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多くの実
第二区分 その麦粒の物語

ジェシー・ペン-ルイス著

"MUCH FRUIT"
SECTION 2: THE STORY OF THE SEED-GRAIN
by Jessie Penn-Lewis

良い地に落ちたものとは、誠実で善良な心で御言葉を聞き、
それを堅く保ち、忍耐をもって実を結ぶ人たちです。
(ルカによる福音書八章一五節)


さて、良い土地に植えられたいのちの種の物語を追うことにしましょう。最良の始まり方をしたいのちは、ただちに成熟に達します。主に奉仕している種蒔き人たちは、これを覚えておきましょう。人々が良い始まりをするよう、心がけましょう。種を蒔く時、もっと注意して、最初にできるだけ有利な条件で、回心したばかりの人たちを世に送り出すようにしましょう。しかし、さらに重要なことがあります。それは、私たち自身のレベルが、私たちがキリストに導く人々のレベルを決めることがしばしばある、ということです。弱い木は貧弱な実を結びます。私たちのうちにあるいのちを強く保ちましょう。そうするなら、私たちがキリストのために獲得する人々のいのちも強いでしょう。

主は、誠実な人を良い土地として描写しておられます!聖なる神の御子は、「神以外に良い者はいません」と言われました!使徒パウロは、「善を行う者はいない、一人もいない」と付け加えました。ですから、良い心とは誠実な心――自分自身と神に対して誠実であり、真理を知り、それを行おうとする動機において誠実な心――を意味するようです。

誠実な心は自分の罪を覆い隠そうとしませんし、それを「環境」や「教育」のせいにすることもありません。また、神の真理を侵害したり、「自分の義を立て」ようとすることもありません。他の人は、「私は他の人々のようではないことを、あなたに感謝します」と言うかもしれませんが、誠実な心は、「神よ、罪人の私をあわれんで下さい」と叫びます。誠実な心は、自分自身について誠実であり、自分に関する真理を、たとえそれがどんなに不面目なものであったとしても、知ることを願います。また、罪を除き去り、神の条件に従って救いを受け入れることを、誠実に願います。

罪をその罪深さゆえに誠実に放棄するなら、いのちの言葉に適した良い土地ができあがります。多くの人は、罪をその極度の罪深さゆえに悲しむ以上に、罪の結果を悲しんでいます。

誠実な心は、「御言葉を聞いて、それを理解」します(マタイによる福音書一三章二三節)。なぜなら、誠実に真理に従うことを願う人に対して、御霊は真理を啓示して下さるからです。御霊は、難問に悩む誠実な魂を教えて下さいます。しかし、単なる好奇心を満足させることを拒まれます*

*「ヘロデはイエスが何か奇跡を行われるのを見たいと望んでいた。そこで、多くの言葉で質問したが、イエスは何もお答えにならなかった」(ルカによる福音書二三章八、九節)

誠実に罪を取り扱い、誠実に自分の知るすべての罪を放棄し、誠実に罪を告白し、誠実に真理を知り、それを行うことを願い、誠実に神の御言葉を受け入れるなら、種蒔きに適した良い土地ができあがります。このような心の中で、神の御言葉は効果的に働くことができます。このような心の中で、種はすぐに根をおろし、「十字架の言葉」は完全な力を現します。

毎日、御霊によって啓示される神の御言葉を堅く握りしめ、誠実に従うなら、魂は信仰から信仰へと導かれ、常に成長するでしょう。御父は農夫です。彼はご自分の霊を遣わして、御子を受け入れる人を個人的に世話されます。そして、内側で、静かに、絶えず働いて、忠実にご自分の働きをなさいます。

いのちの種の成長

「御言葉を聞き、それを保ち、(無理矢理成長させようとしてせかすのではなく)忍耐をもって実を結ぶ」(ルカによる福音書八章一五節)

種が成長している間、それを見ている必要はありません!種が根をおろしたかどうかを見るために、土を掘り返す必要はありません!「神の王国はこのようなものです。ある人が土地に種を蒔き、そして夜昼、寝起きしていると、その種は芽を出し成長して行きますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません」(マルコによる福音書四章二六、二七節)。

神の霊の注意深い顧みの下で、種は自分の働きをなし、戦って自分の場所を確保します。種を蒔く人が、御霊を流す清い管となってメッセージを受け取り、いのちの言葉を供給するなら、神の霊はその種を適切な土地に送って下さるでしょう。そして、種を蒔く人は自分の道を進むことができるでしょう。種は放っておいても大丈夫です。なぜなら、種は自分で芽を出し、しかるべき時に実を結ぶからです。「初めに葉、次に穂、次に穂の中に十分実った穀粒ができます」(マルコによる福音書四章二八節)。

忍耐が必要です。おお、「イエス・キリストの忍耐」が必要です!

