御言葉
――「こういうわけで、これらの約束を持っているのですから、愛する人たちよ、肉と霊のあらゆる汚れから自分自身を清め、神を畏れて聖さを完成しようではありませんか」(二コリ七・一)。
――「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、彼は真実で義であられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」(一ヨハ一・九)。
――「ペテロは彼に『決して私の足を洗わないでください』と言った。イエスは彼に答えて、『もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関係もなくなる』と言われた」(ヨハ一三・八)。
われわれは今、聖別と関係している汚れと清めについて考えることにする。
これまで聖別の主題を、第一に宮の型を通して、第二に祭司の型を通して見て来たことを、あなたは覚えているだろう。われわれは、信者として、宮と祭司の両方である。そしてわれわれは、宮の聖別は神の永続的臨在のためであり、祭司たちの聖別は神の奉仕のためであることを見い出した。この二重の型は、われわれ自身の聖別に関してわれわれに教えるものだった。
さて、宮も祭司も決して再聖別されなかったことが真実である一方で、ああ、両方ともしばしば汚されたことも真実であり、それが起きた時はいつでも、その汚れからの清めが必要不可欠だった。汚れた祭司は依然として祭司だった。確かに、彼は生まれつき祭司だったのであり、聖別は彼を祭司職に、その機能の行使へと就かせる儀式にすぎなかった。ちょうど、生まれつき王子であり、王権を持って生まれた人を、支配者の位に就かせる即位式のようなものだったのである。われわれが祭司なのは新生によってであり、聖別はそのようなわれわれの奉仕への扉を開くものにすぎない。汚れはこの奉仕の特権を差し止める。汚された祭司は奉仕することを厳しく禁じられた。
奉仕の禁止
汚された祭司は、清められるまで、神の事柄に奉仕することを厳しく禁じられた。しかし、清めの方法は再聖別ではなく、それは決して繰り返されなかった。
疑いなく、イスラエルの霊的状況が低調だった時、神の目から見て、また神の書によると、実際に汚れている祭司たちが、依然として祭壇で奉仕するようなことがしばしばあった。しかし、彼らが清くない手で神に仕えることに固執することほど、神の不興を招くものは何もありえなかった。それは不埒な侮辱だったと言えよう。神の祭司の一人が汚されるのは衝撃的なことだった。汚れを負っているのに、おこがましくも神の奉仕の中に居続けようとするのは、不埒なことだった。これに関して新約聖書から引用して、神は汚れた僕からのいかなる奉仕も受けないことを示すことにしたい。神は汚れからの即時的清めのために豊かな備えをして下さっている。
即時的清め
しかし、神は次のことを要求しておられる。「主の器を運ぶ者たちは清い手を持たなければならない」。私は確信しているが、紛れもなく神の子供である者たちの多くの奉仕からほとんど実が生じない一つの理由は、彼らが低い水準の生活をしているのに、奉仕や奉仕らしきものの中に居続けていることである。
さて、私は短くこの二つの事柄――聖別と関係している汚れと清め――について取り上げたいと思う。
1.第一に、不愉快な問題だが、汚れについて見ることにしよう。われわれの聖書のエゼキエル書八章に向かうことにしよう。もしかすると、われわれはこの章から先に進む必要はないかもしれない。あるいは、せいぜい、他の節の一つか二つを見れば、汚れに関する聖書的観念がわれわれの心に示されるかもしれない。
「第六年の、第六の月、その月の五日に、私が私の家に座し、ユダの長老たちが私の前に座していた時、主なる神の御手がそこで私の上に下った。私が見ていると、見よ、火の光景のような姿があった。彼の腰から下の光景は火であり、彼の腰から上は輝きの光景のようであり、琥珀の色のようであった。彼は手の形をしたものを伸ばして、私の頭の房をつかんだ。そして霊が私を地と天の間に引き上げ、神のビジョンの内に私をエルサレムに連れて行き、北に面した内側の門の扉へと至らせた。そこには、妬みを引き起こす妬みの像の座があった」。
神のビジョン
ここで一言述べさせてもらいたい。この「妬みの像」は偶像に他ならなかった。エゼキエルは霊の中で宮の中に入った。そして、北側の扉から祭壇に向かって覗いて見たところ、彼は宮のまさに外庭の中に偶像が設置されているのを見い出した。その宮はかつて神に対して聖別されたものだった。
「見よ、イスラエルの神の栄光がそこにあった」。
それは栄光にふさわしい場所ではなかった。シェキナにふさわしい場所は、至聖所の中の箱の上の、ケルビムの間だった。なぜ栄光が宮の至聖所から退いて、そこにとどまっていたのか、われわれはまもなくわかるようになる。おそらく、その栄光は背教のイスラエルの目には見えなかっただろうが、忠実な預言者には見えたのである。
