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イエスの沈黙

「彼は口を開かなかった」
(イザヤ書五三章七節)

ジェシー・ペン-ルイス著

"THE SILENCE OF JESUS"
by Jessie Penn-Lewis

彼のうちに住んでいると言う者は、
自分でも彼が歩まれたように歩まなければなりません。

(ヨハネ第一の手紙二章六節)

ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている羊のように、
彼は口を開かなかった。

(イザヤ書五三章七節)


神は、「私は彼らの中に住み、彼らの中を歩もう」(コリント人への第二の手紙六章一六節)と約束されました。この約束が信者に対して成就される時、信者ははじめて「イエスの沈黙」を日々の生活の中で知るようになります。地上におけるキリストの歩みの模範をたどって「その足跡に従う」ことは、彼の真似をすることではありません。それは、「イエスのいのち」が私たちの死ぬべき体に現される道の原型を、私たちの前に持つことなのです。彼が私たちの中を「歩み」、そして私たちが理解力をもって自分自身を彼にささげ、彼がご自分の御旨を私たちの中で願い、行われる時、「イエスのいのち」が私たちの死ぬべき体に現されます。まず最初に、主の生活の模範に注目しましょう。

1 人々への祝福に対する主の沈黙

「イエスは彼を家に帰して、『村に入って行かないように。このことを誰にも言ってはならない』と言われた。」(マルコによる福音書八章二六節)
「イエスは彼らに、誰にも言わないようにと命じられた」(マルコによる福音書七章三六節)

主の望みは、隠れて静かに人々を祝福し、助け、それから立ち去ることだったのでしょうか?預言者イザヤは、約束されたメシヤに関して、「彼は争わず、叫ばず、通りで彼の声を聞く者もいない」と言いました。主の働きはできるだけ「穏やかに」、「騒音」を立てずに行われました。主はある人々に、「私があなたに行ったことを話してはならない」と命令されました。「しかし彼らは、ますますそれを言い広めた」。そのため、主の名声は広まり、主は群衆を相手にしなくてはならなくなりました。この点に関して、「イエスの沈黙」は私たちに何を教えるのでしょう?私たちは、私たちを祝福するために神が用いられる僕の「名声」を、「言い広める」べきではありません。私たちは主がなさったことを語るべきです。そうするなら、主の僕たちは静かに、目立たずに、主の働きを続けることができます。

2 微妙で困難な状況における主の沈黙

「イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、バプテスマしておられるとパリサイ人が聞いたのを、主が知られると、彼はユダヤを去られた。」(ヨハネによる福音書四章一、三節)

パリサイ人が聞いたのを、主が知られると……」。主のもとにさえ、知らせが届きました。主は賢く行動して、これらの「知らせ」に応答されました。偉大な先駆者であるバプテスマのヨハネと張り合っているかのように宗教界から見られることを、主は決して許しませんでした。そこで、主はただ静かに退かれたのです!主は、沈黙と自己放棄の行いによって、問題を対処されました。私たちも同じように、「敵に批判する機会を与えない」ようにするべきです。同じような状況に出会う時、他の人々を傷つけないよう、沈黙して賢く行動しましょう。「互いに尊敬しあいなさい」。

3 変貌の山での栄光に関する主の沈黙

「彼(イエス)は彼らの前で姿が変わり、……彼らが山を下っていた時、イエスは彼らに、今見たことをだれにも話してはならないと命じられた。」(マルコによる福音書九章二、九節)

主イエスが人として地上を歩んでおられた時、三人の弟子たちだけが、山の上で主の栄光を知りました!この世も、イエスに従う群衆も、主の栄光を知りませんでした。なぜなら、選ばれた三人は「言いつけを守った」からです。

主イエスは変貌の山の上での聖なる時に関して沈黙されました。この「イエスの沈黙」は、私たちが学ぶべき良い学課です。使徒パウロは、神から与えられた啓示の豊かさに関してコリント人たちに書き送った時、この学課を学びました。「しかし、私は差し控えます。だれかが私について見たり聞いたりしている以上に、私を過大に評価するといけないからです……」(コリント人への第二の手紙一二章六節)。聖書の沈黙は、実に素晴らしいです。よく考えるなら、それがわかるでしょう。聖書は神に関する事柄からベールを取り去ります。しかしそれは、幕の内側に入ることを許された人々が、言い尽くせない栄光を垣間見るのに十分な分だけです。ご自分の子供たちに対する、神の最も深く、最も聖なる取り扱いを詳細に説明することは、間違っているとは言えないまでも、少なくとも賢明ではないでしょう。なぜなら、パウロが言っているように、それは「人に栄光を帰し」、実際以上に人を過大評価する結果になりかねないからです。ここで再び、「生まれながらの人」は、(神の)霊に関する事柄を受け入れることができないおそれがあります。彼は背を向けて、「これはひどい言葉だ」と言い、もはや主と共に歩まないかもしれません。自分の理解できない事柄につまづいてしまうのです。変貌の山での栄光に関する「イエスの沈黙」は、変貌の山について多少なりとも知っているすべての人に、隠されている事柄を世に現すべき神の時が来るまで、神の秘密を守るよう告げます。

