この世は四つの自由について語る。しかし実際には、一つの自由しかない。それは自分自身から自由にされることである。自分の自己からの普遍的自由である!キリストが内側で支配される時、われわれは自己から自由にされる!そして、キリストが外側の諸国民を支配される時、彼らは互いに自由になる!これ以外に何の自由もない。
これらの事柄を理解する時、われわれの自己から解放する御方が来て下さった事実を、われわれは見上げて理解する。「シオンから解放者が出る!」(ローマ十一・二十六)。キリストの統治が始まるとき、自己の統治は退出しなければならない。なぜなら、「父なる唯一の神」がおられるだけだからである。「万物はこの御方から出て、私たちもこの御方の中にあります。また、唯一の主イエス・キリストがおられるだけです。万物はこの御方により、私たちもこの御方によっています」(一コリント八・六)。「からだは一つ――御霊も一つです。あなたたちがあなたたちの召しの一つ望みの中で召されたのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、万物の神また父は一つ。この御方はすべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、あなたたちすべての中におられます」(エペソ四・四〜六)。そして敵も一つである――すなわち自己である!
「この世の友となることは神に敵対することであることを、あなたたちは知らないのですか?」(ヤコブ四・四)。「世と世にあるものとを愛してはなりません。誰でもこの世を愛するなら、御父の愛はその人の内にありません。なぜなら世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父からではなく世から出ているからです。そして、世とその欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者は永遠に永らえます」(一ヨハネ二・十五〜十七)。自己がその中で肥え太ってきたこの世の体系は、「御父」が植えられたものではなく、「われわれの父である悪魔」の呪いの下にあるアダム族の呪いが成長したものであり、またその結果である。われわれは自己の背後から羊毛を着せられてきた。自己の産物である羊毛である。われわれは自己を撫でて、自己を高く上げてきた。そしてとうとう、自己はグリーンベイの木のように成長して広がってしまったのである!自分が「惨めで哀れな者であり、貧しく、盲目で、裸である」ことをわれわれは知らない。
この世の体系の展望を見る時、「なぜなら何の違いもないからです。というのは、すべての人は罪を犯して、神の栄光に欠けているからです」という神の最後通牒が真理であることをわれわれは見出す。その光景がまさにわれわれの目の前に描き出される。これらのページを書いている時、私はある国際法廷の話を聞いた。その国際法廷は、その戦争捕虜たちが有罪であることを見出したのだが、報告によると、今や自らの潔白性が危機に瀕しているとのことだった。他の人々を裁く座に着いていながら、自分が犯した罪のために裁かれなければならないというのである!誰がこれに石を投げることができよう?罪の無い者が誰かいるか?「裁いてはなりません。それは、あなたが裁かれないためです。なぜなら、あなたが裁く裁きで、あなたも裁かれるからです。また、あなたが量る量りで、あなたもまた量られるからです。なぜあなたはあなたの兄弟の目の中にある塵を見ていながら、あなた自身の目の中にある梁について考えないのですか?」。全地を裁く御方は公義を行うべきではないだろうか?自分自身の義を剥ぎ取られるこの時、各々がこの御方に向かって、「私が他の人々を赦したように、私をお赦し下さい!」と叫ぶことができるように思われる。「なぜなら、もしあなたたちが人々の罪過を赦すなら、あなたたちの天の父もあなたたちを赦して下さるからです。しかし、もしあなたたちが人々の罪過を赦さないなら、あなたたちの天の父もあなたたちの罪過を赦して下さいません!」(マタイ六・十四、十五)。なぜなら、実際のところ、われわれが釈放されるかどうかは、われわれが他の人々を釈放するかどうかにかかっているからである!われわれの主が来られたのは世を罪に定めるためではなく世を救うためであるのと同じように、主は「私たちに和解の務めを与えて下さいました。すなわち、神はキリストにあって、この世を御自身に和解させ、その罪過の責任を彼らに負わせることをしないで、私たちに和解の言葉を委ねて下さったのです」(二コリント五・十八、十)。
