ジェシー・ペン-ルイス著
「イエスの血によって、大胆に至聖所に入ることができるのです」(ヘブル人への手紙一〇章一九節)
聖書は、初期の教会のクリスチャンの集会について、次のように記録しています。「彼らが主に仕え、断食していると、聖霊が、『バルナバとサウロを私のために聖別して、私が召した働きにつかせなさい』と言われた」*。このように、神が語られるまでひたすら神を待ち望むことを、二十世紀のクリスチャンはほとんど知りません。
*使徒の働き一三章二節(訳者注)
私たちは、
「人々に仕えること」
「宮に仕えること」
(エゼキエル書四四章一一節)
については、よく知っています。しかし、モーセのように寝食を忘れて絶えず神を待ち望むことを、私たちはほとんど知りません。モーセはひたすら神を待ち望んだ結果、「恵みの御座から語られる御声」(民数記七章八九節)を聞きました。
もし、今日の働き人たちが、このように共に集まって、神の霊の御心を求めるなら、彼らの働きはまったく変わるでしょう。そして、集会のための準備も、それが神の御手の中にあることを確信して、静けさと安息に満ちたものになるでしょう。また、「型にしたがって」*いるという確信を持たずに計画を立てることもなくなるでしょう。おお、神の民が主に仕えることを学びますように!聖霊は、ご自分を求め、待ち望む人々に、個人的な導きを与えて下さいます。エゼキエル書四四章に戻って、「内庭」での務めと、その条件及び結果について、聖霊が与えて下さった絵図を見ることにしましょう。
*出エジプト記二五章四〇節など(訳者注)
まず最初に、九〜一四節に述べられている人々を見ることにしましょう。彼らは内庭に入ることができませんでしたが、「宮」と「人々」(一一節)に仕えることを許されていました。「レビ人」(一〇節)は神に仕えるために聖別されていたにもかかわらず、心や生活の中に「偶像」を持ち、それに従いました(一〇節)。彼らは心に割礼を受けておらず(九節)、罪を愛することや罪の欲求から清められていませんでした。彼らは肉体にも割礼を受けていませんでした。これは、地的で肉的ないのちに一度もメスを入れられたことがないことを霊的に意味します。彼らは、この世の潮流や世論に妥協するよう迫られた時、主と共に一人で立つことができませんでした(一〇節)。
これは、今日の多くのクリスチャンにもあてはまります。彼らは「働き人」かもしれませんが、「祭司の務めを果たす」ことも、「最も聖なる場所」で主に仕えることもできません。彼らはせわしく、活発に、「人々」や「宮」に仕えることに没頭しています。しかし、主は、「彼らは私に近づいてはならない」と仰せられます。
心に偶像を持つ「働き人たち」。主から迷い出ている「働き人たち」。罪の力の下にある「働き人たち」。肉的ないのちの力の下にある「働き人たち」。この世と妥協して、神と共に一人で立つことを恐れている「働き人たち」。
一五節は対照的です。レビ人は、かつて祭司でした。彼らは奉仕のために聖別されただけでなく、清められ、亜麻布の衣を着せられ、内庭での務めのために油塗られました。
このように油塗られた人々のうち、イスラエルが主から迷い出た時、忠実だった人は誰でしょうか?神は言われます、
彼らは、 | |
私に近づき、 |
彼らは、「私の聖所に入り、……私の机に近づいて私に仕えることができる」。
このように清められ、油塗られた人々は、どのように彼らの神に近づくのでしょう?(頭と体に)亜麻布の衣を着て近づきます(一七、一八節)。「その亜麻布は、聖徒たちの義である」(黙示録一九章八節)。「あなたにまとわせた、私の飾り物」(エゼキエル書一六章一四節)。「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ人への手紙一三章一四節)。彼らはキリストご自身を着て、中に入ります。
「彼らが神殿の中で務めをする時は、毛織物を身に着けてはならない」(一七節)。毛織物は、肉的で地的な天然のいのちを象徴します。復活の主の神聖ないのちを着て中に入るには、「天然のいのちは十字架につけられた」と認めなければなりません。
おお、主よ、あなたの御前で私はキリストと一つです。
あなたの御前に私は生きます。
しかし、あなたをあがめまつるのは、
私ではなく、キリストです。
いったい誰が、この方以上に尊く、近しいでしょう?
主に仕えることは、隠された生活を意味します。「彼らが外の民のところに出て行く時には、務めの時に着ていた服を脱がなければならない」(一九節)。外の人々の前では、彼らは普通の生活を送り、普通の服を着、普通の言葉を話しました。内側の特権を外側に表示することを、彼らは決してしませんでした!人々の注意を引く特異な点もありませんでした。確かにこれは、一九節と二〇節で述べられている思想の一つです!私たちは「隠された生活」という神の模範に従わずに、「証し」と称して、「人目に立つ」生活を送ってきたのではないでしょうか?マタイによる福音書六章一七、一八節にも、同じ思想が述べられているのではないでしょうか?「あなたがたが断食する時は、自分の頭に油を塗りなさい。それは、断食していることが、人に見られないためです」。これがイエスの生活だったのではないでしょうか?彼の謙遜さ、穏やかさ、恵みの言葉、人々に仕える生活は別として、彼には何か「特異な点」があったでしょうか?
