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つまずかない者は幸いです

ジェシー・ペン-ルイス著

"THE BLESSED UN-OFFENDED"
by Jessie Penn-Lewis

私につまずかない者は幸いです。
(マタイによる福音書一一章六節)


バプテスマのヨハネは義のゆえに牢獄の中にいました。孤独な囚人はキリストの御業を聞きました。ヨハネはかつて、彼を神に油塗られた方として証ししました。しかしその彼が、二人の弟子に質問を持たせて主のもとに遣わしたのです。このことは、ヨハネの魂の中に鉄のような疑問が入り込んでいたことを示します。神に見捨てられたかのような状況の中で、彼は過去を熟考しました。そして、「私が神の御子として証しした方は、結局のところメシヤなのだろうか?」という恐ろしい疑問が、言いようのない困難の時に、彼の心の中に入り込みました。

おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」。これが主に対する短信でした

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハネによる福音書一章三四節)と大胆に証しした彼が、本当にこのような質問をしたのでしょうか?

ヨハネはまた、(神の)霊に教わって、「彼は必ず増し加わりますが、私は必ず減少します*と言いました。彼はキリストの先駆者であり、その働きが成されたあかつきには、必ず視界から消え去らなければなりませんでした。それは、注意がまったく主に集中するためです。しかし、聖霊は彼がどのように「減少する」のかに関する知識を差し控えられました。ヨハネは、自分の奉仕の道が投獄と殉教の死で終わろうとは、夢にも思いませんでした。

*ヨハネによる福音書三章三〇節(訳者注)

ある日、牢獄の中で、「結局、私は間違っていたのだろうか?」とヨハネは考えたかもしれません。「あの方はメシヤなのだろうか。それとも、偉大な預言者の一人にすぎないのだろうか?イスラエルは、別の方を約束された方として待つべきなのだろうか?」

ヨハネは弟子たちを遣わしました。主イエスは、ヨハネの短い質問に対する返事として、「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と彼らにお命じになりました。ヨハネは確かに預言者イザヤの書によく通じていました。そして、彼の弟子たちは今、神の霊が明らかにガリラヤの預言者の上にとどまっていることを彼に告げることができました。彼らは、盲人は見えるようになり、足の不自由な人は歩き、らい病の人は清められ、耳の聞こえない人は聞き、貧しい人々には福音が宣べ伝えられているのを見たのです

イエスはヨハネの弟子たちに、「自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と言われました。主は、孤独な囚人にこれだけ言い送れば十分だと判断されたのです。しかし主は、ヨハネ自身の心の必要のために、短い個人的なメッセージ――優しく意義深い言葉――を付け加えられました。そのメッセージは、さらに深い苦難――主はヨハネの前途にさらに深い苦難が待ち受けていることをご存知でした――の中で、ヨハネの信仰の錨として働くであろうものでした。「ヨハネに言いなさい。……私につまずかない者は幸いです」(マタイによる福音書一一章六節)。

あたかも、厳しい試みを受けている僕に対して、キリストはこう言っておられるかのようでした。「私は他の人々の必要を満たしています。しかしヨハネよ、あなたの必要を忘れたわけではありません!私はあなたのために、特別な祝福を取ってあります。それは、私の周りにいる人々に与えているものよりも、遙かに高度な祝福です。それは、現在の試みや現在の苦難からの解放よりも遙かに優っている、永遠の祝福です。それは、私がどんなに奇妙な取り扱いをしても、私につまずかない人々のために取ってある、特別な祝福なのです。私は他の人々を解放する一方で、彼らを牢獄、暗闇、孤独、苦難、死の中に取り残します。それは、私の現れの時に、彼らの信仰が栄誉を受けるためです」。

主は、試みを受けている先駆者に、非難の言葉を一言も送られませんでした。主は、「すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われる*ことをご存知でした。それゆえ、主はメッセージを送って、永遠の平和の実を結ぶ「将来」を信じるよう、ヨハネの信仰を引き上げられたのです。

*ヘブル人への手紙一二章一一節(訳者注)

あのさらに暗い日――神の僕が殉教の死に追いやられ、悪魔が明らかに勝利したかのように見えたあの日――ヨハネは「私はつまずきません、主よ」とささやいたのではないでしょうか?ヨハネが「釈放されなかった」のは、彼が「さらにまさった復活」*、殉教者の冠を得るためだったのです。

