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御霊の諸々の賜物について

Concerning Spiritual gifts

チャールズ・プライス
Charles Price



御霊に満たされている人々でも霊の諸々の賜物に関して無知であるおそれがある。聖霊の諸々の賜物を受けた人々ですら、クリスチャン生活の奉仕でそれらを用いることに関して無知であるおそれがある。御霊の「賜物(単数形)」と御霊の「諸々の賜物(複数形)」との間には違いがある。御霊の「賜物(単数形)」が意味するのは、聖霊御自身が人々に与えられることであり、聖霊は中に入って宿って下さるという保証付きである。聖霊は「パラクレートス(parakletos)」であり、傍らで働いて助けて下さる御方である。聖書は極めてはっきりと、御霊を持つことと御霊に満たされることとの間の違いを教えている。「御霊はあなたたちと共におられる」とイエスは言われた。「しかし、御霊はあなたたちの中にいるようになります」。聖霊御自身がわれわれの心の中にやって来て住んで下さる。御霊は教会に対する神の賜物であり、御霊の来臨によりこの約束は成就される。「あなたたちは聖霊の賜物(単数形)を受けます」。

御霊に満たされている人は自分の人生という木に聖霊の実を結び始める、最初、それは大きな熟した甘い実ではないかもしれないが、それでもやがてそうなる。たとえ熟してなくて小さくても、大きく熟した甘い時と同じように、リンゴはリンゴである。その実は生来リンゴであり、リンゴなのである。なぜなら、リンゴの木がリンゴの実を実らせるのは自然なことだからである。聖霊の賜物、すなわち、聖霊のあなたの心の中への来臨が元々意味するのは、あなたの人生という木に実が実り始めることである。御霊に満たされた人はみな、御霊の実を現すべきである。

聖霊が入って来られる時、われわれの心の中に何という変化が起きることか!使徒二・四にしたがって聖霊によってバプテスマされる時、われわれの生活の中に何という変革が生じることか。もしそれが本物の深い聖書的なものなら、愛が妬みや嫉妬に取って代わり、忍耐と優しさがその代わりに育つ。これを育もうともがく必要はない。それは自然に成長するからである。リンゴの木でリンゴが成長するように、それはたやすく自然に成長する。その大きさは増して行く。ますます甘くなって熟して行き、ますます美しくなる。これは本当のことである。主を賛美せよ、これは変わらない。それはわれわれの奮闘の成果ではない。御霊の実である。それはわれわれ自身の意志による実ではなく、御霊の実である。われわれ自身の努力の結果ではなく、御霊に完全に支配してもらったからに他ならない。聖霊の臨在が御霊に満たされた生活の実として現されることのゆえに、主の御名を賛美せよ。

しかし、御霊の諸々の賜物(複数形)は御霊の賜物(単数形)の後に分け与えられる。言い換えると、この賜物を受けるには与え主を得なければならない。与え主御自身の行い以外のいかなる手段によっても、御霊の諸々の賜物を受けることは誰にもできない。イエスは御霊を与えて下さり、御霊は諸々の賜物を与えて下さる。あなたが聖霊を受けていて、神の事柄について輝かしい経験をしていたとしても、それでも聖霊の賜物を少しもあるいは全然持っていないおそれがある。一度も受けたことがない賜物を人が働かせようとする時、御霊だけがなしうることを人が肉によってしようとする時、狂信が生じる。御霊がわれわれにさせようとしておられることをわれわれが行う時、教会の中には完全な調和と協調がある。

教会――キリストのからだ

これは御霊に満たされた教会の何と輝かしい絵図だろう!神の恵みの何と麗しい大聖堂だろう!神の愛と力の何という象徴だろう!エペソ二章一九〜二二節は、神が是認される完全な教会の肖像をわれわれに与える。

「さて、ですから、あなたたちはもはやよそ者でも異国人でもなく、
聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族です。
あなたたちは使徒たちと預言者たちという土台の上に建てられており、
イエス・キリスト御自身がその隅のかしら石です。
この御方にあって、建物全体は共に組み合わされ、主にある聖なる宮へと成長してゆきます。
この御方にあってあなたたちもまた共に建造されて、御霊による神の住まいへと至ります。」

