「その時、彼は言われた。私が来るまで商売しなさい」。疑いもなく、キリストが言及されたのは、昨今の諸大陸を揺るがすことになるあの外面的な来臨のことである。しかし、われわれはそれが意味する範囲を、かの出来事だけに限定してこなかっただろうか?ここでもまた、外面的なものにはそれに対応する内面的なものがある。私が来るまで商売しなさい!キリストが来られるまで、われわれは商売をしなければならない。その後、キリストがその支配権を引き継がれる。そして、われわれの内側にあるのは、もはや私ではなくキリストになる。これはカルバリの英雄的事実に同意すること――これは正統的ではあるが――ではない。これはカルバリのキリストを内側に受け入れることである!これはキリストと共に死ぬこと、キリストと共に十字架に付けられること、キリストと共に葬られてキリストと共によみがえることである。これは、自己の命が出て行って神の命が入って来るまで、キリストと一体化されることである!その時、キリストはわれわれの命であることをわれわれは見出す!なぜなら、「私は復活であり命です。私を信じる者は、たとえ死んでも生きます!」とキリストは宣言されたからである。生きるために死ななければならないことを、キリストはわれわれに示しておられる。二つの命が権威を持つことはありえない。「さて、兄弟たちよ、私はあなたたちに告げます。肉と血は神の王国を継ぐことはできません。朽ちるものが朽ちないものを継ぐこともできません」(一コリント一五・五〇)。
キリストがわれわれの命であることをわれわれは理解する。体・魂・霊のための命である!この神の命はわれわれが出て行くのに応じて現れる!われわれが減少する時、キリストは増し加わる!もし減少することを拒むなら、われわれは彼が増し加わるのを妨げるのである!エノクは神と共に歩んだ、とわれわれは教わっている。彼は甘く幸いな交わりを持っていた!疑いもなく、エノクはますます減少して行き、とうとうエノクがなくなる時がやって来た!その時、神は彼を取られた。肉と血は王国を継げない。アダム族は決してその門を通れない。われわれが大いに誇ってきた肉、血、人の理性や理解力は、御霊の流れの前で降参しなければならない。われわれがキリストの外面的統治に与れるようになるには、まずキリストが内側で支配しなければならない。キリストがわれわれの王座に座すことをわれわれが許すとき、キリストはわれわれを高く上げて、彼と共に彼の王座に座らせて下さる。そして、われわれはキリストと共に永遠に支配するのである!
われわれはこの命を「理解する」のではなく、この命に「成る」のである!この命は無限でわれわれには理解できない。永遠でわれわれの有限な知性では把握できない。部分が全体を含んでいるだろうか?われわれの理性で神を包囲することや、われわれの理解力で神を網羅することができるだろうか?この世は知恵をもって神を知ることは決してなかった。神の霊の流れの中に生きることを学ぶとき初めて、神は御自身を啓示して、御自身とその御言葉とその真理とを理解するためのわれわれの霊的理解力の目を開いて下さる。説明して下さい、と神に求める必要はない。内側で起きているのは、われわれは「そう成りつつある!」ということである。これは創造的命であって、理性の所産ではない。理解力がなくても、信仰はこれに成る!もし理解力があるなら、われわれに信仰は必要ない。キリストの内住の照らしがなくても理性がそれを奉じることができたなら、彼の信仰を分与してもらう必要はなかっただろう。彼であるところの信仰、そして、彼が分与して下さる信仰は、信じようとするわれわれの葛藤ではない。われわれの道を邪魔するあらゆる障害物にもかかわらずわれわれがそれを受け入れるのは、意志の肯定によってではない。太陽が輝く時、そこに光があるように、信仰もまたそこに現存する。もしキリストが内側に住んでおられるなら、なぜ信じようと葛藤する必要があるのか。この事実はあまりにも圧倒的なので、それを信じようと葛藤する必要は全くない。事実、これはそれを信じる問題ではなく、それに成る問題なのである!
