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「キリスト・イエスにある新しい生活」

The New Life in Christ Jesus

一.内なる生活

Chapter 1 - The Inner Life

C. I. スコフィールド
C. I. Scofield



御言葉:「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見しています。それゆえ、私は自分自身を忌み嫌います。」ヨブ四二・五〜六

ある人はヨブ記のことを「内なる生活の叙事詩」と称してきた。これは極めて妥当である。われわれはみな、内なる生活があることを知っている。われわれの存在の境界の内側、あらゆる活動や外観の背後で、われわれは生きている。そこで現実の生活がなされていることを、われわれ全員が知っている。そこではわれわれは孤独であること、そこではすべての人が隠遁者であることを、われわれ全員が知っている。

これが真実であることに議論の余地はない一方で、別の意味において、この奇妙な内なる生活は非常に人気がある。情熱、願望、誘惑、身の毛のよだつような悪魔的考え、天使的考え、祈り、崇拝、卑しい自己中心性、戦いと嘆願。この混沌の中に信仰は神の性質、復活したキリストの命、聖霊の内住の途方もない平安と力と喜びをもたらす。われわれが永遠の命を受けた時、われわれは内なる生活の新たな歴史の第一章を記したにすぎないことを、われわれ全員が知っている。

新たない戦い、新たな勝利、ああ!新たな敗北もあるのである。

あなたが知っているごくありふれたクリスチャンでも、その存在の奥まった所で、一つの叙事詩を書いているのである。

そして、この内なる生活は、最終的に、外側の生活の源であり泉であることを、われわれは知っている。もちろん、数年の間、これらのものを異なるものに保つことは可能である。しかし遅かれ早かれ、内なる生活が外側の生活の決定要因となる。それゆえ、この生活に神は最も関心を持っておられる。それは福音の経綸の決定的特徴である。

今や斧が木の根元に置かれている」と先駆者ヨハネは言う。「木を良くせよ、そうすればその実も良くなる」と、キリストはほとんど開口一番語られた。確かに、これは常にそうだった。「見よ、あなたは真実を内なる諸部分に求めておられます」。「主は心をおもんばかる」。

出発点として、ヨブ記の最後の章の五節と六節を取り上げるのが最善だと思う。

私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見しています。それゆえ、私は自分自身を忌み嫌い、塵と灰の中で悔い改めます。

これは悩む族長の転機である。

悩む族長の転機

このこと自体はとても単純である。「私はあなたのことを耳で聞いていました」。ヨブのもとに来た神に関する証しがあった。そして、彼はそれを真の信仰と良い生活の基礎とした。通常、クリスチャンの経験はまさにその通りの過程を経る。キリスト、そのパースンと御業に関する記録がある。それは神の証しであり、われわれはそれを受け入れ、神は真実であるという証印を押す。われわれは救われる。証し、耳で聞いたことに信仰はまったく基づいているが、それはまったく本物の信仰である。まさに最後の章に至るまで、それがヨブの信仰だった。

ここに一人の敬虔な人がいた。その人の外側の生活は非の打ちどころがなかったので、神はサタンの悪意に対して「その中に欠点を見つけてみよ」と挑戦することができた。彼は消極的な意味で善人だっただけではない。積極的な意味でも善人だった。彼の生活は物事の正当な益になる面に立脚していたのである。

次に、神のあの奇妙な取り扱い、あの許容された懲らしめが始まった。それは、とても多くの他の人々の生活においても謎であり続けてきた。当時最善だった人が最も悩むことになるとは、何と奇妙なことか。神の御手がひどく重くのしかかったように思われる人になるとは、何と奇妙なことか。そしてこの事実は、御存知のように、様々な解釈を招いたのである。

この人の善良さと有益さに関するサタンの意見は、「この人は金目当てで働く者にすぎない」というものだった。「あなたは彼の周りに垣根を設けられたではありませんか?」。あなたは彼に並々ならぬ繁栄を与え、ある意味において、彼を買収したのです。これがサタンの意見だった。それは嘘だった。そして神は、この人の生活に関するサタンの理論の誤りを示すために、サタンに許可をお与えになったのである。

神は事実上、「その垣根を取り除きなさい」と仰せられた。それから何が起きたのか、あなたは御存知である。彼の繁栄は去り、彼の子供たちもいなくなったが、それでも、この人の高潔さは残った。彼は神を呪わなかった。

