聖書朗読:黙示録二一、二二章
神の目的を成すものに関するこの象徴的・絵図的描写について、私たちは今やその最後に到達しました。確かに、次のことはとても印象的で、とても意義深いです。すなわち、私たちがその最後に到達して、都を示される時、そこでは「小羊」という句が万事と関係しているのです。万事が小羊に基づいています。小羊が万事に性格と意義を与えます。御使いが「ここに来なさい」と言った時、御使いは「私はあなたに小羊を示そう」とも言えたでしょう。なぜなら、それはすべて小羊の成果であり、聖書の中にあるすべての事柄の集大成だからです。これまで見てきたように、小羊は神の御旨・意図であるもの――神の御心・御思いに応える一つの民――にまで遡ります。そして、小羊はそれを獲得されました。ここでそれが確保されており、その様子はこの通りです。この民はここでは「聖なる都、新しいエルサレム」として示されており、「小羊の妻」と同一視されています――このような直喩の混合に対して、私たちは後ろに下がってこう言うしかありません、「これが意味するのは、この民は一つである二つのものによって特徴づけられている、ということしかありえません。都は常にいつでも統治、統治の座を象徴し、花嫁は、神の御心によると、愛を象徴します。この二つを一緒にすると、歴史全体の総計が得られます――それは愛の統治です」。これが小羊、神の小羊の意味です。
次に、愛の統治というこの包括的真理の分析が私たちのためになされます。それは、小羊に七回言及することによってです。その内容に関する完全・徹底的な学びはせずに、各々の言及について一つの点のみに光を当てることにします。
愛の土台と城壁
まず初めに、花嫁に関連して小羊が示された後――つまり、「私はあなたに小羊の妻である花嫁を示そう」という言葉の後――の、小羊に対する最初の言及に注意して下さい。この言葉の後になされる小羊に対する最初の言及は一四節にあります。「都の城壁には十二の土台があり、それらの上には小羊の十二使徒の名があった」。私は「小羊の十二使徒」に触れるつもりはありません。この土台は小羊の刻印を帯びています。しかし、この城壁は何でしょう?それは何を象徴するのでしょう?あなたたちの多くがよく御存知のように、壁は包含的・排他的なものであって、「この境界の中ではある状況が支配しており、外では別の状況が支配しています」と告げるものです。私たちはそれを「証し」、証しの城壁と呼びます。ここに「大きな高い城壁」があります。そして、この都の城壁の大きさを見ると、その高さだけでなく容積も非常に大きいことがわかります。それはまさに、愛に関するキリストの満ち満ちた豊かさを物語っています。それは広大な領域です――中には多くのものがあり、これは確かに、前の黙想で述べたように、エペソ書におけるパウロの言葉と対応しています(三・一七〜一九)――「それはあなたたちが(中略)強められて、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解し、そして、知識を超越したキリストの愛を知るためです」――「知識を超越したキリストの愛」。これ――「知識を超越したキリストの愛」――が城壁です。この民は、ですから、予表・象徴・想像から離れると――この民、この贖われた民は、知識を超越したキリストの愛の化身なのです。
その長さについて:それは私たちを永遠の過去に、御父の愛する者へと連れ戻します――この方は大いに愛されていたので御父は彼に途方もない嗣業を賜りました。彼を通して、彼により、彼のために、万物が創造されることになっていました(ロマ一一・三六、コロ一・一六)。彼は「万物の相続者」(ヘブ一・二)だったと使徒は述べています。この愛されている方、御父から最初に生まれた方、万物の相続者――は「万物を満た」(エペ四・一〇)されます。そして、その目的は万物をキリストの中に結集することでした。これが御子に対する御父の愛の大きさです。御父は彼のことを「私の愛する子」と述べておられます。途方もない広大な大きさの神の愛はキリストを中心としています。永遠から永遠まで――これがその長さです。それから次に、「この愛されている方にあって私たちに無代価で与えられた、彼の恵み」(エペ一・六)です。これはつまり、彼は私たちをこの同じ愛の相続人にして下さったということです。ですから、御父が御子に対して抱いておられるまさにこの愛が、私たちに伝達されています。私たちは「世の基が据えられる前から彼にあって選ばれ」ており、来るべき代々の時代に至ります。これが彼の愛の長さです。