4 十字架の道に関する主の沈黙

「あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマで、バプテスマを受けるであろう。」(マルコによる福音書一〇章三九節)

主は、ご自分の御座にあずかることを願った人々に対して、このようにしかお答えになりませんでした。主は、「杯を飲むこと」が何を意味するのか、詳しく説明されませんでした。弟子たちがその意味を知るのは、まだまだ先のことです!主はゲッセマネに行く前、「私には、あなたがたに言うべきことがまだ多くありますが、あなたがたは今、それに耐えることができません」*と優しく弟子たちに語られました。主は彼らに、十字架について、そしてそれは多少の犠牲を意味するであろうことを、話されました。しかし主は、深い暗闇の谷を通る十字架の道について、沈黙されました。

*ヨハネによる福音書16章12節(訳者注)

ですから、変貌の山だけでなく、十字架の道についても明らかにし過ぎないよう、主が私たちをとどめられる時、主の制止する御手に協力しましょう。「栄光」は赤子を圧倒してしまいます。カルバリの道も同じです。神は私たち全員を、それぞれの耐える力に応じて導かれます。赤子に優しくしましょう。しかし、神の時が来たら、しりごみせずに忠実に語りましょう。

5 裏切り者の弟子に関する主の沈黙

「『まことに、まことに、私はあなたがたに言う。あなたがたのうちの一人が、私を裏切るであろう』。弟子たちは、誰のことを言っておられるのか疑問に思いながら、互いの顔を見合わせていた。」(ヨハネによる福音書一三章二一、二二節)

かくも主は沈黙されました!主は他の弟子たちと同じように、愛をもってユダを取り扱われました。そのため、弟子たちは主が誰のことを言っておられるのかわからなかったのです!主は決して言葉や表情で裏切り者を示されませんでした。王座を求めた二人の弟子に対して、十人の弟子は大いに「憤慨」しましたが(マルコによる福音書一〇章四一節)、それと同じように、主イエスもユダを暴露し、弟子たちの間に党派心を引き起こし、小さな群れを分裂させることができたでしょう。しかし、主はそうされませんでした。同じような状況に出会う時、私たちも沈黙しましょう。そして、神がユダを用いて私たちをカルバリに導かれる時、私たちを顧みている人々をかたより見ないようにしましょう。十字架の道を歩む時、神が用いておられる人々のことを、決してとやかく言わないようにしましょう。また、彼らの足を洗うのをやめないようにしましょう。「自分を虐待する」人々を「祝福する」こと(マタイによる福音書五章四四節)を、イエスはまさに実行されたのです!

6 神の深い事柄に対する主の沈黙

「これらの事を初めからあなたがたに言わなかったのは、私があなたがたと共にいたからです。……私はあなたがたに話すべき事がまだたくさんありますが、あなたがたは今、それに耐えることができません。」(ヨハネによる福音書一六章四、一二節)
「イエスは、彼らの聞くことができる力に応じて、御言葉を語られた。」(マルコによる福音書四章三三、三四節)

主の模範に一つ一つ従うなら、沈黙の力や必要性は、私たちの霊的生活において、増し加わるにちがいありません。「栄光」に関する沈黙、苦難の道に関する沈黙、そして今、神の深い事柄に関する沈黙に来ます。私たちは、私たちに助けを求める人々に対して、彼らの成長段階よりも高度な事柄を、話さないようにする必要があります。使徒パウロもこの学課を学びました。彼はコリント人たちに、「私はあなたがたに乳を飲ませて、肉を与えませんでした。なぜなら、あなたがたはそれを受けることができなかったからです」(コリント人への第一の手紙三章一、二節)と書き送りました。「キリストを告白する」ことは、赤子に「堅い肉」を無理強いすることとは、まったく異なります。

7 疑問に対する主の沈黙

「主よどうしてですか?」(ヨハネによる福音書一四章二二節)「その日には、あなたがたは私に何も尋ねないであろう」(ヨハネによる福音書一六章二三節)

