そして彼女の子供は、神に、神の御座に携え挙げられた」(黙一二・五)。 「勝利を得る者を、私と共に私の座に着かせよう。それは、私が勝利を得て、私の父と共に彼の御座に着いたのと同じである」(黙三・二一)。 「そして彼らは、小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで、自分の命を愛さなかった」(黙一二・一一)。
愛する人よ、主がこの時に与えることを願っておられるメッセージに関して、私の心には微塵の疑いもありません。それは「勝利者」に関するものです。この時代、これがとりわけ考慮すべき問題であることに同意しない人はほとんどいないだろう、と私は確信しています。なぜなら、私たちに特に差し迫った問題があるとするなら、それは勝利する問題、このような時代にあって勝利する問題であるからです。
最初に、勝利者の性質、勝利者とは何かについて、二、三のことを明確に述べて、綿密に適用するための道を備えることにしましょう。
勝利者とは何か――その地位、使命、敵
勝利者は主にとって大きな意義を持つことを、私たちは御言葉からよく知っています。黙示録の冒頭の数章でこの言葉が七回繰り返されていることから、これは全く明らかです。勝利者が姿を現すのは、退廃と変化の時代だけです。これを認識することが重要です。状況が主の願い通りではない時、全般的にあるべき状況とは正反対の時、勝利者が私たちの注意を引くようになります。勝利者の意味に関する答えを見出す箇所ではどこでも、たとえこの言葉が言及されていなくても、これは常にそうです。名称はあまり重要ではありません。重要なのはその意義です。そしてそれは、創世記から黙示録に至るまで、聖書中に散在していることがわかるでしょう。それは、状況が神の標準から落ちた時に、常に現れます。これを覚えておいて下さい!ですから、勝利者が立ち向かうのは、一般的な悪や、一般的な罪の状況や、一般的な悪しき状態ではなく、特に神の民の失敗です。神に属する事柄が堕落して低調になり、神の民が神に定められた自分たちの地位を失う時、勝利者が目の前に示されます。あるいは、勝利者について語られるようになります。
それから、さらに、勝利者は神の完全な御旨が失われた時に、そのために立つ一人の人あるいは団体です。勝利者が何か、正確に知ると益になります。即座に却下できる、勝利者に関するいくつかの見解があります。そうした見解の一つは、「勝利者は一種の選民の中の選民であり、神の予知と御旨により、ある特別な地位を占めるよう選ばれた霊的エリートである」というものです。この見解を直ちに却下しましょう。なぜなら、それは正しくないからです。この見解は神の御心の正反対です。神の御心は次の通りです。すなわち、神の民はみな、勝利者が占めるとされる地位を占めるべきなのです。勝利者たちがその地位を占めるのは、他の人々が失敗したからに他なりません。ですから、勝利者は選民の中から選び出された一団ではありません。
直ちに却下できるもう一つの見解は、「勝利者は、恵みという点で、他のすべての信者とは異なる地位を占めている」という見解です。これに関して、極めて多くの間違った思想が考案されて、勝利者の周囲を巡ってきました。そして、それらの思想により、この問題全体が貶められてきました。そうした思想の一つは、報いに関する思想です。報いが過大評価され、勝利者については、恵みが実際よりも過小評価されてきました。さて、愛する人よ、私を信じて下さい。この世の歴史――まさに終末に至るまで――の中に含まれるすべての人々のうち、勝利者たちほど神の絶対的恵みの必要性を知っている人々はいないでしょう。彼らは輝かしい恵みの歌を大声で歌うでしょう。この問題に関する反応はしばしば次のようなものでした。「ああ、『勝利者たちはある地位に着いて、特別な方法で報われる』とあなたが語る時、あなたは恵みの問題に関して、彼らとその他のすべての者たちとの間に区別を設けているのです。まるで、彼らはえこひいきされているかのようです」。しかし、これは正しくありません。私が述べたことを繰り返しましょう。勝利者となるすべての人々の心の奥底には一つの事があります。それは深い、深い、決して揺るがない確信です。その確信とは、「神の恵みと憐みがなければ、決して切り抜けられない」というものです。彼らは他の誰よりもこれを意識しています。さあ、これらの間違った考えを却下して、勝利者の真の意義を理解しようではありませんか。