農夫は、大地の貴重な実りを、耐え忍んで待っています」(ヤコブの手紙五章七節)。種が絶えず成長して、「初めに葉、次に穂」を生じる間、農夫は耐え忍んで待ちます。彼は、地面から芽を出したばかりの小さな緑色の葉に向かって、「地に落ちて死ぬ」ことを話したりしません。緑色の茎が現れて、高く伸び始めても、彼はこのことを黙っています。緑色の穂が形をなして、「十分実った穀粒」になる準備をしている時も、まだ色が緑の間は、土地に蒔かれるにはほど遠いのです。

神の子供よ、忍耐しなさい!待つことを学びなさい。自分自身や人々に関して、神に時間を与えることを学びなさい。「神は、ご自分を待ち望む者のために働かれる」。「野のゆりがどのように成長するのか、よく考えてみなさい。それは労苦しません」。しかし私たちは、成長しようと何と労苦することか!私たちは、自分の魂を見張り、顧みることで、負担を重くしているのです!

誠実な心よ、聖霊に依り頼みなさい。神の息である聖霊は、毎日、あなたにご自分を息吹き込み、あなたの中に植えられたいのちを生かし、養って下さいます。聖霊は、ご自分の御言葉がこれを遂行するのを見張り、永遠のいのちを「初めに葉、次に穂、次に穂の中に十分実った穀粒」へと成長させて下さいます。

しかしここで問題なのは、「主は私の協力をどれくらい必要とされるのでしょうか?」ということです!主があなたに求めておられるのは、あなたが毎日、自分自身を彼にまったく明け渡し、彼が啓示されるすべての光に絶対的に従うことです。なぜなら、次の文章は真実だからです。

「……神へのまったき信頼ほど、あなたを速やかに進歩させるものはない」
「神は常に現存して、魂のいのちに常に働いておられる。また神は、魂を束縛から解放するために常に働いておられる。(中略)神のこの内なる働きは、決してやんだり、変わったりすることはない。しかしながら、この神の内なる働きを常に妨げるものが一つだけある。それは、私たち自身の性質や能力から出た働きである。悪人は地的な欲望に従うことによって、神の働きを妨げる。善人は、自分自身の方法で、自分の生来の力、働き、計画(これらは上辺は聖なるもののように見える)によって良くなろうとして、神の働きを妨げる」(ウィリアム・ローの「霊の力」より)

農夫なる主は、順調に成長する麦の穂を見て満足されます。主は、それが「黄金色の穀粒」になるのを、まだ期待しておられません。小さな緑色の穂よ、忍耐しなさい。忍耐が必要です。「信じる者は急ぎません」。

時が過ぎて行きます。小さな緑色の穂は、成長させて下さる神に信頼して、自分が成長しつつあることをほとんど忘れてしまいます。穂は、暗闇の日も、晴れの日も、御父の御手から受け取ります。そして、暗闇の日には神に信頼し、晴れの日には喜びます。

穂は「労苦する」のをやめて、主に信頼し続けます。ある日目覚めると、「穂の中に十分実った穀粒」があるではありませんか!それまで麦穂は、「成長があまりにも遅いので、自分は実際に実を結ぶことはないだろう」と思っていたのです!最初に穀粒が生じた時、それらは未成熟で、何の役にも立たないように見えました。穂は中身のない、空っぽのさやのようでした!穂は、「黄金色の穀粒が実ることは決してないだろう」と自分に言い聞かせていました。そうこうしているうちに、幾日も過ぎて行きました。「義の太陽」が心の中を照らし、御霊の雨が御父から送られました。そしてついに、実が熟しました。穂の中の十分実った穀粒は、太陽の日射しを浴びながら、茎のてっぺんで風に揺れています。

成熟した麦粒

「三十倍、六十倍、百倍の実を結びます。(中略)実が熟すと、すぐに彼はかまを入れます」(マルコによる福音書四章二〇、二九節)

種を蒔く人が蒔いた種は、「穂の中の十分実った穀粒」になりました。さてここで、麦粒の集団を離れ、百倍の実の中から一粒の小さな麦粒を選んで、その物語を追うことにしましょう。

その小さな麦粒は、自分が多くの麦粒の一つであることを見いだします。麦粒はみな、茎のてっぺんの快適な住まいの中で、一つにまとまっています。麦粒は、楽しい仲間たち、太陽の日射しの中の暮らし、さわやかな雨、素晴らしい夏の大気を享受します!

これが麦粒の最終目的地なのでしょうか?これが麦粒の目標であり、その存在理由なのでしょうか?もしその麦粒が話せたなら、それは地面から芽を出したばかりの小さな麦の葉に向かって、「ここに上っておいでよ」と言うかもしれません。あるいは、小さな麦の葉のことなどすっかり忘れて、「すべてのものを遙かに超越した」自分の麗しい生活に夢中になるかもしれません。なぜなら、今の所まで成長する間に、その麦粒は地のあらゆるものを離れたからです。地のものがどこにあろうと、麦粒にはまったくが関心ありません。

茎のてっぺんには言葉の争いはなく、平和で、地のものから分離されています。またそこには、仲間の麦粒たちとの楽しい交わりがあります。しかし、麦穂の中には百個の麦粒が入る場所しかありません。そのため、その小さな麦粒の視野は狭くなりがちです。また、「自分たちのように『十分実った穀粒』は他にない」と考えがちです!