王国
「あなたたち、富んでいる人たちよ、よく聞きなさい。あなたたちは、自分の身に降りかかろうとしている禍のために泣き叫びなさい」(ヤコブ五・一)。われわれの多くは、自己に富んでいることを見出して、ユダのように自殺を試みようとするだろう。しかし、神は逃れる道を示して下さっている。なぜなら、もし神を見るなら、われわれは死ぬからである――そして、そのような死によって、われわれは生き返る。なぜなら、キリストがわれわれの命になって下さるからである。自分の胸を打って、「神よ、罪人である私を憐れんでください!」と叫んだ、あの哀れな男と同じである。なぜなら、われわれが義とされるのは(外面的見せかけによる)順守によってではないし、神の王国が到来するのも順守によってではないからである。外見は神を知っているように見えなくても、神との極めて深い交わりが存在するかもしれない。われわれは杯の外側をきれいに保つことに気を付けてきたが、他方内側では、われわれは貪り食らう狼であり、互いに敵対して計画や計略を練ってきたのかもしれない。「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住む者であるのに、私の目が万軍の主なる王を見たのだから!」(イザヤ六・五)。
しかし、ひとりの御方がおられ、その御方にあってわれわれは隈なく清いのである!われわれの解放者に染みや傷はない。「われわれを完全に」して下さる。この御方が内側で王位に着く時、器を造り直して下さる。そして、われわれの命であるキリストが現れる時、われわれも彼と共に栄光のうちに現れる!自己から解放するわれわれの解放者の輝かしい現われ!主は一つ――神は一つ――信仰は一つ――自由は一つである!
人類はアダムの呪いという蛇によって咬まれてきた。われわれの内には、良いものが何もない。しかし、ああ、何という治療法を、贖いの愛は無代価で提供してくれることか。見て生きよ!「地の果てなる諸々の人よ、私を仰ぎ見て、救われよ。私は神であって、他に神はないからだ」(イザヤ四十五・二十二)。「しかし、私たちの国籍は天にあります。(御霊の中で)そこから、救い主、主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。彼は、万物を御自身に従わせうる力の働きによって、私たちの卑しい体を、御自身の栄光の体と同じかたちに変えて下さいます」(ピリピ三・二十、二十一)。「しかし私たちはみな、覆いのない顔で鏡のように主の栄光を見つめつつ、栄光から栄光へとその同じかたちに変えられて行きます。これは主の御霊によります」(二コリント三・十八)。
われわれの持ち物には、われわれを救えるものが何もない。もし屋根の上にいるなら、われわれは降りて行って物を持ち出そうとする必要はない!しばらく前のこと、あるラジオ番組が火星からの侵略について放送している間、それを聞いている人の中には、朝までそのような侵略を真剣に恐れている人もいた。ある女性は家の中にある全てのものについて考えた――たいへん価値があるものについて考えた――彼女は安全のために何を持って行こうとしたのか?最終的に、このような緊急事態に応じられるものは、イエスの血以外に無いことを彼女は見出した。どれほど価値があっても、何物もこのような緊急事態には応じられない!尊い血しかない。突然の滅びに直面する時、小羊の血以外に、裸と罪深さを覆ってくれるものは何も無い!資産の管理人ではあったが、彼女が実際に持っているのはキリストの血だけだったのである!キリストに栄光あれ!家の中に戻る必要はない!裸でわれわれはこの世界に来て、裸で去って行く――ただしキリストの覆いは別である!キリストのゆえに神に感謝せよ!屠られた小羊のゆえに神に感謝せよ!罪を担って下さる御方のゆえに神に感謝せよ!
