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私の忍耐の言葉

The Word of My Patience

チャールズ・プライス
Charles Price



「私の忍耐の言葉をあなたは守ったから、私も、地上に住む者たちを試すために、全世界に臨もうとしている誘惑の時に、あなたたちを守る」(黙示録三・一〇)。

このとてつもない時代、何という暗闇が地の表を覆っていることか!それは、無限の騒乱の中で逆巻いては砕け続ける大海のざわめきのようである。この海には何の目的もないように思われる。定められた境界の中に閉じ込められているが、それでも、せわしく呻き、逆巻き、唸っている。まるで解放を求めて叫んでいるかのようである!今日、地の表を覆っているこの混乱は、国々の中で肉が勃興したことによって引き起こされた。この者たちは地の表の主権を望んでいる。多くの人々の心の中にわれわれが見出すこの精神は、国家的企てや集団的活動の中に何度も何度も繰り返し現れる。誰も支配されることを望んでおらず、皆が支配することを望んでいる。基本的人権は、人と経済、思想と組織の紛争において、ほとんど何の役割も果たしていないように思われる。大国がチェス盤に居座り、キングやクイーンを動かしてゲームに勝とうとしている。しかし、ちっぽけな人はポーンに過ぎず、ゲームの進行と共にチェス盤から押し出されてしまう。唯一残った主権は肉の主権だけのように思われる。他方、昔イスラエルの子らに向かって空しく叫んだ御声が今もなお空しく呼ばわっており、この不幸な地上にいる人類というせわしなくうごめく海に向かって現れるだろう。

人はキリストの頭首権よりも蛇の尻尾との合一を選んだ!どんな思想の大路を旅したとしても、それはみな、あの不可抗力な究極的結末にわれわれを導く。それは政治の領域の大路かもしれない。経済の王国の大路かもしれない。政治的手腕の大路かもしれない。国際関係の大路かもしれない。この道の終点は、必然的にわれわれを、常に同じ結末に導く。それは外面的にとても悲しい光景であることに、微塵も疑いの余地はない。

申命記二八・一三、一四は告げる。「主はあなたをかしらとならせ、とはならせない。あなたは上位になって、下位にはならない。今日、私があなたに命じる、あなたの神である主の戒めに耳を傾けて、これを守り行うなら、あなたは必ずこのようになる。今日、私があなたに命じるこの全ての言葉から離れて右や左に逸れ、他の神々に従い、それに仕えてはならない」。

どんな状況、環境、人の陰謀が重なったとしても、われわれの天の父の御旨がその子らを通して成就される邪魔をすることはできない。文明が自己保存のために最後のあがきで衝突したとしても、私の主は落ちた石を拾って、御自身が隅のかしら石となられる。そして、堕落・破綻した人類を再建して、御自身が創造した一つの建造物とならせる!神は自立しておられる!人に依存されない!王たちの助けは全く不要である。神の力は、いかなる分野や国の政治家の助けにもよらない。神こそ支配者である!神の主権がまもなく全地にわたって示されるのである!

神御自身

これは、人がイエスの教えや哲学を拒絶したという問題ではない。人が神御自身を拒絶したという問題である!根本的に言って、これは彼の教えを受け入れる問題ではない。われわれがを受け入れるか否かの問題である。彼の照らす臨在から離れるなら、その教えを理解するのは不可能である。もし彼の臨在がないなら、われわれがどれほどクリスチャン生活を送ろうと努力・奮闘しても無理である。この悲劇的な時代、人は神を退位させてしまった!人は自分の道を望んでいる。自分の組織を働かせることを望んでいる。自慢の文明にもかかわらず、自分が低い水準の理解に落ち込みつつあることを、人は分かっていない。人の光はかつてないほど大きな暗闇に転じつつある!「なぜなら、見よ、暗闇は地を覆い、酷い暗闇が人々を覆うからだ」。

しかし、これは凪の前の嵐である。昼の前の夜である。喜びの叫びの前の悲しみである。幸福な時代の前の苦悩の時である。神の子らの現われの日の前の、主の子らが無力に思われる時である。その日、主の子らにおいて、また、彼らを通して現わされる、われわれの天の父の御力に、全地が震撼する。彼らは壁を飛び越え、軍勢を駆け抜ける。一人は千人を追い、二人は万人を逃走させる!これは世界を福音化しようとして世界を駆け巡ることではない!神が語られるのである!そしてこの神の言葉には権威と抗しえない力があるので、地の表にある何ものも、神の臨在の働きに逆らえない。

