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教会の俗化
藤井武
Takeshi Fujii
一 教会に対するイエスの使信
キリスト教(新教)の我国に輸入せられてよりすでに六十年、今や山間僻陬の小都にすらほとんど何派かの教会を見ざるなく、信者の数は幾十万と称せられ、なお益々活発に増加しつつある。殊に最近における各種の新しき文化運動の指揮者等は概ね世人よりキリスト者をもって目せらるる人々であるという。キリスト教は確かに我国における一大社会勢力と成った。しかして不思議にも我国のキリスト教はこの世と極めて親善なる宗教である。その信者等は迫害を受けずしてかえって歓迎を受けつつある。彼等は不信者と提携するにいと巧みである。否、独り我国のみと言わない。近頃のキリスト教会は世界を通じて概ね甚だ安易なるものと化したのである。
かくのごときは果たして本統であろうか。あるいは恐る、現代の世界教会は何か大いなる間違いをなしているのではあるまいか。もししからんには実に由々しき大事である。我等は深くこれを疑う。しかしてこの問題に対する明確なる解答を少しく聖書の中に探らんと欲する。
黙示録二章及び三章はアジア(聖書においてアジアと称するはアジア大陸ではない、また小アジアでもない。小アジアの西部黒海の南方地方を指す)の七教会に宛てられたる七通の書翰を載せている。その発信者はイエスである。ただしこは彼が肉において在りし日に認めたるものではなかった。彼の復活後数十年、彼を信ずる者の団体の彼処此処に起こりて、善かれ悪しかれ、いわゆる教会なるものの普通の信仰状態を彼の前に暴露するに至りし頃、それに対する彼の意思をある特殊の方法をもって発表したるものである。その時すでに使徒等はことごとく眠りて、ただ老ヨハネのみ独り残存して居った。多分イエスと個人的に相識りし唯一の生存者は彼であったであろう。彼は言う迄もなく地上における最も忠実なる主の僕であった。しかして当時聖名のためにローマ政府より迫害せられて、パトモス島に流されて居った。小アジアの西海岸に近き洋中、樹もなく川もなく畑もなく、徒らに岩石のみ累々たる孤島に繋がれて、寂しき老使徒の心はひとえに天に向かって開いた。この世とその人とより放逐せられたる彼が無二の伴侶は復活の主イエスであった。彼は夜となく昼となくただイエスとのみ交わりて、いと高き霊的生活を送りつつあった。されば今やイエスより地上の教会にその使信を伝えんとするに当り、このパトモス島の囚人にまさる適当なる器を見出すべくもなかった。ヨハネはすなわち選ばれた。ある日みたま著るしく彼の上に働きて、彼をして全くこの世を離れたる状態に入らしめ、しかして幻と共に天よりの大いなる啓示を受けしめた。ヨハネ自ら記して曰う「我れ主日に御霊に感じいたるに、我が後にラッパのごとき大いなる声を聞けり。曰く汝の見る所のことを書に録して、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤに在る七つの教会に贈れ」と(黙示録一の一〇、一一)。しかる後に彼はまた一々「エペソに在る教会の使いに書きおくれ云々、スミルナに在る教会の使いに云々」との明白なる個別的啓示を与えられて、それを如実に書き綴りしものがすなわち黙示録二、三章の全部である。ゆえに使徒ヨハネの誠実とパトモス島における彼の霊的実験の確実とを疑わざる限り(しかしてこの二者を疑うべき理由は少しも無い)、我等はアジアの七教会に宛てられたる書翰をもって、イエスの明白なる使信と認めざるを得ない。彼は教会に関する最後の啓示を最も適切なる形態において伝えんがために、特にヨハネをしてこれらの七書翰を綴らしめたのである。七書翰の受信者はアジアの七教会である、その発信者は復活の主イエス・キリストである。
イエスはこれらの書翰をもって何を明らかにしようとしたのであるか。それはもちろん名指されたる七個の教会のその当時における信者全体に対するイエスの挨拶であったに相違ない。彼はその各書翰において彼等の信仰生活の真相を指摘し、これに対する彼の審判を宣明して、彼等を誡め、励まし、かつ慰めた。七書翰は明らかに歴史的産物である。小アジアにおける初代信者の信仰を鼓舞せんがために、使徒ヨハネを介して送られたる主イエスの愛の伝言である。
かくのごとくに見て、七書翰はすでにその使命を終ったものと言わねばならぬ。爾来千八百年の今日、それはもはや我等の生活と直接には何の関係をも有たない。僅かに遠き過去の歴史的文書として、参考の資料を我等に供給するに過ぎない。かくて近頃に至るまで久しき間、黙示録二、三章の研究が忘れ去られたるは必ずしも全然理由なき事ではない。しかしながら七書翰の意義は果たしてそれだけをもって尽きるか。単純なる歴史的産物たるより以上にさらに深きある意義を彼等は帯びていないか。これ確かに興味ある問題である。しかして七書翰を単に考古的資料の地位に止まらしめんがためには不適当なる幾多の疑問がある。例えば、当時教会はすでにコロサイ、アンチオケ、トロアス、ヒエラポリス、アレキサンドリア、コリント、ロマ等、諸所に存在したるのみならず、そのあるものはここに掲げらるる七教会よりもさらに有力なるものであった。しかるにも拘わらず、特にこれらの教会のみ選び出されたるは何故であるか。またこれを選びてその数を七に限りたるは果たして意味なき事であるか。また各書翰ともその最後に厳粛なる語調をもて「耳ある者は御霊の諸教会に言いたもうことを聴くべし」といいて、唯にその名宛たる教会のみならず他の諸教会に対する音信にもことごとく注意すべく命令せられたるがごときは何故であるか。
思うに当時各地に存在したる数多の教会中よりエペソ、スミルナ等の選び出されたるは、必ずやそれらのものが何か代表的の特徴を有したからであろう。すなわち七教会は実は個々の教会として観察せられたるに非ずして、すべての教会を代表するものとして取り扱われたに相違ない。七なる数もまたこの事実をさらに確認する。すべて数、殊に一乃至十又は十二等の数には各々深き意義がある。これ決して好奇者の徒らなる想像ではない。宇宙における事物の本来の性質に基づき、人類の思想中に織り込まれたる普遍的原始的観念である。例えば一は絶対、本源、第一原因等を表わすに適し、三は合成的なるもなお不可分にしてかつ最も単純なる単位を表わし、従って個体として完全なるものを意味し(幾何学における正三角形、神学における三位一体等)また四は四元素(火、水、土、空気)四方、四季等のごとく、世界を代表するの類これである。聖書にありても三は多く神の事に関し、四は常に地の事を示す。しからば七は如何。地の数なる四に加うるに神の数なる三をもってしたるもの、これすなわち七である。ゆえにそは自ら地上における完全又は現世における満全を表わす数である。七日、七色、七福等のごとし。加うべきなく減ずべきなく十分にして完全なるもの、これを代表せしむるに七なる数をもってする。聖書における七の用法は特に顕著である。なかんずく黙示録に至ってはある人をしてこれを「七の書」と呼ばしむるほどこの数の意義を重く見ている。ここに七の霊あり、七の燈台あり、七の星あり、七の燈火あり、七の封印あり、七の角と七の目あり、七のラッパをもてる七人の天使あり、七の雷霆あり、七の頭と七の冠冕あり、七の苦難あり、七の鉢あり、七の山また七人の王がある。何故に黙示録はかくも七なる数に富むのであるか。