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「キリスト・イエスにある新しい生活」

The New Life in Christ Jesus

三.内なる生活の悲劇

Chapter 3 - The Tragedy of the Inner Life

C. I. スコフィールド
C. I. Scofield



御言葉:「善いことをする意志は私にあるのですが、それをどう行えばいいのかが分かりません。」ロマ七・一八

これが内なる生活の悲劇である。キリスト教倫理を前にして人の意志が破綻してしまうのである。達成されざる理想に関する責め苦である。

弱々しい願いが敗北するのは何でもない。しかし、意志の力を神が命じておられることの側にすべて注ぎ込んで、それでも、その意志が破綻するのを見い出すことは、熱心な魂にとって、言語を絶する悲劇である。

「望みさえすれば、聖なる者になれる」と思うのは、とてもありふれた過ちである。われわれはこう考えているのである。すなわち、われわれの困難は神が要求しておられることの側に意志を向けることにあるのであり、十分な意志の力を真に発揮するなら、われわれは霊的な生活に入るにちがいない、と考えているのである。しかし、ここに一人の人がいる。彼は、霊的生活は自分の意志を最高に活用しても及ばないものである、という驚くべき発見をする。

彼は霊性を理解できないし、それを行おうと思ってもそれを自分の生活の中にもたらせない。そしてこれは、人の性格の中にかつて宿った最強の意志の一つの経験だったことを思い出そうではないか。使徒パウロは弱虫ではなかった。彼は途方もない意志の力を与えられていたのである。

宗教家ではあるがクリスチャンではない

彼がただの宗教家でクリスチャンではなかった時、彼はたるんだ者でも弱々しい者でもなかった。自分がその中で育てられた伝統主義の大敵がこの新参者のキリスト教であることを、彼は見た。そして、彼の傲慢な意志は、彼をキリスト教に対する戦いの最前線へと追いやった。彼を「サンヘドリンの乱暴者」としたのである。

何ものも彼を阻止できなかった――婦人の涙、年寄りや若者の嘆きも、彼を阻止できなかった。彼はクリスチャンの男たちや女たちを投獄した。そして、彼らを石打ちで死刑にするかどうかが問題になった時は、彼は彼らに不利な票を投じた。パウロは決して中途半端な人ではなかったのである。

彼の中には、彼をしてどちらか一方の側につかしめる十分な知的活力と命があっただけではない。彼の中には、彼の願いを可能ならしめる意志の力もあったのである。

しかしここに、彼にはなしえない簡単そうに思われるものがあった。しかし今、彼は自分の決意の力では達成不可能な或る理想を前にしていた。「善いことをする意志は私にあります」と彼は言う。「しかし、それをどう行えばいいのかが分かりません」。彼の意志は彼を霊性へともたらせなかったのである。

「善」とは何か?

これがわれわれの前にある問題である。しかし、少しのあいだ立ち止まって「」というこのささやかな言葉について考えない限り、われわれは決してパウロが何を言わんとしているのかを理解できない。

パウロがしようと思ってもできないこの善とは何か?われわれは幾つかの事柄をただちに排除することができる。彼がここで述べているのは道徳規範、誠実さ、優しさ、高潔さ、夫・親・友人としての人同士の関係における信実さについてではない。これらの事柄は完全に意志の力の範囲内にある。われわれはみな、キリスト教的力や影響からはかけ離れているのに、これらの資質をすべて備えている人々を知っている。どの団体にも、クリスチャンではないが、公正さ、真実さ、誠実さ、優しさ、勇気を兼ね備えた、助けになる、清い、高尚な生き方をしている人々がいる。使徒パウロが述べているのは、これらの善い資質のことではまったくない。これらの事柄を彼は生涯ずっと行ってきていた。この領域では彼の意志は有効だった。

また、この善という言葉で彼の念頭にあったのは、一般的な信心深さ、教会員の資格、教会通い、祈りを唱えること、聖書朗読、献金ではなかった。これらの事柄を、彼は意志の力で生涯ずっと行ってきていた。彼は当時、自分の意志を良心的に用いることにより、一流の宗教家だったのである。

それでは、そうしようとしても達成できない善について述べることにより、彼は何を言わんとしているのか?

