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キリストとの合一による御座の生活

Throne Life in Union with Christ

第二回 御座の生活の力

Chapter 2 - The Power in Throne-Life

ジョージ・B・ペック
George B. Peck


このメッセージは1926年に出版された「勝利者」誌の第二号に掲載されたものです。

御座の力の取得について直接考える前に、それに関連する諸々の特権について一言述べても構わないだろう。

一.御座の力に関連する諸々の特権

御座の生活に伴う諸々の特権の及ぶ範囲の中に、信者のために備えられているあらゆる霊的祝福も含まれる。エペソ一・三は、われわれは「天上においてキリストにあってあらゆる霊的祝福をもって祝福されて」いる、とわれわれに告げる。この力強い声明は、われわれは高く上げられたキリストと一つである、という神聖な観念に明らかに基づく。

われわれの現在の祝福は霊的なものである、と述べられている。それは聖霊によって啓示され、伝達されるからである。また、それに順応して理解するのは内なる霊の人、「心の中の隠れた人」であり、それは生来の才能や肉的満足から懸け離れているからである。われわれはあらゆる霊的祝福を授かっているが、この事実の中に、われわれは霊的恵みを享受して霊の諸々の賜物を行使できる、ということも含まれる。なぜならそれらは、われわれの高く上げられた主の御手から、聖霊を通して伝達されるからである。

それゆえ、われわれが先に進んで御座の力の特権と、それについて理解する重要性とに注意を集中するとき、御座の諸々の恵みの必要性を軽んじるつもりはない。恵みは光輪のように御座を囲まなければならない。パトモスの先見者が御座を見つめることを許された時、彼は剥き出しの御座の力を見たのではなかった。御座は、言わば、憐みの象徴である虹の中に包まれていたのである。

二.御座の力の所在

われわれの貴い霊的祝福の一つである御座の力には、二つの場所がある。それは天上にあるが、そこにあるのはただキリストにあってである。「天上」もしくは文字通りには「天」という句が聖書の中に見つかるのは、ただエペソ人への手紙だけである。しかも五回だけである。すなわち、一・三、二〇、二・六、三・一〇、六・一二欄外である。「天上」という言葉の性格や広大さについて正確な見解を得たいなら、これらの節を比較することによって得られる複合的定義に注意しなければならない。

最初の二つの御言葉から、キリストの現在の座である御父の座は天上の領域の中に含まれていることがわかる。

一番目と三番目の節を一緒にすると、この同じ地位がわれわれに割り当てられていることがわかる。われわれはすでに王座に着いている居住者である。また、そこはわれわれが霊的祝福を受ける場所である。これはわれわれの御父の御旨であり、キリストとのわれわれの交わりを通して実現される。それゆえ、まことにわれわれの「国籍は天に」ある(ピリ三・二〇、改定訳)。

四番目と五番目の節から、様々な階級や地位にある御使いの霊の群衆――良い御使いと悪い御使いの両方――が天上に住んでいること、あるいはそこに出入りしていることがわかる。彼らはわれわれの霊的経験の観察者である。悪い御使いたちは、信仰の戦いに従事するようわれわれを強いることによって、われわれの前進を妨げることを許されている。この見解は最初、まったくわれわれを落胆させるもののように思われるし、天上でわれわれに割り当てられている霊的祝福と矛盾するように思われる。なぜなら、われわれの中の誰が、これらの上位にある悪の存在と戦って成功を収めることを期待できるだろう?

しかし、二番目の節とその文脈とを組み合わせることにより、天上にあるキリストの権威の座は無限に至高であることがわかる。この座は、これらの戦争中の主権者たちや権力者たちの知恵と力を全て合わせたものよりも「遥かに高い」。そして必要とあらば、キリストは全くわれわれのために、彼らに対してその権威を行使して下さる。この考察から、次のことがわかる。すなわち、われわれが持っている御座の特権は、ただ天上にあるだけではないのである。そこには邪悪な御使いたちもいて、できるものなら、われわれがこれらの特権を享受するのを妨げようと悪意を抱いている。しかし、次のこともわかる。すなわち、われわれの特権は、さらに先のいっそう高い場所にあるのである。つまり、イエス・キリストの中にあるのである。したがって、悪の及ばない所にあって安全なのである。われわれに割り当てられている住まいは、天上の最も高い領域の中にあり、悪霊どもに許されている活動範囲の彼方にある。この住まいに向かって、それゆえ信仰は大胆かつ喜んで飛翔するべきである。

