ジェシー・ペン-ルイス著
"MUCH FRUIT"
SECTION 3: THE BURIED SEED-GRAIN
by Jessie Penn-Lewis
彼は別のたとえを彼らに語られた。……
良い種を蒔く者は人の子です。
畑は世界です。良い種は王国の子供たちです。
(マタイによる福音書一三章二四、三七節)
ここで述べられている種蒔きは、御言葉の種を蒔くこととは明らかに異なります。ここでは、人の子ご自身が「畑である世界」の中に「王国の子供たち」を蒔かれます。
御言葉の種を良い地に蒔いた結果、十分実った麦粒ができました。ここで述べられている種蒔きは、それらの麦粒を蒔くことです。主は、ご自分の働き人たちを用いて、いのちの言葉を蒔かれます。しかし主は、麦粒の一つ一つを、釘で刺し通されたご自分の両手に納められます。これに関して、主は決して何ものにも信頼されません。主は、「私は私のために彼女を地に蒔こう」(ホセア書二章二三節)と仰せられます。「彼女」とは誰でしょう?それは、主が荒野にいざなわれた者のことです。それは、「私は真実をもってあなたと契りを結ぶ。(中略)そして、あなたは主を知るであろう」(ホセア書二章一九、二〇節)という御声を聞かせるために、主が地のあらゆるものから引き離された者のことです。それは、最初の麦粒である主に結合された者のことです。
「主は言われる、その日(あなたが私を『私の夫』と呼ぶ日、一六節)私は答える。私は天に答え、天は地に答える。地は穀物とぶどう酒と油に答え、それらは『神が蒔かれる者』に答える。そして、私は私のために彼女を地に蒔こう」(ホセア書二章二一〜二三節)
創造主は天の願いに答えて、天の祝福を地上に注ぐよう、天にお命じになります。天は地の叫びに答えて、前の雨と後の雨を降らせます。これを受けて、地は穀物とぶどう酒と油に答え、それらを豊かに生じさせます。天と地は一つになって、「神が蒔かれる者」である麦粒に対する主の御旨に答えます。
この時、主に結合された魂の明け渡された生活を通して、次の御言葉が実現します。
「私は、私の民ではなかった者たちを、私の民と言おう。そして彼らは、『あなたは私の神』と言おう」
現在の終末の時代、聖霊は、「山々の頂に穀物を豊かに生じさせる」ために*、地に対して速やかに働いておられます。このような時代にあって、何と多くのことが神の奥義を識別することにかかっていることでしょう。
*その実りは「レバノンのよう」です(詩篇七二篇一六節)。
確かに、次の御言葉は今日真実です。
「主は言われる、『見よ、このような日々が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種を蒔く者に相継ぐ。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘は溶ける』」(アモス書九章一三節)
さて、麦粒に戻って視覚教材を見ることにしましょう。そして、この視覚教材から、この終末の時代にあって、釘で刺し通された神の御手に自分を明け渡すことを学びましょう。そうするなら、神の完全な御旨が私たちによって成就されるでしょう。
主に結合されて主と「一つ霊」となった麦粒は、自分の存在法則に目覚めます。そして、地に蒔かれるために自分自身を神の御子に明け渡します。その麦粒は、どんな代価を払っても豊かな実を結ぶことを、神に叫び求めます。麦粒の人生の目的が成就され始めます。その麦粒は、「自分の」進歩や「自分の」成長に夢中になることの中に利己的な要素があるのを見ます。麦粒は一人だけ倉に納められるのを極力避けます。
天の農夫なる主は、聖霊によって促された麦粒の叫びを聞いて、その祈りに答える準備を静かに開始されます。主は穏やかに、気づかれないように、麦粒をその住まいに縛りつけているものから解き放されます。そして、麦粒を地に蒔く準備をされます。
主が叫びを無視されたかのように見えるかもしれません。小さな麦粒は、「どうして主は祈りに答えて下さらないのだろう?」と不思議に思います。しかし、大気と日射しは静かに働きを進めます。その麦粒は、自分でも気づかぬうちに成長します。そしてついに、古い束縛から解き放たれる時が来ます。麦粒は放り出されて、地面に落ちます。そこは暗く、孤独で、見慣れない場所です。
いったい、何が起きたのでしょう?