彼が言わんとしているのは、「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは益です」ということである。また、「私はキリストと共に十字架に付けられています。それにもかかわらず私は生きています。しかし私ではなくキリストが、私の内に生きておられます。そして私がいま肉体にあって生きている命を、私は神の御子の信仰によって生きます。この方は私を愛して私のために御自身を与えて下さいました」ということである。

キリストに似た者となることに関して彼の念頭にあったのは――キリストが人々の前で複製されることだったのである。

キリストが人々の前で複製されること

これを彼は「」と呼んでいるのである。それではパウロの意志は、キリストに似た者となること――キリストほど善くはないが、ある程度キリストのように善くなること――に失敗したのだろうか?その通りである。

彼はそれをさらに説明するために、おそらく、あの幸いな人のことを思い浮かべただろう。

彼は山上の垂訓を読んだ。きっと彼はそれを経綸的に正しい場所に置いただろうが、「自分は恵みの中に又教会の中におり、王国の中に又律法の下にいるわけではないから、王国生活よりも低い水準で生きても構わない」とは一瞬たりとも言おうとしなかっただろう――むしろ、「いっそう高い要求が自分に課せられている」と彼は言っただろう。彼の心の中にはこの消極的で劣悪な道徳規範はまったくなかったが、他方において、彼の心の中にはキリスト者の標準を形成しているこの霊的道徳規範があった。「幸いなるかな、霊の中で貧しい者」と彼は言っただろう。次に、彼が自分の胸を打ち叩いて、「ああ、高慢なパウロよ!ああ、パウロよ、お前はいつ霊の中で貧しくなるのか?」と言うのを、私は思い浮かべることができる。また、おそらく、それより前の経験の段階では、「私は霊の中で貧しくなります」と彼は言っていただろう。

幸いなるかな、柔和な者」。

「ああ」と彼は後に言った。「私は罪人の頭です。この柔和という言葉を読む時、彼に向かって目を上げようという気にはなりません――私には無理です」。

聴衆の方々、あなたは柔和になろうとしたことがあるだろうか?もしあるなら、あなたはそれに成功しただろうか?誰でも柔和そうに行動することはできるし、一種の偽善者として行き巡ることもできる。

偽善者

しかし、そうすることはあなたを憎しみに満ちたパリサイ人にするだけである。それは柔和であることではない。イエス・キリストが何よりも憎んでおられるのはパリサイ主義である。これは、彼にはどうしようもない唯一のものである。当時、パリサイ人に対して彼が唯一言えた言葉は、「あなたたちは禍である」だった。

彼には彼らのための使信は何もなかった。彼の福音の中にはパリサイ人のためのものは何もなかった。否、パウロはパリサイ主義に戻ろうとしているのではない。

彼が「善」について語った時、パウロの心の奥底には、あの避けがたい要求があったのである。その要求は、彼の新しい性質と新しい命の促しとによって彼の上に課せられたものであり、「自己がいかなる形で現れたとしても、自己に対して勝利しなければならない」というものだった。

今、キリストのような生活として高く上げられた一つの水準に直面して、一つの深刻な危険が生じる。

深刻な危険

この危険がパウロにあったにちがいない。彼はそれに抵抗して、それについて神に激しく叫ばなければならなかったと、私は確信している。その危険とは、つまり、キリストの標準は高すぎると述べたり考えたりする危険である。それがそこに置かれているのは、それに到達するためではなく、われわれが渇望すべき理想としてである、と述べたり考えたりする危険である。それは善いものであることをわれわれは同意しなければならないが、肉がそれに到達すると期待するのは別の問題である。

さて、ここに一人の人がいた。彼は何とかしてそのような種類の生活を送ることを志しており、それが実現するまで決して諦めなかった。

ご存じの通り、「矢で月を狙っても月には届かないが、矢で納屋を狙うなら矢はそれよりも高く飛んで行く」という諺がある。

パウロはそのような貧弱な詭弁によって決してくじけない。私の友よ、あなたや私ならくじけているだろう。

さて、私はとても実際的な問いに移ることにしたい。

とても実際的な問い

善いことをする意志は私にあるのですが、それをどう行えばいいのかが分かりません」と言うことで、パウロは何を言わんとしているのか?

私は自分のクリスチャン生活の間ずっと、「クリスチャンはローマ七章の中に生きてはならない」という意見を耳にしてきた。やれやれ、彼らの十人中九人がローマ七章に至ってくれればよいのだが。ローマ七章のこの人は霊的事柄に無関心な者ではない。彼は、自分の生活がキリストの生活のようではないという理由で、その心が砕けて、その存在が苦悩の中にある人である!