三.御座の力の性質と大きさ

御座の生活におけるわれわれの力の性格と大きさは、栄光を受けた神・人としてのキリストの現在の力と一致する。なぜなら、われわれの御座の力は、われわれが天上で彼と共に座に着いている時に、われわれのために行使されることが保証されているキリストの力に他ならないからである。それゆえ、要するに、これはキリストの現在の力の性質と大きさを調べることである。聖書から明らかなように、それは全能の力だが、それを現すことをキリストは自制しておられる。キリストは御父の座に着いておられるが、その力を完全に現わすことを差し控えておられる。現在のいかなる顕現も、彼が御自身の御座に座して、千年期に御業をなさる時に現わされるものの前味わいにすぎない……。彼が死者の間からよみがえられた時、「天においても地においても、いっさいの権威が私に与えられている」と彼は言うことができた。彼はこのような力を持っておられ、今や万物に対するかしらとして教会に与えられている。教会は彼のからだと見なされており、成長の過程の中にある。そして、彼は神意にしたがってわれわれのために御力を行使して下さる。その一方で彼は、より完全に即位するための約束の時、彼の敵どもが目に見える形で彼の足台とされる時を待っておられる(ヘブ一・一三、一〇・一二、一三)。

さらに彼は、われわれを彼の現在の栄光に与らせておられるのと同じように、彼が冠を受けるかの日のさらに豊かな栄光を彼の民の中の忠信な者と分かち合うことを約束しておられる。「勝利を得る者を、私と共に私の座に着かせよう。それは、私が勝利を得て、私の父と共に父の座に着いたのと同じである」(黙三・二一)。「彼に私は諸国民に対する権威を与える。彼は鉄の杖で彼らを治める。陶器師の器のように彼らは粉々に砕かれる。それは私が私の父から受けた権威と同じである」(黙二・二六、二七)。「聖徒たちがこの世を裁くようになることを、あなたたちは知らないのですか?(中略)私たちが御使いたちを裁くようになることを、あなたたちは知らないのですか?」(一コリ六・二、三)。千年期の開始時とその期間の間、このキリスト――この御方は油注がれた祭司・王、来るべき「完全な人」であり、われわれは今、イエスをかしらとするそのからだの肢体として、その完全な身の丈へと成長しつつある――この「キリスト」(一コリ一二・二)はイエスをかしらとし、教会をそのそのからだとしている――は、目に見える形で結び合わされ、万物の支配者として現わされる。今はまだ、この完全な人の合一は霊的なものにすぎない。実際的な生き生きとしたものではあるが、奥義的なものにすぎない。今は、われわれの命はキリストと共に神の中に隠されている。しかし、われわれの命であるキリストが現れる時、それはもはや世人の目から見えないように神の中に隠されているものではなくなり、われわれもまた「栄光のうちに」彼と共に現れるのである(コロ三・三、四)。われわれはまた次のことも知っている。われわれがこのように御子の似姿を帯びて「神の子ら」として公に現わされる時、自然界もまた喜ぶのである。そして、われわれのせいで負わされている呪いの下における現在の呻きと産みの苦しみから解放されるのである(ロマ八・一〜二二)。

こうして、彼が将来占める御座と、彼が今占めておられる御座の両方を、主はわれわれと分かち合って下さる。彼の将来の御座の上に、われわれは個人的に彼と共に着くであろう。彼の現在の御座の上に――神の御旨と御思いによると――われわれは代表として彼と共に着いている。全般的にわれわれは彼から生まれている。そして霊的に、われわれは内住する御霊を通して、彼との意識的な交わりの中にある。

相互的に且つ本質的に、今は目に見えないが、キリストは教会の豊満であり(エペ三・一九)、教会はキリストの豊満である(エペ一・二三)。今はまだ、彼のからだのためのこのかしらの力、彼のからだを通してあらわされるこのかしらの力は、やがて現わされる完全で自由な力の前味わいにすぎない。それにもかかわらず、教会は信仰によって、現在、この約束をほぼ無限に行使することができる。「あなたたちが私の中に住んでおり、私の言葉があなたたちの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい。そうすれば、それはあなたたちにかなえられます」。「あなたたちが信じて祈り求めるものは何でも、あなたたちは受けます」。「もしあなたたちうちの二人が地上で合意して求めるなら、天におられる私の父は彼らのために何でもかなえて下さいます」。

