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聖霊に明け渡す
〜エゼキエル書注解〜

ジェシー・ペン-ルイス著

第三区分:

栄光で満たされた宮(第四三章)
聖所における務め(第四四章)
生ける水の流出(第四七章)


清めの約束、枯れた骨の幻、イスラエルの敵に対する神の裁き(三八、三九章)に続いて、神はエゼキエルに、新しい宮の幻とその寸法を示されました。

これを霊的に解釈して、私たち自身にあてはめてみましょう。神の取り扱いは、まさにこの順序通りではないでしょうか?第一に、信者は心の清めと聖霊の内住を経験します。次に、信者はキリストの死と経験的に交わりを持ち、復活の主にそのいのちの中で結合され、復活にあって他の信者と一つにされます。それから、新しい宮の幻を受けます。

神は今、新しい人、新創造を建て上げて、それを所有し、その中に住むことができます。四〇章と四二章は、このことをきわめて美しく描写しています。次いで四三章では、栄光の神がこの素晴らしい建物を所有される幻を示しています。その建物を設計されたのは、まったく主ご自身でした。

「そして、主の栄光が宮に入って来た。……主の栄光が宮に満ちた」(四三章四、五節)

「見よ。イスラエルの神の栄光が、東の方から来た」(二節)、「主の栄光が宮に入って来た」(四節)。これは、幕屋が張られた時のようでした。「その時、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」、「雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちた」(出エジプト記四〇章三四、三五節)。「その時、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲のために仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである」(歴代誌下五章一三、一四節)。個々の信者についても同じです。栄光の神が新しい宮を所有して、それを満たすためには、準備が必要です。

神が宮を完全に所有される幻に続いて、神に受け入れられる祭司職と、幕の内側における祭司の務めが啓示されます。

聖所における務め

「彼らは私の聖所に入り、私の机に近づいて私に仕え、私の務めを守る」(四四章一六節)

九〜一四節は、最も聖なる場所に入ることのできない人々について記しています。「異邦人は私の聖所に入ってはならない」。「偶像を慕って離れて行ったレビ人たちは、……できない」。しかし主は追加して、「彼らはに仕えるしもべとなる。……彼らは、祭司として私に仕えるために、私に近づいてはならない」と言われました。

おお、これは何と厳粛な事実でしょう!偶像を持つ神の子供や、心に割礼を受けていない神の子供でも、「宮」や「人々」に対して、内庭の外で奉仕することができます。しかし、内庭に入ることはできません。これは私たち働き人にとって、なんと厳粛な御言葉でしょう。私たちは外側で活発に奉仕しているだけで、最も聖なる場所に経験上入っていないかもしれないのです。従順な神の子供たちは、主に近づくことができます。「彼らは私に近づく」(一五節)。

彼らはどのように入るのでしょうか?一七節と一八節を見て下さい。彼らは亜麻布の服を着て入ります。「宮の中で務めをする時は、毛織物を身に着けてはならない」(一七節)。毛織物は天然のいのち、肉のいのちを象徴し、亜麻布は神の清さ、義の衣を象徴します。

一九節と二〇節を読むと、彼らは外見上、特に変わっていなかったことがわかります。昨今、着物や立ち居振る舞いによって、「私から離れていなさい。私はあなたがたよりも聖いのです」と自己宣伝することが流行っているようです。神は祭司たちに、頭から足にいたるまで清い亜麻布を着るよう、お命じになりました。そして、神は私たちに、聖潔という内なる着物を身にまとうことを命じておられます。これはキリストの謙遜として現されます。

二一節で、主は肉的な興奮を一切禁じておられます。多くの人は、感情的ないのちを、聖霊のいのちと誤解しています。もし心が主へと分かたれているなら、聖霊は主の真の喜びを与えて下さいます。

また、主に仕えるには、あらゆる合法的な人間関係において、徹底的な純粋さが必要です(二二節)。

二三節と二四節は、内庭に入る資格のある祭司たちが外で行う奉仕について示しています。「彼らは、私の民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教えなければならない」。彼らは、何が神の御言葉にかなっており、何がかなっていないかを、見分ける力を持っています。彼らはまた、肉のいのちと霊のいのちの違い、肉の思いと霊の思いの違いを見分ける力を持っています。

肉の思いの働きは何と巧妙でしょう!神の子供たちには、健全な判断と聖霊による導きが必要です。テモテへの第二の手紙一章七節の使徒の言葉を見て下さい。「神が私たちに与えて下さったのは、恐れの霊ではなく、力と愛と健全な思いとの霊です」。内庭での生活が、この三つのものをもたらします。私たちは、これらのものを欠かさないよう注意しなければなりません。神の聖所にいる時だけ、私たちは鋭い識別力を持ち、異なることがらを判別することができます。健全な思いと、神の真理を識別する力を求めましょう。そうするなら、心は神の安息で満たされ、神の御声を聞くでしょう。二七節には、罪のためのいけにえが述べられています。これは、恵みの御座の上に注がれる、キリストの血の効力を象徴します。神の栄光で満たされ、幕の内側のさいわいな務めにあずかっている人々といえども、常に罪のためのいけにえを必要とします。主は、「彼は罪のためのいけにえをささげなければならない」と仰せられます。