キリストの王国
「私が私の王国を設立するその日…」。これは実際にキリストが行っておられることである!キリストは御自分の王国を設立しておられるのであり、われわれは今キリストの統治の中に入りつつある。なぜなら、われわれを義とする方であるキリストによってわれわれは義とされるからである!これはわれわれの理解力によるのではない。これは、ある期間の学びの後、特定の教義や信条を受け入れて、教会がわれわれのことを「正統的」と認める問題ではない。これは内側で革命が起きて、古い支配者が退位させられて新しい支配者が王座に着いたからである!キリストが統治される!キリストが征服したのである!キリストは勝利である!キリストは御自分の王国を内側に設立することにより、御自分の外側の王国を設立する用意を整えつつある。われわれは勝利者となるために、征服されつつある。キリストがわれわれの内で支配するのを許すことにより、われわれは支配するために訓練されつつある!通常、われわれが信仰と称してきたものは、われわれの側で信じようと絶え間なく苦闘すること、人の理性を超えたものを受け入れようと絶え間なく苦闘することだった。その結果、この戦いで完全な勝利は決して得られなかったのである!そのようなものは形而上的なものであって、霊的なものではない。それは神からの信仰ではない。キリストの信仰は不可能なことに向かって笑い、「それは成就される!」と叫ぶ。そのような信仰を前にするとき、理性はすくみ上り、知性や教養は頭を垂れる。神のダニエルが歩いて中に入って来る時、占星術師や予言者は退出せざるをえない!理解できなくてもわれわれは神を信じる!神は諸々の経験を通してわれわれを中に導いて下さる。そして、たとえそれらの経験を理解できなくても、われわれは神を信じる。
アブラハムは神を信じた。そして、それが神に対して義と認められた。彼は行き先を知らずに出かけて行った。神を信じて出かけて行ったのである!われわれは神を信じるべきではないだろうか?神がわれわれを導いて道に迷わせたことがかつてあっただろうか?神の約束は偉大だが、神御自身はさらに偉大ではないだろうか?だから、神がわれわれを導いて、われわれには理解できない所を通らせる時、われわれは時として、いにしえのある人と同じように、そのような所におられる神御自身の「後姿」を目にする。神がわれわれを導き通して下さったことをわれわれは理解する!その所でわれわれは神の臨在を目にする。その間ずっと、信仰は神を信じていた。なぜなら、それは神の信仰だったからである。神が御座についておられたのであり、それをわれわれが理解していようがいまいが、この事実は常に同じだった。われわれは神を見、その声を聞く。そして、神がその子らを導き通して下さることを、われわれは御霊の中で知るのである!
何度もわれわれは諸々の経験を通るが、向こう側に達するとき初めて、神はわれわれに理解力を与えて下さる。後になって、「神がこの場所におられた」とわれわれは言うようになる。われわれはベテルのヤコブのようである。ヤコブはアブラハムのように完全に明け渡していたわけではなかったので、窮地や試練の只中でも、神が自分と共におられることを理解していなかった。ここでもまた、幻が臨んだのは、ヤコブが信じようともがいている間ではなく、彼が眠っている間だった!今日のわれわれなら、これは彼が神に委ねた時だった、と言うだろう。彼がこの経験をした時、彼は主を見たのである!主が常にその中におられたことを彼は理解した!彼の困難は彼の間違った考えにあった。神の思いはわれわれの思いよりも高く、神の道はわれわれに道よりも高いことを、彼はまだ見出していなかったのである。
われわれが征服される時、われわれは勝利者の経験の中に入る!勝利者の知的器官と天然的理解力は、神の御子の信仰によって取って代わられる。この信仰を伸ばすことはわれわれには決してできない。これは神の御子の信仰であり、御子を持たない者は誰もこれを持てない!御子の方に目を向けて彼を見つめる時、われわれは生きる!十字架に付けられた御方を見ることに命がある!われわれは御子を見つめる。そして、われわれは消し去られる!神と取り引きをするよう、ただ神とだけ取り引きをするよう、われわれは命じられている。使徒パウロはすべてのことを糞土と見なした!彼が知るすべてのもの、彼の過去の経験すべて、彼の名声、教育を受けた者としての又パリサイ人としての彼の地位、これらのものをすべて彼は失った。それは彼がキリストを勝ち取るためだった!彼はすべてを船外に投げ捨てた。それは、彼の人生の支配権を引き継ぐことを望んでおられる内なる御方の統治のために場所を設けるためだった。その御方とは彼が迫害したキリストだった。キリストは彼をアラビアの砂漠の中に導かれた。そしてその所で、彼は人知を超えた神の愛を知り始めた。彼は理解不可能なことを理解し始めた。彼は御霊の中で諸々の奥義の解き明かしを経験した!神を見て神とまみえる経験をした後、「世はその知恵によって神を知ることはできません」という宣言を彼が轟かせたのも不思議ではない。その瞬間から、彼はただ神とだけ取り引きをしたのである。
