ジェシー・ペン-ルイス著
第二区分:
汚された宮の幻(第八章) |
詳細全体とイスラエルの敵に対する裁きの章を飛ばして、エゼキエルに対する神のさらなる啓示が、魂の霊的歴史にどう適用されるのかを見ることにしましょう。
「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか?…これは私を聖所から遠ざけるものである」(八章六節)
八章で、神は汚された宮をエゼキエルに示し、またイスラエルの罪のゆえに、ご自分がどのように宮の敷居を離れなければならないのかを示されました。これは、神が私たちの中の誰かに送られたメッセージではないでしょうか?神は私たちのうちに「偶像」、「ねたみを引き起こす像」を見ておられるのではないでしょうか(八章三節)?神は心の内なる聖所の中に罪を見ておられるのではないでしょうか?「想像」という「部屋」の中はどうでしょう?邪悪な想像はないでしょうか?私たちの礼拝の中に罪はないでしょうか(一六節)?神のために悲しまずに、自分の楽しみが失われたことを悲しむのは、罪です(一四節)。神はあなたの心の中にある偶像を啓示されたでしょうか?それは除き去られたでしょうか?あなたは偶像を取り除くことに喜んで同意するでしょうか?
もう一度、一四章を見ましょう。エゼキエルは家の中で座っていました。そして、長老たちが彼の前に集まって、彼が語るのを待っていました。エゼキエルは座りながら彼らを見つめ、主からの御言葉を待っていました。彼が待っていた時、神は彼らの状態を彼に啓示されました。彼は神にとらえられ、神のメッセージを受けました。主は、隠された罪について彼らに告げるよう、彼に命じられました。「私はどうして彼らの願いを聞いてやれようか?」。主は、ご自分の声を聞くには、偶像から離れなければならない、と仰せられました。
今も、同じことがたびたび繰り返されているのではないでしょうか?クリスチャンたちは神の御言葉を聞くために集まります。語り手はメッセージを与えなければなりません。主は「偶像がある!偶像がある!」、「彼らを偶像から離れさせよ。そうするなら、私は語ろう」と仰せられます。今日、偶像や、明け渡されていないものを持っている人がいるなら、それを手放しなさい。偶像がなくならない限り、誰も真に祝福されることはできません。
神はご自分の民に会って下さいます。そして彼らに、「罪と関わりを持ってはならない」という一つの条件を教えて下さいます。神は、これが可能であることを示されました。エゼキエル書三六章二五〜三一節に記されている、神の解放の約束を見て下さい。
「私が清い水をあなたがたの上に振りかける時、あなたがたは清められる。私は、あなたのすべての汚れから、あなたのすべての偶像から、あなたを清める」(八章六節)
神は、「すべてのあなたの偶像から」、「すべてのあなたの邪悪から」、「すべてのあなたの不潔から」、「すべてのあなたの汚れから」、「すべてのものから」、あなたを清めて下さいます。神は心を清めることができます。キリストの血には効力があります。あなたが喜んですべてをささげるなら、神は喜んでご自分の分を果たし、あなたを解放して下さいます。「新しい心」と「新しい霊」の約束を見て下さい(二六節)。私たちはこの内なる深い清めを個人的に経験したでしょうか?
