聖書朗読:黙示録一四・一〜五、ヨハネ一・二九、三五〜三七
これは黙示録全体の中で、小羊を個人的に示す二番目の実際の光景です。前の黙想で見ましたが、最初の光景は世の基が置かれる前から屠られていた小羊であり、これは私たちを神の諸々の御旨へと連れ戻します。これらの御旨は、続いて起きたあらゆる出来事、敵対勢力や罪の侵入にもかかわらず、安全に守られました。ここに小羊を個人的に示す二番目の光景があります。時が満ちて神は御子を遣わされました。もちろん、小羊を予見する予型や預言もありました。旧約聖書と預言において、数多くの象徴的方法で、小羊の諸々の特徴が示されました。しかし、これは小羊を個人的に示す二番目の光景であり、この光景は二つの「見よ!」で特徴づけられています。「見よ、神の小羊!」。
最初の「見よ!」の方が豊かな言葉です――「世の罪を取り除く神の小羊」。これは公に述べられたようです。当時、群衆がやって来てヨハネのバプテスマを受けました。そして、公の一般的な開かれた方法でヨハネは宣言しました――「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」。これは世の問題です。
しかし二番目の場面では、「世の罪を取り除く」という節は繰り返されておらず、明らかに弟子たちに対するものです。今ヨハネは、歩いておられるイエスを見つめて、この弟子たちに「見よ、神の小羊!」と言います。罪と罪を担うこととに関して、この世に対して小羊が示されます。しかしまた、従者たちに対して彼らの歩みの模範として小羊が示されます――「彼は歩いているイエスを見つめて、『見よ、神の小羊!』と言った」。これは罪を担う者としてだけではありませんでした。「見よ」歩いている「小羊」でもありました。これは私たちを黙一四・四に導くと思います。この十四万四千人は、もちろん、罪を担う者としての彼を見ました。しかし彼らは、ずっと親しく従って行くべき方としての彼も見たのです。小羊の行く所へはどこへでも従って行かなければなりません。この最初の「見よ」を享受し、私たちの罪を担って下さる方である主を享受する一方で、私たち全員について確かにこうも言えると思います。すなわち、ヨハネが二日目に見たように、私たちも見ているところなのです。小羊を経験する一日目がありました。初めて見る経験をしました。しかし、見るための二日目、翌日があります。まず小羊がどのように歩んでおられるのかを見て、次に従います。この十四万四千人はこの両方を実行した人々でした。
神の小羊
「見よ、神の小羊!」。イサクに対するアブラハムの言葉が思い出されます――「神が自ら小羊を備えて下さいます」(創二二・八)。神の小羊。彼は私たちの小羊である前に神の小羊です。何よりもまず神の小羊です。神は小羊を必要としておられました。御子により、その偉大な使命と奉仕、小羊の働きにより、第一優先事項――それは神の権利があがめられるようにすることです――が達成されました。神には諸々の権利があります。これらの権利は、人と世と被造物と宇宙のあるべき姿に関する神の永遠の御思いについての権利です――それが神に属し、神から発し、神の御心の中に保たれるよう取り計らう権利です。神は御自分の被造物に或る意図や理想、標準や道、或る性質を関係づけられました。神はそれ全体に対する権利を持っておられますが、神の権利は神から取り去られてきました。あの妨害以来、神からのあの恐るべき離反以来、人の性質の中に、人の命の中に、この世の中に、この被造物の中に、神は御自身の権利を持っておられません。神の小羊、神のものである小羊は、そのまさに最初の御業として、神の諸々の権利を回復して確立されます。
神は絶対的かつ無条件の服従を要求する権利を持っておられます。その権利は神から取り去られてきました。そして私たちは知っています――ああ、よく知っています、それは私たちの心を悩ませます――私たちの構成の中には神に対する服従がどれほど欠けているのかを。何という困難、何という戦い、何という苦しみを、神に対する絶対的服従に至るために私たちは通ることか。それは私たちの性質です――これは故意の意識的な不服従、反逆、神に逆らう意志ではなく、私たち自身や私たちのあらゆる願いにもかかわらず存在するものです。この手に負えないものがそこにあります。それはまさに被造物の性質であり、神に服従しません。神に対する徹底的な即座の従順――これが神の権利です。不従順はまさに人の性質であり、この宇宙中を貫いています。自我――私たちはこれを自己中心性と呼びます。これは自我です。自己の数々の面について一巡しようとすると、長い時間がかかるでしょう。小羊――この名称、この言葉、この観念は、その正反対です――それはまさに服従、従順、無私を示す絵図です。神は、小羊として知られている者により、服従・従順・無私という御自身の権利を獲得されます。
