神の諸々の祝福を受ける人が、実は無数にいる。憐みのゆえに、神は正しい者にも正しくない者にも雨を送られる。そして、罪人という穀物は、聖徒という麦と同じように素早く芽生える。これは神の御性質の一部である。
愛のこの現われはとても深遠なので、天使たちですら驚いて立ち尽し、それについて熟考せずにはいられない。もし人がこれらのことを当然のことのように思うなら、私はこう確信する。すなわち、彼らは他の霊的・肉体的賜物についても同じように思うだろう、と。
そこで神は信仰というこの手段を考案されたのである。信仰は、われわれの望んでいる事柄が現実となり、神が約束された事柄がわれわれの所有となる手段である。
一言で言うと、私はこう確信している。神癒というこの事柄においては、問題は執り成しにあるというよりは、むしろ受け取ることにあるのである。自分の心が清くない時でも、人は執り成すことができる。しかし、その心が神に対して正しいものにされない限り、受け取ることはできない。求め方を知っていたとしても、受け取り方を知らないかもしれない!信仰は勝利であることを、依然として見出していないのである。われわれの信仰――それは世に打ち勝つ勝利である。
贖われた神の子供たちに対してなされた諸々の約束に基づく信仰は、それがすでに買い取られているものに基づくことを考える時、強められる。
パウロはコリント人の教会に書き送るにあたって、主イエスの流された血と裂かれた体とを明確にはっきりと区別した。コリント人たちは主の晩餐を祝うことに関して重大な誤りの中にあった。彼らは疑いもなく過度に食べ飲みしていた。彼らは自分の飢えを満たすために食べ、自分の渇きをしずめるために飲んでいた。パウロは「あなたたちには食べ飲みするための家がないのですか?それとも、あなたちは神の教会を蔑んで、持たざる者を辱めるのですか」と告げて、彼らを恥じ入らせた。彼はまた、彼らは的を外している、と告げた。彼は彼らに「どうして主の食卓が設けられたのか、あなたたちは理解していない」と述べた。第一コリント一一・二四で彼は、イエスは「取って食べなさい。これはあなたたちのために裂かれる私の体です。私を覚えてこれを行いなさい」と仰せられた、と告げている。
この時まで、このパンについては全く述べられていなかった。彼はこの二つを一緒にして、「私を覚えてこれらを行いなさい」とは仰せられなかった。むしろ、彼はそれらを区別して分けられた。彼は「私を覚えてこれを行いなさい」と言われた。論理上、これには一つの意味しかありえない。体と血はそれぞれ別のことを意味していたのである。
第一コリント一一・二九〜三〇から、この裂かれた体の意味に関するパウロの立場がわかる。コリント人たちの中には弱くて病んでいる人もいれば眠った人もいる、と彼は告げた。これは、彼らがその時ではないのに死んだことを意味した。その理由は彼らが主のからだをわきまえなかったからである、と彼は強調して告げる。分かりやすい二十世紀の言葉で言うと、「コリントにある教会の構成員であるあなたたちの多くの体が病んでいて弱く、また、あなたたちの多くが死んだのは、イエス・キリストがあなたの病を負って下さったことをあなたたちが信じていないか、あるいは理解していないためです」。
この教会は、彼らの様々な指導者たちの美点に関して争い、キリストのからだを分ける分派の罪に耽っていた。そんなことをしている力があるなら、この教会はその力を主に近づくことに費やすべきだったのである。彼らは癒してもらえていただろう。しかし、彼らはこの真理を認めなかった。贖いのこの特権を用いていさえすれば、死んだ者の中には生きながらえた者もいただろう。
捕らわれの預言者であるイザヤは、望遠鏡を未来に向けて、イエスの贖いの御業に関する形而下の諸々の出来事を詳細に予言した。彼の苦難と死に関する霊的適用を彼は予見・予言した。彼はわれわれの咎のために打たれた、と彼は告げた。これは身代わりでなくて何だろう?彼はわれわれの諸々の違反のために傷つけられた、と彼は述べる。これは彼の贖いの御業の勝利的性質を述べたものである。彼がわれわれの平安のために懲らしめを受けた時、それは身代わりだった。それから彼は、彼の打ち傷によってわれわれは癒された、と強調して告げる。
彼は未来時制を用いなかった――簡明・簡潔な事実の叙述を曇らせる形容詞を彼は用いなかった。「彼の打ち傷によってわれわれは癒された」――この御言葉よりも短く、平易で、力強い、理解が容易な言葉がありえるだろうか?
マタイ八章は、「それは霊的癒しを意味する」と宣言する人の論拠を完全に打ち倒す。それが意味するのはそのような類のものではない。それに関係するのは肉体の癒しのみである。それは疑いなく魂の癒しや罪の赦しと結びついている。なぜなら、両方とも贖いの核心だからである。マタイ八章はペテロの妻の母親、悪魔に取りつかれている多くの人々、イエスのもとに連れてこられたすべての病人の癒しについて記録している。次に、これらの事が起きたのはイザヤによって語られた「彼は私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負った」(マタ八・一七)という言葉が成就されるためであった、とそれは告げる。
神癒の多くの反対者たちは私に書き送って、「イザヤの預言はその時に成就された」と宣言した。「その翌日・翌年に起きたことは、預言者のこの言葉といかなる関係もありえない」と彼らは推論した。この議論は誤りである。なぜなら、イザヤは一つの贖いの御業について語っていたからである。二つの贖いはない。ただ一つだけである。贖いの半分は倒れて、もう半分は立つ、ということはありえない。
友よ、それに反対して何が為され、何が述べられても、私にとってこの輝かしい永遠の真理はそのまま残る。あなたの癒しのための支払いは済んでいるのである。しかり、生ける神御自身の御子が支払って下さったのである。
なぜ人々は残酷な鞭打ち台で彼を鞭打ったのか?どうして彼は自分の背中をあらわにして、ローマの鞭が自分を打つのを許されたのか?イザヤが望遠鏡のレンズを通して見た打ち傷、彼をして御霊の力の下で「その打ち傷によって私たちは癒された」と告げしめた打ち傷は、いかなる打ち傷だったか?