第八章と第一四章で、神は汚れと、心の中でなされている偶像崇拝を示されました。それから第三六章で、神は救済手段を示されました。神は、「私は……する」、「私は……する」、「私は……する」と仰せられました。汚された宮を清めるのは神です。私たちは神の働きに信頼しているでしょうか?「主はこう仰せられる。私は彼らのためにこのことをしよう……」。
心の清めと、祝福された「エデンの園」の経験に続いて、死と復活を象徴する幻がエゼキエルに臨みます。
「主の御手が……私を谷の真中に置かれた。そこは骨で満ちていた。……見よ、それらはいたく枯れていた」(三七章一、二節)
これは霊的にどのように私たちにあてはまるのでしょうか?祈りの力や、そのイスラエルとの関連や、奉仕の力に関するさいわいな学課とは別に、これは魂にとっていかなる意味があるのでしょう?清めと実を結ぶことに関する章の後に、これは続きます。その意義は何でしょう?これは、死と復活におけるキリストとの交わりを、私たちに教える視覚教材です。主は心を清められた後、堕落した天然のいのちを経験的に取り扱われます*。客観的には、キリストにあって働きは終わっています。私たちはキリストにあって死にました(ローマ人への手紙六章一〜一三節)。しかし、神の霊は私たちをキリストの死に完全に同形化しなければなりません。「いたく枯れていた」骨の幻は、信者がキリストの死の立場にもたらされる時の経験を描写しています。私たちがこれを実際に経験すればするほど、キリスト・イエスにあるいのちの霊は私たちを生かし、復活の主との生き生きとした結合にもたらします。
*これは次のように記されています。「天然のいのちは、魂のいのちである。天然のいのちのあらゆる部分、その源と支流、その根と枝とは、損なわれており、堕落しており、毒されている。天然のいのちにおいては、あらゆるものが度を超している。それ自体は良いものでも、常軌を逸した活動のせいで駄目にされてしまう。天然のいのちは、常に弱く、利己的で、無節操で、変わりやすいのである」(ウプハム教授の「隠されたいのち」より)
かつて、神の使者の一人がこれをはっきりと語ったのを、私は思い出します。彼は心を示す小さな円を描きました。そしてこの小さな円を、人全体を表す大きな円の中心に置きました。神は最初に、人の中心をとらえ、心を清め、そこに御座を据えられます。そして、聖霊が心を所有される時、神はキリストの死を人全体に適用し、中心から周辺に向かってご自分のいのちを広げて行かれます。もしあなたが、日々の出来事の中で神に「はい」と言い、神の祝福に満ちた働きに明け渡し続けるなら、あなたの霊・魂・体はまったく神のものとなり、あなたの霊の中に住まわれる聖霊の統治下に置かれるでしょう。今や、神のいのちの流れを妨げるものは何もありません。また、神の臨在のかぐわしさが、愛と平和と喜びの中で周囲のすべてに及ぶのを、妨げるものは何もありません。
私たちは自己の醜い姿を十字架に釘付けることを喜びます。しかし、神の願いは私たちの全人格を所有することです。私たちは罪の力からの解放をただちに経験することができます。しかし、キリストの死と復活の中で彼にまったく同形化されるためには、私たちは毎日自分を聖霊に明け渡す必要があります。
私たちが最後まで固執するものは、霊的で宗教的な自己です。私たちは経験を維持するために、必死に戦います。しかし、死ぬことはすべてを手放すことです。なぜなら、死んだ人は何も持つことができないからです。この時、私たちはエゼキエルと同じように従順になり、神の御旨以外の何ものも望まなくなります。戦うべきものは何も残されていません。私たちは、自分の宗教的見解、自分の古い道、固定観念、自分の行動様式に対して死にます。私たちは、神の臨在を感じようとすることに対してさえも死にます。この時、私たちは神からの賜物ではなく、神ご自身を持ちます。私たちは「賜物」を与え主に明け渡します。
しかし、私たちがすべてを明け渡すとき、神はすべてを清め、すべてをご自身にあって、ご自身のために保ちつつ、私たちに戻して下さいます。「祝福に満ちた経験」であっても、もし私たちがそれに固執するなら、魂と神との間に曇りが生じてしまうでしょう。もし、神の臨在の現れさえも明け渡すなら、私たちは神の中にしっかりと根ざすようになるでしょう。神が望んでおられるのは、すべてを取り去ることではありません。神が望んでおられるのは、私たちが彼に明け渡すことです。私たちが神に明け渡すなら、神は内住する実際としてご自分を啓示することができます。今や、すべては静穏であり、騒ぎはみな過ぎ去り、魂は神の御前で静まっています。どうか神が、この意味を私たちに教えて下さいますように!そして、静まっている魂に、ご自身を啓示して下さいますように!そうです、私たちは黙って主の足下に座し、主の語りかけを待つことを学ぶ必要があります。これを学ばない限り、聖書といえども時として封印された書物のようになり、祈りも困難になるでしょう。