答えて曰く本書の根本的性質がしからしむるのみ。人類の歴史と万物の運命とをその終局すなわち完成の立場より観察して描き出でたるものが黙示録である。ゆえに黙示録一名完成の書と言うことが出来る。全人類の歴史は如何にして完成するか、天然万物は如何なる帰結に達せんとするか、およそこれらの問題を説かんとして、七なる数を藉ること多きは少しも怪しむに足らぬ。七の書、完成の書、しかしてその中に載せらるる七教会宛の七書翰、これをもって単に千八百年前のアジアにおける七箇の教会のみに宛てたる歴史的文書に過ぎずとなす者は誰であるか。黙示録の根本的性質はもちろんその二、三章についても除外せらるるはずがない。七教会は疑いもなく地上におけるすべての教会の代表者である。時間的には過去と現在と未来とに通じ、空間的には地表の全面に亙りて、すでに存在したるあるいはしつつあるあるいはすべき一切のキリスト教会を、その終局の立場より観察して描き出でたるものが、七の教会である。従って七書翰の意義もまた疑いを存しない。使徒時代以降、現世の終局に至る迄の全地におけるあらゆる教会の信仰状態に関する、主イエスの預言的評価と、それに伴う警告又は奨励又は慰籍の辞である。ここにおいてか各書翰の最後に附記せられし「耳ある者は御霊の諸教会に言いたもうことを聴くべし」との厳粛なる命令の意味する所もまた自ら明瞭である。各書翰は決して単独なる歴史的使信ではない。いずれの教会、いずれの時代に属するを問わずいやしくも耳ある者は深き注意をもって、七書翰の全部、しかり黙示録の全書に亙る聖霊の啓示を傾聴すべく薦めらるるのである。
七書翰の性質に関するかくのごとき観察は、さらに黙示録全書中における第二第三両章の地位に照らして一層強くこれを確かむることが出来る。黙示録全書の内容は、我等が兎角の詮索を待つ迄もなく、イエスの言の中に炳乎として明示せられている。曰く「されば汝が見し事と、今ある事と、後に成らんとする事とを録せ」と(一の一九)。この一言は実に我等をして黙示録なる真理の宝庫を開かしむべき鍵である。「主は自らこの鍵を門前に懸け置きたもうた」(W・ミード)。黙示録はその序言(一の一〜七)と跋詞(二二の六〜二一)とを除きて、前後三篇の記事より成る。その第一「汝が見し事」とは多分一章八乃至二〇節に記さるる所の使徒ヨハネの見たる主の栄光であろう。その第三「後に成らんとする事」とは四章一節以下二十二章五節に亙りて記録せらるる来世に関する大いなる預言を意味するであろう。しからばその第二篇たる「今ある事」すなわち後の世において成らんとする事に対し「今の世において実現する事」とは果たしていずれの部分を指すか。二章三章に跨る七書翰の内容こそまさしくそれに当るべきではないか。しかり、使徒ヨハネの時代以降、聖徒等の復活して天に携え挙げらるる未来の時(第四章)に至る迄の間のキリスト教会の全き歴史、それが黙示録二章三章の地位である、それが七教会に宛てたる七書翰の内容である。
ここにおいてか知る、七書翰は歴史にしてまた預言である事を。我等はその中に今より千八百年前使徒時代における教会の状態を鮮やかに看取する。同時にまた爾来今日に至るまで、及び今日以後キリスト再臨の日に至る迄のすべてのキリスト教会の信仰状態に関する明白なる預言をその中に読むことが出来る。しかして黙示録二、三両章の研究が我等に取って緊急の事たる所以は言う迄もなく後の理由においてある。全地のキリスト者の信仰的生活は概ね如何なる潮流を取って進むか。二十世紀の今日における世界の教会の特徴は何処にあるか。これに対するキリストの評価は如何なる性質のものであるか。その覚醒と新しき希望とはいずれの方面にこれを求むべきか。教会史上における現代教会の地位如何。その来たるべき新時代の開始に対する関係は如何。これらの重要なる問題を闡明すべく、黙示録二、三章に勝るの光はない。七書翰の研究は何時の代にありてもキリスト者の立場に関する誤りなき自覚とその正しき希望とを維持するがために最も必要である。なかんずく現代のごとく世界を挙げて精神的混乱の渦中に陥り、キリスト教会の大部分までが全く世の光たるべき機能を失いたる時に当りては、その必要の特に大なるものあるを見る。
七書翰の第一はエペソの教会に宛てられしものである。この教会に「行為と労と忍耐」とがあった(二の二)。すなわちその信者等は信仰による行為と愛による労苦と希望による忍耐とをもって、キリストの心に適うものであった。しかしながら彼等はやがて「初の愛を離れた」(二の四)。初にキリストの熱愛者たりし彼等、キリストの名を聞くだにその心躍りし彼等――彼等は久しからずして初の熱を失った。彼等の行為と忍耐とはなお盛んであったかも知れない。しかし愛の心一度び冷えそめて、教会の腐敗はたちまち始まったのである。誰かこの特徴をキリスト教の原始時代において見出すことを誤まる者ぞ。エペソの教会は一世紀の終わり頃に至るまでのいわゆる使徒時代の教会の典型であった。
第二はスミルナの教会である。「我れ汝の艱難と貧窮とを知る……汝等十日の間患難を受けん」(二の九、一〇)。彼等の特徴はなやみにあった、すなわち迫害の中における忠実なる忍耐にあった。彼等とても素より未だ完全ならざりしとはいえ、彼等に対する詰責の語は一言も主の口に上らなかった。主は彼等の忍耐を嘉みし、心よりの同情をもてなおも彼等を励ましたもうた。かかる教会をもって代表せられたる時代は何時であるか。少しく世界歴史の梗概を窺いたるものは何人もこれが断定に苦しまないであろう。かの著るしきローマの迫害時代こそ明白にそれである。四世紀の初めに至るまで、迫害はキリスト者の日々の糧であった。彼等はその身を香わしき殉教の祭物として陸続として神の前に献げた。教会史記者はそのペンを彼等の鮮血に浸して進めた。(十日の間の患難という。この時代における迫害の最も激烈なりしは紀元三〇三年のヂオクレシアンの勅令より三一三年のコンスタンチンの勅令に至る迄の十年間であった。)スミルナ教会をもって代表せらるるものは、この光輝ある殉教時代、キリスト教対異教ローマの激しき格闘時代でなくして何時であろうか。
第三はペルガモの教会である。この教会は純信仰の立場より許すべからざるものを認容してあえて恥じなかった。「汝の中にバラムの教えを保つ者どもあり」(二の一四)。バラムの教えはその実質において偶像崇拝である。姦淫である(二の一四)。神の僕たるものが神ならざる者に仕え、キリストの新婦たるべき者が他夫に結び付く事である。教会歴史中この種の醜行の最も顕著なりしは何時頃であったか。キリスト教がローマ帝国の国教となりて政権の庇護の下に立つに至りし時代がそれであった。実に四世紀乃至六、七世紀の世界歴史中に大書せらるる、教会と国家との結婚は、キリスト者の最も恥ずべき汚辱の一つである。
ペルガモに次でテアテラの教会は来たる。妖女イゼベルが勢力を恣にする教会はこれである。イゼベル――彼女は「自ら預言者と称えて我が(キリストの)僕を教え惑わし、淫行をなさしめ、偶像に献げし物を食わしむる」という(二の二○)。自ら神の真理に関する唯一の謬なき教師と称えて全世界のキリスト者を教え惑わし、帝王及び俗権に狎れ親しみ、異教的迷信的なる儀式礼典を徒らに重しとしたるものは法王制度であった。法王制度とイゼベル、何処にかこれよりも適わしき類似があるか。六世紀乃至十六世紀のキリスト教会はこの悪むべき妖女の跋扈の下に腐敗を極めたのである。紛れもなくテアテラ教会は中世暗黒時代の表象である。
