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十字架の三つの法則

T. オースチン-スパークス

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。
しかし、もし死ぬなら、多くの実を結びます。
(ヨハネによる福音書一二章二四節)


このメッセージは、ロンドンのエクルストン・ホールにおける勝利者集会で与えられ、その後一九二五年四月号の「勝利者」誌("The Overcomer" published by the Overcomer office)に掲載されたものです。

この御言葉は三つの普遍的な自然法則を示していますが、それは十字架の三つの法則でもあります。その三つの法則とは、(1)死によるいのち、(2)明け渡しによる自由、(3)損失による拡大です。

I. 死によるいのち

この法則の最高の例は、キリストご自身の事例に見られます。キリストの実際の生活は、彼がこの地上を歩んだ三年半の生活ではなく、カルバリ以降彼が全世界で生きてこられた生活です。この三年半の記録は、それが彼の十字架と復活の後も継続された世界的な活動と勝利の冒険譚のためでなかったとしたら、はたして今に至るまで生き残り、今日のように世界史の中にその地位を占めていたでしょうか?

地上におけるキリストの生活と教えのあの短い期間に多くの関心を引き寄せたもの、「キリストが肉体にあって過ごされた日々」についての世界的文学を生み出したものは、この冒険譚です。キリストに関する最も偉大な真理は、「彼は死なれましたが、ふたたび生きておられます」です。

死によるいのちは、それ以来、世界を支配してきました。そして、それを滅ぼそうとする断固たる迫害にもかかわらず、そこには何か壊すことのできないものがあることを世界に知らしめてきました。この世の巨大な組織、カルト、帝国は、キリストの御名とキリストの継続的生命力を根絶しようとして、ありったけの力を費やしました。しかし、滅びたのは彼らの方でした。キリストは今も勝利を得て生き続けておられます。

十字架に行くまで、私たちはキリストの真のいのちを決して受けることができません。神聖な真のいのち、イエス・キリストのいのちを知らせる唯一の方法は、その命によって実現される、人間のレベルを無限に超越した水準の生活によるのです。

キリストはご自身について、「私は地上に火を投じるために来た」「それが成し遂げられるまで、私はどれほど苦しむことであろう」と言われました。この神聖な火、神聖ないのちが解放されて、彼の「苦しみ」が終わるには、バプテスマが必要でした。「ああ、それがすでに成し遂げられていたなら」と彼は呻かれました。このバプテスマは苦しみのバプテスマでした。そして彼は、十字架を通して、ご自分の全世界的使命が完全に成就されるよう求めました。その「火」すなわちいのちは、彼のからだの肢体たちによって、世界中に広がらなければなりませんでした。ですから、キリストのからだの肢体たちがキリストと一体化されることが必要不可欠だったのです。キリストとの一体化は、ただ十字架でのみ得られます。以下の御言葉が最も深遠な意義を持つのは、この点においてです。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」(ガラテヤ二・二〇)
「彼と共に葬られました」(コロサイ二・一二)
「私たちは彼の死の中へとバプテスマされました」(ローマ六・三)
「もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結ばれているなら、彼の復活の様の中にもあります」(ローマ六・五)
「キリストが死者の中から復活させられたように、私たちもまた……」(ローマ六・四)

私たちがキリストのあのいのちを現すにはどうすればいいのでしょう?あの生命力に満ちた破壊しえないものが世の中に力強く証しされるようになるには、どうすればいいのでしょう?あの神聖な破壊しえない勝利のいのち――神ご自身のあのいのち――が大能の力をもって証しされるようになり、キリストのからだの肢体たちによって世に感知されるようになるには、どうすればいいのでしょう?それはただ、キリストのからだの肢体たちが死と復活の中でキリストと一つになることによってのみ可能なのです。

