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キリストとの合一による御座の生活

Throne Life in Union with Christ

第五回 天上における諸々の危機のさらなる面

Chapter 5 - Further aspects of perils in the Heavenlies

ジョージ・B・ペック
George B. Peck


このメッセージは1927年に出版された「勝利者」誌の第二号に掲載されたものです。

敵の策略は多様であり、人のいかなる知恵による分析をも超えているが、ヨシュア記の中に与えられている、天上における信者の経験の予型的概要に再び向かうなら、信者を捕えるためにサタンが用いる主な方法の少なくとも三つが見い出される――成功の罠、迷いの罠、満足の罠である。この記録に向かって、ここに挙げたこれらの方法を追うことにしよう。

一.成功の罠

これに関する絵図はアイにおけるイスラエル人の敗北の中に見い出される(ヨシ七、八章)。この罠がどのように用意されたのかを見い出すために、われわれはエリコ征服という前の出来事に戻る必要がある。その計略の秘訣は、イスラエル人と同盟を組むことによって彼らを打ち負かそうとするサタンの狡猾さにある。すなわち、神の計画を採用することによって神の御旨を挫折させようとする彼の試みにある。

カナン人は、あらゆる点で、サタン自身の心にかなう民だった。サタンは彼らを徹底的に堕落させたので、彼らは自分たちの偶像を通して、奴隷のように彼とその悪鬼どもを礼拝した。それゆえ彼は疑いなく、神の選びの民の侵入によって彼らが住まいを追われるのを、極度に嫌がっていた。しかしそれを十分承知しつつ、神の御旨により、今やその地がその住人たちを吐き出す時がやって来た。サタンのいかなる力もそれを阻止できなかった。彼は自分の働きの基盤を移すという必死の決意に至った。言わば、自分自身で出向いて行って、侵略軍を助けることにしたのである。それによって彼らを何らかの違反の中に巻き込んで、そうして神の恵みから彼らを分離し、できることなら連勝の圧倒的勢いを弱めるためである。それゆえサタンは、この不実な意図を抱きつつ、遥か後にユダの中に入ったようにアカンの中に入った。そしてサタンは、イスラエルの軍隊に属するアカンという姿で、その他の者たちと同じように恭しく厳粛にエリコの城壁の周囲を行進したのである。

しかし、その都が奪い取られて殺戮が始まるやいなや――これを阻止する力はサタンにはなかった――サタンが狡猾にアカンを誘惑するのがわかる。「呪われた物」を取り、バビロンの衣と二百シケルの銀と金のくさびを隠すよう、サタンはアカンを誘惑した。それにより、全国民を団体的汚れと、その結果生じる裁きの中に巻き込むためであった。その裁きがアイで彼らの上に降りかかったのである。

エリコ崩壊のときに自分たちのために示された素晴らしい神の力に有頂天になって、彼らは「神の力は引き続き無条件で示される」と思い込んだ。新たな出来事に適した特別な神の知恵を求めることを無視し、また信仰の中に自信を混入させて、彼らは不注意に突進して敗北した。しかし彼らの敗北が著しかったように、神の回復も著しかった。というのは、彼らが主に尋ね求めて、神の命令により、自己吟味を始め、自分たちの無知の罪を見い出すやいなや、それに対する神の裁きに服してそれを取り除いたところ、直ちに彼らは再び勝利したからである。

さらに、彼らは自分たちの痛ましい経験から一つの教訓を引き出したように思われる。その教訓は、彼らのその後のすべての行軍で、彼らの益となった。そして私たち自身も、霊のカナン人と戦争中の霊のイスラエル人として、気をつけた方がいいだろう。その教訓とはこれである。すなわち、悪を征服することにおける神の御旨は常に同じだが、信仰の戦いにおける神の戦術は変わるのである。アイ陥落の直後、国民はエバルとゲリジムに集まったが、それは素晴らしいものだった。彼らが集まったのは、祝福と懲らしめの可能性について、再び知るようになるためだった。祝福と懲らしめは、従順の道の両側の垣根である。この集まりから、彼らがいかに徹底的に次のことを確信するようになったのかがわかる。すなわち、力はただ神にのみ属すること、そして、その力が自分たちのために示されるのは条件付きであって彼らの忠実さに基づくことを、彼らは確信するようになったのである。