神が私たちの中の誰かを、この「深い暗闇の谷」(詩篇四篇)に導いて、その中を通らされる時、暗闇の中にあっても神に信頼しましょう(イザヤ書一章一〇節)。理解しようとするのではなく、ただ、「主よ、私はあなたに信頼します。あなたはご自身を私に啓示し、御言葉を私に開き、祈ることを私に教えて下さいます」と言いなさい。あなたの個人的な必要とは関係ないものを、すべて過ぎ去らせなさい。「真理」を理解しようと努めないで下さい。また、「真理」を自分の心に浸透させようと努めないで下さい。そのかわりに、神があなたに知らせることを願っておられるものを、神に啓示してもらいなさい。そして、それ以外のものは放っておきなさい。
神ご自身が、人々を「枯れ果てた」状態に導かれます。神は、この「枯れ果てた」状態にある魂の必要を、どのように満たすことができるのでしょう?視覚教材からこれを見ることにしましょう。
使者は霊に促されて預言しました。「枯れた骨(魂)よ、主の御言葉を聞け」。谷を見渡して下さい。何と希望のない、静寂と死に満ちた光景でしょう。その時、動く「音」がしました(七節)。生ける御言葉が動きを生じさせたのです。エゼキエルは、「筋ができ、肉が生じ、皮がそれをおおう」のを見ました。彼はメッセージを与えたにすぎません。神が御業をなさったのです。これこそ、神が私たちを用いられる時の、真の霊の奉仕です。私たちが神を「用いる」のではありません!神が私たちを「用いる」のです!主のメッセージを携えていることを自覚するなら、私たちは堅く立って、そのメッセージを告げることができます。主はそのメッセージを、それに続いて起きる「しるし」によって確証して下さいます。
御霊に遣わされた使者は、主の内なる命令により、いま御霊に呼ばわります。
「息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」(九節)
何と素晴らしい光景、何と祝福に満ちた結果でしょう!人々は復活の主との結合を通して、死からいのちによみがえらされ、主の軍勢になりました。
さて、神の解き明かしを見ましょう。私たちはこの幻の意味を自分で考える必要はありません。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である」(一一節)。イスラエルは、「われわれの骨は『枯れ』、われわれの望みは『尽き』、われわれは『断ち切られる』」と言っていました。これは、肉によれば、まずイスラエルにあてはまります。しかしこれは、霊のイスラエルであるキリスト教会にもあてはまりますし、信者個人にもあてはまります。神はあなたを、次のように言うしかない状況の中に置かれます。「私は祈ることができません。私はこのクラスを受け持つことができません。以前、私は活発な働き人でした。しかし今、私は自分が無用で、愚かで、無力だと感じています。私の力はまったくなくなってしまいました」。神があなたになさっておられることを、理解されたでしょうか?神は「被造物的な活動」を無に帰されます。それは、神の力があなたに流れ込んで、あなたに復活の力と、豊かないのちを与えるためです。
神がこのようにあなたを取り扱われる時、あなたは注意しなければなりません。恵みの御座の上に注がれる血に信頼して、敵の圧迫から自分を守りなさい。また、自分の義務や神の奉仕に失敗して、サタンを益することがないようにしなさい。おそらくあなたは、自分に起きる出来事によって当惑させられるでしょう。しかし、約束されたメシアに関して、ダニエルが何を告げられたのかを見て下さい。「彼は『断ち切られ』ます。しかしそれは、彼自身のためではありません」(ダニエル書九章二六節)。あなたはキリストの死の中で、彼と共に「断ち切られ」ました。また、あなたは古いいのちや古い力から「断ち切られ」ました(エゼキエル書三七章一節)。神の願いは、この事実をあなたに見せることです。主はあなたに、「私はキリストにあって死んだ」という十字架の深い奥義を示されたでしょうか?あなたはキリストの死の中で「断ち切られ」ました。あなたは友人から、古い仕事から、キリストと共に「断ち切られ」ました。あなたは、「エデンの園」の祝福に満ちた経験からさえも「断ち切られ」ました。見たところ、何の実も結んでいないかのようです。美や力もなくなってしまったかのようです。主は、さらにご自身を知るよう、あなたを導いておられます。
主イエスが十字架上で死なれた時、御父は彼から御顔を隠されました。それはまるで、彼が神から「断ち切られた」かのようでした。そうです!主はそのように思ったので、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれたのです。
神に明け渡すべき最後のものは、神の臨在の感覚です。これは非常につらいことです。私たちは、主の臨在の現れさえあれば、火や水の中をくぐり抜けることもできます。しかし、主の臨在の感覚がなければ、すべては闇に閉ざされたかのようです。
