T. オースチン-スパークス
このメッセージは一九二六年一月号の「証し人と証し」誌に掲載されたものです。
「主の御言葉」はひとまとまりの言葉です。ですから、確証されている聖書からの二つの節が、互いに矛盾することは決してありえません。神の御言葉は「然りであり、否である」ことは決してありません。神の御言葉は常に進展する神の然りであり、キリストによって成就されます。キリストはアーメンたる御方であり、忠実で真実な証人であり、神の創造の初めです(黙示録三・一四)。
神によって息吹かれた聖書は、一つの御霊によって息吹かれています。御霊はキリストのからだである教会の領域で主であるように、御言葉の領域でも主であられます。なぜなら、教会がキリストのからだであるように、聖書はキリストの御言葉だからであり(一ペテロ一・一一)、両方とも一つの御霊によるからです。さて、神の御言葉は一つの御思いを啓示する一つの御霊による以上、この御言葉全体に統一性や一貫性がなければならないことは明らかです。私たちは、公認されている聖書、創世記から黙示録までの書物が、書き記された神の御言葉を構成している、と信じているのではないでしょうか?「神の御言葉の明確な基本原則であるはずのことを、なぜ論じるのだろう?」と、尋ねる人もいるかもしれません。
遺憾ながら、私たちはきわめて危険な時代に生きており、基本的な諸原則を油断することなく守る必要があるのです。
私たちの狡猾で倦むことのない敵である反キリストは、その狡猾さにもかかわらずある特色を持っており、自分の存在や働きを常に漏らします。その特色は様々ですが、サタンの顕著な特徴は、絶え間なく分裂を引き起こそうとすることです。組織が混乱や不法に陥るとき、それに至る前奏曲として、分裂は必要不可欠です。よくご存じのように、この世におけるサタンの働きの頂点は不法です。しかし、悪魔の存在の最初のしるしは裂け目であり、それは広がっていって、分裂や分断となって現れます。ほとんどわからない裂け目に警戒して下さい。あなたは間もなく、キリストの敵の明白な証拠を目にするでしょう。悪魔は常に分裂的であり、無秩序です。神は常に一つであり、調和を生み出されます。
さて、人の思いを通して働くサタンは、自分が触れる神の他の事柄においてもそうであるように、神の御言葉においても分裂的です。これは「高等批評」において、きわめて明白です。彼は神の御言葉を区別し、切り離し、骨抜きにします。彼はある書物を選んで、それが霊感されていることを認める用意はありますが(とはいえ、霊感に関する彼の考えは曖昧模糊としています)、他の書物を拒絶します。次に、彼は自分が承認した書物のある節を支持し、他の節を軽んじます。このように自分流の選択法を作成する権利を彼は主張します。彼は「霊感の規準」とやらを持っており、新約聖書の大部分を保留付きで受け入れますが、絶えず劣化し続ける旧約聖書についてはかなり選り好みがあります。
もちろん、私たちはサタンの不遜な厚かましさに愕然とします。しかし待って下さい!私たちが嘆き悲しむべきは、彼の邪悪な方法の背後に働いている原則なのです。これと比べるなら、彼がどれだけ神の御言葉の統一性を破っているかは、あまり問題ではありません。神が統一性を創造されたものの中における、分裂というサタンの原則。これこそ警戒すべきものであり、押さえるべきものであり、抵抗すべきものなのです。悪魔は高等批評家たちの間で獅子のように荒れ狂って、力ずくで神の御言葉を引き裂いているかもしれませんが、この私たちの間でも悪魔がネズミのように浸食することがないよう気をつけましょう。彼は分裂という同じ原則を用いて、神聖な霊感の性質や豊かさを狡猾に浸食するかもしれません。霊感という言葉を聖書にあてはめる時、それはテモテへの第二の手紙三章一六節でパウロが述べている通りのことを意味します。つまり、聖書は「神に息吹かれて」おり、神の霊に直接由来する、という意味です。他のすべての神聖な働きや顕現と同じように、神聖な霊感の中にも豊かさがあるにちがいありません。神は何事も十分によくなさるからです。創造は豊かであり、受肉は豊かです。同じように、言うまでもなく、霊感は豊かであると断言できます。聖書は「神に息吹かれて」います。霊感に関する聖書の見解は、この一文に規格化されます。聖書は、人の意志や人の知識のいかなる水準をも、全く遙かに超えています――聖書は神によって霊感されており、「神に息吹かれて」います。聖書は神の御言葉なのです。
