「終末における霊的な備え」からの抜粋
チャールズ・アッシャー著
"Back to the Cross !"
An excerpt from "Spiritual Equipment for the Last Days"
by Charles Usher
私たちはこの時代の終わりの時にいます。時計の針は十二時に近づきつつあります。今は真夜中の暗闇の時です。しかし、最も暗い時こそ夜明け前なのです。
教会は急速に背教の状態に陥りつつあり、ますます神から遠ざかっています。
戦争により、世界は混沌とし、教会は麻痺しました。
暗闇の力が解き放たれ、教会にも世界にも邪悪な影響を及ぼしています。
先の戦争は、教会に多くの問題を突きつけました。それらの問題は、世界が取り組んでいる問題と同様、取り扱いが困難です。
キリストの十字架こそ、現在の暗闇を照らす光です。
私たちは罪についての新鮮な啓示を必要とします。なぜなら、罪のせいで私たちは道に迷い、キリストの十字架の死により私たちは神へと買い戻され、回復されるからです。
ペテロ第一の手紙三・一八、「キリストは一度罪のために死なれました。それは、私たちを神のみもとに導くためでした」。
多くの人が罪の罪深さに対する感覚を失うのは、キリストの贖いの死の実際から遠く離れているせいです。罪の深さと罪の悲惨さとを見ることができるのは、ただ十字架においてのみです。
カルバリは、人が神の権威を憎んでいることを啓示します。その憎しみは、かつてなかったほど邪悪で陰険な行ないとなって現われました。
十字架は「信仰の試金石である」と言われています。これは幸いにも真実です!しかし、十字架は人の心の試金石でもあります。十字架は人の真の性質を顕わにします。
教会は十字架を見失ってしまいました。そのため、罪の罪深さもわからなくなってしまいました。教会は、神の光の中で罪を見ることができ、人が「私は主を十字架につけてしまった」と叫ぶよう導かれる場所からさまよい出てしまいました。
今日驚くべき事は、教会の中の罪です。クリスチャンが罪を犯しながら、それを何とも思わないとは、何と恐ろしいことでしょう!
神の民が罪を犯しています。彼らは心の中で罪を犯し、思いの中で罪を犯し、説教壇で罪を犯し、集会所の座席で罪を犯しています。彼らは、カルバリにもかかわらず、また、聖書がさんざん罪の恐ろしさや堕落を啓示しているにもかかわらず、罪を犯しています。
神の子供よ!カルバリに立ち返って、罪人の立場に立ちなさい。十字架により心のかたくなさを溶かされて、涙を流しなさい!
罪は分離をもたらします。
これは神聖な法則であり、それを私たちは教理として知るだけでなく、経験としても知る必要があります。十字架こそ、私たちがこの学課を徹底的に学ぶ唯一の場所です。
カルバリの木にかけられた時のキリストの言葉を聞いて下さい。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)。
これはたんに肉体の死で苦しんでいる方の言葉ではなく、神からの霊的な分離を経験しつつある方の言葉です。罪のないキリストは、決して御父から分離されたことがありませんでした。永遠の無数の時代を通して、キリストと御父とは一つでした。
この祝福された一つを、キリストの地上生活の中に一貫して見ることができます。そして、これが彼を支え、ご自身に対する罪人たちの反抗にも耐えることができるようにしました。
しかし、十字架上でキリストは、私たちの罪の重荷をご自身の上に担われ、恐ろしい分離の暗闇の中に入って行かれました。それは私たちを神と和解させるためでした。
この霊的な分離こそ、キリストが私たちの身代わりとなって忍ばれたものであり、和解の意義を構成し、イエスの死を唯一無二のものとします。
あの暗闇の時、キリストは私のために見捨てられました。ああ!神の子供よ、もしあなたがこれを忘れるなら、十字架を救いに至らせる神の力とする霊を失うでしょう!