この一つを知らない限り、私たちのクリスチャン生活はほとんど効力がありません。自分はキリストと共に古い自己に対して死んだこと、そして野心、欲望、計画、観念、規範いっさいを伴う古い世に対して死んだことを、私たちは最初に一度限り十分に認めなければなりません。そしてそうすることによって、私たちは自分の立場に着かなければなりません。そして次に、復活のいのちが私たちの間でますます現されるために、死が私たちの中に日毎に働くことを許さなければなりません。神のいのちは旧創造の中に臨むことはできません。それは新創造のいのちなのです。

これは罪人としての私たちにあてはまるだけでなく、クリスチャン生活の他のすべての方面で働く法則でもあります。霊的教育における真理の知識の問題を例に取りましょう。私たちは御霊の学校に来て教わります。この学校は、一定の量の知識を頭の中に詰め込むために通う、この世の教育機関とは異なります。この世の教育では、私たちは膨大な量の理論的知識を詰め込まれます。しかし聖霊の方法は、物事をまさに私たちの存在中に造り込んで、それを私たちとならせ、私たちをそれとならせることなのです。

霊的教育では、次のようなことが起こります。ある日、霊の中で、何かを聞いたり、何かを読んだり、あるいは内なる御霊の声により、何か素晴らしい真理を見ます。その真理は、新しい啓示の力をすべて伴って、突然明らかになります。以前は理論として知っていたことが、素晴らしい神聖な啓示として、いま明らかになります。あなたはそれを握りしめ、おそらく祈りに出かけて、それを主に感謝するでしょう。あなたは、自分の生涯で無限の価値を持つことになる偉大な宝を手に入れた、と感じるでしょう。あなたはその宝を失いたくありません。その宝はあなたに大きな喜びを与えます。

しかし、しばらくすると、それはなくなってしまいます!それは消え失せて、まったくあなたから去ってしまったかのようです。その力と喜びはまったくなくなってしまったかのようです。それは色あせた幻になってしまいました。

自分の知らないうちに、あなたの生活は奇妙な道筋を辿り始めます。また、厳しい試みの性質を帯びた事柄があなたに臨み、非常に困難な状況が生じます。あなたは状況にせきたてられて、「自分は絶望と死に追いやられつつある」と感じます。

この時、怪訝に思うあなたの心を、かつて確かに失ったあの「真理」が満たします。

あなたが困難の中にある時、その真理はあなたを捕らえます。そして、あなたは必死にその真理に助けを求めます。その結果、その真理はよみがえり、あなたを助け、勝利に導いて、自らの生命力を示します。いったい何が起きたのでしょう?

あなたは真理の何か重要な面に関する啓示を受けました。それは結構なことです!しかし、その真理はあなたとなるために、あなたの中に造り込まれなければなりませんでした。以前、その真理は知的に理解されただけでした。しかし、その真理があなたのいのちそのものとなるために、あなたはこの真理だけがあなたを救いうる死の場所に導かれなければならなかったのです。

こうして、その真理はあなたの霊のいのちの一部になりました。この後、あなたは決してそれを失うことはありません。それはあなたが知っている真理であり、あなたが実証した真理です。あなたがそれを他の人々に話す時はいつでも、それはただちに功を奏します。それは生きているものであり、あなたの経験の中で死からよみがえったものです。ただこれだけが効果的な証しの条件です。あなたは麦粒の可能性を信じましたが、その中にいのちを見ることができませんでした。その麦粒は墓に下り、次に神意により周囲の力や要素がその上に働き始めます。麦粒は生き返らされ、芽を出します。これ以後、その上向きの上昇を阻めるものは何もありません。

この法則を主への奉仕の問題にも適用しましょう。私たちは罪人としてだけでなく、働き人としても死ななければなりません。死が私たちの奉仕を握る時、それは恐ろしい経験です。私たちが働き人・説教者として死に下る時、また、境遇、逆境、不毛さ、霊的無力さにより、両手を投げ出して、「私はもうだめだ、私は終わりだ」と絶望して叫ぶことを余儀なくされる時、それは恐ろしい経験です。

ここで、私たち自身と私たちの奉仕が試されるのです。

私たちはどれくらい人気取りのために奉仕していたのでしょう?私たちは自分の名を上げるために働いていたのでしょうか?名声を得るために奉仕していたのでしょうか?人々が働きを誉めてくれるかどうかが大切であって、私たちは得意満面になっていたのでしょうか?それとも、人々から酷評され、批判され、曲解され、悪口を言われたのを気に病んで、私たちは家に帰り、惨めな夜を過ごしたのでしょうか?