「骨は枯れ」、「望みは尽き」、「断ち切られる」―――これが私たちの前にある光景です!弟子たちはすべてを捨てて主に従いましたが、主が十字架の道について語られた時、あとずさりしました。彼らは主をカルバリに去らせることができませんでした。目に見える主の臨在を失うことに、同意することができませんでした。「私は再びあなたがたに会う」という主の御言葉を、彼らは理解することができませんでした。魂がこの点に達する時、信仰のみによる歩みが必要になります。あなたはこれをご覧になったでしょうか?あなたは自分自身から、古い力から、古いいのちから、古い感情から、古い仲間から、過去の経験に安住することから、断ち切られました。それは、あなたがキリストの中に住むためです。これこそ、あなたに対する主の御旨なのです(コロサイ人への手紙三章三節)。
イスラエルは絶望に達する必要がありました。「私は彼らの墓を開く」(一二〜一四節)という主の御言葉は、なんと祝福に満ちていることでしょう!これを見るために、他の節をいくつか見てみましょう。ヨブ記一九章六〜二一節を見て下さい。ダビデは「私は断ち切られた」と叫びました(詩篇八八篇五〜一六節)。それから、ヨナ(ヨナ書二章一〜六節)とイザヤ(イザヤ書六章五節)も、「私は断ち切られた」と言いました。
神は魂をこの地点に導かれますが、そこに置き去りにはされません。神は最後まで働かれます。神はいのちのメッセージを与え、「あなたは生きる」(一四節)と仰せられます。神は幻を解き明かして下さいます。神はあなたの墓を開き、あなたを外に出して下さいます。その時あなたは、「主である私がこれを語り、これを行ったこと」を知ります。
次に私たちは、二本の杖が預言者の手の中で一つにされるのを見ます(三七章一六〜二二節)。これは実に意義深いです。神の子供たちは、復活の中で、神のいのちによって結合され、一つにされます。彼らはイエスの復活のいのちの中で共に結合されます。分裂はすべて、肉的ないのちを示唆します(コリント人への第一の手紙三章三、四節)。分裂はすべて、イエスの恵みの中で終わらされます。そこには、いかなるあつれきもありえません。外側の宗教的規定によってキリストのからだの間に設けられた「隔ての壁」は、十字架によってすべて取り除かれます(エペソ人への手紙二章一一〜一八節を見よ)。
さて、以上の学課を要約して、実際の用に役立てることにしましょう。私たちはクリスチャンの群れです。ここに「捕囚」になっている方はおられるでしょうか?解放されていない方はおられるでしょうか?私たちがここにいるのは、「神の幻」を見るためです。神は、神だけを求める人々に、目を留めておられます。彼らを解放するために、神はここにおられます。あなたは喜んで神から教えを受け取られるでしょうか?ここに座っている時、御言葉が「はっきりと」あなたに臨んだでしょうか?あなたの意志は、絶対的に神に服従しているでしょうか?服従は口先のことではありません。自分の意志を神の意志にしようと始終努力している人でも、神の御旨について語ることができます!これは真の服従ではありません。神はあなたを試されます。服従は神に指図することではありません。私たちは周囲の環境によって試されて、自分の意志がなんと神の意志から遠く離れているのかを知るでしょう。自分の意志が働きに悲惨な影響を及ぼすのを、私たちは見るでしょう。クリスチャンの働きの多くは、特別な友情や、特別な好き嫌いで汚されています。「私はXXさんと一緒に働くことができません」、「私はこのことやあのことができません」―――このように言うことは、神の御旨ではなく、自己が支配している証拠です。
「絶対的な服従」は、死であろうと、命であろうと、神の御旨すべてに従うことを意味します。私たちが真に明け渡しているのをご覧になる時、神はただちに私たちを所有されます。あなたは信実な神に信頼されるでしょうか?神はあなたの中で、責任を持ってご自分の働きをしておられます。あなたはこれを信じるでしょうか?
ここで、次のことを付記しておきましょう。神は私たちを石にされるのではありません。神は「石の」心を取り去り、私たちを古いいのちから連れ出して、栄光のいのち、新しいいのち、復活の力に満ちたいのちの中に置いて下さいます。そして、聖霊から発する、あわれみと愛に満ちた心を与えて下さいます。
再び、谷の幻を振り返りましょう。「彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる軍勢となった」(一〇、一四節)。神の御言葉は、キリストと共なる死について、明白に語っています。「あなたがたはすでに死んでおり」(コロサイ人への手紙三章三節)、「罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きていられようか」(ローマ人への手紙六章二節)、「あなたがたもまた、自分は罪に対して死んでおり、キリスト・イエスにあって、神に対して生きていることを認めなさい」(ローマ人への手紙六章一一節)。これらの神の御言葉の保証に信頼しましょう。
どうか神が、「はなはだ大いなる軍勢」を、キリストにあるいのちの中にもたらして下さいますように。
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