真の実
自分の財産を見て回った人のことを忘れてはならない。自己の命の高ぶりによって慢心し、自分の財産の多さに浮かれて、彼は「私は自分の納屋を壊して、もっと大きいのを建てよう」と宣言した。しかし、建てる機会は決して訪れなかった。天からの声が、「ああ、愚かな者よ、今晩あなたの魂は取り去られる」と叫んだ。自分たちのアダムに似た性質という沈みゆく砂の上に建てることに固執する時、人々は愚かではないだろうか?依然として肉の欲求を追い求めることに捧げられている宮の中に、キリストの命が建て上げられたり現わされたりすることが可能だろうか?この同じ泉から純粋な甘い水が流れることができるだろうか?これはキリストがゲッセマネの園に行く途上弟子たちに与えた、燃えるような真理ではなかっただろうか?その時、キリストは弟子たちに、ぶどうの木とその枝々についての訓話を説かれた。枝は自分では実を結べなかった。実を結ぶのはぶどうの木の命であって、それが枝に流れるのである。唯一実を結ぶのはキリストの命であって、それがわれわれの中に流れ、われわれを通して流れるのである!実を結ぶのは熱意ではない。熱心さではない。これらのものは神聖な実を結べない。われわれの主の臨在と活気づける力から離れた奉仕でもない。キリストのための行いではなく、われわれを通してキリストが行われることである。われわれは神と取り引きすること、ただ神とだけ取り引きすることを学ばなければならない。自分の納屋を建てて次にもっと大きなものを建てることに決めたこの人のように、アダム的性質は「得る」過程に常に従事してきた。われわれは色々なものを得ようとしてきた。さて、その中には神の秩序に適うものもあったかもしれないが、われわれは理解力を得ることにしくじってきたのである!「知恵こそ大事なものである。それゆえ、知恵を得よ。あなたが何を得るにしても、理解力を得よ」(箴言四・七)。しかし、これは神の理解力である!われわれが主に明け渡して、自分の人間的理解力を放棄するにつれて、神の神聖な理解力が優勢になる。もしわれわれが神に委ねるなら、主の御霊はこの真理をわれわれに啓示される。あなたたちは自分自身の理解力に頼ってはならない、と主はわれわれに命じられた。われわれは不信心にも、主の真理の啓示をわれわれの人間的理性というひき臼にかけるべきだろうか?現代宗教は人の知性で神を理解しようとしたものである。しかし、救いはわれわれの主のものであり、神は明け渡された人に御自身を啓示して下さるのである。「しかし、上からの知恵は第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、憐みと良い実とに満ち、偏り見ず、偽りがありません」(ヤコブ三・一七)。
主の命令
われわれが自分自身の理解力と自分の決意とを用いて、すべての真理をわれわれの知性というひき臼にかけることに固執したため、神は強いものを狼狽させるために弱いものを選ばれた。いかなる肉も御前で決して誇ってはならない!教育を受けた肉といえども誇ってはならない。啓蒙された肉といえども誇ってはならない!あなたがどれほど肉を着飾らせても、肉は依然として肉である!肉は去らなければならない。主が内側で統治・支配しなければならない。われわれが義とされるのは、義とする方が支配なさるからである。われわれは受け入れられ、買い取られ、贖われた!主がわれわれを買い取って下さったのである!われわれは主のものである!それならどうしてわれわれは、自分の弱さを覚えつつ、また、主が共にいて下さらなければ実に無力であることを覚えつつ、御許に行って、「主よ、私はあなたのものです!私の欠点や失敗をすべて抱えたまま、私はあなたに明け渡します!私はあなたのものです、ああ、主よ!内側で統治・支配して下さい!」と言わないのか。その時、主の恵みにより、この取り引きがなされる。われわれの制約の代わりに主の無限の供給を得る!