二一節はまた、「祭司はだれも、内庭に入る時には、ぶどう酒を飲んではならない」と述べています。内庭では、肉的な興奮や刺激は許されません。「最も聖なる場所」では、深い静けさと、永遠の神の穏やかさ以外のものがあってはなりません。主イエスは静かな威厳をもって、人々の間を歩まれました。昔の聖徒たちはそれを、「神の中で静まる」と呼びました。たとえ、群衆が駈け参じて主に群がっても、あなたは決して急いではなりません。主はつねに、御父の「次の」御旨を行うゆとりを持っておられました。
「主に仕える」には、あらゆる合法的な人間関係において、徹底的な清さが必要です(二二節)。また、恵みの御座の上に注がれる血の保護が常に必要です。彼らは清められ、亜麻布の衣を着せられ、油塗られました。彼らは静まっており、従順です。「聖所に入るその日には、彼は罪のためのいけにえをささげなければならない、と主は言われる」(二七節)。「ですから、兄弟たちよ、イエスの血によって、至聖所に入る大胆さを持ち、……神に近づこうではありませんか」(ヘブル人への手紙一〇章一九〜二二節)。
T.神がすべてのすべてとなられる
「私が彼らの嗣業である」
「イスラエルの中で彼らに嗣業を与えてはならない」
「私が彼らの所有である」(二八節)
今や、ただ神だけです。合法的なものや、神から与えられたものですら、神のために「過ぎ去らせ」なさい。イスラエルの他の人々は、これらのものを合法的に所有することができます。しかし、内庭の「中に」入り、そこで仕える人々は、神を自分のすべてのすべてとして見いだします。「イスラエルの中で彼らに嗣業を与えてはならない」(この世を象徴するエジプトではなく、イスラエルであることに注意して下さい!)。他の人々は神から与えられたものを誇るかもしれませんが、これらの人々は、神ご自身にあってすべてを所有していることを誇ります。「私はあなたの、はなはだ大きな報いである」(創世記一五章一節)。
U.神の御心を知る
「彼らは私の民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教えなければならない」(二三節)。彼らは、神に属するものと、神に属さないものとの違いを教えなければなりません。彼らは、ヨハネ第一の手紙五章二〇節に述べられている、神の御旨に関する繊細な直感的知識を持っています。イザヤ書一一章三節の「主を畏れて、ただちにさとり」は、主イエスを描写しています。シェキナの光*の中にある時だけ、私たちは多くのものを識別することができます。神から見て異なる事柄も、至聖所の外では同じように見えます。サタンが自分自身を光の天使に偽装するこの終わりの時代にあって、私たちは確かに、その偽物や策略を見抜くために、この鋭い視力を必要とします。
*シェキナとは、至聖所の中を満たしていた神の栄光のことです。(訳者注)
V.人々に識別させる力
「彼らは私の民を教えて、汚れたものと、清いものとを識別させなければならない」(二三節)。ある人がかつてこのように言いました。「あなたの内におられる御霊は、キリストをあなたに対して実際とされる。また、あなたの上におられる御霊は、キリストを他の人々に対して実際とされる」。これがまさに、内庭での生活の効果です。御霊について知っている人々の中には、「自分が見ているものを他の人々にも見せよう」として、空しく努力している人が大勢います。彼らには、神の御旨のさらに深い啓示が必要です。神は彼らの中におられ、彼らは「キリストと共に神の中に隠されて」います。これを聖霊によって実際に経験する時、彼らは「人々に識別させる」ことのできる者になります。
W.キリストの思いがあらわされる
「争いのある時、彼らは裁きのために立たなければならない」(二四節)。彼らは「えこひいきすることなく」(ヤコブの手紙三章一七節)、神の観点から見ます。困難な事柄を取り扱う時でも、彼らは肉的な先入観や肉的な偏見の影響を受けることがありません。偏見やえこひいきは、すべて「内庭」の外に置き去りにされます。主イエスは、「私は聞く通りに裁きます。そして、私の裁きは正しいのです。なぜなら、私自身の望むことを求めず、私を遣わされた御父のみこころを求めるからです」(ヨハネによる福音書五章三〇節)と言われました。
彼らは、神が備えて下さった食物で養われ(二九、三〇節)、主の栄光を見、「主の霊によって栄光から栄光へと変えられて」*行きます。ですから、このように「最も聖なる場所」で「主に仕える」人々について、「彼らは自分の家に祝福をやどらせる」(三〇節)と述べられていても、少しも不思議ではありません。
*コリント人への第二の手紙三章一八節(訳者注)
「幕の内側」で、この愛すべき方をあなたの分とし、
あなたの主の神秘の中にとどまりなさい。
あなたの顔が主の栄光を映し、あなたの人生が主の愛で満たされるまで、
あなたの口が主への賛美を語り告げるまで、主を見つめなさい。
「幕の内側」で、あなたの霊は深く錨を下ろし、
あなたは争いの世を超越して、静かに歩みます。
「幕の内側」で、あなたの魂は主に結ばれ、
あなたは地上で主の復活のいのちを生きます。
(フレダ ハンバリー アレンによる)
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