ホーム/目次

多くの実
付録A (神の側から見た)麦粒の隠された生活

ジェシー・ペン-ルイス著

"MUCH FRUIT"
APPENDIX-A: THE HIDDEN LIFE OF THE GRAIN OF WHEAT
(From the God-ward side)
by Jessie Penn-Lewis

なぜなら、あなたがたは死んだのであり、
あなたがたのいのちは、キリストと共に神の中に隠されているからです。
(コロサイ人への手紙三章三節)

私がいる所に、私に仕える者もいるべきです。
(ヨハネによる福音書一二章二六節)

私がいる所に、彼らも私と共にいるためです。
(ヨハネによる福音書一七章二四節)


地面に埋められて見えなくなった麦粒は、不朽のいのちの力により、キリストと共に神の中でなおも生きています。神は今日、この麦粒が示す王国の奥義を、ご自分の子供たちの多くに教えておられます。

「自分のいのち」を「憎」んで、主のいのちにあずかればあずかるほど、彼らは「来るべき時代の力」(ヘブル人への手紙六章五節)を味わい、嗣業の担保*を持ちます。彼らはキリストに結合され、神の中に隠されて、あらゆる貴い事柄の源にとどまります。そして御座でとりなして、「国々に対して権威」を行使し、「敵のすべての力に対して」力をふるいます。まさに、「あなたは幼子たちの口を通して、力を打ち立てられました。(中略)それは、敵と復讐する者とをしずめるためでした」(詩篇八篇二節)と書かれてある通りです。彼らは、昇天された主との、生き生きとした、隠された合一の中にとどまることにより、「多くの実」を結びます。彼らは主の中に住みます。他方、約束にしたがって、主は彼らの中に住まわれます**。そして主は、いつまでも残る実――その実は裁きの座における火の検査にも耐えることができます***――を生み出すことにより、彼らを通して御父の栄光を現されます。

*「死すべきもの」が「いのちに飲み尽くされる」時(コリント人への第二の手紙五章四節)、彼らは満ち満ちたいのちを嗣業として受け継ぎます。今日、彼らはそのいのちの一部を担保として持ちます。
**ヨハネによる福音書一四章二〇節(訳者注)
***コリント人への第一の手紙三章一二〜一五節(訳者注)

主は、ご自分が教えたことを、まさに体現されました。この御方が、祈りの面における隠された生活の特徴を、マタイによる福音書第六章で解き明かしておられます。

一.その祈りは、他の人々が考えなかった祈りです。マタイによる福音書六章五節。

二.その祈りは、公のものであろうと、個人的なものであろうと、「戸を閉めて神に祈る」祈りです。神に近づいて、神だけを見、神の御声だけを聞く時、神の中に隠されている者たちは、神の臨在の内なる部屋の中にいます。マタイによる福音書六章六節。

三.その祈りは、言葉数が多い祈りというよりも、心の祈りです。彼らは「空しい言葉を繰り返す」必要はありません。なぜなら、主が祈りを聞いておられることを自覚するなら、自分がすでに主に願ったこともわかるからです。マタイによる福音書六章七節。

四.その祈りは、確実に答えられる祈りです。なぜなら彼らは、自分の必要を知っておられる御父に向かって語るからです。「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子供には良い物を与えることを知っています。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」。マタイによる福音書六章八節。

五.その祈りは、明確でポイントをついた祈りです。御父の御心を知っておられる神の御子は、「あなたがたはこのように祈りなさい」と言って、言葉数が少なくても祈りの答えを受けられることを、彼の子供たちに教えて下さいました。マタイによる福音書六章九節。

六.その祈りは、子供が父に向かって祈る祈りです。また、「天におられる私たちの父よ」という句からわかるように、その祈りは他の子供たちと共に祈る祈りです。マタイによる福音書六章九節。

七.その祈りは、神の栄光と神の王国を第一とし、個人的な関心をすべて後回しにする祈りです。「あなたの御名があがめられますように。あなたの王国が来ますように」マタイによる福音書六章九、一〇節。

八.その祈りは、明け渡された意志をもってする祈りです。彼らは、神の御旨が天で行われているように、自分のうちにも確実に速やかに行われるよう、自分の意志を神の御旨に明け渡します。マタイによる福音書六章一〇節。

九.その祈りは、贅沢を求める祈りではなく、必要なものを求める祈りです。「私たちの日ごとのパンを今日も与えて下さい」という祈りは、簡素な生活と、持っているもので満足することを意味します。マタイによる福音書六章一一節。

一〇.その祈りは、愛と赦しの霊によって祈る祈りです。「自分に負債のある者を赦す」からこそ、私たちは「私たちの負債を赦して下さい」と主に求めることができるのです。マタイによる福音書六章一二節。

一一.その祈りは、悪の恐ろしい力や悪しき者を知りつつ、神の守りに信頼して祈る祈りです。悪や悪しき者は、この世にあって、天の父の子供たちに敵対します。彼らは「この暗闇の世の支配者たち」です。マタイによる福音書六章一三節。

要約すると、隠された生活とはまさに幼子の生活です。幼子は御父の臨在の中に生き、御父の御旨を行うことを願い、すべての敵から守って下さる御父に信頼し、周囲に御父の霊を現します。

さらに、キリストと共に神の中に隠されている魂は、以下のものを与えられます。

一.内なるいのちを支える「隠されたマナ」

「勝利を得る者に、私は隠されたマナを与えよう」(黙示録二章一七節)
「私を食べる者も、私のゆえに生きます」(ヨハネによる福音書六章五七節)