われわれの意志に代えて主の意志を得る。われわれの道の代わりに主の道を得る。われわれの命の代わりに主の命を得る。キリストがすべてのすべてとなられる!このような明け渡しがなされる時、「どうしてあの連中は諸々の誘いを受けないのだろう?」とこの世はいぶかる。われわれはもはや人々に誘われても動かない。主の命令で動くのである!主が導かれる所に、われわれは従う。主の導き無しに出かけることは敗北を意味する。その中にどれほど熱意を注いだとしても、それがどれほど正しく思われたとしても、それをするのは敗北である。われわれは征服できない。主だけが征服者だからである!主がわれわれを通して征服する前に、主はまずわれわれを征服しなければならない!主の永遠の計画を進展させる上で、これは何と輝かしい取り引きだろう。
忍耐の創始者である御方がわれわれの内側を歩まれない限り、われわれは決して自分の器を忍耐の内に保てない。来たれ、祝された主イエスよ、汝の王笏と共に来て、われわれの心の中で統治・支配せよ!われわれを汝の従順な僕とせよ!われわれの中に又われわれを通して、汝の御旨の啓示を息吹き込め!あの信仰をわれわれに注入せよ。あの信仰は理由を問わない信仰であり、御子が御父に対して、また、御父が御子に対して抱いておられる信仰と同じ信仰である。その時、主がわれわれに賜るこの信仰、主がわれわれの内に据えるこの信仰が、主に対するわれわれの信仰となる。死が近いように思われた時、ある神の子は、「そうです、あなたが来て私を連れて行かれるなら、私は喜んで死にます。しかし、私は決してこの体を悪魔には渡しません。これはあなたの宮だからです!」と祈った。まさにそうである!われわれは神の宮なのである!御父の御旨はわれわれの内に住むことである!御子の死を通して、再生の洗いによってわれわれを清めた後、われわれは御子の中におり、御子はわれわれの中におられるようになるほど、われわれは堅く結ばれる。そのため、御父がわれわれを御覧になる時、御父には御子しか見えないのである!われわれは御子の義を着せられる。われわれは御子の信仰を持つ者たちである。
おそらく、まるで主が外側におられるかのように、過去われわれは主のもとに行ったかもしれない。手を差し伸べてわれわれに触れて下さいと、主にしつこくせがみつつ、「主よ、この体を癒して下さい」と言ってきたかもしれない。完全な顕現が臨む時、われわれは主のからだであることをわれわれは悟る。内側から働くわれわれの主の復活の命は、体・魂・霊のあらゆる必要を満たすのに十分すぎるほどである。何物もこの神聖な流れの癒しの波の中に立つことはできない。これは神の癒し以上のものである。これは神の健康である!これは「修復」される以上のことであり、「絶えず修復され続ける」ことである!これは、「神の命を臨ませて、私たちの命の裂け目や欠点を繕って下さい」と求める以上のことである。われわれの内にある神の命、また、われわれを通して流れる神の命を認識することにより、われわれは勝利にもたらされる。「何でも」という句を思い出せ。「私は、私を強めて下さるキリストにより、何でもすることができます」。これが秘訣である。キリストにより、である!しかし、キリストにより何でもすることができる、とわれわれが言う時、それが実際に意味するのは、キリストはわれわれにより何でもすることができる、ということなのである。
毒蛇がパウロに咬みついて、その周りに立っていた未開人たちはその毒蛇が彼の腕にぶら下がっているのを見た。彼らは言った、「この人は人殺しに違いない。海からは逃れたが、正義がこの人を生かしておかないのだ」。しかし、パウロはその毒蛇を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。「彼らは、パウロが今にも腫れ上がるか、突然、倒れて死ぬものと思っていた……」。しかし、彼らが予期していたことは起きなかった。パウロの手は腫れ上がらなかったし、パウロは死ななかった!彼はキリストの統治の下で生き、動き、思考していたのである!この支配権が権威を振るっており、いかなる外側の影響力や力もそれを征服したり覆したりすることはできなかった。パウロがこう述べたのも不思議ではない。「私は確信しています。今も今後も、現在のものも将来のものも、人の支配者や権力者も、生も死も、いかなるものも、内側に宿っているこの燃える炎のような愛から私を引き離すことはできません」。キリストが王座に着いておられた!他のものはみな、キリストに従っていたのである!
