聖書の中にわれわれは人生の全ての問いに対する答えと、われわれが揺り籠から墓場までの道を旅する時に直面する全ての問題に対する解決法とを見出す。聖書が霊感を受けていることについて、いかなる疑いもありえない。聖書は神が息吹かれたものであるという事実はその輝く全てのページで証明される。それは臨在の栄光で煌めいている。船乗りに対する灯台の役割を、聖書は人生の荒れ狂う嵐を切り抜けるための導きを必要としている人に対して果たす。尊い書、聖なる書である。故郷に向かって旅している間、われわれはこれをどれほど大切にし、その教えにどれほど信頼するべきか。
私が思うに、死すべき人の思いが直面した問題の中で、われわれの苦難に関する問題ほど厄介な問題はない。なぜ敬虔な人が苦しむのか?われわれは山頂に至るために祈るが、神はわれわれを谷底に導かれる。われわれは陽光を求めて祈るが、神はわれわれに雨を送られる。われわれは澄み渡った空を求めて祈るが、雲の大群が空の大通りを行進する。われわれは光を求めて祈るが、突然自分が暗闇の中にいることを見出す。これは神の御旨なのだろうか?これらすべてのことには隠れた理由があるのだろうか?われわれが常にその中にいる状況の背後にある神の目的とは一体いかなるものなのか?
神に感謝すべきことに、答えが存在するのである。その答えは神の御言葉の中に見つかる。哲学者たちはこの問いへの答えを求めて、人間的知識という回廊や人間的学識という大広間の中を空しく探求した。しかし、満足のいく答えを決して生み出せなかった。主を褒めよ!答えは存在するのである。
この主題を追うにあたって。まず第一に一つの途方もなく重要な事実を学ぼうではないか。すべての人の人生に対して神はある目的を持っておられる。土くれでできた器は、主人である陶器師の手が触れることにより一瞬で形造られるのではない。土くれが経るべき多くの過程があり、そうして初めて主人の用に適うものになれる。偉大な音楽家である主は、傷ついた人生の琴線を奏でて美しい音楽、時の回廊に鳴り響くクリスチャン的性格という音楽を弾くことができる。この御方は世に一つの壮大な弦を与え、他の弦を死に渡して静まらせるようなことはなさらない。長い人生の間ずっと、この御方は天の交響曲や旋律を奏でて下さる。あなたはこの御方のものであり、この御方はあなたのものである。この事実に安息して欲しい。心地よく安息して欲しい。サタンが神の子たちと共に天の宮廷に歩いてやって来た日のことをあなたは覚えているだろうか?エホバとサタンとの間で交わされた会話の中で、主は「あなたは私の僕であるヨブのことを考慮したか?」と仰せられた。ここで「私の」という所有格が使われているのが私は好きである。「私の」僕ヨブ、「私の」小さな子供たち、「私の」弟子ペテロ。然り、私の友よ、あなたは主のものであり、主はあなたのものである。あなたの頭の髪の毛もすべて数えられている。主が御存じでない限り、一羽の雀も地に落ちることはない。これが真実である以上、主がそれについて良く御存じでない限り、一粒の涙も頬を流れ落ちることはない、ということもまた真実である。
夜明けと共に起き、信仰により神の御手を握って、「この日、おお主よ、信仰によってあなたと共に歩みます」と言うのは、何と素晴らしいことだろう。「山頂でも谷底でも、晴れでも曇りでも、あなたは私と共におられます。早朝の薄暗い夜明けでも、真昼の日の光の中でも、信仰は私の心に囁きます。『私の主であるあなたは近くにおられます。夕暮れが速やかに近づき、私の人生の緑の野に影が伸びてきたとしても、おお主よ、あなたは依然として私と共に居て下さいます』と」。