これは素晴らしい絵図ではないだろうか?壮大な理想ではないだろうか?われわれは神の恵みの偉大で、麗しい、壮大な、均衡の取れた大聖堂へと共に建造される。これが教会である!ブロックやしっくい、木や石でできたものではなく、血で洗われて御霊で満たされた神の聖徒たち――その中には主御自身の豊満が宿っている――からなる建物である。そのブロックはみなあるべき場所にあり、その土台は堅固でしっかりしている。この土台は使徒たちと預言者たちであり、その隅のかしら石は主イエス・キリスト御自身である。われわれは建造されるだけでなく、共に建造される。石単体は大聖堂ではない。ブロック単体は住まいではない。ブロックと組み合わされたブロック、石と組み合わされた石が、完全な大建造物となる。聖霊と個々人との間、聖霊と教会との間には、この関係がある。神の愛というしっくいによって、われわれは一つにまとまる。主御自身の芸術的才能によって、われわれは共に組み合わされて、主にある聖なる宮へと至る。

神の永遠の御旨

しかし、これにはすべてある目的がある。それにはすべてある深い霊的意義がある。二二節は、われわれが共に組み合わされるのは神がわれわれの内に住むためである、とわれわれに告げている。われわれが共に建造されるのは「御霊による神の住まい」へと至るためである、とそれは宣言している。だからわれわれは理解するべきである。この結果を生じさせるのは、神によるわれわれの働きではなく、われわれによる神の働きなのである。これは神による人の力ではない。人による神の力である。かつて私は神を用いようとしたが、今では神が私を用いておられる。イエスの御心の大きな苦しみは人々の魂を救うためだった。人々の魂を救うために、彼は王座を去って、ベツレヘムの馬槽にお生まれになった。人々の魂を救うために、彼はガリラヤ湖の畔や、ユダヤやサマリヤの小村や村や町で宣べ伝え、教えられた。彼はポンテオ・ピラトの裁きの間で暴徒に直面された。それは彼が人々の魂を救うためだった。彼はどくろの形をした丘の頂で二人の強盗の間に架けられた。それは人々が救われるためだった。当時、彼の御心の苦しみは、魂、魂、魂のためだった。われわれが生きているこの時代の彼の御心の苦しみも、人々が救われるためである。

ペンテコステの日に聖霊が来臨された第一の目的は、弟子たちの心を喜びで満たすことではなかった。聖霊の来臨は、この人々の小さな群れに神の臨在の全ての力を賦与するためだった。主は彼らに「あなたたちは力を受けます」と約束された。何のための力か?感情のための力か?いや、そうではない。気分を良くするための力か?そんなことがありえるだろうか?それだけだろうか?断じて否!あなたの気分は良くなるだろう。主を賛美せよ!あなたの感情は掻き立てられ、天的興奮の波があなたの最も深い部分に打ち寄せるだろう。しかし、聖霊来臨の目的はこれではない!「あなたたちは私の証人、代表者、大使となります。全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じる者たちには諸々のしるしが伴います」という主の御言葉がクラリオンの音のように鳴り響くのが、私にははっきりと聞こえる。何のためのしるしか?弟子たちの力のためのしるしか?否、私の友よ、神の御霊の臨在のしるしである。主が彼らの間におられることを、疑いの余地が全くないほど証明するしるしである。悪魔どもを追い出すこと、新しい舌で語ること、病人を癒すこと、死者をよみがえらせることは、臨在を示す強力な素晴らしい神のしるしである。これらは御力の現れであるべきであり、御力は臨在から離れて受け取ってはならなかったのである。

私がしている働き

イエスの体と、教会と称されているからだに関する麗しい比喩が新約聖書にある。イエスは局在化された神だった。ペンテコステは神の普遍化だった。イエスは肉身をとった神だった。イエスは処女から生まれた神の御子だった。イエスは誉むべき三位一体の第二位格であり、神の偉大な贖いの計画にしたがって務めを行われた。彼は自分の内にある御父から来た力について語られた。彼は自分自身から出たのではない業、御父の臨在による業について語られた。彼は、私が話す言葉は御父から受けたものである、と語られた。しかし、この真理を思い出さなければならない。この事実を忘れてはならない。彼がナザレにいた時、彼はエルサレムにはいなかったのである。マリヤは彼に、「主よ、もしあなたがここにおられたなら、私の弟は死ななかったでしょう」と言った。彼女はイエスの不在を嘆き悲しんだ。そして、自分の弟が冷たい静かな墓に埋葬されたのは彼がそこにいなかったからである、と信じた。イエスの務めは、彼の地上生涯に関する限り、あまり長く続かなかった。三年の間であり、この三年はすぐに過ぎ去った。彼は外国宣教の旅に一度も出なかった。務めの短い期間のあいだ内陸の湖を渡ったことを除けば、彼は一つも海を渡らなかった。しかし、御父が彼に賜った業を彼は成就された。