そのさらなる適用は明らかである。多くの場合、信者がキリストにある自分の天的特権に意識的にあずかるようになった直後に、サタンは信者を捕らえることに成功する。それは何らかの著しい勝利の経験を通してであり、信者が思い込みと不注意さという罪の中に陥るような方法による。悲しげに信者は学ぶ。過去の経験に頼ってそれを力と安全の源と見なすなら、将来成功を収めることは決してないのである。また、たとえそのような信頼が全く意図せざるものであり、無意識のうちになされているものだとしても、禍を招かざるをえないのである。なぜなら、昨今の勝利の素晴らしさにより記憶と想像力を魅了される一方で、敵の死に物狂いの力が過小評価されてしまうからである。それで信者は、神の御名の中で新たな戦いに出かけて行くのだが、うっかり自分の指導力にある程度信頼してしまう。そして圧倒的敗北と、それに続く恥と驚きの中、信者は「お前の神はどこにいる?」という敵の嘲りを聞く羽目になるのである。しかし、教訓に注意を払い、自己吟味を始めるとき、信者は新たな感謝と共に次のことを学ぶ。すなわち、裁きが確かに神に属するように、憐みもまたそうなのである。そして喜びに満ちた穏やかさの中で信者は、「あなたには赦しがあります。それはあなたが畏れられるためです!」と叫ぶ。しかしどの段階でも、われわれは裁かれた敵に警戒しなければならない。敵は予め計略を巡らして、自分では打ち負かせない善と提携し、こうして秘密裏にそれを悪用しようとするのである。

二.迷いの罠

これは、ギベオンの住人が欺きによってイスラエルと結んだ同盟の中に、典型的に示されている。他のカナン人のように、ギベオン人は侵略者たちの進攻に恐れおののいた。しかし、他とは違って、彼らには武器に頼って虐殺から逃れる望みはなかった。それゆえ、彼らは生き延びる手段として政略と偽りに頼ることを決意した。そしてそれによって、イスラエル人と同盟を確立すること、また他のカナン人の怒りからの保護を得ることにも成功したのである。ギベオンからの変装した大使たちが、ある日、ヨシュアとその戦士たちの前に現れた。彼らはぼろぼろに破れた衣をまとい、すりきれた靴を履いていた。そして、破れてつぎはぎがしてある古い革製の葡萄酒の袋と、乾燥してかびが生えているパンの塊を携えていた。これはみな、彼らがカナンの境界の遥か彼方から長旅をしてきたかのように見せるためだった。彼らは、噂でイスラエル人の遠征について聞いた民、したがって彼らと盟約を結ぶことを願っている民の代表であるかのように装った。イスラエルの子らがどのように外見によって騙されたのか、そしてどのように、迷いと疑いの中、自分たちの間で相談して議論したものの、解決を求めてこの困難を神のもとに持って行くことに失敗したのか、私たちは知っている。その結果彼らは、友好的な同盟の印として、その古い糧食にあずかるという拘束力を持つ致命的行為に導かれたのである。

これはみな、サタンと接近戦をしている今日の聖徒たちによってしばしば示される知恵の弱さに関する、嘆かわしい例証である。勇気に欠けているわけでも、忠誠心に欠けているわけでもないかもしれないが、悲しむべきことに、霊的識別力に欠けているのである。そして、この特別な問題でしくじったのは、十分な知恵を得ることができなかったり、用いることができなかったからではない。ただ、この緊急事態の襲来の中、それについて神に尋ねる時間を取らなかったからなのである。

敵と妥協して、曖昧ではあるが原則上本質的な点で譲歩することによって、このように自分の霊的高潔さから堕落してしまう不利益に関するこのような数々の事例には、次のようなほとんど拭い難い印象が常に伴っている。すなわち、疑いか確信か、希望か恐れかのどちらかを、その場で決めなければならないかのような印象である。敵の大使たちは、言わば、理屈をまくしたて、とめどなく話し、あらゆる瞬間を活用してわれわれの目の前に彼らの古い袋、ぼろぼろの衣、すりきれた靴、かびの生えたパンを繰り出す。それは、われわれが祈り深く熟考するための時間を見い出す前に、われわれの注意を引き付け、われわれの決断の機先を制するためである。このようにして、気づかぬうちに、われわれは彼らの糧食を味わうよう誘われる。その結果、われわれは手遅れになってから気付くのである。そうすることによって自分がまたもや善と悪を知る知識の禁断の木から実をもぎ取ってしまったことに、そして、サタンと妥協して神が呪われたものを惜しむという罪の中に自分が巻き込まれてしまったことに気付くのである。