そして、全体の結論にやって来ます。「私が彼らの嗣業である」、「あなたがたはイスラエルの中で、彼らに嗣業を与えてはならない」(二八節)。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。

四五章と四六章は飛ばします。この書はどのように終わるのでしょう?私たちの内で働かれる神の目的は何でしょう?聖霊は信者の心を清めてその中に住み、信者をキリストと共なる死からキリストにあるいのちへと導かれます。このような聖霊の導きから、どのような結果が実際に生じるのでしょう?聖霊は、私たちの中に新しい人を建て上げ、それを神の住まいとされます。その結果は何でしょう?栄光の神は人をまったく所有して、内庭の務めに導かれます。その結果は何でしょう?このように、キリストと共に御父へと進み、彼と共に神の中に隠される結果は何でしょう?

生ける水

「彼は私を再び神殿の入口に連れて行かれた。すると見よ、水が神殿の敷居の下から流れ出ていた」(四七章一節)

これらの問いに対して、最後の幻は明確な答えを与えます。神の働きの目的は、全世界に生ける水を流して、祝福を与えることです。聖霊は私たちのうちで働いて、絶えず私たちを神のいのちの中に導かれます。今、聖霊の流出を見ることにしましょう。聖霊は、神に所有され、神に包囲されている土の器を通して、ご自身を流し出されます。今や、神ご自身が内なる源です。

生ける水は「敷居の下」から湧き上がり、流れていました(一節)。それは外側を流れるのではなく、地下を流れていました。それは深く、力強い流れでした。この流れは、激流のようにすべてを流し去る、聖霊の真の力を表します。この流れは、神殿の敷居の下から静かに湧き上がります。それは、最初は感知することのできない流れですが、流れて行くにつれて、次第に深まっていきます。この幻はおもにイスラエルに関するものであり、時が満ちたとき、文字通り実現するでしょう。しかし、「生ける水の川」はすべての信者に対する約束です。

預言者は幻の中で、その流れの中に連れて行かれました。最初、水の深さは足首まででした。それから、彼は川岸に戻されました。一千キュビト下流で、再び流れの中に連れて行かれた時、水はひざに達しました。それからまた、川岸に戻されました。そしてついに、川がエゼキエルを運ぶほどになる時が来ました。

「水かさは増し、泳げるほどの水となった」(四七章一節)

最初、私たちが聖霊の中に「浸され」*た時、いのちの流れは「足首の深さ」までしかありませんでした。しかし、「泳げるほどの水」に達する時が、私たちにもやって来ます。これは、試みの時に神を信じ、神に従うことにかかっています。エゼキエルが川岸で過ごした時間は、「試みの時」を象徴します。もし、私たちが「試みの時」に神を信じ、神に従うなら、水かさは増し加わります。なぜなら試みの時に、神は水路を深め、清められるからです。かつて、ある神の聖徒が次のように言いました。「生ける水を失うこのような時に、天然のいのちの『沈泥』は取り除かれる。こうして、生ける水の水路はますます純粋で清いものとされるのである」。魂が神以外の支えに頼ることをやめる時、「泳げるほどの水」がはじめて現実のものとなります。それは、川で泳ぐ人と同じです。川岸にしがみつくことをやめて、水の浮力に身を任せなければならないのです。

*これが、使徒の働き一章四、五節の本当の意味です。ヨハネの水のバプテスマは、キリストの聖霊のバプテスマの予表です。

昔、ある神の子供が、聖霊による生活を示す幻を受けました。彼女は、海に浮かぶ一本の小さな麦わらが、神の力に支えられて、あちらこちらに運ばれるのを見ました。聖霊がご自分に全く信頼している魂をこのように所有される時、魂は霊の中で、聖霊の力によって運ばれるようになります。これが、私たちに必要なことです。自分自身を神に明け渡して、神の御言葉に信頼しましょう。そうするなら、私たちは「泳げるほどの水」を極みまでも経験するでしょう。そして、神はご自分のために、私たちの能力の限界まで、私たちを用いることができるでしょう。

神はこれらのことを実現することができます。しかし、人には自分のなすべき分があります。信者は自己を完全に治めて、自分の意志を完全に働かせなくてはなりません。これは海で泳ぐ人と同じです。海水に運ばれるのと同時に、自分の意志と精神を活用して、力強い海水の力に積極的に協力しなくてはなりません。神は贖われた人を治めて下さいますが、それは、人が自分を治めることを通して実現されます。これを覚えておきましょう。