その深さは、それが贖う愛であることからわかります――最悪の不法よりもさらに深く切り込むのです。
その高さ――「そして私たちを彼と共に天上に座らせて下さいました」(エペ二・六)。
そしてその広さ――「誰でも」:「……その愛するひとり子を与えて下さいました。それは御子を信じる者は誰でも、ひとりも滅びないで、永遠の命を持つためです」。
この途方もない、すべてを包み込むキリストの愛がわかります――そして最終的に、そこに一つの民が見つかります。万物の土台は、神の偉大な贖う愛の化身である小羊です。そして最終的に、神の愛の偉大さに対するこの偉大な証しが存在するようになります。それは強力な土台です。時として、あなたは絶望するよう誘惑されるかもしれません――自分たちに関して絶望するよう誘惑されるかもしれません。そして、おそらく、他の人々に関しても絶望するよう誘惑されるかもしれません。時として、「自分たちは切り抜けて、最終的に無事に抜け出せるのだろうか」と私たちは戸惑うかもしれません。実に多くの疑問が、私たちに敵対する力に促されて、私たちの中に生じます。その力は総がかりの力であり、私たちは内側と外側の両方でそれらすべてに対処しなければなりません。そうです、それは途方もなく強いのですが、彼の愛の方が強いのです。ここに揺らぐことのありえない土台があります。それは、まさにこの名――小羊――が示すように、力強い贖う愛です。それは強力な土台です。私たちが最終的にこの都の中に入るとき――これを客観的にとらえてはなりません:恵みにより私たちがこの都なのです――私たちがその構成要素になるとき、それに関して「ああ、彼の愛の強さよ!それは深くて力強い泉です」と述べる以外、私たちには一瞬たりとも何もできないでしょう。これはとても単純ですが、とても幸いなことです。これが始まりです。
彼の清める愛
次に二七節に注意して下さい――「汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、決してそこに入ることはない。小羊の命の書に書き記されている者だけが入る」。少しのあいだ、この最後の言葉は置いておき、残りの部分の意義を理解することにしましょう。ここに示されているのは、都に入ること、又はその中に場所を得ることです。どのように場所を得るのでしょう?そうです、彼の愛によってです――しかし、ああ、彼の清める愛によってです!確かに、真の愛ほど強力に清めて純化できるものは何もありません。主は懲らしめにより、そうです、訓練のための苦難により、私たちを取り扱っておられます。しかし、それは主が私たちを愛しておられるからである、と私たちは極めて明確に教わっています。そしてここでは、彼の愛は清める方法で働かなければなりません。汚れたもの、忌むべきもの、嘘――これらのものは小羊にしたがったものではないことがわかります。これらは神の小羊が滅ぼされたものです。「汚れた」もの――彼はしみも汚点もない小羊です。彼御自身が汚れた聖くないものをすべて滅ぼされます。そして、彼の強力な、強力な十字架の御業により、彼はこの花嫁を御自身にささげられます。この花嫁には「しみや、汚点や、そのような類のものがありません」――これは「忌むべきもの」の対極です。この「忌むべきもの」という言葉は聖書の大部分を貫いている言葉であり、今はそれについてあえて考えようとは思いません。それは神が忌み嫌われるものであり、神にとって忌むべきものです。それは何でしょう?高ぶりは神にとって忌むべきものであり、高ぶりからあらゆる誤謬が始まりました――ルシファーの心の中に高ぶりが見い出された時、その高ぶった考えからあらゆる問題が生じました――そうである以上、高ぶりが罪の根幹であり、高ぶったものはみな神にとって忌むべきものであることがわかります。