次に来る者は何ぞ。サルデスの教会である。この教会に対するキリストの審判は主として叱責の語より成るに拘わらず、その当初においてある甚だ貴きものの存在したる事、並びにそれがいまだ全くは滅びざる事を暗示または明示している。「生くる名あり」といい「残りのものを堅うせよ」といい「汝の如何に受けしか、如何に聴きしかを思い出でこれを守れ」といい「衣を汚さぬもの数名あり」という。しかしてまた「死にたる者」「ほとんど死なんとするもの」といい「我れ汝の行為のわが神の前に全からぬを認めたり」という(三の一、二)。これらの語に適合すべき事実を教会史中に探りて、我等は宗教改革及びそれ以後におけるプロテスタント諸教会の実状に想い当らざるを得ない。その拠りて立ちたる教理は生くるもの正しきものであった。その指導者等及びその他の少数のものは衣を汚さざる最も忠実なる聖徒であった。しかしながらその運動の結果は確かにいまだ全からぬものであった。新たに起こりしプロテスタント諸教会は表白に副うだけの活力を有せず、かつ日を経るに従いいよいよ沈滞し腐敗して往ったのである。十六世紀のいわゆる宗教改革は人の目より見て光耀眩きばかりの社会的大事業であった。しかし神の前にそれはなお甚だしく不完全のものたるを免れなかった。
サルデスに次ぐものはヒラデルヒヤの教会である。「見よ、我れ汝の前に開けたる門を置く。これを閉じ得る者なし。汝少しの力ありて我が言を守り我が名を否まざりき」(三の八)。沈滞二百年にして、プロテスタント諸教会に新しき紀元は臨んだ。信仰復興及び世界伝道の機運これである。十八世紀以来の敬虔派、ピウリタン、メソヂスト等の目ざましき運動は眠れる教会をして再び覚醒せしめた。殊に改革者等が不思議にも軽視したる外国伝道は、敬虔派の熱心により漸くキリスト者の人道的精神に訴え、遂に十九世紀をして原始時代以後いまだ見ざりし盛んなる伝道時代たらしむるに至った。数多の宣教師は熱烈なる祈祷をもって地の四方に送り出された。彼等はあるいは赤道直下にあるいは北氷洋岸にあるいはアフリカの蛮地にあるいはアジアの孤島に、およそ人の経験し得べきあらゆる苦難と闘いつつ、亡び往くたましいに向かって十字架の福音を伝えた。しかして今や蒙古、チベット、トルキスタン、アフガニスタン及びアフリカ中央部等を除く外全地の上ほとんど宣教師の足跡を見ざるなく、聖書はすでに二百八十余の国語に翻訳せられ、人類の十分の九は自己の語をもって旧新約を読み得るに至ったのである。誠にキリスト教会の過去百余年は特別に「開けたる門」の時代であった。
かくのごとくにしてアジアの七教会をもって表わされたる預言中エペソ以下の六者はすでに千九百年間のキリスト教歴史において相ついで著るしき実現を見た。そのヒラデルヒヤ教会に相当すべきものは最近の二世紀であった。しからば如何。第七にして最後なるラオデキヤ時代はいまだ始まらないか。我等はなおヒラデルヒヤ時代に属するのであるか。あるいは知らず、今日すでにラオデキヤ時代に我等は一歩を踏み入れたのではないか。これ実に重大なるかつ興味ある問題である。我等は少しく第七書翰の内容を探り、しかして後事実をしてこの問題の解決者たらしめんと欲する。
二 ラオデキヤの微温的教会
七教会に宛てられたる各書翰はいずれも七箇の部分より成る。
一、宛名
二、発信者たるキリストの権威の表明(その語は多く一章一〇〜二〇節に記されたる幻の中より選び取らる)
三、各教会の過去及び現在の状態
四、これに対する賞讃または叱責の辞
五、キリストの再臨に関する注意
六、最後の勝利者に対する恩恵の約束
七、使信を傾聴すべき命令
第七書翰の宛名はラオデキヤ教会である。
ラオデキヤにある教会の使いに書きおくれ。(黙示録三の一四)
小アジアの西端、エペソの東方およそ百哩余の所にラオデキヤの都があった。今は全く荒廃に帰して見る影もなしといえども、当時大フリジヤ州の首府として、小アジア中最も富みかつ栄えたる都の一つであった。その地の産物の主なるものは上等羊毛及びこれをもって織りたる価高き衣類であった。ストラボー曰く「ラオデキヤ地方には優秀なる羊の飼育行わる。その毛は唯に柔軟なるのみならず、また漆黒にして光沢あるを特徴とする。ラオデキヤ人の大いなる財源はここにある」と。タシタスの遺せる記録によれば、紀元六十年の頃、この地一度び地震のため壊滅したるも、国庫より何等の補助を受くる事なく直ちに自己の資力をもって往年の美観を回復することが出来た。もってその富の程度を知るべきである。今も多くの劇場、寺院、その他公共の建築物の廃墟は昔時の繁栄を偲ばしむるに足るという。また近傍には数多の温泉の湧出するあり、その湯は熱くもあらず冷ややかにもあらず、微温にして最も入浴に適するものであった。従って四方より数多の浴客の絶えずこの所に蝟集するを見た。
殷賑なる産業の巷にしてまた安閑たる遊楽の郷、かくのごとき土地の住民より成りたるものがラオデキヤ教会であった。もしこの教会に大なる弊害ありとせば、その如何なる方面に横たわるかはこれを推察するに難くない。
「教会」とはその原語エクレシヤの字義よりすれば「呼び出されたる者」の意である。この語は一般ギリシャ語にありては公共事務打ち合わせのために会合する自由市民のみの集会を示す時に用いられた。聖書もまた極めて稀に「集会」の意味にこれを用いる(例、行伝七の三八)。しかし大抵の場合においてエクレシヤは特にキリスト者の団体を意味する。けだし彼等はすでに世より呼び出され、従ってもはや世に属せざるものとして、最も適当なる名称である。しかしてそはある時はすべての国すべての時に属するキリスト者の全員を総称し、ある時は一家族に属するキリスト者のいと小さき群れをもかく呼び、ある時は礼拝その他信仰の実際的生活を共同にせんがために組織せられたるキリスト者の地方的団体を表示する。七書翰における用法のごときはすなわち最後の例である。
「教会の使い」という。教会のために神より遣わされたる使いである。しかり、人よりに非ず、人に由らず、神よりの使節である。人の前に神の謬なき意思を伝え、もって彼等をしてこれを守らしめんがために遣わされたる使節である。もし教会に牧師なる者ありとせば、彼はかくのごとき者でなくてはならぬ。彼は己が教会に関する明白なる使信を神より受け取り、憚る所なくこれを全会員に伝えねばならぬ。しかしてこれに従うべく彼等を指導せねばならぬ。これ使節の当然の任務である。ゆえに七書翰は彼等教会の使いに向かって書き送られたのである。
受信者は富みかつ栄えたるしかして霊的雰囲気の甚だしく弛緩したるラオデキヤに在る教会であった。さらば発信者は何人ぞ。
アーメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造りたもうものの本源たる者かく言う。(黙示録三の一四)
これいずれもみな異常なる強き語である。我等はかくのごとき語の重みを十分に味わわずして軽々しく読み去らん事を欲しない。