聖書は、キリストにおいて頂点に達する神の御心、御旨、御業、顕現の明確な啓示です。そうである以上、唯一可能な聖書の見方はこうです。すなわち、聖書は、多くの著者や預言者、筆者や語り手の名の下にまとめられていますが、創世記から黙示録に至るまで、そのすべてが神のひとまとまりの御言葉なのです。私たちはもちろん、「主の御言葉」を受け入れる際、神の御言葉を伝えた人々の名に言及します。しかし、主の御言葉を彼らの言葉とは決して見なしません。聖書(旧約聖書)の無謬の性質や基準を何度も明確に宣言された私たちの主は、「モーセの書」に言及しておられますが、主にとってそれはモーセの言葉ではなく、神の御言葉をモーセが記したものであったことは明らかです。主にとって聖書は決定的なものであり、権威あるものでした。そのため、悪魔に対する主の断固たる答えは、「こう書かれている、こう書かれている、こう書かれている」という言葉で始まるほどでした。モーセが記したのは、神が「語られた言葉」だったからです。
パウロは旧約聖書の特徴をとても明確に示しています。ローマ人への手紙三章一〜二節「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何でしょう?また割礼の益は何でしょう?」。この問いに彼は答えます、「それは、あらゆる面で多くあります。第一に、彼らに神の託宣(神が御口をもって語られた御言葉)が委ねられたことです」。これはパウロが次のように考えていたことを示しています。すなわち、聖書は、宣言された方法が第一に執筆によるものであれ、口頭によるものであれ、どちらの場合も、神が「語られた言葉」なのです。御霊の剣は神が「語られた言葉」です。さて、自分が引用する御言葉の性質や権威についてきわめてはっきりとしていないなら、あなたは権威をもって聖書を引用することはできませんし、特に悪魔に対しても無力でしょう。聖書はすべて、神ご自身が御霊によって「語られた言葉」です。この問題はとても重要です。それはモーセの言葉でも、イザヤの言葉でもありません。ヨハネやペテロの言葉でもありません。どの場合も、生ける神の御言葉なのです。
ペテロは大いに平明な語り口で、「主の御言葉」が人々を通して来た方法について述べています。「なぜなら、預言はいかなる時も、人の意志によって来たのではなく、聖なる人々が聖霊に動かされて、神から語ったからです」(二ペテロ一・二一)。これが示唆しているのは、霊感を受けた著者が言葉を発した場合であれ、書き記した場合であれ、どちらの場合も、それは神の語りかけとして彼に来た、ということです。たとえば、ダビデは言います(サムエル下二三・二)、「主の霊は私によって語り、御言葉は私の舌にある」。しかし、宮のための神の設計に関する知識に言及する際、彼は宣言します、「主はこれをみな、私に臨んだ神の御手による書き物によって、私に理解させて下さった。この仕様書の働き全体についても、そうである」(歴代誌上二八・一九)。このどちらの場合も、伝達方法は異なるものの、神の御言葉の絶対的権威に疑問はありえません。
旧約聖書の中で、「主の御言葉」という言葉は何回使われているのでしょう?どの場合も、ペテロがはっきりと語っていること、すなわち、預言者は神の促しによって語ったのであること、そして、語られた言葉は預言者のものではなくエホバのものであり、正真正銘神の託宣であることを、明確にしつつ、確証しています。
ヘブル人への手紙の著者は、実に注目すべき方法で、これを述べています。第一章でもっぱら詩篇から引用する際、彼はその引用文の著者のことを「彼」すなわち神として記述しています――五、六、七、八、一二節、「彼は言われる」。これは一章一節の「神は預言者たちによって語られた」という序文と合致します。この手紙の後の箇所で、彼は神の御言葉の執筆者である聖霊に言及しています(三・七、九・八、一〇・一五)。
さて、もしそうなら、ペテロが聖霊の権威によって据えた聖書解釈の第一の規則を、私たちはもっと容易に理解することができます。「まず、このことを知りなさい」――つまり、主要な条件であるということです。「聖書のどの預言も、私的な解釈から出たものではありません」。文字通りには、「それ自身の解釈」です。いかなる節、いかなる書、いかなる一組の書も、御言葉が他の箇所で述べていることから孤立させてはなりません。