「その時、彼は私に言われた、『人の子よ、さあ、北に向かって目を上げよ』。そこで私が北に向かって目を上げると、見よ、北側の祭壇の門の入り口に、この妬みの像があった」。
妬みの像
「彼はさらに私に言われた、『人の子よ、あなたは彼らが行っていること、すなわち、イスラエルの家がここで犯している大いなる忌むべきことを見るか?これは私を聖所から遠ざけるものである』」。
神は、言わば、内なる部屋から、その王座の場所から退かれたが、いけにえを物語る祭壇のそばにまだ立っておられた。高度な祝福は退いたが、神とまみえる地点としてまだ青銅の祭壇があった。神はほむべきかな、神の民が聖さをまったく気にかけていない時でも、義認は残っているのである。
「しかし、さらにもう一度向きを変えよ。そうするなら、さらに大きな忌むべきことをあなたは見るだろう。そして、彼は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼は私に言われた、『人の子よ、さあ、壁を掘れ』。そこで私が壁を掘ると、見よ、一つの入口があった。彼は私に言われた、『中に入って、彼らがここで行っている邪悪な忌むべきことを見よ』。そこで私は中に入って見た。すると見よ、這うものと忌むべき獣のあらゆる形や、イスラエルの家のすべての偶像が、周囲の壁に描かれていた」。
そこには復讐を招く汚れがあった。それらは通常の方法で幕を通って中に入ろうとしていたのではない。それらは至聖所の中に侵入していたのである。実際に、神の内なる住まいの中に入り込んでいたのである。この内なる住まいは、神が、この宮の聖別の時、その栄光の輝く雲によって所有されたものだった。しかし、それらはその黄金の壁に欲望と偶像崇拝のあらゆる忌むべきものを描いていたのである!
「また、イスラエルの家の長老の七十人がその前に立っており、彼らの間にシャパンの子ヤザニヤも立っていた。それぞれ香炉を手にし、その香の煙が厚い雲のように立ち上った」。
彼らは言わば、至聖所から神を排除して、そこに彼らの偶像を描いた。それらの偶像は、世人が見るにはあまりにも汚らわしくて不愉快なものだった。しかも、密かに、彼らは壁の一つの穴から中に入り、それらの言葉にするのもはばかられるものに香を捧げていたのである。
誰でも見ることのできる外庭では、祭司たちがイスラエルの通常の儀式の形式を依然として執り行っていた。毎朝毎晩、小羊の煙が祭壇から立ち上り、その横には祭司職の聖なる衣をまとった祭司が立っていたのである!そこに、まさしくそこに、恐ろしいほど神の近くにいた神の祭司の汚れた目には見えなかったが、祭壇の神がおられたのである――忌むべきものを描かれた至聖所から神は追い出されていたのである。
「そのとき彼は私に言われた、『人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行っていること、各々その想像の部屋で行っていることを見たか?』」。
きっと、これに解釈の必要はないだろう。外庭に偶像があり、聖所の内側に偶像があり、至聖所の中にもあったのである。
すべては隠されていた
壁に描かれていた言語を絶する忌むべきものも、イスラエルの長老たちが隠れて香を捧げていることも、すべては人の目から隠されていたのである。
しかし、この型を適用することにしよう。われわれ自身、この宮に対応するものである。外庭、聖所、至聖所は、体、心、思いに対応している。これらすべてに関して、われわれはいくらか知っているのではないだろうか?われわれは聖別の行為により、イエスに全存在を所有してもらい、彼を心と思いの中に奉納した――その後、想像を解き放って内なる部屋の壁に世人が見たがらない絵を描いたのではないだろうか?しかも、教会通いを続けて――おそらく、日曜学校で説教したり教えたりしながら――神の民であると告白して世人の前で生活しているあいだ、そこに入ってこれをすべて眺めるのを好んでいるのではないだろうか?われわれはこれを自覚しているのではないだろうか?あるいは、もしそうでなくても、われわれは偶像を宮の中に置こうとしているのではないだろうか?
大切なもの
口では常に「そうです、神は至高です」と言いつつ、何か大切なものをわれわれと神との間に割り込ませようとしているのではないだろうか?これについてわれわれには心当たりがあるのではないだろうか?それは金や、社会的地位や、習慣かもしれないし、あるいは自己――あらゆるものの中で最も醜い偶像――かもしれない。
「そのとき彼は私に言われた、『人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行っていること、各々その想像の部屋で行っていることを見たか?』」。
これはみな暗闇の中にあった。自分の想像が描いた絵を、われわれは喜んで外に持ち出して、われわれの仲間に見せようとするかどうか、私には疑問である!