三.満足の罠

これは後の時代のイスラエル人の歴史の中に示されている。彼らは自分たちが勝利者であること、そして自分たちの敵が被征服者であることに、あまりにも慣れきってしまった。そのため、彼らは気晴らしを見つけ、絶え間ない戦いをやめて、神の命令に従って良き地を部族間で分配した。しかしこうしたすべてのことにより――それは信仰の壮大な行為であり、神に是認されていたのだが――彼らは油断して停滞と優柔不断という罪の中に陥った。霊の中で始まったのに、肉の中で終わったのである。というのは、所有と繁栄の意識によって彼らが征服されてしまったのを、われわれは見い出すからである。彼らは完全な所有を実現することよりも、その権利で満足してしまった。神の諸々の約束をことごとく実現するために出て行かないことに対する、彼らの現状に甘んじた言い訳は、恥ずべき子供じみたものだった。「カナン人は」と彼らは言った。「鉄の戦車を持っており、山々には要塞があります。彼らはこの地にとどまるでしょう!」。それでイスラエルの子らは間もなく、敵の存在に耐えて我慢すること、その人間的必然の中で黙従することを学んだ。根絶する代わりに、贈り物を受け取ることによってである。ヨシュアの英雄的抗議にもかかわらず、これがすべて起きたのである。彼は叫んだ、「あなたたちはいつまでぐずぐずしていて、あなたたちの父祖の神である主があなたたちに与えて下さった地を所有しに行かないのか?」。彼の預言的言葉がどんな悲惨な成就を迎えたのかは、良く知られている。彼らが大目に見た敵たちは彼らの脇腹のトゲとなり、彼らを背教に招き、神の懲罰を招いたのである。

上述したことはみな、クリスチャン生活と奉仕において最も進んでいる人々の何人かの事例に、霊的に適用することができるのは明らかである。そのような人々は特に満足の罠に陥りやすい。神によって定められた分野での成功に長く慣れ親しんだ後、彼らは徐々に、無意識ではあるが、奉仕の小さな点に敵が存在するのを許すことに慣れてしまう。部分的征服と神のための自分の働きで一定の成功を収めたことで、自己満足がつのってゆく。そして彼らは、四方を征服する試みに関して、また継続的勝利の代価である永遠の用心を維持することに関して、目に見えて怠慢かつ怠惰になる。彼らは自分自身の弱さや生来の欠点により、霊的カナン人、「主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち」が、ここかしこに、避難用の要塞を保つのを許す。彼らは勇敢に立ち向かう代わりに、敵の鉄の戦車――それを敵は必死の抵抗のために取っておいたのである――を避け、敵の力を抑えることで自分の良心を満足させる。これはすべて嘆かわしいことに、多くのクリスチャン戦士たちが遥かに多く経験しているのではないだろうか?神は彼らに奉仕と報いという部族的所有を割り当てて、彼ら自身も表向きはその中に入ったのだが、それをすべて敵から奪うことに失敗しているのである。そして今日のイスラエルは、これらの霊的カナン人、暗闇の悪の勢力が、多くのラオデキヤ的方法、過ち、背教によって、何という脇腹のトゲになってしまったのかを、痛ましいほど分かっているのではないだろうか?

まとめると、この章の要点として、少なくとも二つの点を挙げることができる。第一に、クリスチャンが自分の敵――この世、肉、悪魔――から逃れることを目論むどの段階においても御座の生活の必要性は明らかである一方で、クリスチャンがそれらの敵の征服に取りかからない限り、御座の生活を完全に理解することはできないのである。第二に、征服を経験するにあたっては、その必要性が絶えずますます不可欠になって行くのである……。