「アーメンたる者」という。アーメンは「しかあれかし」との意義をもって、キリスト者が祈祷の終わりに附加する最も神聖なる語である。彼等は聖名においてする祈祷の必ず聴かるべきを信じ、その信仰の表白としてこれを唱う。またイエスの口にこの語の上りしはいつも特別に厳粛なる発言に伴う時であった。「まことに誠に」と訳せられたる原語が「アーメン、アーメン」である。すべて聖書中においてこの語に逢着する時、我等は常に神の約束の実現に関する確認を与えらるるのである。しかしてこの意義においてキリストは特にアーメンたる者であった。パウロは曰うた「キリスト・イエスは然りまた否と言うがごとき者にあらず、然りと言う事は彼によりて成りたるなり。神の約束は多くありとも、然りと言うことは彼によりて成りたれば、彼によりてアーメンあり」と(後コリント一の一九、二〇)。換言すれば、然りと言うことすなわち神の約束に関する肯定、すなわち神の約束の必ず成就すべきものなりと言うことが、キリストの生涯において明らかにせられたるがゆえに、彼によりて我等は神のすべての啓示に対するアーメンを表白することが出来るとの意である。我等のために神のすべての啓示の成就を確認するものは何ぞ。歴史的人物として現われたるキリストの生涯を措いて他にあるなし。キリストこそはその唯一の確認者、保証者、完成者である。彼はすなわちアーメンたる者である。
彼はまた「忠実なる真なる証人」であるという。すべて自己の知る所もしくは見聞したる所について証詞を提供する人を証人と呼ぶ。キリストもまた一箇の証人に外ならなかった。彼は自ら曰うた「彼はこれがために生まれ、これがために世に来たれり。すなわち真理につきて証せんためなり」(ヨハネ一八の三七)。「我等は知る事を語り、また見し事を証す」と(ヨハネ三の一一)。ヨハネも曰う「天より来たる者はすべての物の上にあり。彼その見し所、聞きし所を証したもう」(ヨハネ三の三二)と。しかして証人の価値は彼が果たして忠実なるか否か、またその証を誤まらざるか否かに由って定まる。もし証人としての忠実と真正とにおいて完全なる者ありとせんか、すなわち永遠の真理を如実に伝え得る者ありとせんか、我等は彼の言に絶対の信を措くことが出来る。彼の言こそ天地は失するともなお廃らざるべき真理である。かくのごとき者が果たしてあるか。曰く有る。永遠の昔より「父の懐裡にありて」親しく神を見、その声を聞きたる神の独子がそうである。しかしてもちろん彼より以外何処にもかくのごとき者がない。キリストのみが「忠実にして真なる」唯一の証人である。
「神の造りたもう者の本源たる者」、すなわち神の造化の由って出づる源たるもの、「万の物これに由って成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるは無」きもの。「アルファにしてオメガたり、始にして終たる」者、万物の創造に参与するのみならず、これを支配しこれを完成する者である。しかしてキリストが尋常の人にあらずしてここに言うがごとき者である事は、旧新約聖書の終始一貫して我等に教える所である。またすべて忠実に彼の生涯を学びし者の何人も否定するあたわざる事実である。
かくのごとき者が実にラオデキヤ教会に宛てたる書翰の発信者であった。我等はいまだその書翰の内容を探らない。しかしそれが如何なる音信であるにもせよ、一事は確実である。すなわちここに記録せられたるものは決して人の思索や想像や独断の産物ではない事これである。発信者は誰ぞ。彼はアーメンたる者である。彼によりて神のすべての約束は成就する。ゆえに彼の預言はたとえ如何ばかり人の予想に背くとも必ずそのままに実現するであろう。彼はまた忠実なる真なる証人である。彼は父なる神に代わりて口を開く。ゆえに彼の判断はたとえ如何ばかり時代の思想と懸隔するとも絶対に正しき真理たらざるを得ない。彼はまた神の造化の本源たる者である。今も彼は見えざる所にありて人類の歴史を導き万物の運命を司りつつある。しかして早晩その大いなる能力を発揚して世界の根本的改造を実行するであろう。ゆえに彼の審判はたとえ如何ばかりこの世の期待と相容れずともこれを恐れて慎まねばならぬ。彼の約束はたとえ如何ばかり我等の思いに過ぐるとも、これを信じて待たねばならぬ。もって知るべし、ラオデキヤ書翰の権威の偉大さを。世の人々をして喧しき、しかれども何の権威なき「時代の声」に耳を傾けしめよ。されど我等をしてただキリストの使信に聴かしめよ。久しく忘れ去られたる黙示録の半章中に現代キリスト者の地位と我等の正しき希望とに関する神の明確なる啓示を探らしめよ。ラオデキヤ短信一篇、現代人の目には用なき反古である。しかしながら我等に取りては如何なる思想家の提唱をもってするも到底比較すべくもあらざる貴き預言である、天啓である。
七教会の最後なるもの、キリスト教歴史の最終の時代を形作るべきものは如何なる信仰状態においてあるか。それはキリストの前にありて如何なる地位に止まるべきか。
我れ汝の行為を知る。汝は冷ややかにもあらず、熱きにもあらず。我はむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温きがゆえに、我れ汝を我が口より吐き出さん。(黙示録三の一五、一六)
ラオデキヤ教会の行為すなわちその信仰的生活の真相はもちろんキリストの目に隈なく明白であった。彼はその特徴を一言にして喝破した。曰く「汝は冷ややかにもあらず、熱きにもあらず」と。さらに繰り返して彼は曰うた「かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温きがゆえに云々」と。微温的生活!これラオデキヤ教会の最大特徴であった。
この教会のキリストに対する態度は冷ややかではなかった。冷ややかとは単に熱無しというのみの消極的状態を意味しない。さらに反対の意味において強き積極的の状態である。もし熱きものが火であるならば、冷ややかなるものはその正反対なる氷である。ラオデキヤのキリスト者等は氷ではなかった。彼等は世の多くの人のごとくに、氷に似たる冷たさをもってキリスト教を悪みこれを斥けこれを撲滅せんとはしなかった。否彼等はかえってキリスト者をもって自ら任じた。彼等はキリストを呼んで主よ主よと言うた。彼等はしばしば信仰的集会に出席して共に祈りかつ讃美した。彼等は聖書を小脇に挟んで街を歩いた。もちろん折々これを繙きこれを研究した。ある時は人の前に立ちてこれを講じた。彼等はまた献金を行い慈善に携わった。かくのごとくにして少なくとも表面上彼等はキリストの僕であったのである。ラオデキヤ教会は確かにこの世の人々のごとくキリストに対して冷ややかなる団体ではなかった。
しかり、彼等は冷ややかではなかった。しからば彼等は熱くあったか。熱くといいて、何も特別に熱狂することではない。必ずしも手を拍ちて祈り、声を嗄らして叫び、躍りながらに讃美することではない。もちろん与えられたる自己の任務を抛擲して宗教的運動のために奔走することではない。熱くとは、一度び聖霊の火に己がたましいを曝らしたる者がその単純なる誠実を失わざるの状態を言うのである。神の祭壇の上に自己を犠牲として献げたる者が再び壇より辷り出でざるの状態を言うのである。キリストに自己の本城を明け渡したる者が聊かなりともこれを取り戻さんとせざるの態度を言うのである。キリスト彼自身が火である。彼は愛の火である(雅歌八の六)潔むる火である(イザヤ六の七)焼き尽くす火である(へブル一二の二九)。ゆえに彼にありて生くる者はみな自ら熱くあらざるを得ない。熱きは変態ではなくしてかえってキリスト者の常態である。キリスト者とは畢竟この世の氷の間より選び出されて、キリストの火の中に置かれたる者に外ならない。