しかし、彼は知っておられた。肉体は栄化されて天上に戻ることになるが、他方、このからだはそれでもとどまらなけらばならないことを。この代々の奥義が啓示されようとしていた。新しいからだが生まれようとしていた。新しい何かが生じようとしていた。それはキリストのからだとなるものだった。教会となるものだった。キリストが行われたことを、教会はすることになっていた。キリストが果たした務めを、教会はいま果たす。それでイエスは「聖霊があなたたちの上に臨んだ後、あなたたちは力を受けます」と言われたのである。

私の友よ、ここに一枚の絵がある。霊に満たされた教会の輝かしい写真がある。個々の成員の単なる群れや、個々人の単なる集まりではない。成員や個々人が共に組み合わされ、聖霊の絆によって共に結ばれ、ある目的のために共に結ばれるのである。それは、教会が御霊による神の住まいとなるためである。

新約の教会では、どの賜物も現されなければならない。御霊の賜物の一つ一つが働かなければならない。この諸々の賜物の働きにより、聖霊がなしたい働きを成就することが可能になる。聖霊のバプテスマを受けた後、われわれは御霊御自身の来臨を祈り求めたのと同じ熱心さで、われわれの務めを効果的なものとするのに必要な賜物を祈り求めなければならない。すべての人が同じ賜物を持つわけではない。ある人にはある賜物が与えられ、別の人には別の賜物が与えられる。一コリント一二・四〜一一を読むことにしよう。

「さて、賜物は様々ですが、同じ御霊です。務めには違いがありますが、同じ主です。働きは様々ですが、同じ神であり、すべてのものの中で働いてすべてのことを行われます。しかし、御霊の現れが各自に与えられているのは、全体の益となるためです。すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、他の人には同じ御霊によって知識の言葉、また他の人には同じ御霊によって信仰、また他の人には同じ御霊によって癒しの賜物、また他の人には力あるわざ、また他の人には預言、また他の人には霊を見分ける力、また他の人には様々な異言、またある人には異言を解く力が与えられています。しかしすべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は御旨のままにそれらを各自に分け与えられるのです」。

聖霊が来臨されたのだから、われわれは意のままにすべての賜物を行使して働かせることができる、と信じるのは何という過ちであることか。来臨の時に御霊が一つの賜物を与えることは可能である。御霊は一つ以上の賜物を与えることすらできる。しかし、御霊を受けたからといって、必ずしも賜物のどれか或いは全てを受けたことにはならない、という事実は残る。諸々の賜物を祈り求めるようわれわれは命じられている。熱心に切望するよう命じられている。「祝された与え主が、私たちのために備えておられる賜物を与えて下さいますように」と、われわれは主の御前で真剣に求めるべきである、と私は心の底から信じている。繰り返そう。諸々の賜物の一つ一つが教会の中に働かなければならない。コリントのこの教会に何が起きたのか?どうしてパウロはこのような手紙を書いたのか?これに関して思い出してほしい。「この諸々の賜物は皮相的なものであって、コリント人たちは偽りの霊によって取り憑かれているのです」とは、パウロは決してほのめかしていない。事実、この諸々の賜物は神に属することをパウロは強調しているのである。

しかし、肉が忍び込んでいた。人の願望が神の御旨に取って代わろうとしていた。御霊に導かれる代わりに、彼らは御霊を導こうとしていた。彼らの間に分裂が入り込んだ。「共に組み合わされる」代わりに、教会は分けられつつあった。彼らは町の中で新しい働きを始めつつあった。牧師に向かって激怒し、言うことを聞かない者になり始めた。その結果、魂の救いに関しては何も成就されなかった。ケパに従う群衆もあれば、パウロに固執する別の分派もあり、その他にもアポロを好んで彼に従うことを欲する群れがあった。パウロ、ケパ、アポロには各自の務めがあった。パウロはコリント人たちが犯した過ちのゆえに彼らを叱責した。「キリストは分けられたのか?」というパウロの問いかけの言葉には何という意味が込められていることか。一つに結ばれたからだの必要性を、彼は彼らに印象づけようとしている。彼らがキリストのからだである事実、そして、神がイエスの中に住まわれたように、神はキリストのからだである教会の中に住むことができるという事実を、パウロは強調しようとしている。