このように極めて偉大な貴い約束――その気前良さにわれわれの信仰は常に圧倒されてしまう――の可能性と確実性の根拠は、エペソ一・一九〜二三が与えている保証である。この御言葉によると、キリストが死者――人の最も低いどん底の地位――の間からよみがえらされた時に彼の内に働いた神の力、そして、次にキリストを全能者の高みにまで引き上げた神の力は、教会のかしらである彼に対して働いたのであり、それゆえ、それと全く同じ大きさの神の力が、今、彼を通して、われわれに対して働いているのである。

さらに、その可能性と確実性のこの計り知れない根拠は、次の事実によっても示されている。すなわち、キリストが肉体において誘惑を受けられた日々のあいだ、勝利する力としてキリストの内に住まわれた聖霊、また、キリストの現在の高揚の実際的原因である聖霊は、それ以降、御座の高みから下って教会の内に住み、われわれが彼の御名にあって勝利できるようにして下さっているのである。このように聖霊は、現在われわれがキリストと一体化されていることの決定的印であり、今や御座に着いたキリストの霊としてわれわれの内に住み、われわれを力づけて下さっているのである。

四.御座の力を行使する時

御座の力を行使することが必要な時は、天上に出入りしている主権者たち、権力者たち、暗闇の世の支配者たち、邪悪な霊の軍勢が継続的に重大な襲撃をしかける時である……。彼らのこの試みの狙いは、われわれに与えられている、彼らに優る力と栄光の地位を忘れるよう、われわれを誘惑することに集中している。彼らはわれわれを平穏な御座の高みから、それよりも低い天上の領域に引きずり降ろそうとしている。その領域に彼らは出入りしており、そこではわれわれに対して有利に戦うことができるからである。それゆえ、エペソ六章で使徒パウロは、「主の中で、またその力の中で強くなりなさい」とわれわれに命じている。また、神の全ての武具を身に付けなさい、と命じている。腰には真理の帯を締め、義の胸当てを身にまとい、救いの兜をかぶり、足には平和の福音の備えを履き、信仰の盾を持ち、御霊の剣をふるえ、と命じている。しかし、この勧めの前にある「主の中で、またその力の中で強くなりなさい」という忠告に留意しない限り、これらの武具はみな、この熾烈な戦いの中では、われわれにとって何の役にも立たない。つまり、われわれの御座の力をわれわれが直接行使しない限り、何の役にも立たないのである。さもないと、たとえわれわれが自分の武具を、それらに関するわれわれの教理的・経験的知識により、必要に応じて立派に装備したとしても、攻守いずれかの時にいつか、悲しむべきことにわれわれは最悪の結果を迎えるだろう。

この戦いにおける失敗の二つの原因を、しばしばクリスチャンの経験は告げる。敵を無視することと、敵を侮ることである。悲しむべきことに、ペテロはこの両方の原因を経験した。それで彼は、「慎んで、目を覚ましていなさい。あなたたちの敵である悪魔が、食い尽くすものを求めて歩き回っているからです。悪魔に抵抗し、信仰の中に堅く立ちなさい」と記して、われわれに警告している。パウロも同じように、敵に対して用心し続ける必要性を感じた。というのは、彼はコリント人たちに、「それは私たちがサタンに付け込まれないためです。私たちは彼の策略を知らないわけではないからです」と書き送っているからである。

無知は安全と同義語ではない。また、守るときに敵の力を無視することは、襲撃の時を侮ることである。「自分たちは霊的に進んでいるので、誘惑に陥らないために目を覚まして祈る必要はない」と考えている人もまた、愚かで向こう見ずだと判断せざるをえない。実に、極めて狡猾な巧妙さに支えられた極めて熾烈な悪魔的攻撃を、サタンは最も霊的な心の持ち主のために用意しているのである。そして、最も見識があって霊的な信者たちの一人が、「自分は誘惑の領域の向こうに達しました。少なくとも、屈服する恐れのある領域の向こうに達しました」とあえて述べる時、それは最も危険なサタンの攻撃の一つが成功を収めたことを示すものとして、われわれに衝撃を与える。いったいこのような欺きは、光の天使を装ったサタンが放つリン光の輝きによって、彼らの目が盲目にされたことの証拠以外の何だというのか?敵はただ、彼らが親しんできた衣や言葉を捨てたにすぎない。それだけのことである!彼はそれまでと同じ、敵意に満ちた、嘘つきの敵である。そして今や、彼に対してさらに守りを固めなければならない。彼の手腕が最大に発揮されるのは、人々が自分のことを侮ったり忘れたりするように仕向けることに成功する時である。理論や実践における極めて致命的な逸脱や誤謬の幾つかにより、過去、教会は大きな損害を受けてきたし、その影響をキリスト教は依然として被っている。これらの逸脱や誤謬の発端は、ある人々の推論や思惑であった。彼らは誠実であり、霊的だったのだが、もっともらしい手段により、敵に誤導されたのである。そして、今日の宗教経験の潮流に流されている最も悲しむべき難破者の中には、申し分のない動機を持ちながら、誤りを教える狂信的な教師たちがいる。