川
われわれはどれだけ神から奪ってきたことか!神から十分の一や献げものを奪ってきたことか!神に十パーセント与えたとしても、神から奪っているおそれがある。二十パーセント与えたとしても、神のものを神に与えていないおそれがある。神に九十パーセント、あるいは九十五パーセント与えたとしても、依然として神から奪っているおそれがある。神は今、百パーセントの明け渡しを求めておられる!百パーセントの完全さではなく、百パーセントの明け渡しである。百パーセントの業績ではなく、百パーセントの明け渡しである。百パーセントの所有ではなく、百パーセントの放棄である。われわれが喜んで放棄する時、神がわれわれの所有する分となって下さる。われわれが神を得る時、われわれはすべてを得る。なぜなら、キリストはすべてのすべてだからである。われわれは、「私たちはキリストの内にすべてを持っています」と勝ち誇って歌うことができる。
キリストが買い取られたものをキリストに与えないなら、われわれは彼から奪っているのではないだろうか?キリストが死なれたのは、われわれを贖うためではなかったか?われわれは自分自身のものではない。それならなぜ、われわれは自分自身を保つことに固執するのか。自分の肢体をキリスト以外のものに従わせている時、われわれはキリストから奪っているのではないだろうか?キリストがわれわれを召される時、キリストは「私にあなたの時間を与えなさい。もしくは、私にあなたの奉仕の幾ばくかを与えなさい」とは仰らない。「私にあなたの心を与えなさい!」と仰るのである。そして、この心とは、われわれの持ち物全部、われわれの全存在を意味する。われわれが心を明け渡して、完全に服する時、キリストが中にやって来て所有される。その御声の音は何と甘いことか!この神聖な内住の意識は何と素晴らしいことか!われわれがキリストの語りかけを聞く時、頭脳や理解力によって聞くのではない。むしろ、われわれは自分の内なる存在から神に手を差し出すのである。他の人々が語るのをわれわれが御霊の中で聞く時、その人々の命はキリストと共に神の中に隠されていることをわれわれは知る。われわれは内側から流れる神の命を吸い込むスポンジのようになる。まずこの内側の流れを受けない限り、われわれはこの外側の流れを得ることができない!この川は御座の下から発する。しかし、それはキリストが御座に着いておられる時だけである。キリストが御座に着いておられない時、この川は止まる。この川がキリストから流れていないという感覚が生じる。なぜなら、キリストは川だからである。キリストは命である。道である。真理である。そしてこの神聖な流れの中で、われわれはキリストの復活の力をもって浸透されるようになる!キリストの甘い御声に耳を傾けよ!今日、キリストに明け渡せ!「私の息子、私の娘よ、あなたの心を私に与えよ!私に治めさせよ!心をことごとく私の方に向けよ!あなたは失敗を犯してきた。あなたは空っぽである。私が私の輝かしい豊かさと共に臨み、内側で生きて統治するのを受け入れよ!その時、私の中で、あなたは生き、動き、存在するようになるのである!」。