神の子供たちの多くは、この麦粒のようです!彼らは主を知ることを追い求め、楽しい仲間たちと共に成長し、恵まれた環境に囲まれています。毎日が輝いており、交わりは楽しく、集会、聖書朗読、神への奉仕は喜びに満ちています!快適な住まいから外を見渡して、恵まれない人々を憐れむことは、何と気楽なことでしょう!霊的な自己陶酔にひたることは、何と気楽なことでしょう!「聖いけれども、かたくなである」ことが、ここでの危険です。なぜなら、真に聖別されている魂であっても、自分自身の殻の中に閉じこめられ、制限されるおそれがあるからです。また、勝利している魂であっても、自分の経験のレベルに達していない人々に、つらくあたるかもしれないからです。私たちは「神のために働く」方法を知っているかもしれません。しかし、人々の信仰のいけにえと奉仕の上に注ぎ出されようとする、自己犠牲の情熱に欠けているかもしれません。使徒パウロは自己犠牲の情熱に満ちていました(ピリピ人への手紙二章一七節)。

農夫である主は満足されたか?

いいえ、主はその麦粒のために、さらに完全な御旨を持っておられます。麦粒は自分の存在目的をまだ全うしたわけではありません。確かに、麦粒は成熟しました。それまで、その麦粒の主要な目的は成長することでした。麦粒は、「黄金色の麦粒」になるために、必要な栄養をすべて吸収しました。

今や、成熟した麦粒の前に、三つの道が広がっています。

1.天の倉に納められる

「彼は自分の麦を倉に納めます」(マタイによる福音書三章一二節)

たとえ、麦粒がサタンによってふるいにかけられ、悲しみや試みによって翻弄されても、御父は「一つの麦粒も地に落ちない」(アモス書九章九節)と約束されました。人の子なる主は、大いなる刈り取りで、麦を倉に納められます。しかし、倉に納められることは、麦粒に到達可能な最高の結末ではありません。にもかかわらず、自分自身の救いや聖化を究極的な目標にしている人が大勢います。

2.パンをつくるために用いられる

「パンのための麦は砕かれる」(欽定訳)、「否、それをいつまでも脱穀することはしない。彼はそれを圧搾されない」(イザヤ書二八章二八節)

倉に集められる麦は、脱穀されますが砕かれません。しかし、成熟した麦粒がさらに役立つものとなるためには、砕かれなければなりません。御父のパン麦は砕かれる必要があります!しかし、圧搾されて役に立たなくされることは決してありません。

これは、キリストの苦難にあずかって、「苦難を通して完成」されることを、意味するのではないでしょうか?なぜなら、「弟子は師のように完成されなければならない」(ルカによる福音書六章四〇節)からです。

3.種粒の一つになって、多くの実を結ぶ

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、多くの実を結びます」(ヨハネによる福音書一二章二四節)
「あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません」(コリント人への第一の手紙一五章三六節)

砕かれたパン麦と、地面に埋められた麦粒とは、神の働きの二つの面を表します。神はご自分の永遠の栄光のために、「人の魂の中にある神のいのち」を最高度に発達させられます。

パン麦は神の側から見た面を表します。パン麦は砕かれることによってキリストの形に同形化されます。聖所にある「神のパン」(レビ記二一章二一節)は、イエスの性格を意味しました。またそれは、彼が御父の喜ぶ者として、完全に御父に受け入れられたことを意味しました。さらに、「私たちは数は多くとも一つパン、一つからだなのです」(コリント人への第一の手紙一〇章一七節)と記されています。パンは多くの麦粒からできています。多くの麦粒は、引きこなされ、火によって組み合わされて、一つパンに形造られます。そのように私たちは、私たちのかしらであるキリストに結合され、彼にあって、彼と共に、聖所にある「神のパン」となります。

地面に埋められた麦粒は、人の側から見た面を表します。「死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働きます」(コリント人への第二の手紙四章一二節)とあるように、芽を出した麦粒から、神聖ないのちがほとばしり出ます。これは人々の信仰のいけにえと奉仕の上に注ぎ出されること――人々が祝福されるために、自己を忘れ、自己を減少させること――を指すように思われます

農夫なる主がこれを成就される方法を見るために、地面に埋められた麦粒の歴史に進むことにしましょう。

倉への途上、
その死は、他の者にいのちとなる。
喜んで死に、喜んで進む。
決して「いいえ!」と答えない。
他の者のために、畑を離れて死ぬ。
「あなたに忠実であらせて下さい」が、その心からの叫び。
それゆえ、私を取り、私を用い、私を粉々に砕いて下さい。
あなたの御手とあなたの御心に、私は忠実に信頼します。

(エバン・ロバーツ)