ローマ七章のこの人は、神の御子の血でまったく赤く染まっている人である。自分が恐ろしい現実的な何かと格闘していることを彼は知っていた。そして、自分のための解決策を神が持っておられるとするなら、彼はそれを得ないわけにはいかなかった。私は問う。善を行う意志と決意はあるのに敗北してしまうこの人は、何を必要としているのか?

彼にはさらなる道徳規範が必要なのか?さらに高い基準が必要なのか?もちろん、この哀れな人は今、自分が行っていることよりも善いことを知っている。そして、まさにここに道徳説教の弱点がある。それはこの哀れな罪人に向かって「善人たれ」と絶えず告げるが、善人になる方法については決して告げない。そして今日の講壇はほとんど、人々に「善人たれ」とは告げるがその方法については告げない。

われわれは彼のもとに十戒を携えて行って言う、「おや、パウロよ。あなたにとって何が問題なのか私にはわかりません。善を行えないとあなたは述べていますが、あなたは取り乱しているように思われます。ここに十戒があります」。そこで彼は言う、「しかし私は十戒を知っています。若い時からずっと十戒については知っていました。私の内なる人は十戒を喜んでいますが、私には十戒さえも守れないのです」。然り、律法は彼を助けられない。律法は「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」と告げるが、人の力や能力に何も加えない。一切何も加えない。それでは、彼には何が必要なのか?

道徳規範ではなく、力である

この人には、その生活の中に超人的霊性を実現せしめる超人的力が必要である。さて、誰かがキリスト教に反対して「キリスト教の道徳的要求は人の性質にとって高すぎる」と言う時、その人はまさにこの真理を見い出し始めたのである。クリスチャンの十人中八人が決して見い出さない一つの真理を見い出し始めたのである。それはもともと人の性質にとって高すぎるものなのである。それは人の手が決して届かないところに置かれている。助けなき人の能力では決して届かないところに置かれている。もしそれがすべてなら、福音は聖人向けのものになっていただろうし、とにかく罪人にとっては絶望の使信となっていただろう。しかし、それがすべてではない。

この超人的要求と共に、超人的力も用意されているのである。そして、パウロはそれを握った。彼はローマ七章の中にとどまらなかった。なぜなら、その意志が目覚めてその最高の力に達し、それでも事をなしえない時、その人は自己の終わりに達したからである。

平安と勝利の状態にある

ローマ七章から八章に移ると、ローマ七章のこの哀れな人が平安と勝利の状態にあることがわかる。今、彼の証しはいかなるものか?「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。

新しい決意、新しい習慣ではないし、いっそう深く自己にしがみつくことや、いっそう祈ることでもない。ローマ七章の苦悩の中にある人が祈らないとでもあなたは思うのか?使徒パウロがローマ七章の中にあった時、きっと彼は昼も夜も神の前にひれ伏して祈ったにちがいない。もはや祈りや、あなたや私がなしうることや、パウロがなしえたことでもなく、神がなしうることである。

救済策の存在

内側からさらに努めることではなく、外側からの何かを内側に注入されること――これがパウロの言わんとしていることである。そして、「ああ、私は何と哀れな人でしょう」と言いかけている時でも、霊的敗北のまさにその苦悩の中から、彼は自分の顔を上げて勝利の証しをする。なぜなら、彼は秘訣を見い出したからである。彼は言う、「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」(ロマ八・二)と。

それゆえ、この人は後に、「私にとって生きることはキリストです」と書き記すことができた。あなたや私よりも彼のことを親密に知っていたピリピ人にそう書き送ることができた。「いま私が肉体にあって生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます」と彼は、試練と試みの下にある彼を見ていたこれらのガラテヤ人に言うことができた。「私の努力、私の決意、私の誓いによってではなく、キリスト・イエスにある命の霊の力、権威、法則によります」。

彼は意志の道筋では敗北したが、自分の内におられる御霊の力によって勝利する。超人的基準は超人的力によって達成される。パウロはその力を握った。それゆえ、勝利のローマ八章がある。それを神のすべての子らは経験することができる――絶えざる勝利、平安、力の生活を経験できるのである。