どれくらい働きの中に自己があったのでしょうか?

試みが来る前、私たちはもちろん、「私にはそのような個人的野心はありません。私が求めているのは自分の益ではありません」と言ったことでしょう。しかし、私たちが死に下り、奉仕の扉が私たちの上で閉ざされつつあるように思われる時、私たちは自分の動機、感情に関してあらわにされます。そして、主の御名よりも自分の名声に注意を払っていたのかどうかが、あらわにされます。

神が私たちを用いることができるようになるにはまず、私たちはこうしたいっさいの自己のいのちから解放されなければなりません。神が満足しておられ、自分が神の御旨の道にある限り、人々が何を考え、何を言い、何をしようと、少しも気にならないという所にまで、私たちは達しなければなりません。

これが平安の道であり、勝利の道です。しかし、「私」が屠られるべき死の領域に、私たちは下らなければなりません。キリストが復活の力の中で啓示されうるのは、「私」が十字架につけられるその度合いによります。

奉仕の成功の秘訣について尋ねた人に向かって、ジョージ・ミュラーは答えました、「かつて、私が死んだ日、まったく死んだ日がありました」。彼は話しながら低く低くかがんでゆき、ついに床に触れそうになりました。「ジョージ・ミュラーに対して死に、自分の意見、好み、嗜好、意志に対して死にました。この世に対して死に、その賞賛や非難に対して死にました。私の兄弟たちや友人たちの賞賛や叱責に対してさえも死にました。そしてそれ以来、私は神に喜んでいただくよう心がけることだけを学んできたのです」。

この法則は、神ご自身によって始められたことが確かである、王国のための偉大な事業の中に働いているだけでなく、神が間違いなく私たちを召して下さったささやかな奉仕の中にも働いています。私たちはこれまでこれを見ていませんでした。

その働きは、その歴史のどこかの時点で死に下ります。その効力はまったく失われ、後には何も残らないかのように見えるかもしれません。その時、時計の振り子はこちら側に振れます。そして、この埋葬された働きは、神の復活のいのちにより、墓の最下層から復活します。

神の多くの僕たちは、自分が確かに召された働きがこのように終わるのを見てきました。何らかの神秘的な理由により、働きが永続的な生命力と勝利をもって存続できるようになる前に、神はその働きを死に下らせるようです。おそらく、神のいのちが入ってこれるようになるために、人の命は出て行かなければならないのでしょう。

II. 明け渡しによる自由

「主よ、私をとりこにして下さい。そうすれば私は自由になるでしょう」

イザヤ書五三章は、この真理の素晴らしい解き明かしです。

ここには、エホバの苦難のが描かれています。彼は自分の意志で、多くの面にわたってとりこにされました。彼はご自身を空しくし、十字架の死に至るまで従われました。彼は自分の神聖な権利を放棄し、無名になり、悪の全軍勢によって蹂躙されることをよしとされました。それは、人性の面で彼らより低くなることによって、彼らを真っ二つに引き裂き、すべての主権や力を遙かに超えて、彼らに対する圧倒的勝利の中で復活するためでした。

十字架は人性の面における捕囚の絵です。「彼は他人を救ったが、自分を救うことができない」。「できない」はアダムの種族を支配している言葉です。しかし、十字架は新しい種族の代表者であるキリストがご自身のために完全な解放を達成する手段であり方法です。

十字架がその働きをなす時、いっさいの人間的限界から解放されます。キリストは、情勢全体を支配するような仕方で、墓を打ち破られます。

キリストの死の中でキリストと一つにされた人々は、キリストによって超自然的レベルのいのちによみがえらされます。そして彼らを通して、キリストは以前不可能だったことを成し遂げられます。