重ねて問う、ラオデキヤ教会は果たして熱くあったか。その会員等は果たしてイエス・キリストのみを唯一の主人としてこれに仕えたか。彼等は口に主よ主よと呼ぶのみならず、真実に彼の僕らしく暮らして居ったか。彼等はエホバの法をすべての喜びの極みとなして昼も夜もこれを思いつつあったか。彼等はキリストを識る事の優れたるため、すべて肉に恃む所をことごとく抛棄してこれを糞土のごとく見なしつつあったか。彼等は常にイエスの死を身に負いつつあったか。しかして地にては旅人また寓れる者なりとして、天にあるさらに勝れる所を慕いつつあったか。これを一言すれば、彼等は果たしてその告白のみならずその実質において、画然この世の人と区別せらるべき旗幟鮮明なる生活を営んで居ったか。
否、冷ややかにもあらざりしラオデキヤ教会は、また実に熱くもなかったのである。彼等は全然この世の氷に属するものではなかった。しかしながら同様に全然キリストの火に属するものでもなかった。火と氷の二主に仕えて、彼等は必然「微温く」あった。彼等の生活は二元的であった。彼等は曰うた、信仰は信仰、商売は商売であると。かくて安息日毎に教会に出席する時、彼等は殊勝なるキリスト者であった。少なくともそうらしく見えた。しかし平常の日においては彼等は純然たるこの世の商人であった。彼等の社会的生活に対してはキリストまたは聖書は何の権威なきものであった。その方面における彼等の権威は世間であった、人であった、顧客であった、これらの者の歓心を得ん事が彼等ラオデキヤ信者の最大配慮であった。世間の喜ぶ所、それを彼等は務めた。人の喝采、それを彼等は追い求めた。輿論の声、それに彼等は従った。およそ普通の人のする事は何でもこれをなした。苟くも社会の反対する事は如何に善き事といえどもこれをなさなかった。しかしてこの世における生涯を出来るだけ安楽なるものたらしめんと彼等は努めた。これを要するに彼等は世との妥協に長けて居ったのである。彼等の生活の特徴は俗化にあったのである。微温とはすなわち俗化の別名に外ならない。微温的教会、俗化したるキリスト者、かくのごときものは神の前に果たして如何ほどの価値を有するか。思うにこの問題に答えて多くのキリスト者は言うであろう。微温しといえども教会は教会である、俗化したりといえども信者は信者である。ゆえにいまだ全くキリストを信ぜざる者、殊に彼を悪み彼に反対する者に比してその勝ること幾ばくであるか図られない。人は何人も完全なるあたわず。欠点は誰にでもある。ただ人によりてその種類を異にするのみ。微温といい俗化という、畢竟彼等の欠点に過ぎない。一派の潔癖家の目にそれはあるいは堪え難く映ずるであろう。しかしもし欠点のゆえに信仰そのもの迄をも非認せんとするがごとき事あらんか、実に誤れるの甚だしきものであると。
果たしてそうであるか。微温的教会もなお純然たる不信者よりは貴くあるか。俗化したるキリスト者もなおこの世の人よりはキリストの心に適うものであるか。余はこれを疑う。もし余がここに断言して「世と妥協する者はキリスト者ではない。彼は正直なる未信者よりも遥かに劣る者である。しかり、彼は偽善者である。彼のごとき者の前に救いの望みは絶無である。俗化したるキリスト者たらんよりは、むしろ未信者として正面より堂々とキリスト教に反対する方がどの位よいかも知れぬ」と言うならば、今のキリスト者の多数、殊に牧師、伝道師、神学者等が声を揃えて余の独断または奇矯を非難するであろう。彼等のある者は、すでになしたるがごとく、「異端」の名をもって余を責めその団体員に対して余の小誌の繙読を禁止するであろう。誠にもしそれがただ我等の断言たるに過ぎぬならば、あるいは全然誤謬であるかも知れない。しかし遺憾ながら我等は、この問題に関するキリストの明白なる啓示を握っている。彼はラオデキヤの教会に言を送りて曰うた「汝は冷ややかにもあらず、熱きにもあらず。我はむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う。かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温きがゆえに、我れ汝を我が口より吐き出さん」と。聴け、その響きの自ら聖き憤激の調子を帯ぶるを。実に彼の堪え難きものにして微温のごときはないのである。彼はもちろん彼等の熱からん事を切に願う。されども、もしいまだ熱くあるあたわずと言うならば、しからばむしろ願う、冷ややかならん事を。冷ややかなる、素より喜ぶべきはずがない。それにも拘わらず、微温よりはなお遥かに勝ると彼は言うのである。如何にしても堪え難きものは微温である。微温の水のみは銜むあたわず、飲むあたわず、ただ一喝もって吐き出すの外ない。ゆえに彼は断乎として曰う「汝微温きがゆえに我が口より吐き出さん」と。いかに強き恐るべき宣言よ。これ実に絶縁の予告である。しかしてこれを言い渡す者は誰ぞ。人ではない、キリストである。アーメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造化の本源たる者である。一度び彼の口より吐き出されんか、また何処に望みを見出すべき。まさにこれ完全なる絶望である。しかるに彼はここに憚らず絶望を予告するのである。ああ、キリストをして「むしろ冷ややかならん事を願う」と言わしめ、「我が口より吐き出さん」と宣せしむる者は誰であるか。ラオデキヤの微温的教会を措いて他にそんなものはない。七教会中一言も彼の賞讃の辞を受けざる者もまた独りこの教会あるのみ。もって知るべし、およそ人の在り得べき状態にして最も呪われたるものが微温である事を。
何故にキリスト者の俗化はさほど悪しき事であるか。答えて曰く、これ二主に兼ね仕える事であって、誠実の欠乏に外ならぬからである。人の唯一の絶望的状態は誠実の欠乏である。ある人をして無知と誤解とのためにキリストを悪み烈しくその教えに反対せしめよ、しかしてこれを撲滅せんがために全力を尽くさしめよ、彼をして血を見るまでにキリスト者を迫害せしめよ。彼は言う迄もなくキリストの敵である。しかしながらキリストは彼を吐き出さない。むしろ彼を捉えて、遂にはかえって勇敢なる福音の戦士と豹変せしむる事が少なくない。この驚くべき変化の原因は何処にあるか。けだしかくのごときは概ね誠実を失わざる人であるからである。タルソのサウロはこの種の人であった。最も冷ややかなりし彼には最も熱き使徒パウロと成るの望みがあった。しかしながら誠実なき畑に信仰の種の発芽すべき見込みはない。偽りの家に救いは宿らない。キリスト者の妥協は神に対する偽りである、姦淫である。ゆえに神はこれを吐き出さんと欲したもうのである。
なんじ、我は富めり、豊かなり、乏しき所なしと言いて、己が悩める者、憐むべき者、貧しき者、盲目なる者、裸なる者たるを知らざれば、我なんじに勧む。なんじ我より火にて煉りたる金を買いて富め。白き衣を買いて身に纏い、汝の裸体の恥を露わさざれ。眼薬を買いて汝の目に塗り、見ることを得よ。(黙示録三の一七、一八)
かくラオデキヤの信者等の生活は微温くあった。しかして微温は人の最も呪われたる生活状態である。ゆえに世にも悩める者憐むべき者は実に彼等であった。まず第一に彼等は「貧しき者」であった。霊的方面より見て何一つの貴きものをも彼等は有たなかったのである。微温的信者は口に聖名を称うるといえどもその心キリストと結び付かざるがゆえに、彼より何物をも受くることが出来ない。キリスト者として最も喜ばしきめぐみの実験なるものは彼等ラオデキヤ信者等の与り知らざる所であった。現世的に富みたる彼等は霊的にはいとも貧しき者であった。主の前に立ちて彼等はまさに無一物であった。
