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十字架 対 現代心理学

「十字架の言葉は神の力です」

T. オースチン-スパークス


このメッセージは、アメリカのフィラデルフィアにある聖書学校の生徒たちに対して語られたメッセージであり、一九二五年一〇月号の「勝利者」誌("The Overcomer" published by the Overcomer office)に掲載されました。

真のクリスチャンの働きに最も必要なことは、自分自身を正しく認識することです。誤った認識は、失敗、弱さ、不満足という結果になります。私たちが願うのは、パウロが自身について言えたように、常に勝利の凱旋行進の中を導かれることです(二コリント二・一四)。

ですからまず、私たちはまったく何の役にも立たないことを知る必要があります!この真理を最初に理解しない人は、自分の働きの見込みのなさに、すっかり絶望してしまうかもしれません。最初モーセは自分自身の能力を評価していたので、自己のいのちが彼の中で完全に砕かれるまで、四十年訓練を受けなければなりませんでした。その後、「私にはできません」と彼が神に告げる時が来ました。主は言われました、「あなたは今まさに、私があなたを用いることのできる所にいるのです」。それから後、エホバはモーセを通して力強く働かれました・・・・・。

荒野とカナンの間にあるヨルダン川は十字架の型です。そこで古いいのちは終わり、新しいいのちが始まります。だれでもキリスト・イエスにある人は新創造です。旧創造の中には神に用いられるものが何もないことを、私たちは深く理解しなければなりません。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きておられます。十字架は、人間のいのちや感覚の水準から私たちを解放し、神聖な超自然的レベルに私たちを引き上げます。クリスチャンは超自然的ないのちに召されており、それゆえ、超自然的な奉仕に召されています。

私たちは学徒であり、これまで心理学や説教術を学んできたかもしれません。しかし、それらには大きな危険があるのです。私は自分の経験から話しています。私はそれらを専攻し、教えてきたからであり、そこには私たちを押しつぶしかねない危険があることを知っているからです。

今は心理学の時代です。「成功したクリスチャンの働き人となるために、心理学上の事実を守らなければならない」と至る所で言われています。たとえば、話や説教をする時、あなたはできるだけ完全な議論で聴衆の知性に訴えなければなりません。また、あなたは適切な例話で聞き手の感情を掻き立てるなどし、それから聴衆の意志を刺激して決心に導かなければなりません。この三つ――啓発、感情、行動――は、とても大切なこととして強調されています。「これらはクリスチャンの働きにおいて決定的に重要なものである」と言われています。議論は、異議を唱える者を一人も残さないものでなければなりません。あなたの議論は、相手が提示しうる議論よりも強力でなければなりません。次に、刺激的な例話を用いて、相手の感情に訴えなければなりません。相手を涙に誘うにせよ、誘わないにせよ、あなたは相手のに触れなければなりません。それから、この動力を最大限に利用して、相手を行動に導かなければなりません。促すのは、相手を聴解室に向かわせるためです。この三つにより相手を決心に導くなら、「自分は成功した」とあなたは思うのです。

しかし、この一連の過程は人間の水準を超えていないかもしれません。その人の中の古いアダムが決心したのかもしれませんし、霊の生かしがまったく無いおそれもあります。その回心者は衝動的に行動しました。そして、この衝動に基づいて生活し、最後は散り散りになるかもしれません。「集会中、数千の人々が回心した」と新聞は報道します。それが本当かどうか、はなはだ疑問です。

聖霊には聖霊の方法があります。人の方法は聖霊の方法に及びません。語り手の知性だけに基づいて行動することは、非常に危険です。多くの人が深く感動するのを、これまであなたはしばしば見てこなかったでしょうか。しかし、それらの人々が最終的に冷たい生活の現実に直面しなければならなくなる時、あなたは絶えず刺激を与えて彼らを導き、彼らの状態を維持してやらなければなりません。彼らは熱に浮かれてのろのろと進み、散り散りになります。あなたは叫び、リバイバルの賛美歌を歌い、音を立て続けなければなりません。あなたが彼らをさらなる深みに導こうとするなら、彼らはその厳しすぎる雰囲気に耐えることができません。強烈な個性の力の促しにより、彼らは保たれ支えられています。彼らは神のためだけに立つことができません。

このような類の働きは聖霊からではありません。聖霊の働きは、とても深く、霊的で、超自然的であって、永続します。聖霊の働きは状況や環境に依存しません。逆境、迫害、投獄も、聖霊の働きを妨げることはできません。肉と御霊は、まったく異なる二つの領域です。聖霊が真に論じられる時、それに答えることはできません。人は決してそれから逃れることはできません。聖霊はご自分の働きを内側で成し遂げられます。「神はあなたたちの内に働いて、事を願わせ、行わせて下さいます」。心理学が破綻するのは、この点です。旧創造には新創造の目的にかなう資源がまったくありません。

