数年前、私はニューヨークのロチェスターにあるとても麗しい家庭でもてなされた。その魅力的な家族の一員に、六歳くらいのとても可愛い少女がいた。彼女は私がこれまで会ってきた婦人と同じくらい探求的だった。ある日、彼女は私に近づいて、「プライス博士、あなたは説教をどこで得るの?」と言った。
私は彼女を見て微笑んだ。もっと年長の人なら、おそらく、そのような質問はあえてしないだろう。そのような質問は困った質問だっただろう。私は心の中で、自分の説教の多くがどこで生まれたのか知っていた。この本から少し――あの本から少し――この説教者が言ったこと――注解者が述べていること――それに少しばかりの独創性を加えて、われわれは説教をつくる。確かに、私も有罪である。しかし、私はそのようなやり方で説教をつくりたくない!
そう遠くない昔のこと、電話の呼び出し音が鳴った。印刷局が私を呼び出して、黄金の穀粒(著者が出版していた雑誌。訳注)の今号のために短いメッセージがもう一つ必要だ、と私に告げた。寝る前に私は、主が――御約束にしたがって――私の心に何らかのメッセージを与えて下さるよう祈った。四時に私は御霊によって起こされた。そしてこのささやかな説話は、夜が明ける前の早朝に私に臨んだものである。それは幾つかの園に関するものである。
第一の園
御霊の中で私は第一の園である、美しいエデンの園を見ることができた。この罪なき谷の美しさと栄光を、著者はどれほど喜ばしい言葉で描写すればいいことか。木々には実がたわわになり、花は美しく鮮やかにたくさん咲いていた。鳥たちは歌い、川は微笑み、すべてが調和と優雅さに満ちていた。そのため、大空の彼方にある天使たちが住まう、かの幸いな地の美と栄光の幾ばくかを反射する鏡のように、その地は思われたに違いない。
神の創造の威光は実に輝かしいものだった。しかし、男と女の形成は、とりわけ一番麗しい御業だった。彼らは罪の無い人々だった!夜明けのたびに、罪なき完全と聖潔の上に太陽は微笑んだ。そして、この黄金の球体が水平線の下に沈み始める時、神御自身がこの美しいエデンの園の中で罪の無い人間と共に歩み、会話されたのである。
その後、堕落が生じた。
幸いと満足のこの園の中から、アダムとエバは追放された。呪いが地の上に臨んだ。彼らは罪人だった。この時以降、彼らは暑さ寒さを忍ばなければならなかった。健康と同じように病気を、幸福に思われる束の間の時と同じように悲しみの暗い影をも忍ばなければならなかった。額に汗して人は日毎のパンを得なければならなかった。そして、この最初の園の物語は悲劇に終わった。しかし、最後の園の物語は勝利のうちに終わるのである!
奥底にある飢え
浅薄に見える人生の奥底で、われわれはあの園に戻ることを飢え求めてきたのではないだろうか?罪の恐ろしい結果を見るのに、あなたは聖徒である必要はない。心の中で罪を蔑んでいる哀れな罪人は一人だけではない。解放の瞬間を望んで夢見ている、習慣の鎖に縛られて苦しんでいる魂は一人だけではない。
少し前に、私がモルヒネ中毒者の細い痩せ衰えた手を取った時、主の御霊は私に憐みの心を大いに与えられたので、私は私の堕落した兄弟のために悲しんで泣いた。彼もまた泣いた。
「あなたがモルヒネを憎んでいるのと同じくらい、私もそれを憎んでいます」と彼は言った。そして物憂げに付け加えた。「昔ながらの私の田園の家で幸福な少年だった時に過ごしたように過ごせるなら、たとえそれが六ヵ月だけだったとしても、私の残りの人生を捧げます」。
確かに、人類はこの「園」を失った。神は美しいものをたくさん造られたのに、人は醜いものの中に生き続けている。われわれは純粋なものについて知り尽くしているが、それでも、卑しいものや汚れたものの中に居続けている。われわれは愛の美しさを知っているが、それでも、心は憎しみと悪意と貪欲に満ちている。われわれはこの園を失ったのである!