小羊はその正反対です――自己や高ぶりはまったくありません。小羊は高ぶりではなく柔和さの同意語であることがわかります。彼は御自身の血により、この忌むべきもの――「偽りを行う者」から私たちを清めて下さいます。そうです、一つの嘘から不法の道が始まったのであり、それは「最初から嘘つきである者」からでした。真実でないすべてのもの、すべての偽り、絶対的に純粋・透明で、開かれている、その目が火の炎のような方の探る目に耐えられないすべてのもの、それらはみな小羊によって対処されます。純粋な状態が生じます。「神の栄光を帯びていた。都の光は最も貴い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」。絶対的に透明でした。
ですから、この都への入場権、加盟権、そこにいるこの権利は、彼の貴い血による聖めの働き、継続的清めによるのであり、また、私たちの内にあるすべての誤り、高ぶり、汚れに対して、彼の十字架がますます深く適用されることによるのです。
御座からの命
「彼は水晶のように輝く命の水の川を私に示した。それは神と小羊の御座から発していた」(黙二二・一)。御座からの命。これはどんな御座でしょう?神の御座であり、実に、小羊の御座です。私たちは黙示録の全ページを通して、御座の中央の小羊を見てきました。礼拝、崇拝の中心である小羊、至高の地位、主権の地位にある小羊を見てきました。この至高性とは何でしょう?
私たちが扱っているのは原則であって絵図ではありません。時々、比喩的・象徴的なものが私たちの道に割り込んで来ます。私たちは物事を視覚化するある種の心構えを持たないわけにはゆきません。これを逐語的に解釈するのは馬鹿げたことでしょう。妻を都として、都を妻として述べるのは馬鹿げています。しかし、ここでは原則について扱っていることがわかります。ここに御座がありますが、これは統治、主権、権力、権威、勝利を物語っています。そして、命がそれから生じます――命が小羊の勝利から発します。
どうすればこれを活用できるのでしょう?おそらく、次のような方法によります。この一連の黙想で、私たちは小羊の従者たちに関心を寄せてきました。彼らは「小羊の行く所へはどこへでも従って行く」者たちです。これは次のことを意味します。すなわち、もしキリストとの交わりの中で彼の死の中にバプテスマされる経験が、一度や二度のことではなく、ますます深まって行っており、多くの種類の痛ましい死の経験により、絶えず自己が減少しつつあるなら――それはそれに応じてキリストの復活の力を知るためです――それは私たちを偉大な力、偉大な権力、偉大な権威の地位にもたらしつつあるのです。命の中で死に勝利して働く、このキリストの復活の力は、私たちを強力な地位に置きます。とても絶望的な状況――そこでは神がおられなければ、万事休すであり死です――の中に導かれて、次に神が復活の力と共に登場される経験をするとき、あなたは途方もなく強い立場に着くことになります。あなたはこう言えるようになります、「今、わかりました。これは私にとって理屈や、作り話や、単なる教理ではありません。私はキリストの復活の力、死に打ち勝つキリストの命の力を確かに知っています」。これは統治と関係しています。復活の教理を持っているだけでは、真に霊的に統治することは決してできません。真理上の事として復活を信じても、あなたは個人的に力ある地位に着くことはありません。しかし、その中をくぐり抜けて、絶望的状況を通してそれを自分自身で経験して知るとき、あなたは確立されます。勝利の命を知ること――これが御座の原則です。