私たちはイエスの死のこの面に戻る必要があります。そして、霊が私たちを所有して、カルバリの原則そのものが私たちの生活の中に確立される必要があります。
私たちは罪の中にあった時、和解のために十字架に来る必要がありました。それだけではありません。クリスチャンになった後も、神から離れないよう私たちを守るイエスの贖いの死を必要とするのです。しかし、私たちはこれをなかなか認めようとしません。
私たちはしばしば、冷たい神学用語で「恵み」について語ります。しかし、私たちがイエスの死との個人的な関係にもたらされる時、恵みの素晴らしさが完全に啓示され、私たちはキリストに対する熱烈な愛で燃やされます。
「私たちは復活したキリストとの結合に進むために、十字架を離れるべきでしょうか?」。これは神の民の多くが尋ねる質問です。誰かが彼らに、キリストの死を継続的に生活に適用する必要があることを告げると、彼らは言います、「しかし、私は復活した主の中にあります。そして、私が必要としているのは生けるキリストであって、死せるキリストではありません」。このような誤解の多くは、祝福に満ちた真理を霊の中ではなく、文字の中で取り扱うことによります。「文字は殺し、霊は生かします」(二コリント三・六)。
キリストの霊はカルバリの霊です。キリストの十字架上の死は、キリストのいのちの最高の表現でした。あなたが彼のいのちにあずかる時、キリストの十字架の霊はあなたのいのちの原則となります。
パウロは、復活した主との一層深い結合を求めた時も、十字架を越えて進むことはしませんでした。生けるキリストとの結合が深まれば深まるほど、さらに深くキリストの死の中に沈まなければならないことを、彼は見ました(ピリピ三・一〇)。
キリストと共によみがえらされて、生ける信仰によってキリストの中に住むことは、あなたがキリストの死にあずかることを意味します。
勝利のクリスチャン生活の条件は、キリストとの結合です。
罪に打ち勝つ唯一の方法は、イエス・キリストと結合した生活によります。
私たちの祝福に満ちた主は、ヨハネによる福音書一五章でこれをとても明確に教えておられます。彼は言われます、「私を離れては、あなたがたは何もすることができません」。信者が学ぶ初期の学課の一つは、あらゆることで絶対的に主に頼ることです。キリストがおられなければ無力であることを学ぶのです。
罪人に対するキリストの言葉は「私のもとに来なさい」です。信者に対する彼の言葉は「私の中に住みなさい」です。
「主に結合される者は、一つ霊です」(一コリント六・一七)。しかし、この結合はどのように生じるのでしょうか?
主イエス・キリストを信じることは、キリストの中へと信じ込むことを意味します。その信仰はキリストに向かい、キリストご自身の中に錨をおろします。このようにして、信者は彼との生き生きとした接触にもたらされます。
ヨハネによる福音書第三章の神の御言葉を見てみましょう。ここで私たちは、再生あるいは新生についての主の教えをはっきりと受けます。
まず、その必要性が語られます(三節)。次に、その性質が語られます。なぜなら、それは霊的な性質、霊的な誕生だからです(五〜六節)。しかし、一四節と一五節で、私たちはそれに入る道を見ます。それはキリストを信じることによります。この「………を」(in)という言葉は、「………の中へと」(into)と訳されるべきです。一四節を見て下さい。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」。
罪人がキリストを信じることができるようになるには、カルバリが必要でした。十字架につけられた救い主は、すべての人を彼へと引き寄せます。ヨハネによる福音書一二章三二〜三三節を見て下さい。「『私が地上から上げられるなら、私はすべての人を自分のところに引き寄せます』。イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」。
サタンの願いは信者を十字架から引き離すことです。そして彼は、復活した主と結合したいのちを追い求めるよう人を駆り立てて、しばしば最も大きな成功を収めます。しかし悪魔は、十字架の他に、十字架を離れては、真の結合はないことを知っています。だから彼は、その代わりに偽物の経験を与えるのです。
パウロはローマ人への手紙第六章で、よみがえらされたキリストに結合され、生ける信仰によって彼の中に住むことは、私たちが彼の死にあずからなければならないことを意味する、とはっきり教えています。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中へとバプテスマされた私たちはみな、その死の中へとバプテスマされたのではありませんか」(ローマ六・三)。