「彼はまた私に言われた、『さらにもう一度向きを変えよ。そうするなら、彼らが行っているさらに大いなる忌むべきことをあなたは見るだろう』。そして、彼は私を、北に向かっている主の家の門の入口に連れて行った。すると見よ、そこに女たちが座ってタンムズのために泣いていた」。
タンムズ――太陽神礼拝である。太陽が沈んだ時、まるで彼が死んだかのように、彼らは泣くことによって彼を礼拝した。そして毎朝、まるで彼が再生したかのように、彼らは太陽に挨拶した。これは主の宮にとって大問題だった。そうではないだろうか?
「それから彼は私に言われた、『ああ、人の子よ、あなたはこれを見たか?さらにもう一度向きを変えよ。そうするなら、これらよりもさらに大いなる忌むべきものをあなたは見るだろう』」。
さらに大いなる忌むべきものを見る
「そして、彼は私を主の家の内庭に連れて行った。すると見よ、主の宮の入口の、廊と祭壇との間に、二十五人ほどの人が、主の宮に背を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた』」。
さて、太陽礼拝のまさに本質は自然礼拝に他ならない。われわれが自然を見渡す時、太陽はわれわれの目に映る最も輝かしい物体である。それは、その上に命と慰めとそういったすべてのものがかかっているものである。したがって、神から離れ去った心にとって、太陽が自然の諸力に向けてなされるこの礼拝の一種の中心になるのも自然なことである。
「あなたはこれに関する考察に時間を浪費しています。この国には太陽礼拝のようなものはありませんし、私たちが神の祭壇に背を向けて太陽を拝んでいるようなこともありません」と、あなたは言うかもしれない。
申し訳ないが、あるのである。これはまさに最も巧妙な忌むべきものなのである。
最も巧妙な忌むべきもの
これこそまさに、今日、キリスト教徒の思いと心の中に許されているものである。これは、現代教会がいわゆる科学を異常なほど敬っていることに表れている。大衆は、創造や人の起源に関する聖書の記述から、いわゆる科学者たちの改良された理論やもっともらしい仮説に転じつつある。それらの理論は神を現象の背後に隠して、超自然を否定するものである。信仰を告白する数百万のクリスチャンが「霊の世界における自然法則」という本を買っているのを見よ。
おそらく教会史全体を通して、今ほど、このように神の祭壇と神の宮に背を向けて自然崇拝に転じたことはなかったし、これらのものがこのような深刻な害を及ぼすこともなかった。信仰を告白する数百万のクリスチャンにとって、ドラモンドとダーウィンはモーセよりも権威があるのである。
さて、少しの間、これらの汚れについて要約することにしよう。
忌むべきものを描かれた内なる部屋
聖所の中の偶像、あらゆる種類の忌むべきものを描かれた内なる部屋、そこにいるのを好んでいるイスラエルの長老たち。他方、外の庭では、人々は神の祭壇に背を向けている。彼らは血のしたたる十字架を忍ぶにはあまりにも「進歩」しており、美的観点から太陽を礼拝している。
さて、新約聖書に向かうことにしよう。
「さて、ユダヤ人の過ぎ越しが近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。彼は宮の中で、牛や羊や鳩を売る者たち、また両替人たちが座っているのを御覧になった。そこで彼は縄でむちを造って、彼らをみな、羊も牛も宮から追い出し、両替人たちの金を散らし、その台をひっくり返された。そして鳩を売る者たちに言われた、『これらのものをここから運び去れ。私の父の家を商売の家とするな』」(ヨハ二・一三〜一六)。
おそらく、この節の教えを、神礼拝のために建てられたブロックや石や木でできた宮に適用しようとしている人もいるかもしれない。しかし、さらに深い真理が常に象徴の背後に存在するのである。ここで描写されている思想は、人の天然の力を売り渡して単なる利益の追求の道具とすることである。体を利用して、それを金儲けの機械とすることである。
金儲けの機械
あるいは、体を他ならぬ飲食用の機械とすることである。この体は神の宮である。われわれはこれに心当たりがあるのではないだろうか?