次にサタンは、前の理論と同じように誤っている別の理論に頼って、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます」と言った。あなたはこの人に健康を残しました。「今、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼はあなたの顔に向かって、あなたを呪うでしょう」。

それで、これが許された。彼の健康は去り、大きな痛みが彼の上に降りかかった。繁栄を奪われ、家族を奪われ、健康を奪われた。それでもこの人は、神に関して聞いたことに基づく信仰によって、自分の高潔さを保った。

次に、彼の友人たちの理論が登場した。「彼の生活の中には何らかの隠された罪があるにちがいありません。彼はまんまとその罪を人の目から隠しおおせているのです」という見解に彼らは合意した。彼の上に重くのしかかっている悲しみの唯一の原因は、彼は偽善者であり、人が思うほどは良くなかったからだ、と彼らは堅く確信した。そしてこの信念に基づいて、彼らはこの問題を彼と議論した。しかし、これもまた偽りであることをヨブは知っていた。それで、「自分は偽善者ではない」という主張を彼は維持した。

神の幻

そして今、彼の内なる生活の真の叙事詩にわれわれはやって来る。

神御自身がこの問題に取り組まれた。この素晴らしいヨブ記の締めくくりの諸章を辿るなら、その構造全体が分かる。この構造は、言わば、聖徒の内なる生活に関する神のより深い取り扱いについてのものであり、神はその人を聖徒にふさわしい者にしようとしておられるのである。

まず第一に、神の力、神の威光、神の偉大さが啓示された

その時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。(中略)わたしが地の基を据えた時、あなたはどこにいたか?(中略)その土台は何の上に置かれたか?その隅の石は誰が据えたか?かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。(中略)あなたは朝に命じ、夜明けにその所を知らせたことがあるか?あなたは天の法則を知っているか?そのおきてを地に施すことができるか?(中略)あなたは私の裁きを無にするのか?

ああ、哀れなヨブ!あなたはサタンに対して、また人に対して、自分の信念を保つことはできるが、神に何と答えるのか?神のこの個人的顕現を前にして、ヨブはこう述べる以外、何を言えるというのか。

私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見しています。それゆえ、私は自分自身を忌み嫌います。

自己の完全な崩壊

然り、問題はあなた自身なのである。今や、この謎は明らかである。

問題はヨブが行ったことでは全くなく、ヨブが何者であるのかだったのである。ヨブ自身が間違っていたのである。彼は神の前で自分を裁いたことが一度もなかった。彼は自分自身の内に死という判決を持っていなかった。それを説明するヨブ記の章は二九章である。二十五の節の中に人称代名詞が四十八回現れる。

彼は善人だった。しかし、彼はそれをあまりにも意識しすぎていた。そして、自分の魂の真の状態について、神の御前における自分の内なる生活について、深い暗闇の中にあった。そして何ものも、彼の深い苦しみ、彼の友人たちの非難、自問自答も、彼に自分自身を見るようにはさせなかった。

しかし、彼が神に関する知識から神との個人的面識へと移った時、絶望以外に述べるべきことはなかった。

私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見しています。それゆえ、私は自分自身を忌み嫌います。

自己の無価値さと欠点を真に実感させる神の啓示が、このヨブの経験の本質であると私は思う。

彼が真の自己意識に到達したのは、自己に関して自分で考えたことによるのではないし、自分の内なる生活の謎を解明しようと努力したことによるのでもない。神御自身の幻が、彼の内なる存在に押し寄せて、自己を卑下して憎むようにさせる幻をもたらしたのである。

新しい、より高い水準の奉仕

その後、極めて驚くべきことが起きた。自分自身を忌み嫌うこの人を神は擁護して回復されたのである。

主はテマン人エリパズに言われた、『わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたたちは、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである』。

その次に、御存知のように、神はヨブを祭司として、彼を通してでない限り、この三人の非難に満ちた道徳説教者たちは自分たちが怒らせた聖なる神に近づけないようにされた。

私の僕ヨブはあなたたちのために祈るであろう。そして、私は彼を受け入れる。

ここで基本的に四つのことが述べられているのがわかる。

――第一に、神の幻
――第二に、自己の完全な崩壊
――第三に、新しい、より高い水準の奉仕
――最後に、二倍の実り豊かさ

そして主はヨブの持ち物を二倍に増された。

さて、ここに変わることのない順序が示されていると私は信じる。ここに例外的でない経験が示されていると私は堅く確信する。

ああ、愛する人よ、われわれは神に関してあまりにも耳で聞きすぎてきたが、神に関するいっそう深い事柄、いっそう親密な事柄に達する必要があるのである。

われわれは、あの個人的かつ基本的な神との交友に達する必要がある。それはサマリヤ人たちと共に「今、私たちが信じているのは、あなたの言葉のためではありません。自分自身で聞いて、この方こそまさにキリストであることがわかったからです」と言えるようになるためである。とはいえ、それが及ぼす最初の効果は、この恐るべき自己卑下であり、この完全な自己の崩壊である。