*ヘブル人への手紙一一章三五節「他の者たちは、さらにまさった復活を受けるために、釈放されようとはせず、打たれて死にました。」(訳者注)

ヨハネの弟子たちがメッセージを携えて帰った時、イエスは群衆に向かって、ヨハネについて証しされました。かつてヨハネがヨルダン川のほとりで主について証ししたように、主もヨハネについて証しされました。

「『見よ、私は私の使者を遣わす……』と書き記されているのは、この人のことです。バプテスマのヨハネよりも大いなる者は、起こったことがありません」(マタイによる福音書一一章一〇〜一一節)。

ヨハネは「大いなる者」だったので、主はヨハネを信頼することができました。公の「成功した」奉仕についてだけでなく、説明無き投獄や苦難についても、信頼することができました。キリストはヨハネを信頼していたので、短いメッセージを送るだけで、ヨハネは屈辱的な死に向かうことができる、とお考えになったのです。

主がヨハネに送ったメッセージは、ヨハネが厳しい試みと困難の中にいたことを明らかにしました。しかし、主がヨハネにメッセージを送られたまさにその時、主はヨハネについて、「彼は燃えて輝くともしびです」と証しされたのです。牢獄の中にあっても、ヨハネは彼の神にとって「輝くともしび」でした。そのともしびは、彼を取り巻く暗闇の中で、いっそう明るく燃えていたのです。

主はヨハネの忠実な心をご存知でした。そして、「主の奇妙な沈黙や取り扱いにつまずいてはならない」と命じる短信を送るだけで、現在の苦難から解放されることを求めない信仰、試みの時に、

「私は何と言いましょう?父よ、この時から私をお救い下さい」、「父よ、あなたの御名の栄光を現して下さい」(ヨハネによる福音書一二章二七、二八節)

と叫ぶ信仰を引き出せることを、主はご存知でした。

主はヨハネに祝福を与えることを約束されました。主がヨハネを牢獄から解放せず、その中に残すとき、もし彼がつまずかないなら、彼はその祝福を受けるでしょう。主がヨハネに送られたメッセージの中の「誰でも」という言葉は、ヨハネの足跡に従う神のすべての子供たちにも、この祝福が約束されていることを示します。「私につまずかない者は誰でも(バプテスマのヨハネだけでなく)、幸いです」。

ヨハネに約束されたこの特別な祝福、そして「誰でも」という言葉によって私たちにも開かれたこの特別な祝福にあずかるために、聖書の他の節に行き、今日「つまずかない」者となるための方法を学ぶことにしましょう。

まず最初に、メシヤが到来される時、メシヤは「つまずきの岩」となるであろうことを、イザヤがはっきりと預言していることに注目しましょう。

「この方が聖所となられます。……そして、つまずきの岩となられます。……彼らの中の多くの者がつまずきます」(イザヤ書八章一四、一五節)

私につまずいてはいけません」が、ヨハネに対する主のメッセージでした。そして、主の御言葉はイザヤ書の節を解き明かします。

すべての魂にとって、キリストは「聖所」であるか、「つまずきの岩」であるかのいずれかです。私たちは主を避け所とし、主の御心を学んで主に「つまずかない」者となるか、さもなければ、主の要求、主の救いの道、主の十字架、主の御旨、主の私たちに対する取り扱いに憤慨する*かのいずれかです。主は不従順な者に対しては「つまずきの石、妨げの岩」ですが(ペテロ第一の手紙二章八節)、主を信じ、主の中に隠れる人々に対しては尊い御方です。

*早い話が、私たちの道で絶えずキリストにつまずくということです。

福音書の中に、主につまずいた人々の話がのっています。彼らの事例から、人生につまずき、自分の確信を投げ捨て、自分の報いを失う原因を、いくつか見ることができます。

つまずいた回心者たち

「彼は、御言葉を聞くと、喜んで受け入れます。……しかし、艱難や迫害が起こると、つまずいてしまいます」(マタイによる福音書一三章二〇、二一節)

これらの人々は、喜んでいのちの言葉を受け入れます。しかし、艱難(あるいは脱穀)によって試される時、すなわち、天の農夫である主が彼らの生活の中の麦から籾殻を分け始められる時、「つまずいて」しまいます。