キリストはわれわれの必要を満たして下さる
この世の体系の潮流に囚われて、キリストのパースンの現実が失われるほどになってしまうおそれがある。礼拝ですら、そうなるおそれがある!宮の中でキリストを失うおそれがある!今日の宗教的礼拝の一般的潮流に囚われるあまり、人生の諸々の真実とそれらに対するキリストによる答えとが、宗教の装飾品とその計画の中に失われてしまうおそれがある。福音のまさに本質である主イエスのパースンに従ってこなかったせいで、危機が臨む時、われわれには自分たちの必要に答えてくれるものが何もないかもしれない。自分に何かが必要なことがわかると、多くの時、われわれは助けてくれそうな人のところに出向く。神と共に歩んで会話することを、われわれは学んでこなかった。困惑していて、自分の問いへの答えが欲しい時、われわれは「静まって、私こそ神であることを知る」代わりに、電話のところに行って、神の子らの誰かと連絡を取る!イスラエルは神のもとに行く代わりに人々のところに行くことができた!岩に語りかける代わりに、われわれは岩を打つ。神を第二位に置く時はいつでも、われわれは神を打っているのである!イスラエルはモーセに嘆願することができたが、ただ神だけがマナを送ることができた。人々は救いを説くことができるが、ただキリストだけが救うことができる。しかし、われわれの御父は依然として応対可能である。新しい生ける道によってわれわれは近づくことができる。この道により、恵みの御座に大胆に行くことができる。大祭司を通して行く必要はないし、自分たちのもとに行くのと同じようなものを通す必要もない!生ける神の御霊を通して、御父のもとに行けるのである!「私のもとに来なさい。あなたたち、すべて労苦して重荷を負っている者たちよ。私はあなたたちに安息を与えます。私のくびきを負って、私から学びなさい。私は柔和で心のへりくだった者だからです。そうすれば、あなたたちは自分の魂に安息を見出します。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです」(マタイ十一・二十八〜三十)。
「私の羊は私の声を聞きます。私は彼らを知っており、彼らは私に従います!」(ヨハネ十・二十七)。人を高く上げることで、われわれは主イエス・キリストのパースンを侮辱し、恵みの御霊を侮ってきた。人を神とし、神を人としてきた!しかし、清算の日がわれわれの上に臨んでいる。自己から救い、互いから救って下さる解放者がここにおられる!全能の神の大いなる日が迫っている。主イエス・キリスト以外の何かに頼っているなら、誰がこの悪しき時に立ちえよう?われわれは倒れるだろう!自分の正しさを主張する時、われわれはみな道を外している。正しい御方はただひとりだからである!この御方は、「どうして私を良いと言うのですか?良い御方はただひとりしかいません。それは神です!」(マタイ十九・十七)と仰せられた。この主の宣言を前にして、自分は正しいと誰が敢えて言えよう?主は真理である!どうしてこの地位を他の権力者に敢えて与えることができよう?
単一の目で神を見よ。いかなる人も肉に従って知ってはならない。われわれがキリストしか見ないなら、われわれはそのような人を解放するし、自分自身をも解放するのである!自分は他の人よりも優れている、と思わないよう注意しようではないか。そのような思いは心痛という結果になるだけである!医者なる御方を必要とするのは病人である。もしわれわれが自己、自分の道、自分の義の中にあることを見出すなら、われわれにはこの医者なる御方が必要である。なぜなら、もしわれわれが肉から出た何かに頼るなら、われわれは全ての人の中で最も惨めな者だからである。われわれがキリストにあって真に義となるのは、自分で自制したり自分で義となることによってではなく、キリストの命が現れる時である。キリストはわれわれの義である。誰かの肉による生活を罪に定める権利は私にはない。なぜなら、それはすでに罪に定められているからである。キリストの命が現れる時、われわれはキリストと共に栄光のうちに現れる。
あらゆる問題に対する答えが一つある。その答えは一言で要約できる。それは、神への扉である「イエス」である!他に道は無い。他に扉は無い。ただイエスだけである。イエスだけをわれわれは必要とする。この開かれた扉の中に、私は私の知恵、私の義、私の力、私の癒しを見る。しかし、何ものにも増して素晴らしいことに、その中に私の復活の命を見る。この命は神聖であり、無限であり、永遠である。そして贖われた私の心に向かって、「私が生きるので、あなたたちも生きます」と彼は語りかけて下さる。四つの自由だって?御子が自由にする者は確かに自由なのである!
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