今日、われわれをにしているものがあることに疑いはない!われわれは型にはめられてこなかっただろうか?律法主義によって縛られ、禁令や禁制に囲まれていないだろうか?それでも、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にします!」と強調して宣言されている。さて、真理は証明済みの受容された事実についての定義ではない。真理は用語以上のものである。真理は、証明済みのものや上手く否定できないものを示す言葉以上のものである。真理は神学ではない。真理は教理ではない。教理は正しいかもしれないが、元々それは真理ではない。われわれを自由にする真理とは、キリスト御自身に他ならない!われわれがキリスト永遠の真理、確かな真理を知る時、内側から自由が臨む。この自由は、われわれが外側から知ることになる自由の前触れである。内的な自由が外的な自由に先立つ!外側の王国の栄光、威光、力を知る前に、内側の王国を経験しなければならない。地上の山々や谷々に及ぶことになるわれわれの主の統治を、今、人々は心と生活の中に経験し始めている。この人々は自分たちの全てを明け渡して、主の幸いな聖なる御旨に服した人々である。いかなる教理も人を自由にできない!聖書の文言に関するいかなる観念や理解も、虜になっている魂を自由にできない。御手に釘跡のある人が、人の人生の敷居を跨いで歩いて来られる時、足枷は砕かれる。そして、自由、輝かしい自由が、心とかつて虜にされていた霊の中に、解放の音を響き渡らせるのである!

キリストは

キリストの内に光がある。キリストは道である。われわれの命である。教理的に正統で、十字架の力についての聖書的哲学を受け入れていても、それは必ずしも、われわれが死から命に移っていることを意味しない。この世には地位を巡る争いがある。命令を与えて権威を行使する地位を巡る無数の策略がある。宗教界にすら、そのよすががある。神は御自分の子らを理解力と光の下にある所に召しておられる。今は準備の期間である!神の山である「ホレブ」に進めという命令を受ける前の「荒野の時」である!

おそらく、人の短気さはガリラヤのカナの婚宴にいたイエスの母のようである。彼女は彼の力を知っていた。そして、心の中で、自分の息子の栄光が現わされることを期待した。だから、短気を起こして、奇跡を早く行うべきだと示唆したのである。しかし、彼がどのように母親の方を向いて「女よ、私はあなたと何の係わりがありますか。私の時はまだ来ていません」と言われたのか、あなたは忘れてしまったのか?母親と息子の間の優しい関係が御父の御旨に干渉するのを、彼は許そうとされなかった。彼は定められた時まで動こうとされなかった。その時は定められていた。最初から神の御旨により計画されていた。そして遂にその瞬間が来た時、彼は行動しようとされたのである!

彼を愛する人は短気であってはならない。身の回りのどこを見ても、彼の御力の現われと彼の神聖な権威の傾注が必要なように思われることを、私は分かっている。彼の御旨の中で動かないなら、動いても無駄である。熱狂的に行動しても、もし彼の神聖な目的の中心にいないなら、われわれは無力である。遣わされない限り、出かけて行ってもわれわれは無能である。われわれが用いる武器が自分で鋳造して自分で造ったものなら、われわれは自分の無力さに気づく。

われわれは忍耐強く待っている――忍耐強くである――朝の光と主のラッパの音を忍耐をもって待っている。その時、たちまち、瞬間的に、またたく間に、人の業績のおかげではなく、神の介入のおかげで、主の栄光が主の子らにおいて、また彼らを通して示される。主の全き御旨の現われと主の輝かしい御力の現われは、いかなる軍隊よりも強大であり、いかなる海の船隊よりも大いなるものであり、疾走する船よりも強力である。

この岩

今は低くされる時であって高くされる時ではないことを思い出せ!地を継ぐのは柔和な者である!今はその日のための準備の日である!今はその時のために備えられる時である!今は明け渡しの時である。それは、その瞬間、彼が願っておられる所にわれわれが見つかるためである……その時は遠くない!神の前に身を低くしない者は、たとえどんなに栄えているように思われても破滅する!震われるものは、個人であれ国家であれ、すべて震われる。御父が植えられたものだけが残る!堅固な岩の上に建てられたものだけが、あの凄まじい日の嵐、地震、旋風に持ちこたえる。

今は、「恐れるな、小さな群れよ、あなたたちに王国を賜ることがあなたたちの父の御旨だからです」と彼が言われた時ではないだろうか?この王国はいかなる権力や国家連合のものでもない。

イザヤ二・一二、一七、一九は告げる。「これは、万軍の主の日があって、すべて誇る者と高ぶる者、すべておのれを高くする者に臨んで、その者を低くするからである。(中略)人の高ぶりはかがめられ、人々の傲慢さは低くされる。そして、その日、主だけが高くされる。(中略)主が立って地をひどく震われる時、人々は主に対する恐れのゆえに、またその威光の輝きのゆえに、岩のほら穴に入り、また地の洞窟に入る」。