彼らはキリストに従うための代価を計算しませんでした。彼らは、喜び、平和、繁栄を期待しました。しかし、決して十字架を期待しませんでした。

「キリストが十字架を負われたのは、私たちが十字架から解放されるためです」。主の御名を帯びている人々がこのように言うのを、私たちは何度も何度も耳にします。

そうです、キリストは私たちを神にもたらすために、私たちのために苦しまれました。ただキリストだけが、わたしたちの罪と、全世界の罪のためのなだめです。しかし、私たちは彼の十字架を負って、彼の苦難にあずかる必要があります。彼の苦難はその子供たちの前に置かれています。彼の苦難にあずかるなら、私たちは彼と同じ形に変えられ、彼の御座にあずかることができるようになります。

「もし苦しむなら、私たちは彼と共に治めるようになります」。「私たちが共に栄光を受けるために、彼と共に苦しむなら、私たちは神の相続人であり、またキリストとの共同相続人です」(ローマ人への手紙八章一七節)。

私たちは、キリストの十字架において、彼と交わる必要があります。しかし、多くの回心者たちは、この道を歩む用意をしてきませんでした。そして、「艱難」が始まると、「つまずいて」しまうのです。

つまずいた人々

「イエスはそこから出て、ご自分の故郷へ行かれた。……聞いていた大勢の人が驚嘆して言った、『……この人は大工ではないか?……彼の妹たちは、ここで私たちと一緒にいるではないか?』。こうして、人々は彼につまずいた」(マルコによる福音書六章一〜六節を見よ)

人々はマリヤの子である大工を見ました。そのため、神の御子、キリストを見逃しました。「彼は、彼らの不信仰のために、そこでは何一つ力あるわざを行うことができなかった」。キリストが喜んで人々に近づかれる時、そして人々の救いのために僕たちを用いられる時、彼は今日も「つまずきの岩」です。

誰が真にキリストを求めているのかを明らかにするために、キリストは低い身なりを装って人々に近づかれます。なぜなら、私たちが彼に乾いているとき、神がどの器を用いて私たちの乾きを満たされても、私たちは気にしないからです。私たちは、いのちの言葉を供給するために遣わされた彼の使者たちの「振る舞い」や「言葉遣い」を咎めたりはしません。使徒パウロはガラテヤ人に対して、「私の肉体には、あなたがたにとって一つの試みがあったのに、あなたがたは嫌ったり、拒絶したりせず、実にキリスト・イエスのように受け入れてくれました」(ガラテヤ人への手紙四章一四節)と書き送りました。(コリント人への第二の手紙一〇章一、一〇節と比較せよ。)

つまずいた形式主義者たち

「『この民は、口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。彼らは人の戒めを教えとして教えながら、むなしく私を礼拝している』……弟子たちが彼の所に来て言った、『パリサイ人たちがつまずいたのをご存知ですか?』」(マタイによる福音書一五章八、九、一二節)

キリストは当時、宗教的形式主義者たちにとって、「つまずきの岩」でした。なぜなら、キリストは彼らに真実を語ったからです。彼らは彼の御父を礼拝していると告白しました。しかし、キリストが「神が求めておられるのは心の礼拝であって、たんなる口先の告白ではない」と彼らに語られたため、彼らは「つまずき」ました。「このような外面的な宗教はむなしい」と言われた時、彼はさらに大いなるつまずきでした。

忠実な証人である主が、ご自分の子供である私たちをこのように取り扱い、私たちの宗教生活の中から人為的なものをすべて剥ぎ取られる時、私たちもまた彼に「つまずく」のでしょうか?

自分に関する真実を知ることを真に切望しているキリストの従者は、なんと少ないのでしょう!主がゆっくりと、優しく、自己の忌まわしい命を啓示される時、主につまずかない人は幸いです。主は、私たちを死のちりに伏させ、私たちが「私の内には善なるものが一つも宿っていません。私は罪深い人間です、おお主よ」と叫ぶまで、ご自分の働きを休むことはありません。

つまずいた弟子たち

「『私を食べる者は、私によって生きます』。……弟子たちはつぶやいた。……(イエスは)言われた、『これがあなたがたをつまずかせるのですか?』……その時から、弟子たちの多くは退いて、もはや彼と共に歩まなかった」(ヨハネによる福音書六章五七、六一、六六節)