さて、これが意味するところは、勝利者は御民に対する神の完全な御旨と御思いに関するビジョンを持っている、ということに尽きます。ビジョンがほとんど失われた時代に、彼らはビジョンを持ちます。他の人々が見ていない時に、彼らは見ます。彼らの心の目は照らされています。神が実際に求めておられるものを、彼らははっきりと見ており、身近に感じています。勝利者が生み出される時代の特徴の一つは、それが旧約の時代であれ新約の時代であれ、サムエルの少年時代に関する句を用いると、「開かれたビジョンがない」時代である、ということです。こういうわけで、このさらなる句、すなわち「耳のある者は聞くがよい」という句が、黙示録の中に「勝利者」という言葉と共に繰り返し現れます。耳のある者!これは視覚器官から聴覚器官に器官を変えたにすぎません。意味は同じです。それは知覚、知覚する器官、悟性のための能力です。確信はありませんが、この句の繰り返しは次のことを示唆しているのではないでしょうか。すなわち、主の民の間の諸教会の中には、御霊が言われることを聞くための器官が鈍くなったり死んでしまった人々が大勢いるのではないでしょうか。そして主は、御民の只中で、聴力がそのような状態にない人に対して懇願しておられるのではないでしょうか。ですから勝利者は、主が実際に何を求めておられるのか、また、主の完全な御思いが何かを、見聞きして知覚・理解するための霊的器官を持つ者です。しかし、主の民の間の一般的状況はそうではありません。
次に、この序言で述べるべき最後の言葉はこれです。すなわち、私たちが述べてきたことはみな、教会に関する悪しき者のすべての働きに抵抗して無に帰すために勝利者は立つ、ということを意味するのです。勝利者に関する限り、敵のすべての働きが無に帰されること、勝利者は代表して「教会は打ち負かされない!」と告げることを、これは意味します。教会の中にはサタンの普遍的勝利を拒むものがあります。黙示録のこの一二章は包括的な方法でサタンについて要約していますが、それはこれを伝達・示唆しているのだと思います。第一に、包括的な方法で、サタンは大きな赤い龍として示されています。この名称は「いにしえの蛇」「悪魔またサタンと呼ばれている者」「人の住む全地を欺く者」また後に出てくる「私たちの兄弟たちを訴える者」というこれらのさらなる句を含むことがわかります。サタンに対するさらなる称号をあなたは私のために見つけられるでしょうか?ここでサタンについて要約されています。この龍はこれをみな含みます。これらの言葉が示す内容の違いを私は知っています。しかし、それはこの箇所が示す事柄の完全な意味ではありません。蛇、いにしえの蛇の形をしたサタンは欺く者です。これは使徒パウロの「サタンがエバを欺いたように」という言葉を彷彿とさせます。欺く者、騙す者、これが蛇です。蛇について述べる時、それが意味するのは常に、優位に立つために虚偽や偽りによって秘密裏に働く者のことです。虚偽によって欺くのです。悪魔――悪者、訴える者、サタン――は敵、憎む者です。これをすべてこの大きな赤い龍の中に籠めると、凶暴性、残虐性、力、破壊についての観念を示すものとなります。これがすべてこの一二章に示されています。勝利者はこれに立ち向かいます。サタンのすべての力、サタンのすべての歴史的活動・現われに対して立ち向かいます。勝利者はその前に立ちます。そして、その問題に勝利者は取り組みます。
さて、これはすべて、もっぱら主として、教会に焦点づけられています。勝利者は教会を救い、教会の証しを無傷に保つために教会のために立ちますが、これは教会内のことです。私たちが立ち向かっているのは霊的に途方もないものです。これは歴史的出来事のたんなる提示ではありません。七つの頭と十の角を持つこの大きな赤い龍に関して、とても多くの話がされてきたことを私は知っています。諸々の王国等に関して、歴史のかなりの部分がこれにまつわるものとして解釈されてきました。その道を取りたいなら、取ることもできます。しかし、教会が立ち向かっているのは途方もない霊的事物です。恐るべき霊の力です。この黙示録の最初の数章が示しているものはみな、もしそれを真に理解するなら、教会を攻撃するサタンの真の狙いを特に実証して示すものであることがわかります。先に進むにつれて、サタンの狙いが何か、私たちは少し見ることになるでしょう。