肉と霊

私はしばしば見てきたのだが、不和や分裂が生じる時、人々はしばしば賜物を用いることによって自分たちの立場を擁護しようとする。ある人は叫んで言う、「私は正しいが、他の連中は間違っています。なぜなら、神が未知の言語で私を通して語られたからです」。別の人は言う、「私は自分が正しいことを知っています。なぜなら、神は私が宣べ伝えるのを助けて下さり、私は聖霊の油塗りの下で語ったからです」。自分の立場を擁護しようとするわれわれの企てには、時として、御霊だけがなしうることを肉によって行おうとする決定的傾向がある。私の兄弟よ、神はあなたの間違いにもかかわらず――あなたの間違いのためではない――何度もあなたを祝福されるだろう。神が御自身を現すのに、われわれ全員が絶対的完全に達するのを待たなければならなかったなら、きっと神はわれわれの中の一部の者たちのために長い時間待たなければならなかっただろう。私には私の賜物があり、あなたにはあなたの賜物がある。私には私の召命があり、あなたにはあなたの召命がある。手は足に向かって「あなたは物を掴めないから不要です」と言うことはできず、目は「見ることが出来ないから」という理由で耳を追放することはできない。多くの肢体があり、多くの賜物があるが、体はただ一つである。多くの肢体が多くの方法で機能する。多くの賜物が多くの方法で働く。しかし、依然として体はただ一つである。しかし、賜物が働く際には、完全な調和と素晴らしい協調がある。百の聖霊があるわけではない。聖霊は唯一である。私の内にはひとりの聖霊がおり、あなたの内には別の聖霊がいて、われわれに正反対のことをするよう告げる、ということはない。聖霊が私には「これは正しい」と告げ、あなたにはその同じ事は偽りであると告げることはない。分裂が生じる時、それは誰かがどこかで間違っていることの確かなしるしである。あなたたちの公の集会であなたたちが共に集まる目的は何か?祈りの集会のことを言っているのではない。上の部屋や待ち望む集会のことを議論しているのではない。私が尋ねているのは、あなたたちがキリストのからだの中で、そして教会の立場に立って共に集まる目的は何か?ということである。単にあなたが何かを受けるためだろうか、それとも何かを与えるためだろうか?単に祝福を受けるためだろうか、それとも祝福となるためだろうか?単に自分自身の魂の救いを確かなものとするためだろうか、それとも、あなたたちの門をくぐって来た罪人に真の救いを知らせて主イエスを見いだす手助けをするためだろうか?なぜ諸々の賜物が与えられているのか?単なる玩具や楽しみのためだろうか?賜物には目的があることを、あなたは心に信じているだろうか?各々の賜物にはある目的があるのではないだろうか?聖霊のどの働きにもある目的があるのではないだろうか?教会の務めは人々にキリストを指し示すことである。このからだの務めは奉仕の務めである。すべての肢体が一つの偉大な目的を視野に入れて調和をもって機能し、協力し、働くのである。宣教と伝道のビジョンを失う教会は、間もなく聖霊の臨在を失う教会である。その輝かしい機会に敏感で、跪いて、「主よ、私たちに魂を与えて下さい、私たちに魂を与えて下さい、私たちに魂を与えて下さい」と叫ぶ教会は、それを通して御霊が働かれる教会である。このような教会にこそ、聖霊は御自身の諸々の賜物をお与えになるのである。

聖霊が御自身の諸々の賜物を分け与えられるのは、ただ献げられた心と命に対してであり、明け渡された霊に対してである、という結論に達することができていたなら、われわれの中の何人かは神の御前で顔を伏せていただろう。私は熱心に最善の賜物を欲する。それらの賜物を楽しみたいからではなく、奉仕に用いたいからである。最後の大いなる日に至ることを私は望んでいる。その日、私は顔と顔を合わせて私の救い主とまみえ、その祝された御足下に私の戦利品を捧げる。私の友よ、あなたの周りには地獄に沈みつつある世界がある。あなたの隣人たちは失われており、あなたの親戚たちは失われており、あなたの友人たちは失われている。彼らが自分たちの諸々の罪の宥めとしてのカルバリの血を受け入れない限り、彼らは失われているのである。結局のところ、不信のこの巨大な世界を前にして、われわれは何と無力なことか。われわれが聖霊のバプテスマを証しする時、主を十字架に付けた背教の教会は、新たにわれわれのことを「狂信的だ」と呼ぶ。この時代の精神は神から漂い去ることである。