神は御自分の御子をゲッセマネに送られたが、御子にあって、御子を通して、御自身の完全なかたちを現わされた。この神は人生の試練のとき、決して、決して、決して、あなたを失望させない。だから私の友よ、神はあなたの人生にある目的を持っておられることを学んでほしい。時としてわれわれは彫刻家の打撃の下でたじろぐ。時としてわれわれは、われわれ自身の魂の画布の上に塗られる暗い絵の具から本能的に尻込みする。しかし、彫刻家には完成した傑作が見えているのであり、芸術家は魂の目で自分の才能の産物を見ているのである。われわれに対する神の働きも同じである。だからわれわれ一人一人の人生で神の完全な御旨がなされますように。だから泣いているときでも微笑め。真夜中でも叫べ。たとえ食器棚が空っぽでも、エリヤにカラスを送られた神はあなたを忘れておられない。十字架が重くてあなたの背がたわんでいても、思い出せ。かつて御自分の十字架を運ぶ助けを人に求めた御方は、今、苦しんでいる人が自分の十字架を担うのを助けて下さるのである。ある人はこう述べた。
「神と人が共に調和して聖なる性格という編み物を編む時、全てのことが共に働いて益となる。神聖な編み手であり設計者である御方は長い縦糸を与えるだけでなく、さらに輝かしい横糸をも与えて下さる。他方、人は仕事に専念し、自分の意志を明け渡して神の命令に従って織り上げる。憐みと恵み、悲しみと喜び、暗闇と光という糸が暗い背景を生み出すが、その上に、シャロンの薔薇、十字架のキリストと谷間の百合、復活した贖い主が、御力の栄光と聖潔の美の限りを尽くして現れるのである」。
神はわれわれを見捨てておられず、イスラエルを見張る目はまどろむことも眠ることもない。これはわれわれの魂を信仰で満たしてしかるべきである。このおかげでパウロはピリピの牢獄で歌い、シラスは真夜中に主を賛美した。このおかげであなたの心はやり抜く力を与えられ、悪しき日に際して立ち、すべてを成し遂げて立つ助けを受けるのである。
少しの間、ある村の郊外にあった古の灰の山に私と共に来てほしい。そこに一人の人が座っている。彼の名はヨブであり、自分が大切にしてきたほとんどすべてのものの残骸を見渡している。家はなくなり、ロバは死に、駱駝と雄牛と羊は環境の冷酷な打撃の下で損なわれた。唯一残ったのは、神を信じる信仰だった。彼は窮状の中で身もだえ、苦しみの中で呻く。古い壺の破片で、彼は頭から足まで覆っている腫れ物を掻きむしる。彼の前には妻が立っており、おびえた目で自分の前にあるあわれな物体を見ている。小声で彼が神を信じる自分の信仰について何かを囁いていたこと、そして、過ぎ去りし年月のあいだ自分の全てを守ってくれていた手を放すのを拒んでいたことに疑いはない。彼の妻は驚き不思議がった。こんなことを許すとは、神は不義で、冷酷で、無慈悲だった。彼女は驚いて叫んだ、「あなたはまだ自分の高潔さを保っているのですか?まだ神を信じる信仰を持っているのですか?神はあなたを見捨てたのです、ヨブよ。どうして神を呪って死なないのですか?そうすれば、あなたは窮状を脱し、悲しみから逃れて、死があなたの全ての痛みを終わらせてくれるでしょう」。
優しく、しかし毅然としてヨブは彼女を叱責する。「あなたは愚かな女のように話している」と彼は言い、自分の苦しみにもかかわらず、叱責に満ちたまなざしを彼女に向けた。一瞬黙想した後、自分の妻の顔を見据えて、ある問いを発した時の彼を見よ。その問いはあまりにも深遠なので、霊的識別力のある人しか理解できない。「私たちは神の御手から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか?」と彼は叫ぶ。何という問いだろう。しかし、ああ、何と輝かしい答えが聖書の中に見つかることか。
なぜ試練が臨むのか?われわれが尻込みして避けようとする出来事がわれわれの人生に起きるのを、なぜ神は許されるのか?われわれが望んでいないことを、なぜ神は時々われわれに送られるのか?あなたに思い出してもらいたいのだが、われわれは時として自分に必要のないものを望むし、おそらく、自分が望んでないものを必要とすることがそれ以上に多いのである。神は最初から結末が分かっておられるが、われわれはそうではない。これらすべてのことで神に信頼するのは何と素晴らしいことではないだろうか?