エゼキエルがこの川を見たことを思い出して下さい――その川が流れる所はどこでも、死は征服されて、命が勝利しました。死海に至るまで、その川が流れる所ではどこでも、すべてが生きました。それは命、彼の命、私たちに分与される小羊の命の強力な力であり、途方もないものです。こう述べるのは簡単ですが、それを知る経験をくぐり抜けるのは簡単ではありません。しかし、他の人々に向かって「見て下さい、私もあなたと同じ絶望的苦境を経験しました。万事休すに思われる状況を一度ならず経験しました。そして、主が来て下さって、私をそこから引き上げ、命の中に戻して下さるのを経験したのです」と言える時、あなたはとても強力な立場にあります。それは強力な立場です。それにはとても大きな影響力・重要性がありますし、最大の意義があります。その川は御座から発します。そして、それは小羊の御座です。つまり、それは放棄されてよみがえらされた命の統治です。私は新約聖書の他の部分について話しているにすぎません。神は彼を死者の中からよみがえらされました。これは克服するのが不可能なことであり、強力なことであり、御座の衝撃力です。「私は(中略)生きている者である。私は死んだが、見よ、世々限りなく生きている。そして、死とハデスの鍵を持っている」(黙一・一七、一八、改定訳欄外)。これが王座、復活の命の力による権威です。そして、それはこの最後の箇所でこの民の中に見出されます。これは神が今なさっている一大事です。
苦難による光
次に、再び二一章二三節に戻ります――「都は、日や月がそれを照らす必要はない。神の栄光がそれを明るくし、そのともし火は小羊だからである」。欄外では「小羊がそのともし火だからである」となっています。どう訳すかは重要ではありません。意味は同じです。命について述べたことは、光についてもあてはまります。光は統治上のものです。光は統治します。しかし、この箇所が言わんとしているのは、苦難を通して光の中に至ることです。光を所有して光を放射するのは十字架の道によります。「小羊がそのともし火だからである」。光は知的事柄ではありません。つまり、光は単に知的知識を蓄える問題ではありません。それは光ではありません。膨大な量の教理や真理を持っていても、光を全く持っていないおそれがあります。つまり、決して暗闇に影響を及ぼさないおそれがあります。真の光は経験的なものです。つまり、それは経験、苦難の経験の結果なのです。
神の子供であるあなたたちは、主について知っている事柄をどのように知ったのでしょう?その知識は私たちにとってとても貴いものであり、多くのことを意味します。そして、それはあなたたちを他の人々に対して価値ある者とします。それは苦難によるのであり、主があなたたちを導かれた困難な道によるのであり、主があなたの中でなさった十字架の働きによります。「小羊がそのともし火だからである」――苦難は知識、光、理解へと導きます。これが唯一の道です。この最後の人々は偉大な素晴らしい啓示の益に浴します。その啓示はキリストの苦難における彼との交わりによって臨んだものです。これはまさにその通りです。ある観点から見ると、これはあまり慰めにはならないかもしれませんが、真実です。私たちはこの助けによって次のことを理解しなければなりません。すなわち、主は、私たちを対処しているその道により、私たちに臨むことを許可されたその諸々の苦難により、実は私たちを教育しようとしておられるのです。それは、私たちが彼御自身を知る知識――この知識はそのような方法でしか受けることができないものであり、私たちにとって、また私たちを通してそれを受ける他の人々にとって、途方もない価値を持つ特別な種類の知識です――を得るためです。これは他の方法では学べません。主を知る知識の中に私たちをもたらすのは小羊であり、常に小羊の原則であり、苦難と犠牲と自己を空しくする道です。「小羊がそのともし火だからである」。いっそう深い死がいっそう豊かな命へと至るように、いっそう深い暗闇がいっそう豊かな光へと至ることがしばしばあるかもしれません。
天然的に主を知ることがますますできなくなる道の中に、主は私たちを導いておられるように思われます。主は私たちの天然的能力の外に、主の諸々の道を解釈する私たちの能力を超えた所に、私たちを全く連れ出されます。主が何をしておられるのか、主がなさっていることを主はどうしてなさっているのか、私たちには皆目わかりません。それでも、その道によって、私たちは主御自身を知る大いに現実的な類の内的知識に達します。それを誰かに言葉で説明することはできないかもしれませんが、それは強力なものであり、強い力を持つ知識であることを、私たちは知ります。どういうわけか、知ります。それは十字架による光です。