しかしもしかすると、われわれに危機が臨むのは、敵について無知であるためや、敵を侮っているためではなく、キリストと共にわれわれが占めている、敵に優る天的地位に満足して一種の受動性に陥っているせいかもしれない。しかしわれわれは、キリストと共に天上で占めている自分の地位だけでなく、サタンとの戦いの時に、自分の信仰を実際に活用してキリストに協力する必要があることも理解しなければならない。敵の襲撃は、キリストがわれわれを救って下さる好機であり、われわれが信仰を活用して協力することにより、彼はわれわれを救って下さる。われわれの執り成しは、キリストの執り成しに力を与えるので、キリストの執り成しを通して勝利する。かしらはからだの肢体たちとの提携を求めておられる。かしらが効率的に働くには、肢体たちが協力して効率的に働くことが必要である。

そして、これらのことが聖書の中に型としてすべて描写されていることがわかる。アロンとフルがアマレク人との戦いのあいだモーセと共に丘に登っていた時のことである。これは、キリストと共に天上にある信者の絵図であり、信者は戦闘中の主権者たちや権力者たちよりも優位にある。この三人が共に丘の頂にいるだけでは勝利をもたらすのに十分ではなく、一つに結合された頭と体として、全能の力の象徴である杖を掲げる必要があったことに注意せよ。杖が掲げられた時だけ、イスラエルは優勢になることができた。そして、アロンとフルの手がモーセの手を支えた時だけ、杖は掲げられ続けた。杖は力を象徴し、掲げられた杖は力の行使を象徴していた。アロンとフルがモーセの疲れた手を支えた時、彼らの手は実質的にモーセの手になった。これにより、モーセは杖を掲げるという目的を果たせたのである。アロンとフルはその時、言わば、モーセの体の肢体、モーセの肉と骨の肢体になったのである。

そして同じようにキリストの力もわれわれの窮地の際、われわれが信仰を行使する時に行使されるのである。われわれは天上のキリストの御前における自分たちの地位だけでなく、そこでキリストのからだの肢体として共に働く自分たちの職務をも自覚しつつ、信仰を行使する。いかなる有限の力も、王座に着いたわれわれのキリストの手の中にある高く上げられた杖に抵抗することはできない。そして、われわれの信仰の手が御手をしっかりと握る時、この杖はわれわれのために掲げられ続ける。その時、その素晴らしい結果として、われわれは「来るべき時代の力」を前味わいする。また、かしらとからだが公然と結合される時――その時、このような出来事は今は驚くべき並外れたものだが、自然で当たり前のものになるだろう――の保証を得る。

アロンとフルと共に丘の上にいるモーセの光景の経綸上の意義が、どれほど顕著なものであるのかに注意せよ。この光景は、キリストとそのからだである教会の現在の関係と、来るべき時代にキリストが保持される関係との違いを示している。モーセはしばらくの間ひとりで杖を掲げていたが、その後、疲れて杖を下した。このモーセの行動は、言わば、神・人なる御方が職務上孤立していることの絵図である。栄光を受けたかしらとして、からだから離れているのである。その結果、諸々の制約があり、言わば、行政上数々の不都合があるのである。彼はこれらの制約や不都合を現在を被っておられ、御自分の民の協調的な配慮と信仰とを切に必要としておられる。次に、最終的にアロンとフルが団結してモーセの必要に応じ、モーセの手を支えて持ち上げた。これは信者の一致した信仰の力を示すものであり、来るべき時代の諸々の特権を前味わいすることに成功したためである。それは、栄光を受けたかしらとからだとの間に示されることになる将来の合一の霊的保証を確保したことによるのであり、また、主権者たちや権力者たちに対してかしらとからだが共に持つことになる主権と裁きの霊的保証を確保したことによる。したがって、信仰の領域と力に関するこの壮大な絵図に照らして見る時――信仰は「主を助けて強い者を攻め」(士五・二三)ること、「主に結合される者は一つ霊である」(一コリ六・一七)ことを証明する――どうしてわれわれはこれ以上、このように極めて偉大な尊い諸々の約束が信仰の力にかかっていることに驚いていられるだろう?不信仰のゆえに、これらの約束にたじろぎ続けていられるだろう?