その小さな麦粒は、実を結ぶことを求めたのであって、このような見慣れない道を求めたのではありません。太陽の日射し、昔の仲間たち、過去の幸いな経験はどこへ行ったのでしょう?「ここはどこでしょう?」、「これにはどんな意味があるのでしょう?」と、孤独な麦粒は叫びます。「自分はもはや役に立たないのでしょうか?」。「私の快適な住まいや、これまで親しんできた居心地の良い環境はどこに行ったのでしょう?」。「地上のこの暗い場所は居心地が悪いです。しかも、私の美しい服を損なっているようです。茎の頂の小さな家に住んでいた時、私の服は非常に美しかったのです。あの頃、私は地から遠く離れ、すべてのものを遙かに超越していました」。小さな麦粒はこう考えます。
まもなく、麦粒は、自分のおおいが粉々になって行くのを見て、ショックを受けます。これは最悪です。外側の美しさを保てた間は、孤独や、暗闇や、役に立たないことにも辛抱できました。「ああ、私がこのように後退するとは!どうしてこんなことがあり得るのでしょう?」
さらに、麦粒は周囲の状況に「翻弄されて」いるかのようです。麦粒は周囲の状況によって砕かれて、自分自身を守ることも、以前のように「すべてのものを遙かに超越する」こともできません。地上の物事によって再び動揺させられようとは、まったく思いもよらないことでした。
その間、その小さな麦粒は神の信実さに信頼して安息します。自分に対する奇妙な取り扱いにもかかわらず、麦粒は主が信実な神であることを知っています。また、主が盲人のような自分を、自分の知らない道で安全に導いて下さることも知っています。麦粒は詩篇の作者と共に、「私はなおも主をほめたたえます。主は私の神、私の容貌を健やかにして下さいます」と叫びます。
かわいそうな小さな麦粒!暗い地面の中で踏みつけられ、埋められて見えなくなり、無視され、忘れ去られてしまいました。この麦粒は、かつてとても尊敬されていました。他の群れの麦粒たちは、それを見上げて、その意見に敬意を払って聞き入りました!
麦粒は、昔のある人のように、「人々は私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。(中略)彼らは雨を待つように私を待った。(中略)私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。(中略)私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。(中略)私は、嘆く者を慰める者のようであった。しかし今は―――!」と叫びます(ヨブ記二九章二一〜二五節。三〇章一節)。
今や、その麦粒は独りぼっちになり、忘れ去られてしまいました。麦粒は、「私は憐れんでくれる者を探したが、誰もいなかった。慰めてくれる者を探したが、見いださなかった」と叫びます。他の神の子供たちは、「主が傷つけられた者たちの悲しみについて語る」かもしれません。しかし、おそらく、彼らはとりなす負担を持たず、心のうちに苦しむことなく、涙も流さないでしょう。彼らは、「自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」(ヘブル人への手紙一三章三節)とある御言葉を実行しないでしょう。
地面に埋められた麦粒よ、神に「はい」と言いなさい。主はあなたの祈りに答えておられるのです。
おそらく、過去のあなたは成功した奉仕や幸いな経験に夢中になっていたのでしょう。あなたは誘惑や小さな麦の葉が直面する困難を少しも理解きませんでした。あなたは、「自分も誘惑されないように注意する」かわりに、失敗を犯した者たちを厳しくあしらいました。
あなたは、地面から芽を出したばかりの小さな緑色の葉に向かって、「あなたはもっと成長しなければ『なりません』、もっと成熟しなければ『なりません』」と言いました。
誰かが彼らを踏みつけて、彼らが地面に向かってかがんだ時、あなたは彼らのことを「弱い」と思いました。
彼らの信仰が弱かった時、あなたは彼らを落胆させて、「彼らを受け入れ」ませんでした。また、愛をもって彼らの弱さを忍耐しませんでした。あなたは、より成熟している自分が見ているものを、彼らにも見せようとしました。あなたは待つ方法も、彼らを励ます方法も、彼らに成長する時を与える方法も、理解しませんでした。あなたは彼らをせかすことを願いました。そして、彼らが「主を知る」ことを追い求める時だけ、彼らの視力は増し加わるということを、見ていませんでした。
地面に埋められた麦粒よ、あなたは、人々が会う誘惑や悲しみに対して、「心の苦しみや多くの涙」に欠けていました。それゆえあなたは、「あなたの兄弟に関して、真に有罪」でした。あなたは自分を守りました。あなたは地面に向かってかがむことを恐れ、「多くの人を得るために、弱い者には弱くなる」ことを恐れました!