二.知恵ある者には与えられない「隠された知恵」

「神の知恵は隠された知恵であり、御霊によって啓示されます」(コリント人への第一の手紙二章七〜一〇節)
「あなたはこれらの事柄を、知恵ある者や学識のある者から隠して、幼子たちに啓示して下さいました」(マタイによる福音書一一章二五節)

三.試みの時にしか得られない「隠された富」

「私はあなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した富を与える」(イザヤ書四五章三節)
「私はあなたの艱難を知っている。しかし、あなたは富んでいる。」(黙示録二章九節)

神を愛する者たちは、御父の食卓が与える隠されたマナで養われ、この世の君たちが知らない隠された知恵を教わり、試みと暗闇の時にしか得られない富を受けます。彼らに対して、神は確かに、「すべてのことを働かせて益」として下さいます(ローマ人への手紙八章二八節)。また神は、彼らを御子――多くの兄弟たちの間の長子――と同じ形にあらかじめ定められました。

試みを経なければ、神の満ち満ちた深いいのちの中に入ることはできません。昔、誰かが言ったように、神が私たちを導いて、「限界をはるかに越えた」状況の中を通らせる時、私たちは神とその豊かな恵みを知ります。「限界」点を越えるたび、私たちは神にすがり、神の中に隠れます。「深みにとどまれ」と預言者エゼキエルは言いました。神を頼みとするしかなく、神の中に隠れるしかない状況になければ、どうしてそうすることができるでしょう?

神の中心に深くとどまっている、隠されている魂たちは、次に

舌の争いから「隠され」(詩篇三一篇二〇節)、
悩みの時に「隠され」(詩篇二七篇五節)、
嵐から「隠され」(イザヤ書四章六節)、
神のおられるひそかな所に「隠され」(詩篇三一篇二〇節)、
御翼の下に「隠され」(詩篇一七篇八節)、
主の陰に「隠され」ます(詩篇九一篇一節)。

これらの節は、神ご自身によって取り囲まれる生活について語っています。なぜなら、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」*からです。

*使徒の働き一七章二八節(訳者注)

最後に、これらの隠されている者たちの外側の奉仕を見ましょう。彼らはもはや、「遣わされ」ないのに「走る」ことはありません。なぜなら、彼らの生活だけでなく、彼らの奉仕も変わったからです。彼らの場所は、今や神の御手の中にあります。「主は私を御手の陰に隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に隠された」(イザヤ書四九章二節)。

このように、キリストと共に神の中に隠されている魂たちは、主の完全な統治の下にあります。主は、「とぎすました矢」として彼らを遣わすべき時が来るまで、静かに、しっかりと、彼らをご自分のそばに保たれます。神がその武器を使う時、神は的を射抜かれます。なぜなら、神は人の魂の中にある標的をご存知だからです。

活発に用いられていない時、彼らは神の矢筒の中に隠されます。神はいつでも彼らを用いることができます。ああ、とぎすました矢は、さらにとぎすまされて、表面の凹凸を除かれる必要があります。しかし、熟練した職工である主は、ご自分の僕を整える方法をご存知です。

「とぎすました矢」は、聖所での隠された働きのために取っておかれます。彼らは神の計画の中に入って、神の御旨を成就します。

「まことに、あなたはご自身を隠される神です」(イザヤ書四五章一五節)

そこに御力が隠されています」(ハバクク書三章四節)という御言葉は、神の最も深い働きは隠された働きであることを示しています。主は隠された王国を用意されつつあります。すべての準備が整うまでの間、主はこの世の王国が存続することを許されます。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は決して滅ぼされることがありません。(中略)その国はこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼしてしまいます」(ダニエル書二章四四節)

神はまた、ご自分の住まいのために、ご自分の霊を通して、隠された宮を建造されつつあります。また、御子と御座を共有する、隠された花嫁を用意されつつあります。そうです、この恵みの時代においても、神は依然としてご自分を隠される神なのです。神はご自分の力を隠しつつ、静かに御旨を遂行されます。そしてついに、次の御言葉が成就する日が来ます。

「私たちのいのちであるキリストが現れると、その時(私たちも)彼と共に栄光のうちに現されます」(コロサイ人への手紙三章四節)
「彼の裁きは何と計り知れず、彼の道は何と極め難いことでしょう!」(ローマ人への手紙一一章三三節)
「あなたはこれらの事柄を、賢い者や知恵ある者から隠して、幼子たちに啓示して下さいました」(マタイによる福音書一一章二五節)
「そうです、父よ。これがあなたの目に喜ばしいことだったからです」(マタイによる福音書一一章二六節)

もし死ぬなら……

「もし死ぬなら」おお、あなたの主が語られる、
このメッセージを聞きなさい。
「もし死ぬなら」それは多くの実を結びます。
これはあなたの救い主の御言葉です。

人々のうちにいのちが働くのを見たいなら、
あなた自身は死ななければなりません。
地に落ちて埋められ、
死んで暗闇の中に横たわりなさい。

しかし、主はあなたを暗闇の中に取り残さず、
光があなたのまなこを照らします。
そして、喜ばしい新しいいのちと栄光の中で、
主はあなたに起きるよう命ぜられます。

その道を歩んで、主のいのちにあずかることを、
あなたは切望されるでしょうか?
あなたが死の門をくぐる時、
主はそこであなたと会われます。

あなたは祝福に満ちた秘訣を学ぶでしょう。
死ぬ者は生き、
ひそかに注ぎ出されたいのちから、
収穫が生じます。

(フレダ ハンバリー・アレンによる)