御子を世に遣わした御旨が絶頂に達するのを御覧になっていた愛なる御父は、もしそれに何らかの目的がなければ、このような苦悩と痛みを御子が通るのを許されただろうか?開かれた公平な心で聖書を読むすべての男女にとって、その答えは明らかである。
いかなる権威によって、弟子たちはイエスの昇天後、癒したのか?悪魔や病と接触した時に彼らが持っていた信仰の種類に、あなたはこれまで注意したことがあるだろうか?宮の美しの門にいた人を彼らが見た時、彼らは悲しんで叫び始めなかった。また、別の場所にその人を連れて行って、神が彼を憐れんでその体を癒して下さるよう執り成すこともしなかった。私が思うに、この問題に関して彼らは主の御心を知っているかのごとく行動したのである。私が思うに、彼らは上の部屋という発電所の中で神と直接接触したばかりの人々のごとく行動したのである。神には病を征する力があることを、彼らは確信していたのである。
それは執り成しではなかった。信仰だった。それは自分たちの力によってなされた、と彼らは主張しなかった。彼らは確かに、「イエスがすでにそれを成して下さった」と信じる人々のごとく行動した。すべての名に優る御名を用いて、彼らはただ「起き上がって歩きなさい」とその人に命じた。その通りにその人は行った。
簡単な言葉で述べると、私がこの出来事について読む時に受ける感銘は――イエスの昇天後になされた神癒のどの出来事について読むときにも、この同じ真理に感銘を受けるのだが――癒しは贖いの中に含まれることを信じ、知っているかのごとく彼らは行動した、ということである。
さて、これはみな、信仰といかなる関係があるのか?これは信仰という主題と大いに関係がある。なぜなら、体の癒しを受け取るにあたって信仰が働く時、この真理の上に信仰は立たなければならないからである。
嘆願の祈りと信仰の勝利の叫びとの間には大きな違いがある。疑いなく、一方は他方につながる。必要に迫られて、拠って立つべき約束に気づかずに、あなたは嘆願するかもしれない。しかし、信仰はその根拠を知り、手を伸ばして受け取る。
私の友よ、あなたの体は病んでいるだろうか?神だけが与えられる解放をあなたは必要としているだろうか?神を信じる信仰を持て。その御言葉を信じる信仰を持て。信仰は勝利である!
思い出せ、信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉による。霊感された御言葉のページをめくる時、啓示された御旨という回廊を、御霊と手を携えて歩いて行け。神の御言葉を読むことほど、不信仰という敵を速やかに追い出せる力は天の下に何もない。ピリポは宦官の馬車の中で、宦官が御言葉を理解するのを助けた。このピリポのように、聖霊は常に御言葉と同行して、それを読む人の心にそれを解き明かして下さる。聖書を読む時、御言葉があなたの中で成長する――諸々の約束が光彩を放つ――そしてあなたは「これは私のものだ」と叫び出す。
罪人が信仰によって救いを得るように、病人も同じように癒しを得る。神は嘘をつけない。神は御自身の御言葉を守らなければならない。行うと約束したことに従わなければならない。天と地は過ぎ去るかもしれない、しかし主の御言葉は永遠にとどまる。たとえ猛烈な熱で岩々や山々が溶けたとしても、私のために裂かれた常代の磐は依然として難攻不落のままであり、恵みと麗しさとをもって永遠を飾るのである。これより堅固な基礎を求めることができようか?
執り成しの祈りが終わった時――嘆願の涙が流された時――諸々の約束の上に立ち、神の御言葉にすがりつけ。あなたの嘆き悲しみは一晩続くかもしれないが、朝には喜びが臨む。
ヨブが昔の燃えている家から新しい家へと旅した時、彼は一足飛びに旅したわけではなかった。どれだけ時間が過ぎたのか、われわれには分からない。しかし、彼が試みの経験をすべて通った際、彼をしっかり支えたのは信仰だったことをわれわれは知っている。
「神の奇跡的な素晴らしい癒しの力によって体が回復された数千の人々を見てきた」と謹んで言える者として、私は苦しんでいるあなたにお願いする。自分自身や、時に属する僅かばかりのものから、あなたの目を転じよ。御顔の方にあなたの目を向けよ。この御方は御手に釘跡があるだけではない。この御方の打ち傷によってあなたは癒されたのである。
もしあなたが試練にあっているなら、もしあなたが試みを受けているなら――聖書という宝の書のページをめくり続けよ。そして、神の諸々の約束を読む時、自分の心の中で「イエスは決してしくじらない」と言い続けよ。
あなたのための癒しがそこにある。なぜなら、イエスがそれを買い取って下さったからである。この約束を覚えよ――これはあなたのものである――これはあなたのものである――イエスがそれを買い取って下さったのである。この約束を覚えよ――この約束はあなたのものである――これはあなたの約束である――あなたのものである――あなたのものである。その中で喜び始めよ、そのために神を賛美せよ、この聖書をあなたの胸に抱け――そして「イエスは決してしくじらない」と歌え、何度も歌え。