自分の魂を捨てる小羊
前に述べたように、小羊である彼において、私たちは次のことをとても明確に見ることができます。すなわち、堕落した性質の行程全体の完全な逆転、人に対する神の御思いの回復、別の原理に基づいて再構成された人性――小羊の人性、変えられた人性――です。自分の命を捨てるのは私たちの性質ではありません。命を捨てることに関するあの句は「私たちもまた兄弟たちのために自分の魂を捨てるべきです」(一ヨハ三・一六)とも訳せることを思い出して下さい。私たちは時々この「命」という言葉をそのような文脈の中で用います。そのため、この御言葉は――今日この地上にいる多くの人がそうとらえているように――殉教者の死を遂げること、キリストの福音のために単一の行動で自分の命を捨てることを意味するものとなっています。しかし、自分の魂を捨てることは一生涯にわたる行い、日々の行いであり、私たちの性質に逆らうもの、そうです、私たちの構成に逆らうものです。というのは、私たちはこの世の人々の考え方によってすぐに左右され、影響されてしまうからです。彼らは言います、「それは軟弱で女々しいことである――あなたは自分の権利のために立ち上がるべきであり、自分の目標のために戦うべきである」と。それがこの世の流儀です。今日のこの世を一瞥して、それが生み出しつつあるものを見てみなさい。しかし、この小羊は自分の魂を捨てられました。彼は罵られた時、それを我慢して耐えました。そして、何も返答しませんでした。「屠り場に引いて行かれる小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている羊のように、彼は自分の口を開かなかった」(イザ五三・七)。これには何らかの行いが必要であり、あなたや私の内には元々ない或る力を表しています。私たちは別の性質を持っています。「これは弱々しい」とあなたは言うでしょうか?このような力はない、と私は言います。この世の性質、その判断と標準全体に反対して立ち、それとは逆の見解、反対の道を取ることができるようにならない限り、力の何たるかはわかりません。彼はこれを実行されました。これが自分の魂を捨てる小羊です。
私たちの諸々の感情、私たちの魂の諸々の反乱、諸々の強烈な激情、諸々の怒りの感情に対して――それらに対して、「さあ、おさまりなさい、控えなさい」と言うこと――これは、神がこの姿勢を擁護して下さる時まで、しばしの間いかなる代価が必要になるのかをよくよく考える時、しばしば真の戦いを意味します。
「見よ、小羊を」。小羊に従いなさい。小羊の道は十字架の道、天然の命の絶えざる磔殺かもしれませんが、この道の終点は王座であり、この王座は単なる地理的場面や地点ではありません。聖書の中の諸々の王座を字義的に解釈しないで下さい。文字通りの王座に座すことはあなたの興味をまったく引かないかもしれません――私の興味も引きません――しかし、霊的優位性の立場に達すること――それには諸々の価値があり、豊かさがあり、他の人々に分与されるべき富、威厳、力、栄誉、栄光があります――は大したことです。それがこの王座です――小羊の行程、十字架の道の終点です。
毎日小羊を見つめること
今日も明日もあさっても、歩いている小羊を見つめなさい。
