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信仰の意味

The Meaning of Faith

九.信仰はどのように成長するのか

9. How Faith Grows

チャールズ・プライス
Charles Price



忘れてはならない。信仰の質が変わることはないが、神のエコノミーにおいてはその量を増し加えることは確かに可能である。

信仰の質が変わることはありえない理由は、信仰はいかなる混ぜ物も許さないからである。疑いの混ざった信仰は信仰ではない。恐れに満ちるやいなや、信仰はその力を失う。

人間生活には非常に多くの疑いや恐れがあるかもしれない。しかし、人がそれらの只中で神に叫ぶ時、そこには信仰がある――いずれにせよ何らかの信仰がある――切り抜けようとしている信仰がある。油と水を溶かすことができないように、信仰と疑いを混ぜて融合することはできない。両者は互いにくっつくことを拒否する。その一方が優勢になる。一方か他方が確かに支配する。

あなたが今日持っている小さな信仰は、明日はより大きな信仰になって疑いを一掃する。ただしそれは、あなたがそれを用いて、それから引き離されるのを拒むならの話である。信仰は強くならなければならない。なぜなら、神は信仰の創始者であり、悪魔とあなた自身は疑いと恐れの創始者だからである。神は脆い人よりも強く、地獄と悪魔の全軍勢よりも力強いことを、われわれは知っている!

信仰が成長する唯一の道は、それを用いることによって伸ばすことである。これが、霊の命の発展・成長のための、神のエコノミーにおける根本的法則である。

例として、光の中を歩むことをあげよう。人は、啓示された神の御旨に触れずに、光の中を歩むことはできない。神の御旨はその人に御霊の御声を通して臨むかもしれない――聖霊の何らかの説教や、神の御言葉の豊かさの開示を通して理解するかもしれない。啓示された神の御旨にしたがって従順に歩むことが、いわゆる「光の中を歩む」ことの意味である。

一般的に認められているように、ある人々は他の人々よりも多くの光を持っている。彼らがより多くの光の受け手になった理由は、彼らが現在のすべての光の中を歩むという学課を学んできたからである。それは、さらに多くの光が、将来彼らに与えられるためである。もしある人が今日光の中を歩むことを拒むなら、明日はますます暗くなるのを見出すだろう。もしある人が今日持っているすべての光の中を歩んでいるなら、明日はより多くの光の中を歩むようになることを見出すだろう。

クリスチャンらしい性格を育み、豊かな経験をするには、人は常に神と協力しなければならない。光は、大きくても小さくても、本質的・性質的に光である。信仰の量とその力は、日毎に増し加わることが可能である。

信仰も同じである。絶えず増し加わる信仰を持つには、自分が持っている信仰を絶えず用いなければならない。揺り椅子に座って空しくそれを揺らしているのでは十分ではない。あるいは、さらなる信仰を求めて跪いて嘆願することすら十分ではない。自分が持っている信仰を用いることは主御自身に栄誉をもたらす。それには、あなたが神ととても近くにあり続けることが必要である。

「自分の持っている信仰は何と小さいことか」と疑いや恐れが争っている時は、「主よ、信じます。私の不信仰を助けて下さい」と叫ぶ方が遥かに良い。そう述べた聖書中の人物をあなたは覚えているだろう。そこには信仰があった――確かに、それはあまり大きなものではなかった――しかし、それでも信仰があった。そこには不信仰もあった。その人は不信仰を蔑み、憎み、望んでいなかった――しかし、そこには依然として不信仰があった。

彼は立ち去って、絶望的惨めさの中で手を握り締めて、「無駄である」と言うこともできた。もしそうしていたら、彼は敗北していただろう。主の力を見て喜びのゆえに叫ばずにはいられない勝利は、決して彼に訪れていなかっただろう。その代わりに、不信仰の重荷を覚えつつ、彼は「信仰よ、働け。小さな信仰よ、神を握れ。小さな信仰よ、御声を聞け。手を差し伸ばして神に触れよ。神を去らせるな」と叫んだ。

小さな信仰は、その筋肉を使い始める時、大きな信仰となる。決して忘れてはならない。信仰はある目的のために分与されるのであり、それが与えられた目的のためにそれを用いるのを拒むなら、それは取り下げられてしまうのである。信仰を失ったこの人がそれを失ったのは、それを用いることを拒んだからである。

臆病者のように、彼はそれを環境や状況のせいにするかもしれない。時々私は、それが遺伝のせいである人々と知り合いになることがある。しかし、キリストは環境よりも偉大である――どんな状況もキリストには全くかなわない。遺伝の鎖ですら、ユダ族の獅子の神によって砕かれる。

「自分は信仰を失った」と叫びまわる人が責めるべきは、自分自身以外に誰もいない。神は決してどんな人にも無理なことを期待されないし、人の能力では果しえないことを要求されることもない。神はわれわれが誘惑されるようにはなさらない。あるいは、ギリシャ語が述べているように「耐えられない試みにあわせることはない」。五十の逃れの道はないかもしれないが、逃れの道が常に一つあることを主は約束して下さっている。