彼はまた、キリストとのより深い結合は、私たちがより深い十字架の認識を持つときのみ可能であることも教えています。ピリピ人への手紙三・一〇を見て下さい。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり」。これを私たちは知る必要があります。教理や感情によってではなく、実際の経験によってです。そしてその結果は、力に満ちた生活であり、罪、サタン、病、死に対する勝利の生活です。これは私たちが十字架に立ち返る時のみ可能です。
キリストの血を継続的に生活に適用する必要はないと言うことは、彼の死の意義を表面的にしか認識していないことを示します。十字架上で流された血が、私たちの完全な贖いのために常に効力を持つことは、幸いにも事実です。しかし、それがキリストの死の御業のすべてではありません。絶えず罪からの清めが必要なのです。
ある神の聖徒が、かつて驚くべき質問を私にしました。「あなたが最近罪の告白をしたのはいつですか?」。私はその質問に捕らえられてしまい、答えることができませんでした。それで私はそのことで神のもとに行き、自分がありふれた間違いを犯していたことを見いだしました。血が自動的に罪を清めてくれるのを頼みとしていたのです。また私は、自分が罪人であることも見失っていました。この質問をあなたにあてはめてもよろしいでしょうか?あなたが最近罪の告白をしたのはいつでしょうか?「もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます」(一ヨハネ一・九)。
神が私たちの中で働かれるのを妨げるものの一つに、邪悪な生まれながらのいのちの活動があります。それは私たちを常に霊から引き離し、霊の中で歩けなくさせます。私たちの霊は絶えずこの邪悪な影響を受けており、どんなに努力しても、私たちは自分の霊を支配することができず、神の静けさの中を歩くことができません。この十字架につけられていない邪悪な性質は、サタンとその悪霊が利用して、燃え立たせることができる道具でもあります。それゆえそれは、私たちと暗闇の力との戦いのおもな原因であり、彼らが継続的に攻撃するための「根拠」なのです。
私たちは、どのように血を適用して彼らを征服するのかを学んだかもしれません。しかし、そこに「根拠」がある限り、彼らは何度も戻ってきて戦いを挑むのです。
十字架は治療薬です。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ五・二四)。しかし、どのようにしてでしょうか?それは、邪悪な生まれながらのいのちを絶対的にキリストの死に渡すことによってであり、キリストの中に住む姿勢を常に取り続けることによってです。このように彼の死の効力にあずかる結果、罪と邪悪な性質から解放され、私たちはいのちの新しさの中を歩くことができるようになります。
ローマ人への手紙第八章には、全聖書の中でも、霊にあるいのちについての最も明確な描写の一つがあります。しかし、私たちはその章のまさに冒頭に「キリスト・イエスにあるいのちの霊の法則」という言葉があるのを見ます。キリストとの結合を通して以外に、霊のいのちの中に入る可能性はありません。その結合は、死といのちから成るものなのです。十字架から離れて霊のいのちを得ようとするいかなる試みも、失敗や欺きという結果に終わります。
聖霊は十字架の霊です。十字架は霊の最高の表現です。キリストがご自分を神にささげられたのは「永遠の霊を通して」でした(参照ヘブル九・一四)。
キリストとの死の結合を知っている人は、清めの価値を見落とす大きな危険性があります。
清めは、私たちが神と共に歩むことと関係があります。
罪は支配する原則であるだけでなく、汚れでもあります。
私たちはまず、死におけるキリストとの一体化という基礎についてはっきりしていなくてはなりません。そうでないと、私たちが常に清めを求めていたとしても、邪悪な性質は絶えず魂を汚し続けるでしょう。ある人々は清めの祝福を知っていますが、それを維持することができません。なぜなら彼らは、自分たちの経験にとどまって、死と復活におけるキリストとの結合という神聖な基礎にとどまることをしないからです。キリストの死こそが、邪悪な性質にその活動をやめさせるのです。信者が信仰によってキリストの中に住む時、キリストの死は信者を、主人である罪の縄目から断ち切ります。
しかし疑問が生じます。「もし私がキリストの中に住んで、まったく罪に対して死んだことを認めるのであれば、清めの必要はあるのでしょうか?」。あります。なぜなら、それは信仰の姿勢であって、あなたはそれを守るのに失敗するかもしれないからです。目をさましていることに欠けるため、あなたは邪悪な性質に屈服して、汚されるかもしれません。それゆえ、清めが必要なのです。いかなる汚れの感覚も、あなたを神の臨在から遠ざけてしまうでしょう。「私はキリストの死の中に住んでおり、それゆえ私は自由です」と言うだけでは十分ではありません。
犯した罪は、神に告白し、キリストの血を適用することによって、清め去られねばなりません。キリストの死は一度限りのものでしたが、血は常に適用されるべきものです。