とても多くのクリスチャンが一日目で立ち止まっています。彼らは罪を担う者である小羊を見ました。そして喜んでいます。私たちは罪を担う者である彼にあって喜ぶべきだからです。私たちはこの光景で立ち止まっています。そして、今日も明日もしあさっても、その後ずっと、私たちは依然として一日目に目を留め続けています。毎日、大いに実際的な数々の問題に関して、小羊を見つめなければならないことを忘れています。あなたも私も、自分の性質ではとても手に負えない場面から何度も引き下がり、少しのあいだ主と共に逃れて、あの戦い――私たちの魂、反応、怒りに関する戦い――を戦い抜く必要があります。私たちはこの戦いを戦い抜き、切り抜けて、小羊の霊と共に出て来なければなりません。主が主の時に答えを与えて下さるよう、その問題を主の御手に委ねなければなりません。これが小羊に従うことです。小羊は、状況のゆえに、御自分が出くわしていることのゆえに、何度も引き下がって御父と共に過ごされました。彼はこの戦いを最後まで戦い抜かれました。彼はさらに少し進まれました。「彼はさらに少し進んで行き、地面にひれふして、『もし可能なら、この時を私から過ぎ去らせて下さい』と祈られた。また、彼は言われた、『アバ、父よ、あなたにはすべてのことが可能です。この杯を私から取り去って下さい。しかし私の意志ではなく、あなたの意志がなされますように』」(マコ一四・三五〜三六)。その代価は大きなものでした。彼はこの戦いを戦い抜き、穏やかに出てこられました。その穏やかさは驚くべき穏やかさであり、御自分の魂とのあの隠れた戦いの結果でした。「彼は死に至るまで自分の魂を注ぎ出された」(イザ五三・一二)。
ヨルダン川での小羊
ですから、神の小羊は全く神に対するものです。私たちはここにその二つの面を見ます。第一に、彼がヨハネのバプテスマを受けるためにヨルダン川に来られた時、ヨハネは「見よ、神の小羊」と言いました。これが最初の完全な姿勢であり明け渡しです。世の基が据えられた時から屠られていた小羊は、今や公に、この世の中で、これが永遠の昔から神の諸々の権益に対する御自分の姿勢であることを宣言されます。「私が来たのはあなたの御旨を行うためです」。私が来たのはそれについて議論したり、それについて尋ねるためではありません。私が来たのはそれについて熟考するためではありません。私はそのために自分を完全にささげてきましたし、徹底的にささげてきました。ヨルダンは一つの宣言にすぎません。それは神の御旨を受け入れることではありません――それは世が造られる前に為されていました。この世が造られる前に、この小羊は屠られていました。この御言葉をよく考えてみて下さい――「世の基が据えられた時から屠られていた小羊」。これは何を意味するのでしょう?これはまさに次のことを意味します。神の諸々の会議で、神の偉大な計画、あの永遠の御旨について(人々の流儀にしたがって述べると)「議論され」、決定が下された時、御父が御子に向かって「あなたは何が起きるのかを知っています。臨もうとしている問題をあなたは知っており、あの妨害の結果を知っています。つまり、私たちが今議論していることを実現するには、極めて大きな代価が必要です――私たちはすべてを犠牲にしなければならないのです」と言われた時、御子は「父よ、私はその値を払います」と言われたのです。このとき小羊は屠られました。御父は「よろしい、私たちはそれに共にあずかりましょう。それはあなたの代価と私の代価になります」と言われました。そして、そこで「神はそのひとり子を賜るほどに世を愛され」ました。そして御子がこの世に来られた時、彼はただ、その時取った立場を公に、この地上で取って、それを宣言したにすぎませんでした。徹底的明け渡し、究極的姿勢がヨルダン川で宣言されたのです。
歩く小羊
次にまた、それは「歩く」彼を見つめる問題でもありました。彼が取った立場は、彼が代価を払って日々その中にとどまった立場でした。彼が取ったその立場に対して、あらゆる種類の試練が臨みました。この世は彼を試みました。この世とは、一つの領域としての世やその中の人々を意味するだけでなく、この世の霊、この世の諸々の考えや観念や標準をも意味します。それらはみな神のそれとは正反対です。この世の君が「ひれふして私を拝むなら、この世の王国をすべて差し上げましょう」と彼に提案した時、この世の君はこの世の水準を明らかにしました。それは妥協の霊です――「あなたの水準を少し下げて、あなたの徹底的・究極的標準を放棄しさえするなら、少し妥協しさえするなら、あなたはかなり多くのものを得ることができます。そんなに徹底的、絶対的、完璧であってはなりません。それはあなたの益になりません」。これがこの世です。彼は常にこれに抵抗されました。彼はこの世の霊、この世の観念――それは小羊のそれとは全く異なっていました――によって試みられました。