カルバリ以降、キリストが代々にわたって成し遂げてこられたことを、人は説明することができません。人性の面は、まったく無力でした。これは、卓越した働きを成し遂げるために用いられた多くの人々の知性、社会的身分、肉体、健康についてもいえます。

彼らは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」、しかし神が御霊によって彼らに啓示されたものを、世に伝える伝達者でした。成し遂げられた働き、網羅された領域、彼らの奉仕の不滅性は、人の能力を完全に超えていました。それだけではありません。すでに指摘したように、悪魔の妨害、攻撃、敗北も、その働きが超自然的な無限の性質を帯びている事実を証明したにすぎなかったのです。

III. 損失による拡大

ふたたびイザヤ書を見ましょう。ここで私たちは、神の贖う僕が苦難を受けるのを見ます。光景はすべて、苦難のそれです。彼は孤独であり、さげすまれ、捨てられます。恐ろしい孤独です。彼の十字架は、彼にすべてを犠牲にさせました。彼の兄弟たちは彼を信じず、最も身近な弟子たちですら彼を理解しません。しかし、この素晴らしい章はどのように終わったでしょうか?「彼は自分の子孫を見、その日を長くする。彼は自分の魂の苦しみを見て、満足する」。

十字架の損失とそれによる「子孫」の産出という点から、私たちはさらに究極的証明に進みます。「私はほふられたような小羊を御座の中央に見た」。小羊の周りには、「すべての国、部族、民族、言語の中から贖われた、誰も数えることのできない大群衆」がいました。ここに収穫、すなわち彼の苦しみの結果である無数の群衆がいます。

この実際的適用は次の通りです。神から要求を突きつけられてばかりいるように思うことがしばしばあるかもしれません。また、何かとても大切なものを神に渡さなければならない時、この十字架をたいへんな打撃、たいへんな要求のように思い、時には苦痛を与えるほどの要求を強いるものであるかのように思うことが、しばしばあるかもしれません。私たちは与えてばかりいるようであり、犠牲の法則が相当重く働いているかのようです。しかし、これこそ無限に超越した収穫を得ることができる唯一の道なのです。

悪魔は世の王国とその栄華を主の前に示して、「もしあなたが十字架から離れてさえいるなら(これが悪魔の誘惑の狡猾な意図でした)、このすべてのものをあなたに差し上げましょう」と言いました。サタンは、十字架が持つことになる意義、すなわち自分が世の王国を失うこと、そしてキリストが十字架によってそれを得ることを、知っていました。ですから悪魔の言葉は事実上、「あの十字架から離れていなさい。そうすれば、私があなたにすべて差し上げましょう」ということを意味しました。

しかし主は事実上、「私は十字架に行きます。私はしばらくの間あなたの申し出を退けます」と言われました。そして主は、この世を拒み、自分自身を否んで、十字架に至る道を歩まれました。そしてその所で、主の御言葉によると、「この世の君は追い出され」、主は悪魔が与え得た以上のものを獲得されたのです。結局、主は世の王国を手放すことによって、それを獲得されます。

あなたは得るために失う用意があるでしょうか?永遠のもののために一時的なものを、永続するもののために移ろいゆくものを、天的なもののために地的なものを、究極的栄光のために現在の栄光を、失う用意はあるでしょうか?これがすべてを得る道です。今、キリストは御父の手から永遠の富を受けておられます。そして、十字架による私たちの彼との結合により、今の生活も無限に豊かになり、言い尽くせないほど満ち満ちたものになります。

自分が最も失いたくないものを最終的に喜んで放棄したところ、それが大いに豊かになって戻ってきたこと、あるいはそれが以前知っていたいかなるものをも超越した豊かさへの道であったことを、私たちの中の幾人かは経験しました。

私たちが自分の宝を塵の中に置く時、その見返りは途方もありません。私たちは「小川の石ころに代えてオフィルの金」を得、全能者が私たちの宝になります。