第二に彼等は「盲目なる者」であった。妥協を好む者の目に光は無い。彼等の判断はことごとく誤謬である。殊に神の事、霊魂の事、その他すべて人生の深刻なる問題に関しては、彼等は根本的に「感じ」(sense)を欠いている。ゆえに全く通じない。彼等もまた霊的の語を操るといえども、これをもって別個のものに充つるに過ぎない。彼等の発言の調子がすでにその事を裏切るのである。誠に霊的真理の前にラオデキヤ信者等は紛れもなき盲目であった。
第三に彼等は「裸なる者」であった。身に纏うべき適当の衣を有せずして、彼等は裸体の恥を暴露しつつあった。何ものかキリスト者の俗化よりも恥づべくあるか。何処にか信者の妥協にまさる醜態があるか。世に不似合なる事とてキリストの僕が不信者の靴を取るがごときはない。しかしてかくのごとき精神より出づるすべての行為は主の心に適わない。悪しき樹は善き果を結ぶあたわず。ラオデキヤ信者の生活は神の目にことごとく悪しきもの汚れたるものであった。
悩める憐むべき者、すなわち貧しくして盲目にして裸なる者、ラオデキヤ信者の真相はこれであった。しからば彼等はこれを自覚して居ったか。しかして真に富める者明らかなる者聖き者たらん事を願うて居ったか。否、彼等は自己の真相を知らず、かえって「我は富めり、豊かなり、乏しき所なし」と言いて得々として誇りつつあったのである。誠に彼等は富める者であった。その心の真実に慕う所はキリストに非ずしてこの世の財なりしがゆえに、彼等はひたすら富まん事を努めた。しかして繁栄の都ラオデキヤの市民として、彼等は願うがごとくに富むことが出来た。ラオデキヤ教会は当時における最も豊かなる教会であった。彼等はこれを喜び、かつ感謝した。しかしながら何ぞ知らん、富は彼等の最大の禍いであったのである。「汝の財宝の在る所には汝の心も在るべし」。彼等の心は地上の財宝と共にあった。ゆえに彼等の富むに従ってその心もまた自ら充ち足りた。富は彼等をしていよいよ霊的の餓渇を忘れしめた。彼等は思うた、今や恩恵我に余りある。神は我が信仰を愛でてかくも豊かに酬いたもうたのである。我が信仰生活に足らざる所はない。我は物的にも霊的にも上なく福いなる者であると。げに何時の世にありても微温的信者の著るしき特徴は己が信仰生活に関する浅ましき高ぶりにある。
乞食、盲目、裸体、しかして自ら覚らず、得意然として曰う「我は富めり、豊かなり、乏しき所なし」と。何等のみじめさぞ。しかも絶望の危険は迫りつつある。実にあらゆる意味において見るに忍びざるものはラオデキヤ信者である。如何にしてかかる状態を脱せしむべきか。思うに七教会中最もキリストの心を痛めたるものはこの教会であったであろう。我等はその間の消息を彼の語調において窺うことが出来る。すなわち彼は語を寄せて曰うた「我れ汝に勧む云々」と。高ぶれる堕落信者の側に、至高者が自ら近づきて、あたかも友に言うごとく、慇懃にも勧告を試みるのである。もし人の語をもって評し得べくば、如何なる皮肉ぞ。しかし彼等の反省を促すべくこれよりも切実なる方法はなかった。自負者に対して命令は不適当である。さればとて彼等の悔い改めを促す事なくそのまま恐るべき審判の中に投げ入れんには主は余りに憐憫に富みたもう。ここにおいてか彼はまず友のごとき態度を取りて静かに勧めたもうたのである。
しからばその勧めらるる所如何。曰く「なんじ我より買え云々」と。誠に彼等の病根はキリストより何物をも買わざるにあった。彼等はただ彼よりあるものを藉りた。すなわち彼の名を藉りた。しかして自らクリスチャンすなわちキリストに従う者と称した(この語初めは異邦人が彼等を呼ぶために用いられしも後には信者自らかく称えるに至った)。しかしキリストの要求する所は単にかくのごとき事ではなかったのである。彼は曰うた「人もし我に従い来たらんと思わば、己を棄て、己が十字架を負いて、我に従え……我がために己が生命を失う者はこれを得べし」と(マタイ一六の二四、二五)。彼等もしクリスチャンと称せんか、しからばよろしく全自己を代価としてキリストの手に引き渡し、もって彼より真の生命を買い求むべきであった。キリストとかくのごとき取引関係に入らざる者は何人もいまだクリスチャンではない。しかるにラオデキヤの信者等はキリストより何物をも買わんとせずして、ひとえにこの世のみより買い求めた。しかして物的に富む者と成りしと同時にその霊的生命を失ってしまった。誠に「己が生命を救わんと思う者はこれを失うべし」である。このゆえに今や彼等のなすべき事は明白である。遅れたりといえどもなお時はある。彼等は今より直ちに自己の全部をことごとくキリストに献げて、彼の提供する貴きものを買い受くべきである。彼より買うこと、そこに彼等の唯一の望みが残って居った。
しからばキリストより買うべきものは何か。それは必ず「貧しき者」を富ませ「盲目なる者」を見させ「裸なる者」を着さすものでなくてはならぬ。ラオデキヤの信者等に豊かなる金はあった。黒き羊毛の衣はあった、また有名なる眼薬はあった(ラオデキヤに名高き医学の一派ありて優れたる眼医者もあり当時ロマ全国に好評を博したる「フリジヤ眼薬」は多分この地の産ならんという)。しかしながらこれら朽つるもの肉に属するものはもちろん何かせん。彼等の要するものは朽ちざる金である、聖潔の衣である、霊的の眼薬である。しかしてキリストの提供せんと欲する所はすなわちこれらの賜物に外ならない。曰う「なんじ我より火にて煉りたる金を買いて富め。白き衣を買いて身に纏い、汝の裸体の恥を露わさざれ。眼薬を買いて汝の眼に塗り、見ることを得よ」と。
火にて煉りたる金は雑りなき純金である。その光はいとも美しく又その質堅うしてすべての朽つべき物の中最も永続性を帯ぶるものに属する。ゆえにそは聖書にありてしばしば栄光及び不朽の表象として用いらる。殊に復活後における栄光及び不朽の生命を具体化して「金の冠冕」と称すること少なくない。「まじりなき黄金の冠冕をもて彼(キリスト)の首に戴かせたまいたり。彼れ生命を求めしに汝これを与えてその齢の日を世々限りなからしめたまえり」(詩二一の三、四)。「二十四人の長老(信者)……首に金の冠冕を戴きて云々」(黙示録四の四)。金の冠冕あるいはこれを生命の冠冕という(黙示録二の一〇)。よって知る、金は生命すなわち永生を代表する事を。必ずしも復活後に限らない(冠冕という時にのみ復活後の生命を意味する)。現世にありてすでに神の子たるの生命、我れ生くるに非ずキリスト我にありて生くるの生命、栄光より栄光に進み、しかして永遠に朽つる事なく、来世に至りて完成する生命。これを象徴して火にて煉りたる金と曰うたのであろう。この純金的生命を有する者が真の富者である、たとえこの世の所有については如何ばかり乏しくとも。しかるに微温的キリスト者には永生は宿らない。彼等は全然この世より出でざる限り滅亡の子たるを免れない。永生はただ偽りなき心をもってキリストを信ずる者のみ握ることを得る大いなる特権である。
「白き衣」という、汚点なく瑕なき聖潔である。その心罪より離れ、その口偽りを出さず、その行いよく聖旨にかなう聖き生活である。如何に望ましき恩恵ぞ。されども妥協的信者にこの衣は着せられない。何となれば「羔羊の血に己が衣を洗う」によりてのみこれを白くすることが出来るからである(黙示録七の一四)。汝白き衣を身に纏わんと欲するか。しからば思い切りて羔羊の血の中に飛び込め。片脚をこの世の泥の中に留むる事を罷めよ。キリスト者の俗化その事が最大の汚辱である。ゆえにその地位にありて一日たりとも聖き生活を送り得べきはずがない。ただ神に対し世に対する彼の態度に根本的革命の実現するに由りて、初めて聖潔の衣は彼に着せらるるのである。