この絵図は秤の片側であり、主の栄光の現われが反対側にある。今は、人が神を上回っているように思われる時である。人が秤の自分の側に、自分のありったけの力と軍事力、持ち物と富を置いている時である。人は自分自身の、気ままな、利己的な道に沿って走っているように思われる。しかし、「私の時はまだ来ていない!」と主は仰せられる。人の怒り、偽り、偏見の杯が満ちるのを、神は待っておられる。何という世界だろう!非難!告発!ストライキ!資本家対労働者!政府対政府!恐怖と不信、二重取引や二重口利きがはびこっている!今ほど酷い時があっただろうか?この光景が今ほど暗かった時があるだろうか?ラジオをつけると必ず「崩壊」という言葉が耳に入ってくるのではないだろうか?人はこの問題を解くこと、この疑問に答えること、この状況に応じることができない。これを見る時、われわれが直面している問題は家不足だけではないことがわかる。繰り返し言う。神は、怒り、偽り、偏見の杯が満ちるのを待っておられるのである。そしてその時……!

征服されよ

今は待つ時である!彼の忍耐の言葉を守る時である!われわれが神によって征服され、御霊によって制圧され、キリストの真の虜とされつつある時である!今は、彼の現われの日のための彼の準備の時である!今は、彼がその子らに、啓示と理解力とを求めていと高き方の秘密の場所に入るよう、召しておられる時である!。そして、不意にその日に見舞われることがないように、また、彼の栄光と力の全き現われのために用意を整えるために、彼を待ち望むよう召しておられる時である。その時、彼らにおいて、また彼らを通して、彼の栄光と力が現わされ、遂に永遠の朝が昇るのである!

「勝利者」になる者は、まず征服されなければならない!まずキリストの支配の下に来た者だけが、キリストと共に支配する。キリストと共に苦しむなら、われわれはキリストと共に支配することになる。今は己を低くする必要がある時である!今は、肉をすべて明け渡し、キリストの指導と導きに自分をまったく明け渡して、御足下に低くなるべき時である。約束して下さった御方は必ず来て遅れることはないことを覚えよ。今は忍耐が試されている時である。しかし、恐れるな、小さな群れよ、あなたたちに王国を賜ることがあなたたちの父の御旨である!黙示録の栄光、われわれの素晴らしいキリストの勝利の現われ、そして、その中であなたが果たす役割は、あなたがこれまで通って来たあらゆる試みや、この争いの多い涙の谷であなたが出会ったあらゆる困難に対して、一千万倍以上の報いをあなたにもたらすのである。

外の世が最悪なことをしても構うな!諸国民が外で荒れ狂い、吠え猛っても、構うな!異教徒が空しいことを考えても構うな!地の王たちが共に集まって自分たちの計画を立て、その計画を実行しようとしても構うな!最終的に、それらは失敗する運命にある!「太陽が首尾よくその旅路を巡る所ではどこでも、イエスは統治される!」ことをあなたは知らないのか?その王国は海辺から海辺まで広がり、月がもはや満ち欠けしなくなるまで続くのである!

それでわれわれは「外野席」に座しているのだが、それでも、われわれは光の中に座しており、われわれの周囲で起きている出来事の意義を理解・認識している。「鳥が見ているところで罠を仕掛けても無駄である!」。これらの現在の出来事の真の意義に関して、暗闇の中にいる必要はない。われわれはその諸々の不正な目的を理解することができる。しかし、われわれの時はまだ来ていない!従順な子らは、「今だ!」という言葉を聞くまで、彼らの主の足下で、完全な麗しい忍耐のうちに座しているのである。

真昼

「だから兄弟たちよ、主が来られるまで忍耐しなさい!」。われわれの解放の時は近い!今は理解すべき時であって、命令すべき時ではない!今は待つ時であって統治する時ではない。統治は明日のために保留されている。柔和な者は地を受け継ぐ。短気でわれわれの交わりを損なってはならない。不安によって、われわれの愛する御方とのわれわれの歩みを傷つけられてはならない。「忍耐によってあなたたちは自分の魂を得ます」。

だから家は揺らいでいる。風が吹き始めている。移ろいゆく砂々はせわしなく動いている。そして、人類という海から、半ば失望のゆえに半ば恐怖のゆえに、「明日は何が起きるのか?将来に何が待ち構えているのか?打ちのめされた地上のこの疲れ切った諸民族にとって、明日は何を意味するものなのか?」という叫びが上がっている。世の光景は実に暗い。しかし、この暗闇の中で光が輝きわたっているのだが、世はそれを理解しない。「義人の道は輝く光のようだ。ますます輝いて真昼に至る!」。あなたは暗闇の中を歩く必要はない。命の光を持つことができる!今しばらくのことである。彼の忍耐の言葉を守って、日の出を待て。人がしようとして失敗したことをみな、彼は御自身の義が勝利する輝かしい時に達成される。この最後の演劇の最終場面で真理が勝利する!人々が受け入れることになるのは宗教哲学ではない。イエスの諸々の教えの再来ではない。イエスを拒絶した世への彼御自身の再来である。だから真理は行進し続けるのである!