しかし、ああ、この屈辱の谷は何と幸いな場所であることか。そこに転落した者で、新しい命と奉仕によみがえらない者はいない。しかし覚えておこうではないか。その代価は、自分の内に死という判決を持つことなのである。内なる生活を徹底的に再建することなのである。

これは稀な経験ではない

この経験を解釈することにより、それはヨブだけに臨んだのではなく、神に大いに用いられたすべての人にも臨んだことがわかる。環境は異なるが本質は同じである――神について理解し、自己の力は無力になり、新しい力と祝福を与えられるのである。

――ヨシュアは抜き身の剣を持つ人の足元に倒れた(ヨシ五・一三〜一五)。

――イザヤは「私はわざわいだ」(イザ六・五〜八)と叫んで、清めと再委託を受けなければならなかった。

――エレミヤは、主が自分の口に触れて下さらない限り「話せない」ことを学ばなければならなかった(エレ一・六〜一〇)。

――エゼキエルは、栄光によって跪き、自己の崩壊のうちに顔を伏せなければならなかった。その後、御霊は彼を満たして、主は「私はあなたを遣わす」と言うことができた(エゼ一・二八、二・一〜一〇)。

――ダニエルは、「私は見た(中略)そして私の見目麗しさは私の内で腐敗へと転じた」と言わなければならなかった(ダニ一〇・五〜一二)。

――愛されていたヨハネですら、栄光を受けたキリストの幻を前にして、「死人のようにその足下に」倒れざるをえなかった。その後、その「右手」が彼の上に置かれて、彼は「恐れるな」という言葉を聞くことができた。

今、これがみな意味することを短くまとめたいと思う。まず最初に、これではない二つの事柄である。

これではない二つの事柄

これは肉と死の全き根絶、自己の消滅ではないし、罪なき完全でもない。自己は忌み嫌われ、信頼を失い、嫌悪され、無に帰された。しかし、この経験の特徴は、年齢や経綸がいかなるものであれ、大いに一様であるため、成就された結果と、それによってもたらされた諸々の段階の両方を、述べることは困難ではない。

一.この至高の経験の中には、魂に対する神御自身の啓示が含まれる。

それは神に関する何らかの事柄、神に関する何らかの新しい証し、悲しみや試練に関する何らかの教訓ではない。それは神御自身の行い、神の自己啓示である。この自己啓示により、証しでは決して心や良心に伝達されなかったものが啓示される。それゆえ、自分自身に関する新しい強烈な理解が生じる。

二.聖書から引用した例は、神のこの啓示の効果についても一致している。

神のこの幻を前にするとき、人は自己を忌み嫌うようになる。すでに見たように、この効果は大いに絶対的なものであるため、力がすっかりなくなることとして常に述べられている。自己の命は屠られないものの、もはや二度と頼ってはならないもの、神の事柄において決して当てにしてはならないものとして、栄光の中で見なされるようになる。パウロが述べた通りである。「私たちは自分自身の内に死という判決を持ちました。それは私たちが自分自身ではなく、死者をよみがえらせて下さる神に信頼するようになるためでした」。復活の神、新しい不滅の命の神に信頼するようになるためなのである。

三.この自信の喪失の後に、死んで復活した方の力で満たされることが続くことについても、聖書の事例は一致している。

畏るべき麗しい幻を前にして顔を伏せた人が、そのまま取り残されたことは一度もない。「私は力を受けた」が不変の証しである。

四.それから新しい、より高い水準の奉仕が臨む。これとその新たな実り豊かさ――これは幸いな結末である。

あなたが顔と顔を合わせて神とまみえること以上に、私はあなたのために何を切望できよう?この内なる生活の叙事詩におけるこの最高の言葉があなたのもとに届くこと以上に、私はあなたのために何を切望できよう?どうか神が、御名のために、これをかなえて下さいますように。