理解力に欠けているせいで「十分な信仰」を求めて何年も座り込んできた親愛なる人々に、私は躊躇せずに言おう。

「あなたが持っている信仰を用いよ」。それはあまり大きくないかもしれないが、小さなダビデが大きなゴリアテを殺したことを思い出せ。神の流れる恵みという小川から取った小さな石は、地獄の金床で鍛造された極上の鉄でできた大剣以上のことをなしうる。心に信仰を持つ盾持ちの少年は、サウルの装いにしたがって自分の武具に模様をつける軍勢全体よりも、神のために多くのことを成し遂げられる。

自分の信仰は十分ではない、とどうして分かるのか?あなたはそれを解明しようとしたことがあるか?あなたの祈りが神のもとに昇るのと同じくらい速やかにかなえられなくても、それが何だというのか?あなたはこう思ったことはないだろうか?自分の求めに対して神が常に直ちに応えてくれていたなら、自分の信仰はほとんど働くことがなく、信仰には成長のための機会が決して無かっただろう、と。返答が遅れて、あなたは少しばかり痛みを感じるかもしれない。しかしおそらく、それらの痛みは成長による痛みなのである。祈り続けよ、祈り続けよ、そうすれば次第に具合が良くなるだろう。

主の御言葉は、信仰を養い育むことのできる牧場である。信仰は御言葉を通して来る。そして、御言葉で養われることにより、成長して増し加わる。多くの良い説教の効力が失われ、信仰に対して霊感として作用してこなかったのは、人々が御言葉の糧を食べるのを拒んだからである。御言葉が消化されていれば、信仰が生じていただろう。

われわれはこの世の諸事であまりにも忙しい。家庭生活で無数の問題が生じるため、主の御言葉の学びのための時間がほんの少ししか見つからない。前の章であなたに述べたように、信仰は聞くことにより、聞くことは主の御言葉による。信仰を求めて跪いて多くの時間を祈りに費やしても、養いの場所――神の御言葉――に行かないなら、われわれにあまり益は無い。自分の食事に気をつけず、アイスクリームとパイだけで生きることに固執するなら、体力を求めて祈るのは愚かなことである。

御言葉を読むことはまた、神の諸々の約束との直接的な生き生きとした接触にあなたをもたらす。その諸々の約束は真実であることを、あなたの心は納得する。聖霊は信仰を分与しはじめ、信仰の現われと行使により約束は現実のものとなる。

御言葉を読むことは、必然的に、われわれの耳を常にイエスに傾け続けることを意味する。何と多くのクリスチャンが昨日の経験に基づいて生きるという過ちを犯していることか。ほんの一瞬でも違いが生じる。ペテロは、湖の上を歩いた時、これを見出した。

昨日の恵みは、今日の諸問題には十分ではないかもしれない。それによってわれわれが過去に勝利した力は、明日の勝利を勝ち取るのに用いる力ではない。水の流れは速く流れ――あなたの信仰は消え去る。昨日の川底の小石の上でさざ波を立てていた水は、今日は広大な海の中に失われている。神の恵みはよどんだ湖ではない。流れる川である。神に祝福されている人であるとダビデが宣言した人は、川のほとりに植えられた木のような人であり、しかるべき時に実を結ぶ人である。

昨日の勝利を証しすることによって、今日勝利に欠けていることの言い訳をするのは、とてもありふれてはいるが有害な習慣である。信仰の増し加わり、霊の力の増し加わり、経験の深化、人間生活におけるクリスチャン的美徳の増倍化・強化があってしかるべきである。

嵐の雲が立ち込めていることを私は知っている。数々の問題が生じることを私は知っている。様々な状況に悩まされることを私は知っている。時として環境が恐れへと導くことを私は知っている――しかし、あなたの頭を上げよ、ああ、神の子供よ。信仰の兵士たちの軍隊があなたの人生の野を行進して横切るのを待ってはいけない。あなたが持っている信仰を用いよ。嵐の騒音があなたの声を掻き消し、それをあなたの顔に跳ね返すように思われたとしても、勝利を叫べ。エリコの道にいた男の叫びを群衆の喧騒や騒音にもかかわらず聞き取られたキリストは、聞く力を失ってはおられない。彼は叫びを聞いて下さる。

あなたはいつの日か、神の御言葉の堅固さと神の永遠の約束の不変性に驚いて立ちつくすだろう。神は偽ることができない――神は誓いを取り下げない――神は御言葉を実証される。地上や地獄のいかなる力も、神が御自分の約束にしたがってそれを成就するのを邪魔できない。

あなたの信仰を増し加える最善の道は、あなたが持っている信仰を用いることである。