さて、これが勝利者、勝利者の地位、勝利者の使命の何たるかであり、勝利者が直面すべきことです。これをみな噛み砕いて身近なものにする必要があります。
勝利者の三つの面
私たちはそれを三重の面に分類することができます。勝利者に関して、考慮すべき三つの面があります。この三つの面とは状態、地位、証しです。この地位は状態の結果・帰結です。証しは、状態とこの状態がもたらす地位に由来します。さて、これが少し専門的に聞こえることを、私は承知しています。あなたがこれを心に留めて座し、それについて考えてみさえするなら、これには途方もない内容が込められていることが分かり始めるでしょう。これらの三つの事柄、もしくは、この三重の事柄に対して、サタンは大いに獰猛・狡猾・強力に敵対します。
一.勝利者の状態 (a)信仰から発した義
サタンは第一に勝利者たちの状態に敵対します。すなわち、主に良しとされる教会の状態に反対します。この状態とはいかなるものでしょう?それは信仰から発した義です。愛する人よ、神の義そのものである義を見出す時、あなたはあらゆる点でサタンを完全かつ徹底的に打ち破ります。サタンを表わしているもの、サタンの活動の根拠、サタンの望みの根拠を、すべて取り去ります。裁きに関する神の活動の面をすべて取り去ります。そうです、神御自身の義の状態である義、神御自身の義を一たび見出すなら、サタンは打ち倒されます。自分の地位を維持して自分の働きを行うために、サタンは不義な立場を見出さなければなりません。不義な状態を生み出し、人々を不義な地位に着かせなければなりません。神の御言葉を読み通すなら、この一事がそれをどのように開くのかが分かります。サタンの力は常に、不義が存在する領域の中にあります。サタンの王国は単なる形式的なものではなく、道徳的なものです。もちろん、正しく述べると、それは不道徳・非道なものです。私が言わんとしていることはお分かりでしょう。それは道徳的状態の問題です。私たちはこの「王国」という言葉に関して、新しい諸々の観念を得なければなりません。「サタンの王国や神の王国は形式的なものであり、治めるよう指名された役人たちと共に設けられたものである」というこの観念に固執しないようにしましょう。このように諸国民を鉄の杖で治めること、この王国は、「神は地上や天に一つの国家を設立して、権威ある地位を占めるよう人々を指名する」ということを単に意味するのではありません。そういうことではありません。それは形式的です。これはみな道徳的問題です。あなたが神の義である状態を見出す時、サタンの王国は直ちに没落します。あなたがこの地位に着く時、サタンにはもはや力がなくなります。
すでに述べましたが、あなたが神の義の状態を見出す時、裁きの面に関する神の活動はすべてやみます。アブラハムと平野の都の事例が、その古典的な例です。神は御自身の使者を通して「私はこの都を滅ぼそう」と宣言されました。そして、アブラハムは神との論争の中に入りました。義人についてはどうでしょうか?あなたは義人を悪人と共に滅ぼされるのでしょうか?神は言われました、「いや、決してそんなことはできない。そんなことは、事実上、私自身を滅ぼすことである。だからアブラハムよ、行って義人を探すことがあなたの責務である。もしあなたが義人を見つけられたら、私は滅ぼすことはできない。私の手を翻さなければならない」。そこでアブラハムはさらに進んで、言わば、神に対する自分の訴えを正当化してくれると思われる義人の数の上限と下限を探ります。神の要求に応じる適切な根拠と思しき数を探ります。彼は何度も何度も何度も数を減らさなければなりませんでした。五人の義人!駄目です、彼は五人の義人を見つけられませんでした。それゆえ、神の裁きは正当化されました。アブラハムがソドム人の間に義人を僅かでも見いだせていれば、神の裁きの力は食い止められていたでしょう。義――神の義であって、私たちの義ではありません――は途方もないものです。「私たちの義はことごとく汚れた衣のようである」。私たちの内に義はありません。否、神の義が私たちの前にあります。そうです――アブラハムの時代の前から――アベルの時代から、聖書全体を通して、この問題は信仰から発する義の問題です。イエス・キリストを信じる信仰による義についての、パウロの途方もなく包括的で詳細な議論がなされている手紙が思い起こされます。