われわれは自分を裁くべきである、と聖書は教えていることに、あなたたちは同意されるだろう。地上にいるクリスチャンは各々、絶えず自分を裁くべきである。われわれは前進し続けて完成に至らなければならない、とわれわれは教わっている。到達すべきクリスチャン経験の高い理想が存在する。もしわれわれが自分を裁くなら、裁かれることはない。もしわれわれが今生で自分を裁くことを拒むなら、われわれは死後裁かれるだろう。しかし、自分自身を知らない限り、何人も自分を裁くことはできない。試されない限り、試みを受けない限り、何人も自分自身を知ることはできない。これが分かるだろうか?自分を裁くには、自分を知らなければならない。自分を知るには、試練がなければならない。鎖を試す唯一の方法は、その一つ一つの輪に圧力をかけることである。壊れるまで強く引っ張らない限り、どの輪が最も弱いか分からないこともあるかもしれない。
もし神が私を試されるとしたら、それは神が私を愛しておられるからである。もし神が私を試みるとするなら、それは明日の私を今日の私よりも良くすることを神が望んでおられるからである。私が知っている一人の人を、あなたたちに証しとして示したい。パウロよ、昇って来て、この講壇の横のここに立ってください。そして、あなたの人生が諸々の制約の中にあったとき、あなたの偉大な心が何を高く評価していたのか、また、何を大切にしていたのかを、この人々に告げて下さい。聞け!彼がこう証しするのが聞こえるだろう。「主にあっていつも喜んでいなさい。繰り返し言うが、喜びなさい。私は自分の弱さを誇ります。なぜなら、束の間のものにすぎない今の軽い艱難は私の人生に働いて、遥かに卓越した重い栄光をもたらしつつあるからです。鞭打ちや投獄のゆえに、私に起きたまさにすべてのことのゆえに、私は主を賛美したいです。艱難は忍耐を生み出します」。キリストの十字架の不屈の兵士のこの証しは、何と輝かしい証しだろう!
私の友よ、確信せよ。あなたの人生の難所は決して罰ではなく、治療のためなのである。あなたの罪やあなたの欠点を神は罰しない。私が言わんとしているのは、あなたが苦しんでもあなたは自分の咎を贖えない、ということである。断じて、断じて、そんなことはできない。世界中探しても贖いは一つだけである。それは、神の御子が流された血、罪のための贖いとしてカルバリに注がれた血である。
「たとえ永遠に涙を流せたとしても、 たとえ絶えず熱意を持ち続けられたとしても、 罪を贖うことはできません。 ただあなただけが救えるのです。」
都の城壁の外で、ペテロが砕けた心で泣いていた時、彼はその涙で自分の咎の償いをしていたのではない。それはペテロ自身も悟っていた失敗のために他ならなかった。数時間前、彼は大いに自信に満ち、誰の助けも必要とせず、「たとえすべての人が躓いたとしても、私は躓きません」という自分の言葉を確信していた。この言葉はペテロが自分を知らないことを主に示した。あの魔の瞬間、衝動に屈し、呪って誓った時、ペテロほど驚いた人は地上に誰もいなかった。しかし、それはこの親愛なる年老いた漁師の人生の転換点だったのである。
あまり遠い昔のことではないのだが、私はある人の傍らで跪いて祈っていた。その人のゆえに私の心は痛んだ。その人が私の肩に頭を載せて話した時、彼は悲しみの杯を注ぎだしたので、最終的に私は彼の砕かれて血を流している心の重荷を彼と共有するようになった。彼は自分の咎を認め、自分の罪を告白した。しかし、私が彼のもとを去る前に、彼は私にこう言った。「『あなたがこのような罠にかかるとは驚いた』と人々は言います。しかし、あなたに言いたいのですが、世界で私ほど驚いた人は誰もいませんでした。自分にこんなことができるとは信じていませんでした。時々、それは恐ろしい夢や悪夢のように私には思われます。しかし、私は自分が思うほど強くないことを、それは証明しました。金銭欲がその鉤爪で私をつかんだので、とうとう私はあの恐ろしい試みに屈してしまったのです」。私が彼と共に祈って、共に涙を流した時、私は陶器師の手の中で傷ついた一片の土くれを感じた。しかしイエスは、試みの時に自分の主を裏切ったペテロを投げ捨てなかったように、この人のことも投げ捨てなかった。人生に何度も何度も試みが臨むのは、われわれが自分自身を知り、自分を知ったうえで自分を裁くようになることを神が望んでおられるからである。これをわれわれが覚えることを私は願う。
