T. オースチン-スパークス
一九三六年七月
「兄弟たちよ、あなたたちの召しを見てみなさい。肉によれば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、生まれの良い者も多くはありません。しかし、神は知恵ある者を辱めるために、この世の愚かな者を選ばれました。また神は強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれました。また神は、有るものを無いものとするために、この世の卑しい者、さげすまれている者、すなわち無に等しい者を選ばれました。それはいかなる肉も、神の御前で誇ることがないためです。しかしあなたたちは、神によってキリスト・イエスの中にあるのです。このキリスト・イエスは、私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖別と贖いとになられました。『誇る者は主の中で誇れ』と書かれてある通りです」(一コリント一・二六〜三一)
教会とは何でしょう?教会とは、御民との生ける合一の中にあるキリストです。これが教会です。
特別な建物を建てて、それを「教会」というのではありません。特別な組織――宗教組織――のことを「教会」というのでもありません。復活した主との生ける合一の中にある信者たちが、教会を構成します。これは実際であって、比喩ではありません。
さて、復活したキリストとの合一により、人間的制約はすべて打ち破られます。これは生ける実際である復活したキリストの驚異の一つです。私たちは人間の能力を超えた能力の領域にもたらされています。その領域では――私たちの内におられるキリストのおかげで――天然の能力では決してなしえないことも、私たちは行うことができます。
私たちの関係は新しい関係です――天との関係です。私たちの資源は新しい資源です――天にある資源です。「神は、知恵ある者、力ある者、有る者を無い者とするために、弱い者、愚かな者、無きに等しい者を選ばれました」とパウロがコリント人たちに書いたのは、このためです。どうして神はそのような者を選ばれたのでしょう?それは、権勢によらず、能力によらず、彼の霊によるからです。また、この世の最大の力や能力をも超越した力、エネルギー、能力が、御民のためにあることを示すためです。
これが神の民の歴史です。とても多くの人がここで間違いを犯します。世の人々はクリスチャンを見ても、大部分は彼らを重んじません。彼らはクリスチャンたちを世の標準で測り、「彼らは哀れな連中だ。才幹もたいしたことはない!」と言います。
しかし、これが神の方法であり、世は決してそれを測ることができません。人の知恵、力、能力では、たとえ最大のものであったとしても、それをなすことはできません。神はそのために弱い者を選ばれました。なぜでしょう?答えは簡単です。その働きが人の能力からではなく、まったく彼ご自身から出ていることを神が示すためには、神に頼る弱い者が最高の道具――手段――なのです。
「神は弱い者や愚かな者を選ばれた」という事実に安んじて、「よかった、私はそのような者です――だから大丈夫です」と言わないで下さい。大事なのは、「あなたは力ある者や知恵ある者を神の御手の中で無いものとしているでしょうか?」ということです。これは、自分の弱さや愚かさや無価値さの上にあぐらをかいて、「これは私にあてはまります。大丈夫です。これこそ大切です!」と言うことではありません。
大切なのはそのようなことではありません。大切なのは、私は弱いけれども、彼の力と能力により、復活におけるキリストとの合一を知ることができる、ということです。また、このキリストとの合一により、力強い霊的な事柄が私を通してなされなければならない、ということです。これが積極面です。
私たちは個人的な内なる方法で主を知ることができます。私たちは個人的な内なる方法で主の資源に頼ることができます。主が持っておられるものはすべて、内側で利用することができます。キリストの贖いの御業の基礎に基づいてキリストに結合される時、天はもはや閉じたままではありません。
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