ホーム/目次

「キリスト・イエスにある新しい生活」

The New Life in Christ Jesus

六.御霊に支配された生活

Chapter 6 - The Spirit-Controlled Life

C. I. スコフィールド
C. I. Scofield



御言葉:「私が与える水から飲む者は誰でも、決して渇くことはない。そして、私が彼に与える水は、彼の内で水の泉となり、永遠の命へと湧き出るのである。」(ヨハ四・一四)

聖霊と信者の内なる生活とについて考えることにしよう。内なる生活が存在する。あまりにも深遠で、確かに内的なものであるため、神とわれわれ自身しか知らない内なる生活が存在する。その生活の深遠さは、最も親しい友人にすら決して告げられない。そこでわれわれは敗北するし、あるいは勝利する――そこには言葉にできない心の動揺や心の痛みがある――われわれにできるのは神の御前でそれらを抱えて生きることだけである。われわれの弱さを助けて下さる御霊は、言葉にできない呻きをもって、われわれのために執り成すことができる。

今、信者に内住しておられる聖霊について考えることにする。

内側に湧き上がる泉

これは何と素晴らしい象徴であることか!それは、他のすべての教えとは何と異なっており、霊の命の絶えざる更新について物語っていることか。ヤコブの井戸との比較をあなたは御存知だろう。ヤコブの井戸はとても深く、そこから水を汲むには労力が必要だった。われわれの主が女にこの生ける水――この水はその井戸の底にあるものではなく湧き上がるものだった――について語られた時、彼女は「あなたはどこでその水を手に入れられるのですか?あなたは汲む物をお持ちにならず、しかも井戸は深いのです」と尋ねた。

これは何という対比であり、平均的クリスチャン生活の絵図だろう!

われわれは仮にもクリスチャンであるからには、何とかやっていかなければならない。曲がりなりにもその日を乗り切らなければならない。しかし、それはまさに、ヤコブの井戸から労苦して水を汲むこの貧しい女のようである。われわれは一度に少ししか水を汲めない。われわれの中には「自分には汲む物がなく、霊的であるには絶え間ない努力が必要である」と感じている者もいる。それに対して、われわれの主はこの泉の絵図を示しておられる。この泉はそれ自身の素晴らしい力で湧き上がり、その水晶のような奔流を澄んだ空気に放ち、陽光の中で踊り煌めく。その後、流れ去り、陽光のキスを受けて再び群青色になる。

さて、クリスチャン生活、キリストが思い描いておられる真の霊的生活は、その内にその源を持っていて、その新鮮さと活力と力が新たにされる生活である。その源は湧き上がる泉であり、この泉はさらに高い源――それが下るのは再び上るためである――から絶えず供給を受けている。

ここに、「干上がるのではないか」と半ば恐れている谷間の小さな泉がある。しかし、それが湧き出ている山は言う、「あなたが干上がることはありません。私が常にあなたの豊かさを新しくしているからです」。

これは平均的生活に対する何という対比だろう!ここに豊かな神の力があり、神の全能の御霊がおられる。御霊はわれわれの内に住まわれるだけでなく、信者の内で生き生きとした生命力――それは常に新しく、御霊御自身がその無尽蔵の源である――になることを願っておられる。

さて、われわれのクリスチャン生活はこうだろうか?それとも、われわれの背中が痛むようになるまで、軋る巻き上げ機で、ヤコブの井戸から苦労して水を汲まなければならないのだろうか?これは対照的である。

それ自身よりも高い源

また、その流入口を開いておかなければならないし、流出口も開いておかなければならない。

クリスチャンが御霊に対して犯す二つの罪がある。われわれは御霊を悲しませるおそれがあり、御霊を悲しませるものについて教わっている。「神の聖霊を悲しませてはいけません。この御方によってあなたたちは贖いの日へと至るように証印を押されています。苦々しさ、憤怒、怒り、叫び、悪口を、あらゆる悪意と共に、ことごとく捨て去ろうではありませんか」。

今あなたは、自分の心の中に、誰かに対する苦々しい感情を少しでも許しているだろうか?苦々しさ!憤怒!怒り!おそらく、われわれはそれについてあまり気にしないかもしれない。「主は御存知です。私は生まれつき短気であり、そのような気質なのです。それはほんの一瞬で、すぐに済むではありませんか」とわれわれは言う。おそらく、あなたにとってはそれで済むかもしれないが、あなたが傷つけた心にとってはそれで済むだろうか?怒り!悪意!妬み!ああ、私の友よ、われわれが自分自身の内に許容し、擁護し、保つ、これらの事柄はみな、流入口を詰まらせて泉の噴出を妨げる石に他ならない。