さて、御自身の民に対する神の御旨は、彼らが神御自身の義を着て立つべきこと、神の御前にあるように立つべきことです。何という状態になければならないことか!まさに神の義が私たちの周りを包んでいます。ですから、神が私たちを御覧になる時、神に見えるのは御自身の義だけであり、生来の私たちは何も見えません。ああ、愛する人よ、これはあまりにも幼稚であると思わないようにしましょう。これは究極的事柄であり、つまるところ勝利者に対する大きな論点の一つです。そして、これに対してサタンは最後まで戦います。もしサタンがあなたや私や神の子供の誰かを、信仰の立場・確信の立場を失う地点にもたらして、彼の訴えの下で有罪宣告を受け入れさせることができるなら、彼は勝利したことになります。訴えのかぎりを尽くし、天然を掻き立て尽くし、また、怒り・残忍さ・憎しみ・訴え・力によって大きな赤い龍であるサタンが為しうるかぎりを尽くしても、それでも信仰の立場に立って、「そうです、それはみな真実かもしれません。しかし神の目には、キリスト・イエスを信じる信仰のゆえに、私はまさに彼の義にあずかる者なのです」と言う一人の神の子供に出会う時、サタンは敗北します。これは信仰による状態の問題です。
私たちに関してサタンは何を狙っているのでしょう?私たちを滅ぼすことでしょうか?いいえ、私たちが時々考えるようなことではありません。彼の狙いはただ一つです。それはイエス・キリストにある神の義に関する信仰です。これが彼の狙いであり、そういうわけで義に対して胸当てという直喩が与えられています。イザヤ五九・一七の御言葉「主は義を胸当てとしてまとい」をあなたは思い出すでしょう。またエペソ六・一四には「義の胸当て」という表現があります。ここに、私たちの霊的存在にとってまさに不可欠なものが含まれていることがわかります――それは「義の胸当て」です。それは心のための覆いです。しかし、心の覆いとはいかなる意味でしょう?
一つか二つの節を見ることにしましょう。そうすれば、その意味がすぐに分かります。ヘブル人への手紙の中で、それが別の言葉で非常に明快に説明されています。「…それは現在の時に対する比喩です。それにしたがって、供え物といけにえの両方がささげられるのですが、それらは良心について言うと、礼拝する者を完全にすることができません。(中略)まして、キリストが永遠の霊を通して、傷のない御自身を神にささげられたその血は、なおさらあなたたちの良心を清めて、死んだわざから離れさせ、生ける神に仕えるようにさせないでしょうか?」(ヘブ九・九、一四)。
それは良心の問題です。良心はまさに心の中にあります。良心の咎めにより、あなたは心の中で気まずく感じます。この良心の咎めをあなたはどのように取り扱うのでしょう?ああ、これは何という御言葉か!この御言葉を再び見てみましょう、「……それらは良心について言うと、礼拝する者を完全にすることができません」。「良心について言うと」!これを固持して下さい。良心について完全にされること。これが目下の問題であり、神が求めておられるものです。さてこの御言葉は、象徴にすぎないいけにえや供え物について、それらはこれを決して実現できなかったが、「永遠の霊を通して傷のない御自身を神にささげられたキリストの血」は良心を清める、と述べています。これが良心を完全にすることです。キリストの血はこれをどのように実現するのでしょう?義はこの血の中にあります。この血は主イエスの不朽の性質です。不朽!私はこの言葉を思いめぐらすのが常に好きです。それは朽ちていないだけでなく、朽ちることのない性質です。