われわれの学府のほとんどは無神論的であり、この国の講壇は神の御言葉を否定する説教者たちで満ちている。われわれは何と無力なことか!何と無能なことか!この世に手を差し伸べることが必要である。われわれにできるだろうか?兄弟よ、われわれには出来ないが、神はわれわれによって、われわれを通してそれをすることができる。これが聖霊来臨の理由である。これが聖霊の務めの目的である。聖霊が私にとってどんな意味を持つのか、そして、私がどれほど聖霊に私を通して働き、語ってもらうことを欲しているのか、私以上に誰も分からないだろう。教会における聖霊の素晴らしさ、栄光、力を私以上に感謝している人は誰もいない。ああ、聖霊が教会を通して働いて機能されるのを見ることを、私はどれほど望んでいることか。

兄弟よ、だからあなたにはあなたの賜物があり、私には私の賜物がある。あなたの賜物は私のものではないし、私の賜物はあなたのものではない。しかし、われわれは二人とも同じ聖霊、私とあなたを導く御方を持っている。あなたは自己を十字架に付けただろうか?あなたは本当に支配と導きと案内を御霊に任せているだろうか?あなたは自分の権益を祭壇の上に置いているだろうか?人の栄光のためではなく主のために、あなたは働き労しているだろうか?あなたが伝道者でいるのは、それによって利益が得られるからだろうか、それとも、あなたが宣べ伝えているのは、それによって主に益をもたらせるからだろうか?あなたは本当に自分の体を神に受け入れられる生きた聖なる供え物として献げただろうか?どうか主がわれわれを助けて下さり、われわれを真実で誠実な者にして下さいますように。もしわれわれが本当に献げられているなら、もし隠れた動機が何もないなら、もしわれわれがカルバリの扉を通って入り血を通して救われているなら、われわれはこの大きな刈り入れ場で「彼と共に働く働き人」となるべきである。互いに愛し合え。われわれは一つからだの肢体たちとして協力しなければならない。教会奉仕における御霊の務めは美しく調和に満ちたものになるが、それでも力に満ちたものになる。賜物が現される時、それにはある目的がある。聖霊が働かれる時、聖霊はそのどの働きにもある目的を持っておられる。それは不快なものにならず、むしろ、まさに天の栄光がわれわれの集まる場所を覆うのである。

天からの力

私は時折見かけたのだが、私が聖霊のバプテスマについて宣べ伝えて、救いについてはほとんど全く言及していない時に、人々はキリストを求めた。聖霊の臨在は認罪を意味する。聖霊の臨在は再生の力を意味する。どうか主がわれわれを助けて下さり、われわれが御旨の場所にとどまり、御旨のことを行うようにして下さいますように。私の友よ、私が出席したいくつかの集会では、主の栄光があまりにも素晴らしかったので、われわれは自分たちが生きているこの物質の世界の上に引き上げられた。われわれは火の戦車に乗って天空まで旅した。われわれの魂は、御座からわれわれの上に流れる神の愛の輝きに浸った。私は全観衆が聖霊の力の下で上げられるのを見た。まるで神の御手がハープの弦をかき鳴らして栄光のメロディーが流れたかのようだった。私は霊の耳で音楽を聴き、魂の目で永遠の都の栄光を見た。ああ!御霊に満たされた生活を求めよ!ああ!聖霊のバプテスマを求めよ!ペンテコステが現実のものとなったあなたたち、親愛なる人々よ、私はあなたたちに嘆願しよう。どうかその古い道しるべを取り除かないでほしい。あなたたちにお願いする。どうかこの古い教理から離れないでほしい。われわれは寄席演芸の見せ物は欲しくない。講壇の内外のいかなる見せ物もわれわれには必要ない。群衆を引き付けるための豪華な見せ物など必要ない。夕食の間や社交場は必要ないし、感情を掻き立てて人々の心に訴えることも必要ない。われわれが切に必要としているのは、階段を昇って上の部屋に行き、われわれの主の命令に従って高き所からの「力を授かる」まで待つことである。われわれにはペンテコステが必要である。ペンテコステが必要である!そして聖霊が来臨されたら、明け渡しと、自己放棄と御旨への服従によって、聖霊に正しい道を進んでもらおうではないか。私の主がこう言われるのが聞こえるような気がする。「私の小さな子供たちよ、新しい命令を私はあなたたちに与えます。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。何と輝かしい建物、何と霊的な大建造物。からだ、キリストのからだ、御霊に満たされた聖徒たちの一団、互いに組み合わされ、御旨によって構成されている。そして、その中に神ご自身が御霊にあって住まわれる。そして、この輝かしいからだにおいて、神の神聖な臨在と力が常に表される。このからだの中で御霊のすべての賜物が働く。このからだは、人の意志において現される神の力のおかげで、神がそれにわれわれを召された働きを成し遂げることが可能になる。これがキリストのからだである教会である。