主イエスは、弟子の中のある者たちにとってさえ、「つまずきの岩」でした。彼らは、主の口が語られた神の深い奥義につぶやきました。彼らは主の「教え」を理解することができなかったので、「つまずき」、主から離れました。

キリストは、彼の肉を食べ、彼の血を飲むという奇妙な言葉使いに関して、「私があなたがたに語った言葉はであり、いのちです」と言われました。もし、聴衆が彼の御言葉を心に秘め、待ったなら、聖霊がすべての真理に彼らを導かれたでしょう。しかし、彼らは「つまずき」、退いて、もはや彼と共に歩みませんでした。

今日、私たちの多くも、愚かなことに、天の祝福を自分から遠ざけています。私たちは、把握し、理解することが容易でない真理に、すぐにつまずいてしまいます。

私たちは、現在の自分の容量や理解によって、すべてのことを測ろうとします。しかし、私たちは従順に神の御言葉を受け、聖霊に信頼する必要があります。聖霊は御言葉を証しし、ご自身の時に、ご自身の方法で、御言葉の種を成熟させて下さいます。

つまずいた主の側近たち

「その時、イエスは彼らに言われた、『あなたがたはみな、私につまずくであろう』」(マタイによる福音書二六章三一節)
「ペテロは答えて言った、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』。弟子たちもみな同じように言った」(マタイによる福音書二六章三三、三五節)

主がこの世に来られた目的が成就される時が近づいたとき、主はご自分の小さな群れにむかって、「あなたがたは、私につまずくであろう」と言われました。主は彼ら以上に、彼らのことをご存知でした。主の言葉は彼らの激しい抗議を引き起こしましたが、後に、「彼らはみな、彼を見捨てて、逃げ去った」と聖書は記しています。

十字架のつまずきは、まだやんだわけではありません!昔、主の側近たちが主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです!

「脱穀」が始まった時、私たちは試みに耐え、私たちの信仰の告白を揺らぐことなく堅く保ったかもしれません。私たちは、主が選んで遣わされた僕たちを通して、主の幻を見、主の御声を聞いたかもしれません。私たちは、主の真理の鋭い刃を喜んで受け入れ、神の力強い御手の下にへりくだったかもしれません。私たちは、主の御言葉を自分の心に秘め、主に従ってその道を歩む時、「つまずかなかった」かもしれません。

これが全部本当だったとしても、主の十字架の真の交わりが身近に迫るとき、あの晩、ペテロが裁きの間で主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです。

私につまずかない者は誰でも、幸いです」は、特に今日のためのメッセージです。私たちは厳しい時代に生きており、多くの人は、主の再来が近づいていることを、内側深くに感じています。

キリストのからだの生ける肢体たちは、火によってためされつつあります。すべて「火に耐える」ものは、「火の中を通され」つつあります(民数記三一章二三節)。

一つの力が、(主を)告白する教会の中に働いており、主に真に結合されている者たちを、神と小羊へと分離しつつあります。

十字架への招きが試金石です。十字架の道が試金石です。キリストは、「自分の十字架を負って、私について来ない者は、私にふさわしくありません」と何度も言っておられます。

私たちの中で、小羊に従い、「つまずかない」人々は誰でしょう?

主ご自身が、「私の名を告白する者の多くは、終わりの時代に『つまずく』であろう」と予告されました。

「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストである』と言って、多くの人を欺くでしょう。また、あなたがたは、戦争、飢饉、疫病のうわさを聞くでしょう。……また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々から憎まれます。……その時、多くの人がつまずき、互いに裏切ります」(マタイによる福音書二四章五〜一〇節を見よ)

時がたつにつれて、「十字架のつまずき」はますます激しくなるでしょう。この世は、キリストのからだの生ける肢体たちに、ますます激しく敵対するようになるでしょう。十字架を拒絶し、主の身代わりの死による救いの知らせを拒絶し、主に従って主の犠牲の道を歩むことへの召しを拒絶する人々は、十字架に栄光を帰し、十字架につけられたイエス・キリスト以外に人々の間で何も知らない人々を、ますます激しく拒絶し、憎むようになるでしょう。その時、「多くの人がつまずき」ます。しかし、悲しみの始まりの時代に、神と兄弟に「つまずかない者は誰でも、幸いです」。