「眼薬を買いて汝の目に塗り、見ることを得よ」。「塗り」あるいは「注ぎ」と訳することが出来る。霊的の視力を獲んがために注がるべきものは何か。「眼薬」は恐らく聖霊であろう。聖霊、智慧聡明の霊(イザヤ一一の二)、真理の霊(ヨハネ一四の一七)、彼は「汝等を導きて真理をことごとく悟らしめん」といい(ヨハネ一六の一三)、「汝等は聖なる者より油を注がれたれば、すべての事を知る」という(ヨハネ一書二の二〇)。我等の目を開きて人生と宇宙とに関する最も深き真理を知らしむるものは独りこの霊あるのみ。「神のことは神の霊のほかに知る者なし」(前コリント二の一一)。しかして彼は最も俗臭を嫌う。彼は決して微温的キリスト者の内に来たり臨まない。聖霊の座は二主を迎えざる胸にある。雑りなき一筋の信仰にある。この世の権威に秋波を送ることなく、専らその目を上に注ぐ者にのみ霊の眼薬なる聖き油がまた上より注がるるのである。
すべて我が愛する者は、我れこれを戒めこれを懲す。このゆえに汝励みて悔い改めよ。(黙示録三の一九)
ラオデキヤの信者に対するキリストの態度は最も鋭きものであった。そこには一言も賞讃の辞を聞くことが出来なかった。そこには強き憤激があった、絶望の予告があった、また聖なる諷刺があった。すべてが異常なる徴候を呈した。もしこれらの戒告にして効を奏せざらんか、すなわちさらに大いなる事実的懲戒が続いて彼より降るべく見えた。ラオデキヤ書翰はいわば火山の爆発に先だつ物凄き鳴動であった。微温的信仰に対するキリストの堪えがたき聖憤の漏出であった。
しかしながら彼はなおラオデキヤ信者を棄てたまわないのである。否、棄てないばかりでない、彼はなお彼等を愛する。如何にもして彼等を救わんと欲する。彼が特に彼等に使信を遣りてかくも激しき戒めを与える所以は、彼等を悪むがためにあらずして、かえって愛するがためである。彼の切なる願いは彼等の速やかに励みて悔い改めん事にある(励みの原語は熱くある事を意味する)。この世との妥協を一擲して、その全心を彼に献げん事にある。事自体はもちろん不可能でもなく、また困難でもない。なそうとさえ思えば今にもなし得る。ただ彼等はこれをなさんとする誠実を欠いているのである。しかり、大いなる誠実の欠乏。されどもキリストはなお棄てない。彼は切に待ちつつある、彼等の悔い改めを待ちつつある。彼は今もすべての微温的教会及び信者に対して、いとも切なる愛をもて音ずれて曰う「汝励みて悔い改めよ」と。
かくてラオデキヤ教会の真相の指摘と、これに対する戒告とを終りし主は、次に、他のすべての教会に対してなしたるごとく、ある一つの厳粛なる出来事に関する注意を与えた。
見よ、我れ戸の外に立ちて叩く。人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼と共に食し、彼もまた我と共に食せん。(黙示録三の二〇)
言う所の意味如何。それはあるいはキリストが救いの福音を携えて罪人の胸の戸を叩くの謂か。あるいは微温的教会が己の主なるキリストを閉め出し、彼をして空しく戸の外に立たしむるの意か。二者いずれも感慨と教訓とに富みたる最も美わしき解釈である。しかして普通の解釈はこの二つの外に出でない。しかしながら如何せん、本文の地位はかかる見方を容さざるを。七書翰の構造はみな同じ原則に依り七箇の部分より成ることはこれを疑うの余地がない。しかして各教会の生活状態に対する賞讃または叱責の辞に次で来たるものはいずれの場合にありても常に主の再臨に関する予告である。曰く「我汝に到り云々」、曰く「我汝に生命の冠冕を与えん」、曰く「我速やかに汝に到り云々」、曰く「我が到らん時まで云々」、曰く「盗人のごとく我来たらん」、曰く「我速やかに来たらん」と。けだしキリスト者をしてその聖く義しき信仰的生活を維持せしむるの動機としてキリスト再臨の望みに勝るものはないからである。キリスト今は霊をもってのほか我等と共に在りたまわない。しかし彼は必ず身をもって再臨する。その救贖の事業を完成せんがためにいつか必ず帰り来たる。我等はあたかも主人の留守を預かれる僕のごとく主の帰り来たるまで最も忠実にて在らん事を切に願う。この自然なる信仰的忠義心こそ我等の生活を常に天に繋がれしむる最も有力なる原因である。主がその教会を励まさんとする毎に必ず再臨に言及したもう所以はここにある。しからば独りラオデキヤ教会についてのみこの原則の除外せらるるはずがない。ゆえに我等は信ずる、戸の外に立ちて叩く主はまさにその姿を現わさんとする再臨のキリストである事を。
彼はある時教えて曰うた「汝等腰に帯し、燈火を点して居れ。主人婚宴より帰り来たりて戸を叩かば直ちに開くために待つ人のごとくなれ。主人の来たる時目を覚まし居るを見らるる僕どもは幸福なるかな。我れ誠に汝等に告ぐ、主人帯してその僕どもを食事の席につかせ、進みて給事すべし。主人夜の半頃もしくは夜の明くる頃に来たるとも、かくのごとくなるを見らるる僕どもは幸福なり」と(ルカ一二の三五〜三八)。彼は何時とは知らず必ず帰り来たるのである。しかしてまず戸を叩くのである。しかして忠実なる僕等のために最も福いなる宴を開くのである。同じ事をさらに強き語調もてラオデキヤ教会に対して彼は言い遣った。この場合において彼はすでに帰り来たりつつある。すでに戸の外に立ちて叩きつつある。しかるに彼の僕等は如何にしてあるか。彼等は主の留守中に彼に対する誠実を失い彼の敵なるこの世に心を寄せてこれと狎れ親しみつつある。如何なる背信ぞ。されども彼は一喝もって彼等を吐き出すに先だち、なお彼等の悔い改めを切望して、暫くその姿を現わす事を見合わしているのである。彼等にしてもしその罪を悔い改め、彼の声を聞きて戸を開かんか、すなわち彼は新婦に迎えらるる新郎のごとくに莞爾として入り来たりて彼等と共に楽しき「婚姻の宴席」を開くであろう(黙示録一九の九)。しかし彼等にしてもし悔い改めざらんか、主は何時迄も猶予したまわない、遠からず彼は権威ある審判者として彼等の前に現われ、しかして彼等を外の暗黒に吐き出すであろう。聖筵かしからずんば審判である。事はキリスト顕現の日に至って判然と確定する。しかしてその日は刻々に迫りつつある。ラオデキヤの信者たるもの、反省一番せずして可なるべきか。
再臨の予告に次で、勝利者に対する永遠的恩恵の約束は来たる。
勝を得る者には我と共に我が座位に坐する事を許さん。我の勝を得し時、我が父と共にその御座に坐したるがごとし。(黙示録三の二一)
人生の帰趣は遂に来世永遠の生活にある。現世における一切の是々非々これを要するに来世に対する準備に外ならない。我等が永遠の生活を最も貴きものたらしめんがためにこそ、血と涙とは惜しみなく流さるるのである。ゆえに七教会に対するキリストの使信の絶頂は必ず来世の恩恵の約束であった。