さて、麦粒の視覚教材が解き明かす王国の奥義を学びましょう。ただし、それは視覚教材にすぎないことを覚えておく必要があります。あなたの内にある神のいのちは、あなたが神ご自身の御手によって砕かれなければ、実を結ぶことができませんでした。主は、あなたが地的な環境、試み、孤独、はずかしめにあうことを許されました。それは、あなたを解放して、神から来る豊かないのちに至らせるためでした。
成長の各段階でさらに成長することを願うなら、以前必要だった多くのものを捨てなければなりません。最初、いのちの胚珠は書き記された御言葉の外形の中に隠されています。殻は無くなる(つまり、私たちの記憶の中から無くなる)かもしれませんが、いのち――生ける御言葉――は残ります。成長に適した条件の下、種をふさぐものから清められた「誠実で善良な心」の中で、そのいのちは成長します。いのちは、「葉、茎、穂、穂の中の十分実った穀粒」と記されているように、様々な外形を示します。
時が満ちた時、ナイフが必要になります。なぜなら、過去の支えを取り去り、過去の経験から分離し、かつて役立った外側のものを過ぎ去らせなければならないからです。緑色の葉、茎、麦穂は、いのちのための単なる外側の覆いに過ぎませんでした。いのちは、それらのものを通して成熟し、自分を犠牲にして実を結びました。
麦粒は、過去の支えを取り去られ、過去の環境から引き離されました。しかし、さらなる剥ぎ取りを経なければ、その成熟した麦粒の内にあるいのちは、百倍の実を結ぶことはできません。麦粒は、実を結ぶことを妨げる外側の殻を砕かれなければなりません。
誠実な心は、神のまったき御旨が自分の内で成就されることを、神に叫び求めます。聖霊はこのような人々の中で、たとえ彼らが彼の働きを理解していない時でも働かれます。内なる霊のいのちが彼らを次の段階に進ませる時、彼らが出会う危険は、過去の経験、過去の助け、過去の支えにしがみつくことです。特に、その段階が「上向き」ではなく、「下向き」に見える時、この危険が大きくなります。しかし、今見ている視覚教材によると、「下向き」の道は実を結ぶことを意味し、「上向き」の道の連続は麦粒が成熟に至る過程を意味します。
これが実際いかなる経験を意味するのかは、聖霊だけしか理解させることができません。ここでは、神に信頼して神の取り扱いに自分を明け渡すことを学ぶために、神の働きの諸原則をいくらか知れば十分でしょう。そうすれば、私たちは神の働きを「奇妙に思う」ことはないでしょう。神は私たちを「極度に圧迫し」、「生きる望み」さえも失わせ、「私たち自身のうちに死」という答えを持たせます。それは、私たちが自分自身に信頼するのではなく、死人を復活させる神に信頼するようになるためです(コリント人への第二の手紙一章九節)。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、多くの実を結びます」(ヨハネによる福音書一二章二四節)
「死は私たちの内に働き、いのちはあなたがたの内に働きます」(コリント人への第二の手紙四章一二節)
ついに、その麦粒は人の目から隠されることを喜ぶようになります。それは踏みつけられることを喜び、神が選ばれた孤独な一角に静かに横たわることを喜びます。それは、人々から「失敗者」とみなされることを喜びます。それは、輝かしい経験からはほど遠い、神の御旨のうちに生きることを喜びます。それは、他の麦粒たちとの楽しい交わりから遠く離れた、孤独と孤立の中に住むことを喜びます。
その小さな麦粒は、キリストとその死の中で交わることの意味を、いくらか学びました。そして今、「私のために自分のいのちを失う者は、それを見いだします」(マタイによる福音書一六章二五節)という御言葉が実際のものとなります。
静かに、確実に、神聖ないのちは豊かな実を結び始めます。その麦粒は自分自身を与えて、「自分のいのち」を離れました。しかし、麦粒は依然として生きています。今や、主のいのちの中で生きています。