朽ちることがありえず、腐敗の力が及ばない性質です。「あなたたちの中の誰が私を罪のゆえに訴えるのか」。かつてこのようにこの世に挑めた人が誰かいたでしょうか?「あなたは私の魂を地獄に捨ておかれず、あなたの聖なる者に腐敗を見させられません」(詩一六・一〇)。無理です!これに次の御言葉が続きます。「神はこの御方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。彼が死の中に捕らえられていることはありえないからです。ダビデは彼について言っています(中略)『あなたは私の魂を地獄に捨ておかず、あなたの聖なる者に腐敗を見させられません』」(使二・二四、二七)。死は彼に対して何の力もありませんでした。なぜなら、そこには何の腐敗もなかったからです。不朽性は死の力を滅ぼします。
今や、イエスの血には神御自身の義の価値があります。そして、サタンはこの血に反対します。なぜなら、この血は義だからです。この貴い血を取得すること、信仰によってこの神の義を取得することは、サタンの力をすべて滅ぼします。「彼らはその血のゆえに彼に打ち勝った」。もしこの言葉を変えたければ、変えても構いません。この変更はただ一つの面に関してです。この血はすべてを含んでいますが、当面の目的のためにこの言葉を変更して、「彼らは信仰から発する義のゆえに打ち勝った」と述べても構いません。これが彼らの証しの言葉であり、良心自体を覆って良心を守る胸当てです。訴える者に対して、私たちの良心をどのように守ればいいのでしょう?訴える者の唯一の目的は、どうにかして私たち自身の良心を再び罪定めの下にもたらして、私たちの心に罪定めを受け入れさせることです。私たちはこれにどう対応すればいいのでしょう?これに対して自分をどう守ればいいのでしょう?義の胸当て、彼の義、彼の不朽の性質によってです。それは私たちのためであり、神の御前においてであり、信仰によります。
このような言葉の必要性を私は大いに確信していることが、あなたにはわかるでしょう。これは初歩的な福音である、とあなたは思うかもしれません。そうなのですが、これはそれ以上のものです。サタンは私たちを消耗させようとすること、この方面で私たちを消耗させようとすることが、先に進むにつれて分かるようになります。私たち自身の無価値さ、私たち自身の邪悪さ、私たち自身の罪深さ、私たち自身の恐ろしさ、私たちが願っていないし又そうあってはならない私たちのありさま、私たちが願っており又そうあるべきなのにそうではない私たちのありさまを、サタンは私たちに対して糾弾します。この根拠に基づいて働くことをサタンは決してやめようとしません。「サタンと戦うこと、敵を対処すること、彼に対する勝利についての言葉を用いよう」という考えは言うまでもなく、もしそのような考えを一つでも抱いたことがあるなら、この戦いはこの方面のものであることを思い出して下さい。これは客観的な戦いではありません。そのような客観的な方法で、出て行って敵にあたることはできません。この戦いをあなたは自分自身の心の内に感じます。カルバリの勝利やそのような類のあらゆることに関して、非常に大胆な言葉を使える人々でも、「義による勝利」というこの問題では、常にサタンのおもちゃ、歩兵にすぎないかもしれません。この問題では、彼らは完全に打ち負かされるかもしれません。さて、ここで血の証しが登場します。あなたも私もイエスの血を尊びます。その尊さは、それがサタンの権威と力を終わらせることにあります。この血を通して、私たちは王座に達します。一瞬たりとも、これを物質的・客観的なものにしないで下さい。基本的にこれは霊的であり、霊的優位性、霊的・道徳的統治であることを認めて下さい。しかし、もし私たちがいま経験的にこの中に入らないなら、いつか諸時代の終結時になっても、私たちにはあまり望みはありません。私たちは今これを知る必要があります。これは彼と共に統治するための基礎です。「豊かな恵みと義の賜物とを受ける人々は、命の中で統治します……」。これは霊的・道徳的意味で、敵に対していま王座に着くことです。ああ、主がこの言葉を私たちの心に銘記して下さいますように!