しからば勝を得たる者すなわち善き信仰の戦いをたたかい終りし者は来たるべき世において如何なる生活に進まんとするか。この問題は教会の異なるに従って異なるべき性質のものではない。しかしあたかも発信者たるキリストの権威を七様に書き分けたるがごとく、勝利者の受くべき永遠的恩恵もまた七方面より叙述せらる。しかして最後なるラオデキヤ書翰に現われし所はその全体の総括として自ら最高調に達している。曰く「我が父と共にその御座に坐するがごとく、我と共に我が座位に坐する事を許さん」と。誠に深遠なる偉大なる宣言である。人生の帰趣を遺憾なく道破したる一言としてこれに勝るものあるを知らない。
見よ、神の座位あり、しかして神と共に神の独子キリストその上に坐す。また見よ、人の子の座位あり、しかして人の子イエスと共にすべての救われたる人その上に坐せんとす。彼と此と、座位は明らかに別個である。しかるにも拘わらず、二者均しくイエス・キリストの坐する所なるがゆえに、その性質上甚だ相似たるものであるに相違ない。そもそもかかる事実は何を意味するか。
座位は地位と実力との表象である。神には神たるの地位と実力とがある。すなわち彼は言う迄もなく至高者にして全能者である。ただしこの座位を占むる者は独り父なる神のみではない。キリストもまた彼の独子として、均しく至高の地位と全能の実力とに参与する。彼が肉となりて世に宿りし間暫くこの実力を棄てたりといえども、やがて勝を得て復活し昇天したる時彼は再び父と共に神の座位に坐したのである。
しかるに彼は神たるのみならずまた人である。一度び人と成りたる彼は永遠に人たるの性質を失わない。彼は今も人である、しかり、人の中の人である。完全なる人である、理想の人である。人性のその発達の極みに達したるもの、これを人の子イエスにおいて我等は見る。
ゆえにイエスは神たるの外にまた完全なる人としての地位及び実力を有する。そは至高ではない、全能ではない。しかもなお万物の上にある。また万物を支配する。これすなわち神に似たる栄光の座位である、神の世嗣としての座位である。
この座位を占むる者は独り人の子イエスのみであるか。否あたかも父と共にその独子が神の座位に参与するがごとく、イエスと共にすべての救われし人が人の子の座位に参与するのである。換言すれば、すべての救われし人が来たるべき世においてキリストと均しくその人格を完成せられ、完き人としての地位及び実力を賦与せられて、神に似たる貴き生活に入るのである。同じ事をパウロは他の語をもって言うた。曰く「(我等)もし子たらば世嗣たらん。神の世嗣にしてキリストと共に世嗣たるなり」と(ロマ八の一七)。キリストと共に彼の座位に坐する事、キリストと共に完き人と成り神に似たる者と化せらるる事、キリストと共に神の世嗣として万物を支配する事、これがキリスト者の来世永遠の生活である。すべてその心を二つにせず、妥協せず俗化せず、ひたすらキリストにのみ仕える者は、たとえ如何に小さき器といえども、たとえ今は世の塵芥のごとくせらるる者といえども、必ずこの絶大なる恩恵に与ることを許さるるのである。
耳ある者は御霊の諸教会に言いたもう事を聴くべし。(黙示録三の二二)
耳ありて聞ゆるすべての人よ、いずれの国、いずれの時代に属するを問わず、人というすべての人よ、聴け、聖霊によりてイエスの諸教会に遣りしこれらの使信を。聴きてしかして学べ。ここに人類の歩むべき唯一の途たる正しき信仰の啓示がある。この途を外にして我等の前には何処にも希望を認むることが出来ない。
三 現代教会の特徴
我等はすでにエペソ以下の六教会が最近に至る迄の千九百年間の教会歴史において著るしき照応を有することを見た。各教会の特徴はそのままに教会歴史の各時代の特徴であった。ここにおいてか我等は自らラオデキヤ教会と現代における世界の教会の実状とを対比せざるを得ない。
あえて問う、現代教会の特徴はいずれの辺にあるか、彼等の没頭せる最大問題は何であるか。その教壇より響く声は如何なる福音であるか。その礼拝は如何なる精神をもってせらるるか。その俗世間に対する態度は如何なる権威を帯ぶるか。その伝道事業は如何にして行わるるか。そのミッションスクールの状態は如何。その日曜学校は如何。そのクリスマスは如何。その集会において議せらるる所は如何。その出版物は如何。その寄附金募集の方法は如何。その教役者及び平信徒の日常生活は如何……かくのごとくに検し来たりて何人か一箇の明白なる結論以外に達し得ようか。曰く二十世紀現代の世界教会の特徴は驚くべき俗化である。
しかり、俗化である。キリスト者が純なる福音を忘れ、キリストを高調せず、徒らに民衆の後尾に附してデモクラシ―よ国際連盟よ社会改造よ文化生活よと浮身を窶すは驚くべき俗化でないか。伝道者が聴衆の歓心を買わんと欲して人の罪と十字架の贖いとを説くを避け、安価なる福音を提供するは驚くべき俗化でないか。教会の礼拝が人をしてこれを音楽会と誤まらしむるは驚くべき俗化でないか。キリストの僕たる者がこの世の政府、政治家、富豪貴族等より何かの賛助を仰がんと欲するは驚くべき俗化でないか。世の光たるべき者が戦争その他重大なる社会的罪悪の発生に対し一言の非難を発するあたわずしてかえってこれを弁護せんとするは驚くべき俗化でないか。福音宣伝のためと称してお祭り騒ぎをなし、キリスト教的慈善のためと言いて芝居じみたる真似をなすがごときは驚くべき俗化でないか。信者と称しながら明白なる社会的悪習慣に盲従しつつあるは驚くべき俗化でないか。その他現代多数のキリスト者のなす所言う所見るに堪えざるものが多い。今は誠に教会俗化の時代である。すべての人種中最も微温きものがキリスト者である。彼等は多分断然キリストの聖名を棄つべく余りに良心に富んでいるのであろう。しかしながらまた独りキリストのみに仕うべく余りに愛に富んでいる。彼等は世を愛する、金を愛する、逸楽を愛する、俗物の喝采を愛する。かくて冷たくもなく熱くもなく、味を失いたる塩のごとくに成りて、かえって人に棄てられかつ踏まれんとしつつあるのである。
しかるに彼等自身は何と言うているか。彼等は不幸にも自己の醜態に全く気付かざるもののごとく見ゆる。彼等は言う、我が教会の建築費幾万円、会員の数幾百、中に博士あり勅任官あり代議士あり富豪あり、献金額幾千円、集会出席者何百、改信決心者何十、教師の講演は青年男女に歓迎せられ、矯風運動は識者に認められ、大会事業は国際的地位を占めつつある。かくのごとくにしてキリスト教は遠からず世界を教化し人類永遠の平和はやがて実現するであろうと。ああ、如何なる笑うべき錯覚ぞ。
疑いもなく、ラオデキヤ時代が来たのである。第七書翰の預言が今や目前の事実と成りて現われつつあるのである。見よ、ラオデキヤ教会の信仰状態を描けるいずれの語か今日の教会に適合せざるものがあるか。もしアジアの七教会が全世界の教会を時代的に代表せずと言わばすなわち止む。しからずしてこの意味の預言的性質を認めんか、すなわち誰か教会歴史上における現代の地位を見誤るものぞ。
世界はすでにその最後の時代に一歩を踏み込んだ。しからば次に来たるべきものは何ぞ。言う迄もなくキリストの再臨とそれに伴う大革命である。我等は今の時代が如何に長く続くべきかを知らない。それはあるいは数千年に亙るのであるかも知れない。しかしながら近頃に至り、キリストが戸を叩くの音と覚しき出来事の続発し始めたるを我等は知る(この問題に関しては更めて論ずるであろう)。恐らく甚だ遠くはあらざる日に、来たるべき者が来るであろう。禍なるかな現代のラオデキヤ教会、世界の教会、日本の教会。彼等は遂に主の口より吐き出されねばならぬ。切に望む、彼等の速やかに悔い改めてその全心をキリストの前に投げ出さん事を。
「旧約と新約」第九号 一九二一年二月