地面に埋められた麦粒は、忘れ去られて満足します!なぜなら、実った畑を見る時、いったい誰がその麦粒を思い、それが暗闇の中で経験した悲しみや苦しみを思うでしょう?しかし、その麦粒は満足します。なぜなら、自分の存在法則が全うされるからです。その麦粒は自分と自分の益を放棄しました。そして今、他の麦粒たちの中に生きています。それは、自分から百倍の実が生じたことを知らせようとは思いません。
そのように、キリストご自身も、その魂を死に至るまで注ぎ出されました。その結果、彼は「自分の種(子孫)を見」*、自分の魂の苦しみを見て満足されました**。なぜなら彼は、彼が贖った者たちの中で再び生きるからです。こうして、神の素晴らしい法則――霊の世界で繰り返される自然界の法則――により、神ご自身によって蒔かれた最初の麦粒は、同じ性質と同じ存在法則――「もし死ねば、多くの実を結ぶ」――を持つ、他の麦粒たちの中に再生産されます。
*イザヤ書五三章一〇節(訳者注)
**イザヤ書五三章一一節(訳者注)
「もし死ねば、多くの実を結びます。(中略)誰でも私に仕えるなら、私について来なさい。私のいるところに、私に仕える者もいるべきです。(中略)御父はその人を尊ばれます」(ヨハネによる福音書一二章二四、二六節)
「なぜなら、あなたがたは死んだのであり、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の中に隠されているからです」(コロサイ人の手紙三章三節)
私たちは、地に落ちて死ぬために下り道を行く、小さな麦粒を見てきました。麦粒は「この世にあって自分のいのちを憎み」ました。そして今、そのいのちはキリストと共に神の中に隠されています。
「私のいるところに、私に仕える者もいるべきです」。隠された道を行く孤独な麦粒が、砕かれ、剥ぎ取られることに同意している間、その内側にある神聖ないのちは人々にあふれ流れます。そして、昇天された主との、より強い、より豊かで、より純粋な合一に向かって、静かに成長します。「私のいるところに、私に仕える者もいるべきです」―――十字架と墓に至るまで私について来る僕は、私と共に御父のもとに行くでしょう。そして、その人の「いのちは天にとどまる」(ピリピ人への手紙三章二〇節、コニーベア)でしょう。「私のいるところに、彼らも私と共にいるためです」(ヨハネによる福音書一七章二四節)
「今、私の魂は騒いでいます。私は何と言いましょうか?父よ、この時から私を救って下さい。しかし、このためにこそ、私はこの時に至ったのです。父よ、御名の栄光を現して下さい」(ヨハネによる福音書一二章二七、二八節)
主キリストでさえ、詩篇二二篇で予告されていた荒廃と苦難の時に近づいた時、困惑されました。御父が御顔を隠されたことは、心臓が破裂することや釘や槍以上に、つらいことでした。主はご自分を救うこともできました。主は御父にお願いして、天使の群れにご自分の命令を行わせることもできました。しかし、もしそうしていたら、神と小羊にささげられる初穂たちはどうなっていたでしょう?
「今、私の魂は騒いでいます。私は何と言いましょうか?父よ、私を救って下さい」。しかし、主の祈りは、「父よ、御名の栄光を現して下さい」でした。
あなたが御顔を隠される時、
―――あなたの御名の栄光を現して下さい。
あなたが私の苦い叫びに対して沈黙される時、
―――あなたの御名の栄光を現して下さい。
人々が私を非難し、私をさげすむ時、
―――あなたの御名の栄光を現して下さい。
「神に見捨てられたのだ」と嘲られる時、
―――あなたの御名の栄光を現して下さい。
私が水のように注ぎ出される時、私の心臓が停止する時、
私の力が尽き果てる時、私が死のちりにもたらされる時、
―――あなたの御名の栄光を現して下さい。
もし小羊が行く所へはどこにでもついて行くなら、御父はキリストに保証されたように、私たちにも、「私はすでに栄光を現したし、またもう一度栄光を現そう」と保証して下さるでしょう。
「勝利を得る者を、私と共に私の座に着かせよう。それは、私が勝利を得て、私の父と共に父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(黙示録三章二一、二二節)
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