つまずかない小羊の従者たち

「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずかないためです」(ヨハネによる福音書一六章一節)

主は、私たち自身と、私たちの弱さ、失敗、罪を啓示される時、必ず、私たちの必要を満たす神聖な備えについても知らせて下さいます。

主は晩餐の席上、「今晩、あなたがたはみな、私のゆえにつまずきます」と言われました。しかし、主と弟子たちとが別れる前に――主は十字架と苦難に、弟子たちは恥と悲しみに向かう前に――主は弟子たちに神聖な秘訣を解き明かされました。弟子たちは、その神聖な秘訣によって、主が自分たちから取り去られても、また、取り残されて、主の御名を負い、彼のゆえにすべての人から憎まれる*ようになっても、「つまずかない」でいることができました。

*ヨハネによる福音書一五章一八節

主は弟子たちに、短く次のものを約束されました。

1.慰め主なる聖霊の賜物
「私は父にお願いしましょう。そうすれば、父は別の慰め主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネによる福音書一四章一六節)

2.復活された主の現れ
「私は(あなたがたに)私自身を現します」(ヨハネによる福音書一四章一八〜二一節)

3.父なる神を知る知識
「私の父は彼を愛され、私たちは彼の所へ行って、彼と共に私たちの住まいを造ります」(ヨハネによる福音書一四章二〇〜二三節)

慰め主なる聖霊は、キリストに関する事柄を弟子たちに対して実際のものとし、彼らにキリストの心を伝えます。また、彼らにキリストのいのちを分け与え、彼らをキリストの平安と喜びで満たします。

内住する慰め主によって慰められている人は、「つまずき」ません

弟子たちが聖霊の慰めの中を歩むなら、復活されたキリストはご自身を彼らに現されます。そして彼らは、共に栄光にあずかる者となるために、喜んでキリストの苦難にあずかる者とされます。

復活された主と親密に交わる人は、「つまずき」ません

弟子たちが啓示されたキリストの御旨に絶対的に従順に歩むなら、主は彼らにはっきりと御父について語られます。そして彼らは、聖霊によって、御子を通して、御父を内住する方として知るようになります。

御父を知ることを学んだ人は、「つまずき」ません

「私につまずかない人は誰でも」、父なる神、子なる神、聖霊なる神の祝福によって、「祝福されて」います。

メッセージを終える前に、この今の邪悪な世に生きておりながらつまずかない人々の特徴について、簡単に注目することにしましょう。

彼らは「純真で、非難されるところのない者」です(ピリピ人への手紙一章九、一〇節)。なぜなら、彼らは深い謙遜と愛の中で、「務めがそしられないために、どんなことにも、つまずきの機会を与えない」ように努めるからです(コリント人への第二の手紙六章三節)。

彼らは、知恵を持たない人々に対して、知恵によって接します。それは、「彼らをつまずかせないために」(マタイによる福音書一七章二七節)、主が知恵によって行動されたのと同じです。

彼らは他の人々のために、合法的なものさえも喜んで犠牲にします。それは、人々が「つまずいたり……弱められる」ことがないためです(ローマ人への手紙一四章二一節)。

彼らは、自分の生活を対処する時、自分を「つまずかせる」ものを(マタイによる福音書一八章八、九節)、すべて断固として捨て去ります。なぜなら彼らは、主が次のように言われたことを知っているからです。

「この世はつまずきがあるから、災いです!つまずきが来ることは避けられません。しかし、つまずきをもたらす者は災いです」(マタイによる福音書一八章七節)

十字架の要求につまずく者は、他の人々が歩む道の「つまずき」、もしくは「つまずきの石」になります。

「つまずきが来ることは避けられません」。これは貧しい世にとって、何と悲しい言葉でしょう!この世はつまずきがあるから、災いです。不幸なことに、世は、神に似つかわしくない子供たちのために、神に背を向けているのです。

神は私たちに恵みを与えて、つまずかない者にして下さいます。そして、つまずきをもたらす者たちの災いから、私たちを救って下さいます。

「あなた(あなたの御旨)を愛する者たちは、大いなる平和を持ち、何ものも彼らをつまずかせることはありません」(詩篇一一九篇一六五節)