主は、キリストの十字架と復活に関する教理を弟子たちに説き明かす際、この聖書解釈の基本法則を確証されました。「そして彼は、モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、ご自身に関する事柄を彼らに解き明かされた」(ルカ二四・二七)。たとえば、イザヤ書の第二の部分、特に五三章は、「エホバの苦難の僕」と特に関係している箇所ですが、彼はこの箇所を取り上げて、聖書の他の部分、モーセの書や詩篇や預言書から孤立させ、それを分離した特別な啓示とすることはなさいませんでした。そうです!主の御言葉はひとまとまりの言葉なのです。イザヤ書であれレビ記であれ、ルツ記であれヨナ書であれ、私たちの贖いの教理はそのどの箇所にも見られます。
旧約聖書に啓示されている神の御言葉のこの全体的統一性を、新約聖書は常に考慮に入れています。パウロの啓示は常に「聖書にしたがって」いました(一コリント一五・三〜四)。「代々にわたって隠されてきた奥義の啓示」。この奥義はとても長いあいだ隠されてきましたが、「御霊によって聖なる使徒たちと預言者たちに」知らされた時、「預言者たちの書」によって現されました。「預言者たちの書」は、文字通りには「預言的書物」です。ローマ人への手紙一六章二五〜二六節。エペソ人への手紙三章五節。聖書に対するこれらの言及は、常に全聖書を含んでいることがわかります。なぜなら、「聖書はすべて、神が息吹かれたものである」(二テモテ三・一六)とパウロは宣言しているからです。聖書は一つの御思い、一つの御旨、一つの御計画を啓示します。
さて、新約聖書の霊感は、これとは異なるのでしょうか?私たちは違う解釈法則を採用すべきなのでしょうか?私たちはマタイ、ヨハネ、パウロ、ペテロのことを、異なる別々の啓示の著者であると言うべきなのでしょうか?それとも、一つ御霊の伝達手段――統合された啓示が彼らを通して漸進的に解き明かされます――と見なすべきなのでしょうか?新約聖書は、旧約聖書と同じ意味で、「神に息吹かれて」いるのでしょうか?誰が著者でしょう?それとも、別の著者たちがいるのでしょうか?キリストは分けられたのでしょうか?
内包されている原則の大いなる重要性を見るとき、私たちはこう質問するよう駆り立てられます。私たちは、「神の御言葉の中にはいかなる分裂もあってはならない」「各部の間にいかなる矛盾もあってはならない」と断言します。聖霊はペテロを通してあることを言い、ヨハネを通して違うことを言う、ということはありません。両者とも「神に息吹かれて」いる以上、ヤコブはパウロと断じて矛盾しません。主題や真理の発展はあるかもしれませんが、「然りであり、否である」ことはありません。同じ確証と統一性が全体を通して流れています。私たちは、著者である聖霊の教えの下で、織物の生地を成している共通の教えの紐を単純に追わなければなりません。神の御言葉のある箇所には、キリストのからだである教会の教えがあるけれども、別の箇所には違う教えがある、ということはありえません。この理由により、パウロはエペソ書四章で、私たちの信仰の本質上単純な統一性を述べるよう、御霊によって強いられています。「一つからだと一つ霊、それはあなたたちも、あなたたちの召しの一つ望みの中で召されたようにです、云々」。「奥義」すなわち公然の秘密はありますが、赤子でも一度啓示を受けるなら、全聖書をたやすく読むことができます。煙に巻くようなことや誤魔化しは一切ありません。「愚かな旅人」でも、そこでは間違うおそれはありません。いちど霊の目を油塗られるなら、文章は平明です。全聖書は一つであり、一つの部分が他の部分に取って代わることはありません。すべてが成就されるまで、どの部分も同じように有益であり続けます。新約聖書は旧約聖書に取って代わりませんし、新約聖書のある部分が他の部分を無にしたり、空しくすることはありません。光の天使であるサタンが選民さえも欺こうとする、この経綸の終末時にあって、神聖な霊感の根本的性格と、聖書解釈の第一原則をはっきりと見ることは、私たちにとって益になるでしょう。それにより、旧新約聖書とその各部分が、私たちにとっても同じように、欠け目や裂け目のない一つの連続した神の御心や御旨の啓示となるからです。
この警告は必要でしょうか?必要だと私たちは信じます。なぜならペテロは、特にパウロの書物に言及する際、聖書を「曲解」すること――啓示された真理の中から御言葉を取り出して「ねじまげる」こと――について述べているからです。神の御言葉には大いなる単純さがあり、壮大なる整合性があります。そのため、人の知恵を学んでいなくても、神の御旨が何か理解することができますし、御旨の「奥義」さえも理解することができます。御名はほむべきかな。こうして、神は単純な者を知恵ある者にして下さるのです。
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