キリストは人の子であり、同時に神の子でもあります。受肉の時、彼は肉体を取って私たちの間に住まわれました。その際、彼は人類のすべての特質をご自分の上にまとわれました。彼には罪がありませんでしたが、私たちのために罪とされました。彼は人の子として人類の限界を身に負われたので、なしえないこともありました。彼はこの二つの領域の中を進まれました――彼は人の限界を受け入れ、それを踏み越えることを拒んだのです。彼が人間の限界を超越するのは、贖いの面においてだけです。「私は自分からは何もすることができません」「子は、父が行われることを見ないでは、自分から何もすることができません」。ギリシャ語で「から(of)」という単語が「から(out from)」を意味することはご存じでしょう。彼にあって、彼を通して働かれたのは、御父でした。それゆえ、人の子であると同時に神の子でもあるという代表者としての立場により、彼は私たちの中にある古いアダムのいのちを終わらせることができます。「一人の人がすべての人のために死んだからには、すべての人が死んだのです」(二コリント五・一四)。私たちはみな、彼にあって死にました。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられています(ローマ六・六)。アダムの種族のおもな特徴は、「私はできない」です。「私の中に、すなわち私の肉の中には、善が住んでいません」とパウロは言いました。肉はアダムにある古い種族の別名にほかなりません。創世記六章三節の厳密な字義通りの訳を紹介しましょう。この箇所は欽定訳では、「そして主は言われた。私の霊は絶えず人と争わない。人は肉でもあるからだ。だが、人の齢を百二十年としよう」となっています。ヘブル語原文ではこうです、「私の霊は人の中で治めることをやめよう。人は迷って(逸れて)、肉になってしまったからだ。だが、私は人に百二十年を与えよう」。堕落以前、アダムは御霊の人でした。当時、御霊が人の中で治めていたのです。しかし、人は御霊の法則を破り、罪と死の法則、肉の性質の中に陥りました。彼の子孫はみな、罪と死の法則、肉の性質を受け継いでいます。

十字架は肉による生活と御霊による生活との間に立ちます。主を愛し、御霊にしたがって歩む人だけが、十字架の力を知り、十字架の恩恵を理解します。

教会はこれを見失っています。今日、判断基準は学識です。サタンは人の知性の中に自分の王国を確立しようとしています。この領域で戦いが行われています。人がもし、最高に発達したこの世の知識の総計にも匹敵する膨大な知識を得るなら、その人は神聖な啓示の光明の一筋、一片にすら至ることができないでしょう。これは事実です。「啓示によって彼(キリスト)は私に奥義を知らせて下さいました」とパウロはエペソ人に書き送りました(三・三)。「パウロが素晴らしい手紙を書いたのは、彼自身の知力による」という趣旨のことがかなり言われています。しかし、パウロに知的能力があったにせよ、彼がそれを用いたのは自分が啓示によって受けたものを他の人々に話す時だけでした。

私は経験から話しています。人の力に依り頼んだために、私は自分の務めを台無しにしてしまいました。主は私を死に下らせました。本当に死んでしまっていても、私は本望だったでしょう。仕事に失敗した失望がそれほど大きかったのです。しかし主は私を呼び戻し、御霊に完全に依り頼むという生けるメッセージを与えて下さいました。私は信頼していますが、それ以来、このメッセージは私のいのちの中にあります。

パウロはアテネでの経験からこのような教訓を学びました。ギリシャの文化と学識の中心地におけるマーズの丘での説教の中で、彼は自然から実例を挙げ、古代の詩人たちの句を引用しました。彼はギリシャ哲学に踏み込みました。ご存じの通り、後に彼はアテネの聖徒たちに手紙を一通も書きませんでした。彼はアテネを去ってコリントへ行き、道中考え抜いたすえ、「もう二度と同じ過ちを繰り返すまい」と言いました。パウロはコリント人への第一の手紙で次のように述べています。

「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマをするためではなく、福音を宣べ伝えるためだからです。言葉の知恵を用いてではありません。それはキリストの十字架が無効にされないためです」
「十字架の言葉は、滅びるものには愚かですが、救われる私たちには神の力です」
「なぜなら、このように書かれているからです。私は知者の知恵を滅ぼし、賢者の賢さを空しくする」
「知者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。この世の論者はどこにいるのか。神はこの世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」
「この世が自らの知恵によって神を知ることがなかったのは、神の知恵によります。神は、宣べ伝えの愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされたのです」
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を求めます」
「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、ギリシャ人にとっては愚かですが・・・」
「しかし、ユダヤ人でもギリシャ人でも、召された者たちに対して、キリストは神の力、神の知恵です」
「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(一コリント一・一八〜二五)
「兄弟たちよ、あなたたちのところに行った時、私は素晴らしい言葉や知恵を用いませんでした。私はあなたがたに神の証しを宣べ伝えました」
「なぜなら、私はあなたたちの間でイエス・キリスト、十字架につけられた方以外に何も知るまいと決意したからです」(一コリント二・一、二)

ご存じのように、パウロがここで述べている「十字架の言葉」は、文字通りには「十字架のロゴス」です。「ロゴス」は、「初めに言葉があった」(ヨハネ一・一)という節の中で、ヨハネが「言葉」と呼んでいるものです。十字架のロゴスは無限の良識、物事の道理、知恵の総計です。心理学的手法にではなく、ここにこそ、救い保持する神の力があります。

パウロはアレオパゴスでアテネ人の知恵を試してみましたが、何も起きませんでした。彼はコリントに行って十字架――十字架の言葉、十字架のロゴス――を宣べ伝え、そして教会を植えました。