私は知っている。われわれの性質の荒っぽい外観の下には、麗しい園の中を再び歩きたいという願いがある。その園では、罪は征服されていて、死の恐怖はもはやない。われわれは花が撒かれた道に沿って歩むことを願っている。その道では神の御声が友人であるわれわれに語りかけるのを、われわれは聞くことができる。そのような園があるのであり、私はあなたたちをそこに連れて行くつもりである。ところで――奇妙なことに――その道は別の園を通り抜けるのである。
第二の園
それで、御霊が早朝に私の心に語られた時、御霊は私を別の小さな門に導かれた。その門には「ゲッセマネ」という言葉が書かれていた。「しかし、私が求めたのはこれではありません!」と私は叫んだ。「私が求めたのは命、幸い、鳥の鳴き声、美しい花の香りです」。
すると、私は偉大な真理を見た。その中を歩いて私の主と交わることを私が願っているあの園に通じる道は、入口に「ゲッセマネ」と記されているこの同じ小さな狭い門を常に通るのである。私の祝された主が、オリーブの木々の下で祈っているのを私は見た。主の疲れた頭を横たえることのできる人の胸はそこにはなかった。この園には眠っている人々が確かにいたが、彼らは、天がその日彼らの前に置いたこの機会に応じなかった。だから、一人で、私の主は冷たい無機質な岩の傍らで祈られた。主が歩んだ道は犠牲の道であり、その道は完全な自己放棄の場所に通じていた。その場所は完全な明け渡しと、自分の全ての願いが磔殺される孤独な所だった。
私の友よ、あなたはこの園に行ったことがあるだろうか?あなたは人生の中で見出したのではないだろうか?エデンの栄光と純粋さと聖潔に少しでも戻りたいなら、まずゲッセマネの園の道を旅しなければならないのである。それは園ではない、とあなたは思うかもしれない。しかし、それは園である。あなたが夢見る園の見事な美しさはそれにはないかもしれないことを、私は承知している。しかし、それは同じように「園」なのである。
一つのことは確かである。あなたが完全な明け渡しという隔絶された片隅で祈る時、邪魔されることはないだろう。その道を通る人々はほとんどいない。「ゲッセマネ」と記された門の鍵の上に置かれた人の手はほとんどない。仮に彼らの心が中に入ることを彼らに命じたとしても、彼らはおそらく、世俗と罪という近くの山々から響く騒々しい音楽を耳にして、人が顔と顔を合わせて神とまみえることのできるこの場所に背を向けるだろう。だから、早朝、私が御霊の中で交わった時、私は言った、「父よ、『私の意志ではなくあなたの意志がなされますように』と祈るのを助けて下さい」。あなたはこの祈りを祈れるだろうか?あなたの心はこの嘆願を主の御前ですることができるだろうか?
第三の園
それから、心の中で私は御霊のささやきを聞いた。私はもう一つの園を見た。その入口を横切って、三つの空の十字架の影が長く伸びていた。霊の中で私は一人の婦人――マグダラのマリヤ――の後を追って、その園の中に入った。ちょうど、東の山々の上に日が昇り始めたところだった。
「この園は何ですか?」と私は尋ねた。
「死の園です」が返答だった。
中央の十字架を見た時――そこにはもはや、数日前にそこにかかった人の血を流している姿はなかった――私はそれが墓の園であることを知った。それは死の園である、と告げられた通りだった。
その日マリヤが泣いていたことに、何の不思議があろう?結局のところ、死には美しいところが何もない。実に残酷で醜悪である。死は引き離して分離する。人の心の奥深くに悲しみの剣をふるう。それは熱い涙を笑い、愛する大事な人々を保とうとするわれわれの空しい努力をあざ笑う。死には美しいところが何もない。
さて、これが私の物語の結論ではない。聖書は死を敵と呼んでいる。死は征服されなければならない、と聖書は告げる。時折り、力強い預言の言葉により、死に対するわれわれの勝利の物語が生き生きと告げられる。
これは奇妙に思われないだろうか?われわれはエデン――エデンの美しい野原――から始めて、その川々や木々、幸い、美しさと祝福について考えた。そして、人が失ったエデンに戻して下さい、と神に求めた。われわれは自分の罪を赦してもらうことを願った。涼しい夕方に再び神と共に歩むことを願った。イエスに「私の友」と呼んでもらうことを願った。「私たちは病んでおり、罪に倦んでいます」と彼に告げることを願った。