兄弟たちよ、もし私たちの心が私たちを罪に定めないなら、私たちの立場は何と強くなり、敵の立場は何と弱くなることでしょう!これはどのように実現されるのでしょうか?「永遠の霊を通して傷のない御自身を神にささげられたキリストの血は、あなたたちの良心を清めます……」。「もし私たちの心が私たちを罪に定めないなら……」。ですから、ローマ八章がローマ六章に続きます。ローマ六章の十字架は、不義の根拠をすべて清め、除き去り、「もはや罪定めはない」ようにします。
(b)義の原則によって治められた生活
私たちの心について、私たちの霊なる人のまさに命を神の義によって覆ってもらうことについて述べる時、立場に加えて、義の原則によって治められた生活がなければなりません。ですから、ヘブル人への手紙の第一章で、詩篇から取られた言葉が主イエスに適用されているのを、私たちは見い出します。「あなたは義を愛し、不義を憎まれた。それゆえ神、あなたの神は、あなたのともがらにまさって喜びの油をあなたに注がれた」。あなたはその直前の言葉に注意したでしょうか?「御子について彼はこう述べている。『ああ、神よ、あなたの御座は永遠です。義の杖があなたの王国の杖です』」。これは心の状態です。義の胸当て!この真鍮は不義に対する憎しみの強力な力、義に対する愛の力となり、生活を特徴づけるものとならなければなりません。実際的義というこの問題について、私たちは関心を持って実践しなければなりません。私たちの立場は栄光であり、信仰によって私たちが得ている状態は栄光の状態です。しかし、義なる者である御方は、生涯にわたって、義なる関心によって支配されていました。そしてこの御方について「あなたは義を愛した」と述べられています。
今はこれ以上進まず、これが勝利者を構成しているものであることを、あなたたちに思い出してもらうだけにします。この言葉がまず最初に適用されたのはエペソに対してでした。エペソの問題は何だったのでしょう?「あなたは初めの愛を離れました。どこから落ちたのか思い出しなさい」。この原則がわかります。落ちた!あの愛、あの初めの愛は、義を愛する愛であり不法を憎む憎しみです。この心の問題がどういうわけか影響を受けて損なわれました。そしてこれによりエペソ人たちは霊的高みから、彼らの間に示されていた天上から落ちて粉々になりました。サタンはこの状態を狙っています。もしこれが得られるなら、サタンは私たちから御座を騙し取ったことになります。私たちを天から追い出したことになります。そして、これが彼が狙っていることです。なぜなら、この状態の結果、血のゆえに勝利する結果は、「天にはもはや彼の居場所がなくなる」ことだからです。この龍と、この龍のものである者たちはみな、投げ落とされます!どのようにしてでしょう?ああ、客観的戦いによってではなく、信仰から発した義というこの地位に人々が完全に達したからです。あらゆる種類の敵意と反対にもかかわらず、この赤い龍のあらゆる激怒にもかかわらず、彼らはそこに達しました。彼らはそこに立ち、その地位を獲得し、御座に達しました。これに対して敵は反対します。敵はどのように自分の狙いを遂げるのでしょう?敵はこの血の価値を脇にやろうとします。この血の力強い証しを教会から取り去るために何でもしようとします。彼は何とかして聖徒たちを、信仰によって彼らのものである完全に義なる地位とは別の地位に着かせようとします。この龍が激怒するその日、主は私たちを救い、私たちをこの地位に保って下さいます。これはロマンチックなことではありません。これは私たちが隠れ場にいる時に臨みます。私たちが孤独な時に臨みます。私たちが疲れている時、消耗している時、具合が良くない時、落胆するような状況の時に、これは私たちを探り出します。敵はあらゆる種類の写真を持ってきて、それらを示し、「この写真やあの写真を見て、われわれの心臓を取り出してみろ」と言います。そして次に、「ほら、お前が間違っていることがわかっただろう!」と言います。そして私たちは「そうに違いない。私たちは間違っているに違いない。さもなければ、こんなことがあるはずがない!」と言い始めてしまいます。敵は狡猾に、残忍さをもって働きます。この龍は弱い者を踏みつけ、か弱い者に対して何の憐みもありません。龍の何たる残酷さ!ああ、あの活き活きとした信仰、神の御子の信仰を得なさい!主が私たちを忠信に保って下さいますように!