小羊の妻
「ここに来なさい、私はあなたに小羊の妻である花嫁を見せよう」(黙二一・九)。最後に神の最も深い願いと最も完全な御旨に応じるこれらの民は、キリストの尊さの益に浴する人々であるにちがいありません。これが小羊の妻の意味だと思います。ペテロはこれをこのように述べています、「こういうわけで、信じるあなたたちには尊いものです」(一ペテ二・七)――昔の訳では「彼は尊いです」となっています――これはキリストの尊さ、キリストをいかに他の何ものにもまして熱望すべきなのかに関する理解です。そして、この尊さが内側に造り込まれてきました。確かに、彼は彼女を尊いと見なしておられます――「キリストは(中略)教会を愛して、教会のために御自身をささげられました」(エペ五・二五)――高価な真珠のように尊いのです。しかし、どういうわけか、これらの人々に関しては逆転しており、彼らは自分たちに対する彼の愛に大いに感謝するあまり、彼は彼らにとって慕うべき御方であり、徹底的に彼にささげ切っているほどです。「このゆえに」――これが婚姻の天的法則です――この御方のために他のすべてのものを放棄します。これはまさに次のことを意味します。すなわち、彼らは何であれ躊躇せずにすべてを彼にささげるほど、キリストの尊さを理解しているのです。これが妻の原則です。主が私たちの内に生み出して、ますます成長させようとしておられるのは、彼の価値に関するこの理解です。これにより私たちは、私たちの主である彼に対する無条件の明け渡しというこの素晴らしい関係によって、ますます深く完全に彼のもとに引き寄せられて行きます。
宮である小羊
「私はその中に宮を見なかった。全能者である主なる神と小羊が、その宮だからである」(黙二一・二二)。宮は何のためでしょう?宮は神の直近の座であり、あなたはそこで神を見い出すことを期待します――そして小羊は宮です。私たちは十字架に付けられたキリスト、私たちのためにささげられたキリスト、私たちの小羊であるキリストの内に神を見い出します。そのような彼の中で、私たちは常に主とまみえます。イエス・キリスト抜きで、彼から離れて、神を見い出そうとしている多くの人々がいます。彼らは神を見い出すことができませんし、決して見い出せないでしょう。ああ、このような痛ましい悲劇的な事例がどれほどあることか。私たちは彼らの話を聞いてきました。「そうです、私は神を信じており、神に祈っています」。「あなたにとってそれは何を意味しますか?」。「そうですね、神の存在を信じることは私にとって多くのことを意味します。それは私が神について考えるのを助けてくれます」。「しかし、それはあなたの性格にどのような影響を及ぼしていますか?それは本当に罪に対する勝利を意味していますか?本当に救いを意味していますか?」。「ああ、今、あなたは私が全く知らないことを話しています」。「神の御子と、十字架上の彼の御業――罪のための彼の贖い――はどこに臨んでいますか?」。「ああ、だめです、そんなことは受け入れられません」。こうして、神を信じているにもかかわらず、彼らは暗闇の中や影の中を歩いています。なぜなら、十字架に付けられたキリスト以外に、神への道は無いからです。他の道では神の目標に決して至れません。ただ彼の内にのみ、あなたは神を見い出します。十字架に付けられたキリスト、あなたの贖い、あなたのいけにえであるキリスト――この御方こそ、あなたの心と共にある神と、神と共にあるあなたの心とがまみえる場所です。神がおられる場所はそこです。「神はキリストにあって世を御自身と和解させて下さいました」(二コリ五・一九)。そして、そこ以外では神も和解も決して見い出せません。これらの人々は神を見い出した人たちです。彼らはキリストの内に神を見い出したのであり、小羊が宮であることを知っています。
小羊の御座