おお、神にあるいのちの働き!すべてを去らせて、一本の麦わらのように水に浮かぶことは、空しいことなのでしょうか?いいえ、そんなことはありません!霊の中で主に結合された信者は、安息を享受します。「一本の麦わらのように浮かぶこと」は、この安息を描写します。神の力が、体や精神に関する外側のものをすべて生かし、外側の働きのために魂を十分に力づけます。魂は聖霊によって多くの実を結びます。これが、宣教の領域や家庭で必要なことです。聖霊が私たちをまったく所有される時、敵の要塞は陥落します。

もし、あなたが心の清めを経験し、聖霊によって所有されているなら、さらに前進しなさい。神に、あなた自身のいのちを十字架につけてもらいなさい。そうするなら、神のいのちを受けることができます。神はあなたをこの段階に導かれたでしょうか?あなたは墓の中のラザロのようでしょうか?それなら、聞いて下さい!神はあなたを外に出して下さいます!その次は何でしょう?忍耐して、神が自分の内で静かに御業をなしておられることを信じなさい。神は新しいいのちを静かに建て上げて、それを成熟させつつあります。それから、新しい人の中に住んでおられる、三位一体の神の幻がやって来ます。その幻は、前より豊かではっきりしたものです。その後、あなたは「幕の内側」での奉仕とキリストとの合一を深く知るようになります。あなたは一歩一歩神の御心の中に導かれ、神のいのちを流す水路として生きるよう導かれます。しかし、これで終わりではありません。まだ先があります。神は、「水かさが増し、泳げるほどの水」になるまで、あなたを導き続けて下さいます。

さて、川の働きを見ることにしましょう(四七章七〜一二節)。「この水は砂漠に下り、海に入る」。川は海に合流するまで流れ続けます。「川が流れて行く所はどこでも、すべてのものが生きる」。神の子供が行く所はどこでも、魂は生かされます。川は流れます。ですから、「生ける水の川」があなたから流れる時、何の緊張もありません。私を信じて下さい。あなたが聖霊によって所有される時、あなたの周りの人々は生かされるにちがいありません。「子もまた、生かしたいと思う者を生かします」*。あなたの内におられるキリストが働かれるのです。

*ヨハネによる福音書五章二一節(訳者注)

九節と一〇節は、何という描写でしょう!「そこには非常に大きな魚の群れがいるようになる」。そして、「非常に多くの」漁師たちが集まって、川のほとりに住みつきます。川が流れる時に与える一日の祝福を、だれが量ることができるでしょう?川の祝福はあまりにも大きくて、満ち満ちています。私たちはそれを語り尽くせません。多くの働き人は、一二ヶ月に一二人の人が救われたら、それで満足するでしょう!しかし、ここに示されている絵図――「非常に大きな魚の群れ」――を見て下さい。これはペンテコステです。主は初期の教会に対して、これを意図されました。主は私たちにも同じことを意図しておられます。

「沢と沼」(一一節)とは、何でしょう?は水を受け入れますが、決して水を外に出しません。ああ、沼のようなクリスチャンが、私たちの周りに大勢います。彼らはあらゆる集会に駈け参じ、メッセージに耳を傾け、説教者をあがめます。しかしそれにもかかわらず、彼らはまったく変わりませんし、生活の中で実を結ぶこともありません。

一二節では実を見ます。毎月、新しい実がみのります。それは新鮮で美しい実です。

この書は、

「主がそこにおられる」

という言葉で終わります。これはなんと素晴らしい言葉でしょう!雲が幕屋の上にとどまります。そのように、私たちが受けた油は、私たちのうちに「とどまり」ます*。「主がそこにおられる」。神の川が私たちを通してあふれ流れるようになるまで、自分のちっぽけな努力を捨て去り、十字架の道を歩み、死と復活におけるキリストとの深い交わりに進もうではありませんか。を知るために、あらゆる点で自分を明け渡しましょう。神は私たちの霊、魂、体すべてを所有するまで、私たちの内に住み、私たちを覆い、私たちを取り囲み、私たちを運ばれます。こうしてあらゆる点で、「主がそこにおられる」という御言葉が現実のものになるでしょう。おお、これは、川、川、川のためです!どうか主が、聖霊のいのちと祝福により、このような驚異を私たちの間で行って、私たちをいのちの水を流すための清い水路として下さいますように。また、毎瞬、私たちを神の中に守って下さいますように。昨日の祝福に満足するのではなく、神の永遠の「今」に生きるよう、守って下さいますように。「川」を目指しましょう。「泳げるほどの川に達するまで、立ち止まってはなりません。神の川は「水で満ちて」います。どうか私たち一人一人が、この川を流す水路となりますように!アーメン。

*ヨハネ第一の手紙二章二七節。「油」は聖霊を象徴します。(訳者注)