それから、御霊を消してはならない、とわれわれは教わっている。御霊に「否」と言ってはならない。御霊に御自身の道を歩んでもらえ。御霊が「祈りなさい、仕えなさい、与えなさい」と仰せられる時に「否」と言うなら、流出口は詰まり、泉は流れなくなる。

少しばかりの提案

ヤコブの井戸に関するあなたの経験は、あなたの内に泉がない証拠である、と思ってはならない。言い換えると、もしあなたが主イエス・キリストを信じる信者なら、あなたの内に御霊はおられない、と思ってはならない。主イエス・キリストの信者一人一人の内に聖霊は住んでおられる。あなたは聖霊のために執り成す必要も、聖霊を求める必要もない。自分がすでに聖霊を持っている事実に注意を払いさえすればよいのである。「それとも」とパウロは第一コリントの六章で言う。「あなたたちの体は、あなたたちの内におられる聖霊の宮であることを知らないのですか?この聖霊はあなたたちが神から受けたものであって、あなたたちは自分自身のものではないのです」。使徒がここで話し掛けているのは、「肉的」であると彼が描写したばかりの人々であることを思い出せ――彼らは人間の指導者の後を追いかけており――キリストにある赤子だった。この人々に向かって彼は言う、「それとも、あなたたちの体は、あなたたちの内におられる聖霊の宮であることを知らないのですか?この聖霊はあなたたちが神から受けたものであって、あなたたちは自分自身のものではないのです」。

さて、この事実を、感覚を待たずに、信仰によって受け入れる時、あなたはさらに優ったものに向かって大きな一歩を踏み出したことになる。神の聖霊があなたの死すべき体の中に住んでおられることをあなたが真に信じるとき、人生の変容が始まるのである。

この湧き上がる泉の効力

第一に、御霊が信者の内に住まわれるのは、古い自己の命に対する勝利を与えるためである。より強力な力が入って来て、古い邪悪な肉の命がそこにある一方で、全能の力がそれを死の立場に保ってくれるので、われわれはその支配から逃れることができる。良い決意や、律法を守ろうともがくことによってではなく、内側の神の力によってであり、われわれは自分の全存在をこの神の力に明け渡したのである。ああ、ジョン・ニュートンが述べた「私は法王に関する多くの話を耳にするが、私を最も悩ます法王は法王ジョン・ニュートンである」という言葉は、深遠な真理である。今、神の御霊がそこにおられて、治め、支配し、この自己の命を死の立場に保って下さる。そして、われわれが御霊の中を歩む時、御霊はわれわれに勝利を与えて下さる。

第二に、彼がそこにおられるのはキリストに関する事柄を現実のものとするためである。「彼は私から受けて、それをあなたたちに示します」という約束の通りである。さて、これはキリストに関する事柄を「展示する」ことではなく、それをわれわれに対して「実際のものとする」ことを意味する。

第三に、彼がここにおられるのは、父なる神をあなたに対して現実のものとするためである。神があなたの父であるのは聖霊によることを、あなたは理解する。そしてあなたが神に祈る時、あなたは創造者に、地の基を据えて諸々の惑星を軌道に保っておられる御方に祈っているだけでなく、天におられるあなたの父に祈っているのである。そして、必要を抱えて、助けと助言を求めつつ、あなたの地上の父のもとに行くのとまったく同じように、あなたはあなたの天の父の御許に行くことができるのである。こうして、子たる身分の霊があなたの内に住んでおられるので、あなたは父なる神を理解する。さらに御霊は、われわれがキリストにあって持っている一つ一つの祝福を取り上げて、それらをわれわれに所有させて下さる。彼が悲しんだり、消されたりしていない時、彼はこれを行っておられる。これが御霊の中にある生活である。

それから御霊は、われわれが自分の生活の中で何とかしなければならない問題や困難を引き受けて、それらをわれわれのために神の御旨にしたがって解決して下さる。そのため、外側の生活は自然に内なる生活の表現となる。この内なる生活は純粋で、清く、高潔なものであり、愛と優しさに満ち、全人類を愛のまなざしで見渡し、助けの手を差し伸べて蹂躙・抑圧されている人々を立ち上がらせるための機会をうかがっているのである。

この問題は自己の努力や、ヤコブの井戸から労苦して水を汲むことにあるのではない――そうすることは律法に戻ることである。使徒が言うところの「この世の貧弱な要素」に戻ることである。幼稚な事柄に戻ることである――神がわれわれのために持っておられる満ち満ちた豊かさに向かって前進することではない。今から後、あなたはどちらを選ぶのか?湧き上がる泉だろうか、それともヤコブの井戸だろうか?