さらに述べるまでもなく、これは確かにわれわれを探るものである。われわれは、偶像を思う思いを自分自身と神との間に割り込ませて、それにもかかわらず愛していると言い張る。また、心の思いは汚され、想像力は清くないものへとさ迷わされ、内なる部屋には秘密の汚れた像が描かれている。自然や自然法則を礼拝する狂った礼拝により、神の祭壇に背を向けている。
2.さて、備えに向かうことにしよう。この備えは、同様に崇高・単純・十分なものであり、神がわれわれのために用意して下さったものである。
まず第一に、少しのあいだ、神の御言葉の中で最も馴染み深い節の一つを見ることにしよう。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、神は信実で正しくあられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」(一ヨハ一・九)。
それゆえ、汚れた者になった時、われわれには清めの問題に関して為すべきことがある。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら」。これは単なる罪深さの告白とは大いに異なっており、その重要性はそれよりも遥かに心を探るものである。われわれは罪深さの告白はたやすくする。「そうです、私は罪人です」と言おうとしない人は、われわれの内に一人もいない。
「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら」。これが意味するのはまさに、憎むべきものを一つ一つ持ち出して、それらを神に示し、「私はこのことやあのことをしました」と言うことである。親なら誰でも、子供たちから「不従順でした」という一般的告白を得るのはとても容易だが、「自分がしてきたことは悪いことでした」と言わせるのはそれほど容易ではないことに気付いているだろう。
われわれの諸々の罪を告白することは、憎むべき罪を取り上げて、それを神の御前にさらけ出し、神にそれを見てもらうことである。神の御前に、その白光の中に、それをさらけ出すなら、罪はわれわれが誘惑に屈した時のように麗しいものには見えないだろう。
これ――告白――が清めの人の面である。言うまでもなく、これは信者の特権である。キリストを拒絶する人が地獄に落ちるまで自分の諸々の罪を告白したとしても、その人の諸々の罪は相変わらず同じままだろう。「誰も私によらなければ父のもとにくることはできない」とキリストは仰せられる。救いには一つの道しかない――信仰の道である。しかし、信じてきたわれわれが自分の諸々の罪を告白する時、われわれは次の約束を要求することができる。
「神は信実で正しくあられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」。
最初に赦しであり、次に清めである。
これは何と単純なことか!さて、これを私があなたに示した御言葉と関連付けよ。ペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言い、キリストは「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関係もなくなる」と仰せられた。他に助けはないことがわかる。
イエスに逃げ込め
汚された時、われわれはイエスに逃げ込み、身を低くして汚れた足を貫かれた主の御手の中に置かなければならない。しかし、これがなされた時、信仰は「今や私は清められている」と告げる。
自分の諸々の罪を告白したクリスチャンは、神の不興を買っているという意識や、汚れているという意識を抱えたままうろついてはならない。
信仰は告げる、「私は神が私に要求しておられることを為しました。今、神は確かに信実であられ、それに関する御自身の分を果たして下さった、と私は信じます。神は私を赦して下さいました。そのさいわいな御顔には何の険しさもありません。神は私を清めて下さいました。私は清いです。そして、神は再び私の存在の隠れた部屋の中に快く住んで下さると全く確信しつつ、私は神の奉仕の中を進んで行くつもりです」。
われわれは、救いのときと同じように、それに関する神の役割を信仰によって受け入れなければならない。
聖別のとき、われわれはそのために自分を明け渡し、次に、「神が御自身の役割を果たして下さることをあえて疑うつもりはないのだから、自分たちは聖別されている」と信じる。それと同じように、この聖別が汚される時、われわれはその詳細をことごとく神に告白し、喜んで立ち去る。なぜなら、神は再び御自身の役割を果たして下さった――われわれを赦して清めて下さった――とわれわれは信じるからである。
結局のところ、これはすべて信仰による。われわれは信仰によって開始し、信仰によって進み続ける。われわれに要求されているのは単純かつ合理的なことであり、われわれはそれを為す。そして次に、神は為すと約束されたことを為して下さったとわれわれは信じる。
結局のところ、これは何と単純なことか!私はこれをとても難しいものにしてしまったかもしれない。とはいえ、これを極めて単純なものにするよう私は心掛けてきた。
神に明け渡せ
まず第一に、聖別のために神に明け渡すことである。それに続いて、信仰の明確な行動である。この信仰は告げる、「神はそれを為して下さいました。私は聖別されています」と。その後、汚れが侵入してきたら、告白せよ。そして次に、再び信仰の行動である。この信仰は告げる、「神は私を清めて下さいました。再び私は隈なく清くなりました」と。それから、神の輝かしい御力の現れを期待しつつ、われわれは神の奉仕の中を進んで行く。その時、彼の平安は「私たちの心と思いをキリスト・イエスを通して保(守)」ってくれるのである。