彼は悪の軍勢によって試みられました。しょっちゅう悪の軍勢は、人々や物事を通してではなく、じかに臨みました。この悪の軍勢はどういうわけか、他の人々や他の物事とは別に、まさに私たちの内に侵入するかのように思われます。そして、私たちは悪の恐ろしい働きを感じます。まるで悪の軍勢が私たちの中に、私たち自身の中に入り込んだかのようです。悪の軍勢は他の人々の中にあって、私たちを挑発することもありますが、今どういうわけか内側で働いているように思われます。「クリスチャンよ、あなたには悪の軍勢が見えますか?悪の軍勢がどのように内側で働くのかわかりますか?」。彼らはわかっています。そのように思われます。私が述べているのは、クリスチャンが悪鬼に憑かれることではありません。そうではなく、時として、悪の軍勢がまさに私たちの命を握っているかのように思われるのです。彼の魂は悪の軍勢との戦いの中で苦しみました。ああ、主イエスの隠された生活史が知られていれば!私たちは彼の言動しか読んでおらず、彼の人生の出来事の幾つかしか見ていませんが、そこには途方もない隠れた経緯があったにちがいありません。戦闘、闘争、苦難、問題と彼は戦われたにちがいありません。彼はそのために地上におられましたが、最初に取った立場を毎日、歩むときも進むときも前進するときも保たれました。私たちはいかなる状況の中でも、常に小羊に従わなければなりません。
神に感謝します、私たちは一人ぼっちでこの戦いを戦い抜かなければならないわけではありません。御霊御自身が私たちの弱さを助けて下さいます。私たちの傍らにはこの御方がおられます。私たちにはイエス・キリストの霊の供給、十分な恵みがあります。しかしそれにもかかわらず、これ――魂を捨てること、無私になること――は時として苦い戦いになります。「これらの者は、小羊の行く所へはどこへでも従って行く」。
小羊への初穂
これらの者は「小羊への初穂」であると述べられていることを繰り返して終わることにします。つまり、彼らにおいて、神の権利、神の御思い、神の願い、神の意図が完全に表されるのです。これらの者は、初期の道で、苛烈な苦難、霊的苦難の炎、熱に出くわして、応答した人々です。これらの者は、他の人々が通らなかったあの特別な道を通った人々です。これを説明することは私にはできませんし、主がこれをなさるのはなぜなのかあなたに告げることもできません――しかし、選びの原則がここでも働いているように思われます。どういうわけか神は、御自分をある方法で満足させるある人々をつかまれました。そして神は彼らを連れて行って、他の人々よりも深刻なある経験の中を通らせます。そのような民を私はどれほど気の毒に思うことか。それに関して私たちには何もできませんし、彼らを助けることもできません。私たちは彼らがただならぬ困難や逆境を通るのを目にします。どういうわけか、真っ先に彼らに問題が生じます。彼らが真っ先に問題に出くわします。もちろん、これは私たちが考えている人々に限ったことではありません。進行中のあらゆる問題に陥る、多くの愚かな人々がいます。私が述べているのはそのような人々のことではありません。しかし、次の事実に間違いはありません。すなわち、神の御手の下で特別なただならぬ経験をしている人々が、この地上にはいるのです。時として、彼らはこの御手に対して叫ぶよう誘惑されます。詩篇作者と共に「彼の慈愛は永遠に去ってしまったのだろうか?(中略)神は恵み深くあることを忘れてしまったのだろうか?……」と叫ぶよう誘惑されます。ああ、何という苦悩!すべてのクリスチャンがこの道を行くわけではありません。主の子らの多くは、それよりも容易な道を行きます。しかし、地上にはこれほど苦しむ人々が私たちの間にいます。これはどうしてでしょう?
これは十四万四千人だと思います――もちろん、必ずしも実際にこの数とは限りません。しかし、彼らは際立った群れであり、小羊への初穂として神を満足させます。これ以外の理由は私には見当たりません。おそらく、私たちはこれを照らすさらなる光を与えられるでしょう。しかし、これは私たちの疑問や問題の多くに触れるものであると私は感じます。特別な方法で神とその満足に仕える幾人かの人々を、ただならぬ方法・手段で、御自身の近くにもたらすことが神の意図です。これがこの群れの理由であり、私たちが経験することの理由だと思います。主はいずれにせよ私たちを小羊に従う者たちにして下さいます――すでに見たように、これは現在時制です――小羊が行く所へはどこへでも従い続ける者たちにして下さいます。