自分を裁くとはどういう意味か?この句が意味するところ全てである。あなたの心の中を覗いて言え、「これは悪いことです。この気性は神を喜ばせるものではありません。噂話の精神が大きな害を及ぼしています。この短気な性質はイエスに似ていません。この愚かしい高ぶり、この地的貪欲もです。私の肉の中にあるこれらのものを私は罪に定めます。私は解放を求めて主に叫びます。これらのものに出て行ってもらいたいのです。これらのものは出ていかなければなりません。神の恵みと力により、私は打ち勝ちます」。これが自分を裁くことである。しかし、あなたが言い訳を始めて、情状酌量すべき状況について述べ、「まあ、『噂話をしたければ、少しばかり噂話をしても構わない』と他の人々は言ってますけどね」と言うなら、これは自分を裁くことではない。あなたはこの問題をはぐらかして、神があなたにしてほしいことから逃げている。あなたに言いたいことがある。あなたがこれを決して忘れないようにと私は祈る。神があなたの生活の中にある御自身にとって喜ばしくないものをあなたに啓示される時、「神の恵みによってそれは出て行かなければならない」とあなたは決意するべきである。あなたが折れて、神に御自身の道を進んでもらわない限り、あなたは決して幸いにならないし、決して祝福も受けられないし、理解力を超えた平安を得ることも決してできない。ああ、私の親愛なる兄弟よ、なぜあなたは神に信頼しないのか?私の姉妹よ、なぜあなたは自分のすべてを主に明け渡さないのか?そうすれば、日が昇って主の約束があなたの心の中で証明され、夜影はあなたの人生の回廊から逃げ去る。
少しの間、塵の山の上に座している古のヨブのところに戻ることにしよう。神は彼を見捨てたように思われる。彼は自分の最善の友から捨てられたように思われる。三人の友人が彼に語りかけて助言の言葉を与えたが、彼の心の傷を包むことはできない。彼は神を求めて叫んでいる。彼が右を見ても主はそこにおられない。左を見ても主はそこにおられない。前や後に行って探しても、主を見いだせない。しかしどういうわけか自分の心の奥底で、このすべてには神の目的があることを彼は感じている。「彼が私を試みられる時、私は純金のように現れる」とヨブは宣言する。彼は自分の堅実さを失うことを拒む。神を信じる自分の信仰を失うことを拒む。結末の章でわれわれは何という光景を見出すことか。主が最後に、天から語りかけた後、自分の僕であるヨブを見下ろして、「ヨブよ、あなたの腫れ物はすべて消えましたか?」と仰せられる光景が私には思い浮かぶ。ヨブは主の目を見つめて、「はい。腫れ物は消えました。だいぶ具合がよくなりました、主よ」と答える。「あなたは駱駝を何頭持っていましたか、ヨブ?」と主はお尋ねになる。「殺されて奪われる前は三千頭持っていました」。「私はあなたに六千頭与えます。あなたが以前持っていたちょうど二倍です。あなたは雄羊を何頭持っていましたか?」と主はお尋ねになる。「五百くびきです」とヨブは答える。「その数を倍にしましょう」と主はお答えになる。「あなたに雄羊千くびき与えます」。「あなたはかつて何匹の羊を持っていましたか?」。ヨブが少しのあいだ考え込む様子が私には見える。なぜなら彼の群れは数が多かったからである。そこで彼は「七千匹の羊を持っていました、おお、主よ」と答える。天の神は、「私はあなたに一万四千匹の羊を与えましょう」とお答えになる。然り、主を賛美せよ。彼は以前持っていたすべてのものの二倍を受けたのである。
終わりに、私の目を閉じて少しのあいだ白昼夢を見ることにしよう。確かに、私の心の画布の上に描かれた一枚の絵が見える。古のヨブが見える。彼は灰の山の上に座して、古い壺の破片で自分自身を掻きむしり、自分の妻の悲観的な声に耳を傾けてはいない。否、この試練はすべて終わった。彼は自分の広々とした家の前にある広いベランダに座している。そして、彼の足元には大勢の孫たちがいて、この年老いた族長の優しい顔を赤子のまなざしで見ている。彼は自分の広大な土地を見渡して、山腹で草を食べている駱駝たちを見、牧草地の群れの鳴き声に耳を傾ける。彼は百年前の試みの日々のことを考えているのかもしれない。よくよく見ると彼の顔は美しく、彼の表情は真昼の太陽のように輝いている。「かりに彼が証しのために呼び出されたとしたら、神に信頼するすべを知っていた数百年後の別の人と同じように、ある真理を述べることができた」と言ったとしても、突飛な想像だとは私は思わない。「主を愛する人には、すべてのことが共に働いて益となります」。この「すべてのこと」は、山頂だけでなく谷底も意味する。陽光だけでなく雨も意味する。昼だけでなく夜も意味する。だから、たとえ道は暗く、谷間を通って、急峻な山腹を登るものだったとしても、神と共に歩み続けよ。そうすれば、あなたは山の向こう側にベラウの谷を見るだろう。