われわれは彼の弟子になることを願った。呪われた世のイバラやアザミにはうんざりだった。われわれは御座の下から発する川を流れる命の水から飲むことを願った。贖いの恵みの道で美しい花に囲まれて歩むのを願った。御父の愛という木になるあの天の実を再び食べることを願った。確かに、われわれはあの園を求めて叫んだ。しかし、何をわれわれは見い出したか?われわれは「ゲッセマネ」と記された門に導かれ、この門を通って、空の十字架を通り過ぎ、墓の園に来たのである。
われわれは山に行くことを祈っているのに、神はわれわれを谷に導くことによって答えられるのは何故か?われわれは神に陽光を求めているのに、神はわれわれに雨を送られる。われわれは神に健康を求めているのに、痛みと病を感じることが時々ある。われわれは神に夏の太陽の輝きを求めているのに、われわれは冬の冷たい突風の下でふるえている。どうしてか?あなたは発見したのではないか?見出したのではないか?われわれの永遠なる神の摂理的導きの中に包まれている一つの大きな秘密がある。それはとても素晴らしいものだが神秘的である。それゆえ、無割礼の心は決してそれを理解できない。
それで御霊は、私には死のように思われた園の中に、早朝私を導かれたのである。その時、イエスが木々の影の下から来られるのを私は見た。マリヤはこの最初の輝かしいイースターの日に彼を見た。おそらく、あなたは彼女のようだっただろう――最初彼を見た時、彼のことが分からなかっただろう。
彼は園丁である、と彼女は思った――彼は園丁だったのである!いま釘跡の残るその手は、永遠の山々を形造った手だった。あの幸いな日に微笑んで歌った小さなイースターの百合はみな、彼が創造されたからそこにあったのである。彼の足の下の緑草は、彼御自身が紡いだ絨毯だった。その下を彼が歩かれた木々は、彼がそこに置かれたからそこにあったのである。それは、天から吹くそよ風がその木々の葉に触れて、その木々が喜んで手を叩くためだった。
すると、鳥の歌声よりも遥かに素晴らしい声が語りかけた。それは園の中で再び人に語りかける神の声だった。何年も昔――別の園で――神の御声は「アダム」と呼んだ。今この園では、御声は「マリヤ」と告げた。
奇跡が起きた!神が再び園の中を、友として人と共に歩かれた。マリヤの目から泉のように注がれたのは、悲しみの涙ではなかった。あの幸いな日に彼女の心から湧き起こったのは、歓喜の涙――幸いな涙――喜びの涙であって、悲しみの涙ではなかった。
これは死の園である、とわれわれは思った。しかし、それは復活の朝の園であることが判明した。悪魔は門でわれわれを引き止めて、「それは墓の園だ」とわれわれに告げたが、天使たちは笑って、転がされた石を指さして、「それは永遠の命の園です」と言ったのである!
草の小さな葉、木、花はみな、それが死の園ではないことを知っていたのだが、これは奇妙ではないだろうか?マリヤだけが、それは死の園だと思ったのである。マリヤと――私と――あなただけがそう思ったのである。転がされた石ですら、死が勝利の中に飲み尽されたことのゆえに、幸いだったに違いない。
それゆえ、われわれは復活の園の中に立って、合唱曲に耳を傾ける。鐘の形をした小さな百合は、その雪のように白い頭を縦に振って、「彼は復活された」という輝かしい反復句を鳴り響かせる。木々の葉は、朝のそよ風のキスに合わせて、その手を叩く。「彼は死んでいない。復活された」と喜んで歌っているようである。
開かれた墓の口ですら、われわれの驚いている心にメッセージを告げる。「これは死の園である、とあなたは思っていました。しかし、それは命――永遠の命――の園なのです。これは死んだけれども永遠に生きておられる御方によります」。
あなたがよく耳を傾けるなら、聞こえるようになると私は思う――つまり、あなたが御霊の耳を持っているなら――天使たちが神の御座の周りで「彼は復活しました。死は征服されました。栄光の君は勝利です。彼は生きておられます――永遠に生きておられます!」と勝ち誇って歌う、その合唱の美しい旋律が聞こえるようになるだろう。
木々の張り伸ばされた枝々の下から彼はやって来て、贖われて血で洗われた人類と共に歩まれる――大昔の時代にそうされたのと同じように――そして、優しく愛を込めてわれわれの手を握って下さる。われわれは尊敬の眼差しでその神聖な御顔を見る。すると、彼はわれわれの耳に、「私が生きるので、あなたたちも生きます」と囁かれるのである。
これが、だから、早朝に御霊が私の心の中に息吹き込まれた、三つの園についてのメッセージである!
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