これは旧約聖書の赤い雌牛の予表によって典型的に示されています(参照、民数記一九・二〜二二)。雌牛はほふられ、その灰は汚れた時に適用するために取っておかれました。罪人のためにささげられた一つの贖いの犠牲がそこにありましたが、依然として「灰」を適用する必要がありました。キリストの犠牲についても同じです。
罪を告白して、清める血を求める必要のない人はいません。
汚れは内側からだけでなく、外側からもやって来ます。この世との接触は私たちを汚します。私たちが吸い込む道徳的な空気でさえ、汚染するものです。
心と生活の清めは、神との交流や交わりに欠かせません。
私たちはこれを詩篇二四篇三、四節からとてもはっきりと学びます。「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手が清く、心が清らかな者、その魂をむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」。
「手が清く」とは、私たちが触れるものについて述べています。
民数記一九章によると、もし人が何であれ死んだものに「触れる」なら、それが意識的なものであれ、不注意による無意識的なものであれ、儀式的には直ちに汚れた者となり、贖われた礼拝者たちの特権から断ち切られました。
これは物理的な事柄よりもさらに深い事柄の予表です。それは、ご自分の民の生活に対する神のねたみを示しています。また、思いや行ないにおいて罪深い事柄に触れることによって、魂がどのように神との交わりを失うのかを示しています。
意識的にせよ、無意識的にせよ、自分を汚す事柄にはまったく触れない、と言える人がいるでしょうか?ですから、継続的に注ぎの血を適用することが必要なのです。
「心が清らかな」。これはいのちが湧き上がる泉と関係があります(参照、箴言四・二三、マタイ一五・一八、一九)。
素晴らしく偉大な貴い約束が私たちに与えられています。「それは、私たちが世にある欲のもたらす滅びを免れ、神の御性質にあずかる者となるためです」(二ペテロ一・四)。
ただ神の神聖な性質においてのみ、私たちは神に近づくことができます。この神聖な性質が治めなければなりません。それが治めることができるのは、古い性質が信仰によって十字架上にとどまっている時だけです。
血による清めは私たちの邪悪な性質を対処しません。対処するのは十字架です。「私たちはこのことを知っています。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられました」(ローマ六・六)。「キリスト・イエスにつく者は、肉を十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ五・二四)。
しかし、交わりを断ち切って神の御前に「立つ」ことをできなくさせる邪悪な性質のあらゆる活動に基づく汚れも、清めは取り除きます。「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ五・八)。
「その魂をむなしいことに向けず」。
自分の中にある「わたし」は人に見てもらうこと、知ってもらうこと、聞いてもらうことを欲していますが、魂はこの「わたし」という自己愛や高慢の座です。また魂は、「私は他の人々のようではないことを、神に感謝します」というようなことを言う、宗教的高慢の宿る座でもあります。この宗教的高慢は、最も霊的な人々にさえ忍び寄って、汚してしまいます。
それは、自分を他の人々から分離する姿勢や、他の人々を正しいと主張する批判的な精神や、聖徒たちを裁くことにおいて現されます。
しかし、主が光の中におられるように、これらの人々が光の中を歩くことを学ぶなら、彼らは互いに、すなわちすべての聖徒と交わりを持ち、イエス・キリストの血がすべての罪から彼らを清めます。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いて」います(一ヨハネ一・八)。自己を義とすることは私たちを罪に定めます。
「もし、私たちが自分の罪を告白するなら」とは、私たちの生来の罪と清めの必要とを認識することです。
意識して神の臨在の中に生きている人は、決して「私は罪を犯しませんでした」とは言わないでしょう。主の前における救われた罪人の言葉は、「私は自分の罪を告白します」です。
その時、血を信じる信仰は嘆願となり、聖徒たちとの交わりがその結果となります。
イエス・キリストが十字架に行かれた時、彼は私たちの罪を贖われただけでなく、私たちの霊的な敵であるサタンを打ち破られました。これは、キリストのカルバリにおける御業の最も重要な部分です。なぜなら、人は内側で罪に束縛されているだけでなく、外側でサタンに束縛されているからです。イエス・キリストの御業のこの面を見失うことは、悪との戦いにおける立場を大いに弱めてしまいます。ただカルバリの勝利においてのみ、神の子供は今日広く行き渡っているサタンの力の現在の活動に立ち向かうことができます。