「もはや呪いはない。神と小羊の御座がその中にある」。私たちは御座とその意味――統治――について述べてきました。しかし、十字架に付けられたキリストこそすべての問題を解決する方であり、すべての状況を治める方であるというこの真理は、何と遠くまで及ぶ包括的なものなのでしょう。コリント人へのパウロの手紙が思い起こされます。コリントの信者たちの間のあの酷い状況が思い起こされます。そこの状況は何と酷かったことでしょう。どんな人でも落胆してしまう状態でした。「このような状況をどうすればいいのでしょう?どうすればこれを解決できるのでしょう?」とあなたは言うかもしれません。パウロはこの状況全体に耐えつつ、それについて考え抜き、祈り抜かなけれななりませんでした。その後、彼は一つの結論に達しました。「私はあなたたちの間ではイエス・キリスト、しかも十字架に付けられたこの方のほかは、何も知るまいと決意しました」(一コリ二・二)。次に、彼がこれをどう適用するのかを見て下さい。彼は十字架に付けられたキリストを彼らの分裂、訴訟、この状況全体に適用します。そしてそれから、これをすべて一つの言葉――愛――に帰着させます(一コリ一三)。愛はそれを解決できますし、解決するでしょう。どんな問題や状況も、十字架において表されたキリスト・イエスにあるあの神の愛によって解決可能です。確かに、十字架が統治します。それは御座です。
これまで述べて来たことはみな、ほんの僅かにすぎませんが、その究極的意義として私たちは何に到達するのでしょう?それは二一章二四節だと思います。「諸国民はその光の中を歩み、地の王たちは彼らの栄光をその中に携えて来る」。ここに奉仕の秘訣と原則があります。(思い出して下さい。原則について取り扱うことは、過去・現在・未来について取り扱うことではありません。この絵図が言及しているのは未来のことだけではありません。これは単にこれから起きることにすぎない、と見なしてはなりません。その究極的完成は未来のことかもしれませんが、その諸原則は永遠であり、常に現存しています。)奉仕の諸原則、他者が供給を受け、他者が益と恩恵を得る諸原則――それが可能になるのは、主の民が小羊としてこの小羊との交わりの中にある時だけです。つまり、彼の苦難の中で彼と交わっている時だけであり、彼の十字架の道の中にある時だけです。ただこの道だけが他人に益を及ぼします。研究、知識の蓄積、いかなる技術によっても、他の人々の霊の命に真に仕えることは決してできません。他の人々があなたによって受ける益や助けの大きさは、小羊の命、十字架の道を知るあなたの知識の大きさとまさに同じです。
そして再び、この一連の学びで頻繁に述べて来たこの点に私は戻ることにします。私たちが小羊としてこの小羊にどの程度従うのか、そして、この言葉が意味する内容にどの程度従うのかに応じて、私たちは現在及び永遠において、他の人々に益を及ぼして神にとって価値ある者となります――まさにどの程度従うかによります。ですから、主があなたを人並み以上に苦難の中に連れて行かれるように思われるとき、あなたの道がただならぬ困難な道に思われて、主の御手があなたの上にとても重くのしかかっているように思われるとき、それを神の書全体のこの究極的結果の光の中で解釈しなさい。つまり、それは他の人々が益を受けるためであり、神があなたを連れて行かれるその道によって他の人々が何らかの益に浴するためなのです。
これこそ真に奉仕の道です。奉仕の原則は苦難です。それから逃れることはできません。そして益の大きさは、あなたがどの程度彼の苦難の中で彼と交わるかによります。繰り返しますが、私たちはこれから逃れることはできません――これは確かです。おそらく、今はまだこれを理解できない人もいるでしょう。主が自分たちを用いてこられたのは、主が自分たちをその中に導いた困難な道のためだったことを、はっきりとは理解できない人もいるでしょう――これがその正当な理由だったのです。至る所に小羊がおられ、あらゆるものの上にその証印がありますが、究極的にそれは益をもたらします。「諸国民は(中略)その光の中を歩み」。彼らはこれから益を受けます。これはどこから見たとしても、その周辺から中心まで行くと、そこに小羊がおられます。神は御自分の民に小羊をもって刻印し、証印を押されます。そしてこうして、この道具、この器、宇宙的祝福のこの経路を神は獲得されます。神の御心はこの上に据えられているのです。