聖霊の経験的な教えだけが、弟子たちに、彼らの知りたいことを解き明かすことができました。主はそれをご存じでした。私たちは何と疑問に満ちているのでしょう!「なぜ?」、「どうして?」、「いつ?」。神は、私たちが願い、思うところを遙かに超えて、豊かにほどこすことを願っておられます。しかし、これを忘れて、霊的な事柄をはっきりと、明らかに理解したいと願うことが、私たちにはあまりにも多いのです!主は、質問する弟子たちを、賢く取り扱われました。人々を教える立場にある人は、この「イエスの沈黙」をよく学ぶ必要があります。主は、「あなたがたは少しずつ知るようになるでしょう」、「聖霊があなたがたを教えて下さるでしょう」、「待ちなさい」と言って、疑問に答えられました。私たち自身の疑問を神に委ねましょう。そして、疑問を抱いている他の人々にも、そうするよう勧めましょう。神の時に、私たちが知ることを神が良しとされるすべてのことを、私たちは「知る」でしょう。

8 偽りの訴えに対する主の沈黙

「祭司長たちは多くのことで彼を訴えた。そこで、ピラトは彼に再び尋ねて言った、『何も答えないのか?見よ、何と多くのことで、彼らはあなたを訴えていることか。』しかし、イエスはそれ以上、何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。」(マルコによる福音書一五章三〜五節)

後年、使徒ペテロは神・人のこの素晴らしい沈黙について記しました。「彼はののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをされませんでした」*。彼の沈黙は神聖でした。ただの人だったら、このように黙っていることはできなかったでしょう。また、無実で罪が無いにもかかわらず、羊のようにほふり場へ「連れて行かれる」こともできなかったでしょう。主は毛を刈る者の前で黙っている羊のようでした。主はピラトの前で沈黙されました。また、十字架上で言語を絶する苦しみを受けている間も、素晴らしい意味を持つ短い言葉を七回語られただけで、あとは沈黙されました。このイエスの沈黙は、神々しい沈黙の生涯の頂点でした。人なら何か言わずにはいられない様々な状況の中で、主は沈黙を守られました。主は、公の務めを開始するまでの三十年間、沈黙の生活を送り、それから十字架に向かって羊のように歩まれました。主は、御父と共にある言い尽くせない栄光について沈黙し、人の手による言語を絶する苦しみについて沈黙し、人々への祝福について優しく沈黙し、ユダの裏切りの道について沈黙されました。主の生涯は沈黙の生涯でした。これは、「その足跡に従う」人々のための模範です。これは、「彼が歩まれたように歩む」人々――主は彼らの中にあって、再びご自身の歩みを歩まれます――のための模範です。どうすれば、これは現実のものになるのでしょう?主の「召し」を見て、それを受け入れることによってです(ペテロ第一の手紙一章一五節)。そして、彼の十字架を私たちの十字架として負うことによってです。私たちは彼にあって、彼と共に「死に」、神に対して生きます。この時、私たちはイエスの沈黙を真に知ります。そして、沈黙の生涯を送るようになります。

*ペテロの第一の手紙2章23節(訳者注)

私たちは、人々の間のつつましい奉仕において「沈黙」し、「人から見られること」を求めません。

私たちは、山の上での栄光の時に関して「沈黙」します。それは、書き記されている以上に、人々が私たちを過大に評価することがないようにするためです。

私たちは、私たちを神に導く、カルバリの道の深さについて「沈黙」します。

私たちは、私たちを裁きの間に渡すために神が用いる人々について「沈黙」し、最も身近で、最も親愛な人々から捨てられる時も「沈黙」します。

私たちは、私たちを裏切った人々に立って仕える間、「沈黙」します。

私たちは、いと高き秘密の場所で啓示される、神の深い事柄について「沈黙」します。それらは、あのバプテスマで「バプテスマ」されていない人々に対して、「説明することのできない」ものです。あのバプテスマを受けなければ、「事が成就するまで」、霊的認識力は制限されます。

私たちは、聖霊なる神しか答えられない疑問に対して「沈黙」します。「その日」聖霊なる神は、疑問を抱く心を教え、主の栄光の啓示によって、すべての疑いをしずめて下さいます。主こそ、私たちのすべての必要に対する答えです。

私たちは、神に大いに用いられている他の僕と競合する立場に人々から強制的に置かれる時、「沈黙」します。自分の「権利」をかえりみず、自己をまったく放棄して、何の弁明もせずに黙って身を引くことによってのみ、そのような状況を沈静化することができます。

裁きの間で、仲間の宗教家たちから批判され、多くのことで偽りの訴えを受ける時、私たちはただ黙って「沈黙」します。

神の小羊であるキリストよ。自己主張と自己愛の世にあって、ただあなただけが、このような沈黙と自己放棄の生活を生きることができます。

この生活を私の中で生きて下さい
「これらの者は、小羊の行く所へはどこへでも従って行く」(黙示録一四章四節)