サタンは、天に向かって進みつつある教会の進路を自分の軍勢によって遮り、こうしてキリストが王として地上を治めるために戻って来られるのを遅らせています。これらの軍勢は霊的で邪悪であり、ただ霊的な武器によってのみ対抗することができます。
しかし、こう尋ねる人もいるでしょう、「どのようにして悪魔はキリストの再来を遅らせることができるのですか?」
教会を敗北の状態にとどめておくことによってです。
キリストが戻って来られるとき、勝利者たちは彼と共に地上を治めます。しかし、彼らは今ここで、イエス・キリストとの結合を通して、霊の中で勝利して治めることを学んでおかなければなりません。
神の民の多くは、地的な事柄にあまりにも占有されているせいで、霊の領域についてまったく聞き慣れていません。
より霊的な心を持つ他の人々は、常に打ち負かされています。なぜなら彼らは、これらの邪悪な軍勢に立ち向かうために、ほとんど装備されていないからです。悪魔は、彼らを労苦の中で苦しめて、その働きを絶えず侵害することができます。そして彼らは、攻撃がやって来る源を知らないまま屈服してしまい、こうして敗北してしまいます。敵は彼らの働きに干渉するだけでなく、彼らの個人生活をも悪意に満ちた憎しみの対象とします。家庭問題、分裂、誤解が次々と襲いかかり、遂には、彼らが常に消耗しきってしまう状況が生じるに至ります。
疑いもなく、神の子供たちはみな、これを経験によって幾らか知っています。
これらの事柄が私たちの生活の中に送られて来るのは、私たちが受動的に屈服するためなのでしょうか?それとも、それらに打ち勝つためなのでしょうか?
私たちがそれらに抵抗しないのは、攻撃の真の原因を認識しそこなっているためです。サタンは私たちの問題のひそかな、巧妙な源であり、私たちの認識の外にいます。このサタンを私たちは放置しているのです。しかし、私たちの目が開かれて敵を見るとき、私たちは暗闇の軍勢に対する霊的な戦いに個人的に召されていることを悟ります。また私たちは、教会に敵対し、この世を支配している邪悪な軍勢についてのより広い幻と神聖な理解を得ます。そして、それらは超自然的・悪魔的であること、神の子供はよみがえらされた主との結合において抵抗しなければならないことを悟ります。
しかし、どのようにして神の子供は悪魔とその軍勢を征服することができるのでしょうか?
ただ、イエス・キリストとの生き生きとした結合を持つことを通してであり、サタンを完全に打ち倒した場所であるカルバリを知ることを通してです。敵はなんと注意深く、これを隠そうとしてきたことでしょう!敵はなんと巧妙に、自分の屈辱と敗北の場所から信者を引き離そうと企ててきたことでしょう!
ヨハネによる福音書一二章三一、三二節は、キリストの高揚はサタンを投げ落とすことであると、なんと明確に私たちに教えていることでしょう!「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。私が地上から上げられるなら、私はすべての人を自分のところに引き寄せます」。「上げられる」とは、どこに上げられるのでしょう?御座にでしょうか?いいえ!十字架にです!三三節は明白に告げます、「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである」。
コロサイ人への手紙二章一五節、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」。コロサイ人への手紙におけるパウロの主張は、「キリストがこんなにも輝かしい勝利を収められたというのに、どうして私たちは彼らの力に屈服しなければならないのでしょうか?」ということに尽きます。どうしてでしょう?
キリストの死はサタンとその軍勢を完全に打ち倒しました。しかし、その勝利を私たちの中に働かせるには、私たちは十字架に立ち返り、この世でサタンの支配のために熱心に働いている暗闇の力に対してそれを行使することを学ばなければなりません。
神の子供が勝利のうちに立つ時、それらは自分たちの欲望の成就を妨げられます。
聖徒がこれを見る時、自分の個人的な戦いは荒れ狂う全体の戦いの一部に過ぎないことを理解するでしょう。
悪魔は彼のワーテルローに近づきつつあります。神の子供よ、あなたの天の武具を身につけなさい。今、それを着ることを学びなさい。
主の軍隊の中で、未熟な新兵ではなく、老練な精兵になりなさい!
偽りの戦いの時代は確かに終わりました。真の戦いが荒れ狂っています。
敵は強いですが、あなたはよみがえらされた主にあってもっと強いのです。彼らの顔を恐れてはなりません。なぜなら、あなたはイエスの傷ついた御顔を仰ぎ見たからです!すぐに、ああ!すぐに、あなたは彼の御顔が太陽のように輝くのを見るでしょう。彼は、この崩壊した惨めな世界を治めるために、栄光のうちに到来されます。
ご意見、ご感想などメールでお寄せ下さい。メールの宛先はです。